第四話  告白






吉澤さんとのキスを思い出すのは少し難しい。
たった一度、それも掠めるだけのキスなんてキスと呼べるような代物じゃなかったから
というわけではなく、その瞬間のことをいまだ現実に思えなくて
まるで夢の中の出来事みたいに思い出そうとすると靄がかかってしまうから。
覚えておきたいことほど掴まえていられない。

もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。
あの感触が吉澤さんの唇によるものだったのかを知っているのは私の唇だけ。
目を閉じていた私には触れたのがたとえ指だったとしてもキスだと感じただろう。
それほどにほんの一瞬の短い時間だったから。
でも唇か指かなんてさして重要な問題ではない。
触れてもらえたことがこんなにも嬉しく感じられるなんて思いもよらなかった。
誰よりも吉澤さんに触れてもらえたことが。

恋、なのだろうか。

吉澤さんがなんとなく気になりだして見かけると目で追った。
初めて話したときは緊張して少し困った。
打ち解けて笑いあえるようになって素直に嬉しかった。
手を握られて自分でも抑えられないほど胸が高鳴った。
吉澤さんに会えるだけでそれまでの日常が日常ではなくなった。

彼女のことが好きだった。ずっと。
おそらく初めて会ったときから。

これが恋というものならば、断言できる。
私は吉澤さんに恋をしていると。



「一緒に帰らない?」

六時間目が終わり、残すところは15分のショートホームルームのみとなった
短い休み時間の合間に吉澤さんに初めて誘われた。
わざわざクラスメイトに耳打ちをして廊下に呼び出しおずおずとそう切り出す彼女は
どこか自信なさげで不安な表情をしていた。
こちらを窺うように覗き込む大きな瞳がどことなく緊張しているようにも見えたから
誘われたことよりもそんな彼女の姿がかわいくてなんとなく嬉しい気持ちになっていた。

「部活は?」
「今週から試験休み」
「あ、そっか」
「後藤さん、試験のこと忘れてるでしょ」
「うん。すっかり」
「はぁ〜余裕だね〜」

吉澤さんは外国人のように大げさなジェスチャーで首を左右に振りがっくりと肩を落とした。

「そんなことないけどね。なるようになるって思っちゃえばこんなものだよ」
「すげー受け止め方だ。とても真似できないや」
「そう?」
「そうだよ。まあ単に嫌味な余裕ぶっこいてる発言にも取れるけど」
「なんだとぉー」
「はははっ冗談冗談。そんなにほっぺた膨らませちゃって。やっぱかーわいいーなー後藤さん」
「え?」
「あっ」

白い肌が見る見るうちに赤く染まる。
言われたほうより言ったほうが照れるなんて。
おかしくてつい口もとが緩む。
相手が照れると不思議とこちらは余裕ができてこの状況を冷静に楽しんでいられる。

「吉澤さん真っ赤」
「わー、もう見るなー」
「だってすごいよ。首まで真っ赤。あ、耳も」

顔、首、耳と順番に両手で隠そうとする吉澤さんのほうが遥かにかわいい。
もちろんかわいいと言われたことは一生忘れないようにちゃんと覚えておくつもり。
後で何回も反芻して今の吉澤さんのように顔を真っ赤に染めることになるだろう。
でも今はこの絶好の機会を逃すわけにはいかない。
かわいい吉澤さんの姿をいっぱい心のアルバムに保存しよう。
いつでも取り出せるようにしっかり目に焼きつけよう。
もしかしたらまた大切にしすぎて覚えていられないかもしれないけど、たとえそうだとしても
今この瞬間だけは逃したくない。

「ほらほらここも赤いよ。ここもここも。こんなとこだって」
「あ、あ、あう、わー、もう、なんだよコレ、あー」

面白いように吉澤さんの白い肌に赤みがさしていく。
私が指差す先から順々に綺麗に染まっていく肌。
手も指もうなじもスカートから覗く足もみるみるうちに色を変えていった。
そして全身真っ赤な吉澤さんが出来上がる。
私はおかしくおかしくて、お腹を抱えて笑っていた。
涙目の彼女がかわいくてかわいくて、心のシャッターを次々に切っていた。

「後藤さんひどいや」
「ごめんごめん。つい」
「あたし白いから赤くなるとわかりやすいんだよ」
「ホントそうだね」
「うぅ、なのに後藤さんはぁ」
「ごめんって。本当にごめん。だって面白くてすごくかわいかったんだもん」
「え?」
「あっ」

数秒後、私はさっきの吉澤さん同様全身を真っ赤に染め上げて
仕返しとばかりに吉澤さんに散々からかわれた。
そしてお互いの姿を見ながら私たちは笑い転げた。
担任の教師にうるさいと注意されるほど、廊下で二人大声で笑っていた。
笑いながら、顔を寄せ合うたびに胸がドキドキして止まらなかった。
これが恋なんだと実感していた。

「あーもう担任来ちゃった」
「うん。こっちももう来ると思うから戻るね。帰り、一緒に」
「うん、帰ろう!」

会うための約束なんていらないと思っていた。
必然的にどこでもどんなときでも吉澤さんに会えたから。
会いたいと思う先に彼女がいてくれてたから。
学校の至るところに私たちが共有した時間の痕跡がある。
いろんな場所で彼女と話した。
そのひとつひとつをまざまざと思い出せる。
ちゃんと、はっきり目に浮かぶ。
日常の中で数え切れないほどそうしてきた姿が揺らぐことなく私の心にある。

なぜだろう。
キスというインパクトにくらべたらそれは些細なことたちなのに
どうしてこんなにも私の心に鮮明に残っているのだろう。
何にしても吉澤さんとの日常をちゃんとそこに感じられるのは私にとってこの上ない喜びだった。
或いは自分にとって本当に大切なのはキスをしたということよりも
そんな些細な日常の積み重ねなのかもしれない。
本当に大切に思っていることは。

約束ひとつでこうも心構えが違うなんて予想もしていなかった。
吉澤さんとの出会いはいつも突然で、ふいに現れては感情のメーターが一気に上がるという
具合だったからこんなにじりじりとした思いは初めてで、正直どうしていいのかわからなかった。
鼓動は増し、メーターが着々と上昇しているのがわかる。
早く会いたいというもどかしさに胸が締めつけられる。苦しい。
会えるとわかっているのにどうして苦しくなるのだろう。
この切ない感情はどこから?

これも恋、なのだろうか。

楽しくて嬉しいばかりじゃない。
切なくて苦しい痛みも共に恋だというならば無条件に手を広げて受け入れることを
躊躇わずにはいられない。怖い。
耳を塞いで逃げ出したくなる。苦しい思いはしたくない。
きゅっと締めつける胸の痛みに耐えられそうにない。
そうやって負の感情を避けて、嫌なことから目を背けて
安全なシェルターの中にでも駆け込みたくなる。

でも、きっと自分はそれを許さない。
好きという感情がそうはさせない気がする。
葛藤する自分に矛盾を感じながらも私はそれでも恋をしている。
吉澤さんに、恋しいという感情を持っているから怖くても、不安でも前に進もうとする。
進みたくて仕方ない。

こうして正と負の間を自分の感情が行ったり来たりしている間も
吉澤さんの笑顔がきちんと常に頭にあって彼女の澄んだ声が耳に響いている。
初めて誘ってくれたときの彼女の心なしか震えていたような声が。
ショートホームルームの短い時間でさえも彼女はあたしの心の中を征服している。
すごいことだと素直に思った。



「なんか変な感じ」
「ん?なにが?」
「こうして一緒に帰るのって初めてだから。あらたまって約束したのも」
「そうだね。けっこう長い間ずっと一緒にいる感じなのに、たしかに変だ」
「どうしたの?急に誘ってくれるなんて」

落ち葉が積もるイチョウの並木道を二人、並んで歩きながら吉澤さんの顔を覗き込んだ。
こちらを向いた彼女の表情は逆光のせいでよく見えない。
前を向き直した彼女は歩き続ける。
少し前までイヤになるほど飛び跳ねていた自分の心臓も、彼女と歩き出した途端正常な状態に戻っていた。
この二人の時間が不思議なほど落ち着ける心地よい空間を創り出しているのかもしれない。

「どうしてかなぁ」
「どうしてですかぁ?」

ふいに左手を掴まれた。
驚いて再び吉澤さんを見たけれど彼女はまるで何事もなかったかのように歩みを止めない。
何も言わない。
掴まれたその手の温かさがとても懐かしいもののように思えて、
私もまた何も言わずしっかりと握り返して歩き続けた。

「あたしたち学校で一緒にいる時間ってわりと多いよね?」
「そうだね。最近はとくに。クラス違うのにね」
「でもね、もっと…」
「もっと?」
「もっと一緒にいたいなぁって、そんなふうに思って」

どこまでも続いているかのような長い長いイチョウの並木道を吉澤さんと手を繋いで歩く。
ただそれだけのことが嬉しくて楽しくて幸せでならない。
そして絶妙のバランスで少しの気恥ずかしさが緊張感を保たせている。
繋いだ手からそんな自分の気持ちが彼女に伝わってしまうんじゃないかと、
そんなことあるわけがないのに心配になった自分に苦笑した。

「なーに笑ってんのさ」
「楽しいなぁって」
「歩いてるだけなのに?」
「うん」
「へー、奇遇だね」
「えっ?」
「あたしも楽しいから」

逆光でよく見えないはずの吉澤さんの表情がたしかに胸に届いた気がした。
優しく微笑む彼女の顔が心の中にはっきりと見えたから、同じように微笑み返した。
そしてそれが合図だったかのように立ち止まり、繋いだ左手はそのままに
もう片方の手もしっかりと彼女の手に捕まりお互い体を向き合った。

「あたしね、前から思ってたんだ。後藤さんと出会ってまだ何ヶ月しか経ってないよね?
 なのに不思議と懐かしいっていうか、昔から知ってるみたいな気分になるときがあって」
「うんうん。私もよく思うよ」
「ホント?嬉しいな。なんか昔からこうしていた感じがするんだよ」
「それもすごく自然にね」
「うん」

両方の手を握りながら吉澤さんは話し続ける。

「それに当たり前のような気もする。こうしているのが」
「気負いじゃなく?」
「もちろん。後藤さんは違うの?もしかして」
「ううん。私もそう思う」
「よかった。…ってホントは後藤さんがそう思ってくれているって確信してたんだけどね」
「確信?」
「うん」
「自信過剰なんじゃないのー?」
「茶化すなよ〜。あっ、もしかして照れてるでしょ」
「わかった?」

吉澤さんの細く長い指と自分の指が絡み合う。

「後藤さんといると穏やかな気持ちになるんだ」
「吉澤さんといるとあったかい気持ちになるよ」

いろんな気持ちが胸に湧いた。
嬉しかったり切なかったり、もちろんドキドキして緊張もして。
こういうことに、こういういろんな気持ちにいちいちこれが恋なんだと理由をつけて
きっと頬が染まるのだろう。
吉澤さんの大きな瞳や絡み取られた指を愛しく思う。

ふっと笑ってから吉澤さんは絡めていた指を解き、その指がそのまま目の前を通り過ぎて前髪を揺らす。
そしてなぜだか楽しそうに彼女は目を細めた。
頭の上を指が撫でる感触がした。

「ほら」

鮮やかな黄色に染まったイチョウの葉っぱを見せてくれた。

「髪飾りみたいに後藤さんによく映えていてちょっと勿体なかったけど」
「ふふ。吉澤さんって意外にロマンチストなんだね」

葉っぱから手を離した吉澤さんの指が再び私の指を絡め取った。

「意外とは心外だなぁ」
「そう?まだまだ吉澤さんのこと知らないのかも」
「これからどんどん知ってくれればいいよ」
「私のことも知ってほしいな」
「もちろん。後藤さんのこと、もっともっと知りたい」
「知ったらがっかりするかもよ?」
「そんなことは絶対にないから。絶対ありえない」
「うーん。そこまで言われると逆にプレッシャーかも」
「ふはっ、なんだソレー。プレッシャーって。後藤さんは後藤さんのままでいいんだよ。
 今のままの、ありのままのキミが知りたいから。このままのあたしたちで…歩いていこう?」

少し強い風が吹いて、イチョウの木々がサワサワと音を立てて揺れた。
一枚、また一枚と色づいた葉が舞い落ちる。
二人のまわりをまるで囲むようにゆっくりと時間をかけて重なり落ちる。

「キレイ…」

二人して空を仰いだ。
両方の手は繋がれたまま。
しばらくイチョウのシャワーを浴びながら、その光景に目を奪われていた。
そしてどちらからともなく体を寄せて吉澤さんの腕が控えめに背中にまわされた。
イチョウが舞い散る中でその温かい感触に身を委ねた。

「あったかい…」
「あったかいね」

永遠とも思えるような時間が音もなく過ぎる。

吉澤さんの温もりに包まれながら、こうしていることがやっぱり自然に思えて。



「あなたが好きです」



知らぬ間に想いが口から零れ落ちていた。










<了>


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