第三話  必然






中学の卒業を間近に控えて、一年生のときに何かのはずみで借りてそのままになっていた
グリム童話全集を返そうと図書館を訪れたことがあった。
さすがに三年間も借りっぱなしで今さらどんな顔をして返せばいいのかと
少しの間入口の前で躊躇していたように思う。

放課後の図書館は静寂という言葉がよく当てはまる気がする。
広い室内はしんと静まり返っていて、その空間だけ時間の流れが止まっているかのようだった。
本のページをめくる紙擦れの音だけが遠慮がちに聞こえてくる。
何人かの生徒がイスに座り読書をしたり勉強をしたりしているようだった。

辺りを見回して今さらながらカウンターの場所を探す自分に思わず苦笑した。
三年間も通った学校だというのに図書館のカウンターの位置さえも知らないことに呆れる。
訪れたことがあるとはいえ三年も前のこと。すでに記憶は彼方だった。
中学校生活の三年間のうち、一度しか足を踏み入れたことがなかったというのが
そもそも情けない話なのだけれど。

そろそろと歩みを進め、すぐに目についたカウンターに向かった。
左手には三年間酷使されてボロボロになった通学鞄。
右手には重みのあるグリム童話全集。と、そこに貼りついている多少の罪悪感。
少し薄汚れていたけれど元から古い本であったし借りた時もそれほど綺麗ではなかったように思う。
だからそのへんは目をつぶってもらおう。もらいたい。
何か書き物でもしているのか頭を垂らしたままの生徒に上から声をかけた。

「すみません」

そっと手元を覗くと英語の教科書とノート。脇には英語の辞書が置いてある。
教科書の自転車の写真が載った表紙から二年生のものだとわかった。

「返却ですか?」

右手のグリム童話全集に目をやりながら図書委員はそう尋ねた。

「3-Dの後藤です」
「ちょっと待ってください」

返却カードの棚をなぞる指が3-Dという紙が貼られた位置で静止した。
そこに入っているカードの束を全て取り出し小さな声で「ごとう、ごとう」と呟きながら
慣れた手つきでカードをめくっている。
その後ろ姿を見ながら自分のカードはまだ保管されているのだろうかと不安になった。

「これですか?」

目の前に掲げられたカードには3年前の日付とグリム童話全集というタイトル。
そして氏名の欄には『後藤真希』としっかり書かれていた。
自分の字だ。間違いない。

「はいそうです」

今さらながら返却期限がとうの昔だという事実が恥ずかしくて、早く立ち去りたい気分だった。
『返却』という赤い印がカードに押される。
三年間でたったひとつのその赤は期限が過ぎていることを示していると同時に
三年間でたった一冊しか本を借りなかったという不名誉な事実も強調しているようだった。
せめて期限内に返せていたら。
それでもずっと持ち続けたグリム童話全集をようやく返すことができて
これで心置きなく卒業することができると肩の荷が下りた気分だった。



卒業を前にして感慨深くなっていたのかもしれない。
ほとんど訪れたことのなかったこの場所をそのまま去るのが忍びなくなり
適当な本を一冊手に取り窓際の誰もいないイスに座ってみた。
ついさっきまでは一刻も早く立ち去りと思っていたのに。
ぱらぱらとページをめくり、文字を目で追っても内容はいっこうに頭に入ってはこなかった。
本の虫とはほど遠い。活字中毒なんて言葉とは全く縁がない。
こうはっきりと自覚があるのだから読もうとしても続くわけがなかった。
国語の成績がいまひとつなのはそのせいかもしれない。

そんなことを考えていたらいつのまにか自分の左手が徐々にオレンジ色に染まっていた。
本の上に置かれた手がゆっくりと侵食されていく。
手の甲、そして小指の爪から親指の付け根までが見事にオレンジ色をしていた。
そばの右手とは明らかに色が違った。制服も微妙に色を変化させている。
暗い紺色をしたブレザーの袖口がほんの少し淡い、柔らかい印象に見えている。

ゆるゆると顔を上げ、窓の外を見た。
真っ赤な夕焼けがまさに沈もうとしている。
眩しくて目を細めた。頬が熱くなるのを感じていた。


そこに広がるのは一面オレンジの世界。
遥か彼方、どこまでも続くオレンジ。
ただ一色オレンジのみがそこに存在している。


これほど鮮やかに仰々しいことを毎日沈む夕陽が繰り返しているとは思わなかった。
夕焼けはもちろん美しくはあったけれど同時に畏敬の念も感じられて目が離せなかった。
まばたきをすることすら叶わなかった。

吸い込まれそうなほどのオレンジの中にいる自分。
オレンジの光を全身で受け止める。
目尻に涙がたまり、知らず溜息を漏らす。
あたたかくて気持ちがよかった。

「あっ」

ふいにカーテンが引かれオレンジを遮る白が出現した。顔に影がのしかかる。
先ほどの図書委員がカーテンの端を握り締めながらこちらを不思議そうに窺っていた。

「まぶしいかと、思って」

適当なページが開かれたままの本に目を落としながら言葉を付け足す。

「光が…光で本が読めないんじゃ…」

なぜか言葉が出なかった。返答しようとする口が動かない。
喉の奥から搾り出そうとする声が発せられない。
目を見開いたままカーテンの向こう、オレンジの光の中に私はまだいた。
私の意識と体が別々の場所で別々のことを体験していた。

今までにこれほど心を動かすことがなかったからかもしれない。
微動だにすることもできず、ただカーテンだけを凝視していた。
見つめる先はオレンジでしかなかった。

それでもなんとか首を横に振りイエスともノーともわからぬ意思表示をした。
それは本当にわずかな動作で、消えてしまいそうなまでに曖昧であやふやな、
到底意志とは言えないほどにささやかな動きだったと思う。
それでも何かが伝わったのかもしくは伝わらなかったのか。
カーテンを握っていた手がほどかれたのが視界の端に入っていた。



誰もいない廊下に自分の足音だけが存在を主張していた。
ペタペタと頼りない音をさせて。
まだ光に包まれているような余韻をつれて私は靴を履き替え外に出た。
校舎にその姿を遮られ見ることができない夕焼けを背にして歩き出す。
時々振り返っては空を眺め、目を凝らしてはかすかに残るオレンジに染まった雲と
一面に広がる空のその色模様に安堵した。
風が雲を運んでいく、その緩やかなスピードにも。

私は一体何を見ていたのだろう。
何を感じて生きていたのだろう。
今の今まで何も見えていなかった、見ようとしなかったのではないか。
ただ毎日をなんとなく過ごし家を出て学校に行き勉強して運動してご飯を食べて友達と話して家に帰る。
なんとなく過ごしてきた日々の中で私が見逃してきたものはどれほどのものだったのか。
どれほど私に影響を及ぼしたかもしれないものだったのか。

計り知れない後悔のようなものが胸に重くのしかかった。
何かを失ったわけではない。
何かを取りこぼしたわけでも。

卒業を前にして図らずも、自分がしてきたことの意味を考えずにはいられなかった。





図書館に来るといつも思い出す。
それは走馬灯のようにくるくると私のまわりを回るわけではなく、常に断片的だ。
図書館の入口で躊躇したことや返却の赤、黙々と勉強に励む図書委員や
やけに真新しかったイス。ひらりと揺らいだカーテンの白。

そしてあの日のオレンジ。あの温もり。
それら全てを一度に思い出すわけではなく少しずつ少しずつ順序良く並んだそれらが
ふいに脳裏に蘇る。
そういう僅かずつの記憶は積み重なるわけではなく、全ての断片を思い出したからといって
パズルが完成するようには私の目の前には現れなかった。
常にひとつかふたつずつ、通り過ぎては去っていった。

実際にはまだ数ヶ月しか経過してないというのに、なぜこうも記憶が薄れているのか不思議だった。
よほど印象がありすぎて逆に記憶に留めておくことが困難なのかもしれない。
手からするりと抜け落ちていくあの日の出来事を忘れたくなくて図書館に足繁く通うようになった。
場所は違えども同じ図書館であることに変わりはない。
脳に刺激を与えないわけがない。
そう言い聞かせる自分のアバウトさを柔軟性という言葉に置き換えられるほど図々しくはないけれど
同じ場所だからといって忘れないでいられるともなぜだか思えなかった。

何を思い出したいのだろう。
何を覚えていたいのだろう。

机に頬杖をつき今日も横目で空を眺める。
とくに何をするわけでもなくただじっとしているのが段々苦痛になった。
周囲の視線が時々鬱陶しく感じられ手持ち無沙汰を解消するのとカムフラージュのために
いつしか勉強道具を広げるようになった。
広げるだけで何の関心も示されないその教科書やノートに
あの日適当に手に取った本を重ね合わせていた。

「吉澤さん?」
「あ、後藤さんだ」

この場所に最も似つかわしくないジャージという格好で
吉澤さんはあの日の自分と同じように入口でキョロキョロと辺りを見回していた。
まるで異世界に迷い込んだように物珍しげに首を振る姿がユーモラスだった。

「何してるの?」
「部活の先輩に用事があって探してるんだ。図書委員だからここかと思って。でもいないみたい」

答えながらごく自然に向かいの席に吉澤さんは座った。
開け放した窓から入ってくる初夏の風が彼女の前髪を揺らす。
その柔らかな感触を気持ち良さそうに受けながら目を細め優しく微笑んだ。
その笑顔は何もかもを浄化してしまいそうなほど神聖で、そして神秘的な瞳を携えていた。

「後藤さんは何してるの?」
「吉澤さんを見てるの」
「なるほど」

ふわっと笑った吉澤さんは外を眺め、私は彼女をじっと見ていた。
言葉はなくただ時間だけが過ぎていく。
何も聞かず何も言わず、ただそうしているだけだったけれど不思議と嫌ではなかった。
『分かり合えている』なんて口幅ったいことは言えないし、そんな一言に留まらない何かが
二人の間をゆっくりと流れていた。
時間だけではなくこの説明のつかない気持ちをも共有していると思えるような何かが。



どれくらい経ったのだろう。
そうして黙ったままお互い何をするでもなくただそこにいた時間。
空の色が段々と濃いものへと変化していくさまをこうして二人で見ていることに何かしらの
意味なんて見出せなかったけど、とても大切で必要なことのように思えてならなかった。
だからこそ私はここにいた。そして吉澤さんも。

「ね、いいもの見せてあげるよ」

久しぶりに吉澤さんの声を聞いた。
何をと問う隙を与えず私の右腕を掴んで立たせる。

「ほら荷物まとめて」

結局何の役目も果たせなかったノートと教科書は吉澤さんの手によって手早く片付けられて
あるべき場所に戻った。私のバッグの中に。

「よし行こう」
「行くってどこに?」
「いいとこ」

階段を下り廊下を抜け非常口から外に出た。
上履きのままだったけれど『コンクリートの上ならいいよね』と二人で同時に同じことを言って笑った。
どこをどう歩いたのか、あまり人の通らない校舎と校舎の間をずんずんと吉澤さんは進んでいく。
どこに連れて行かれるのかわからない戸惑いがなかったと言えば嘘になるけど
繋いだ右手から伝わる温もりだけで安心できた。
手を引かれたまま吉澤さんの背中をずっと眺めていたら急に視界が開け、懐かしいものをそこに見た。



オレンジの光だった。
あの日の、オレンジ色をした夕焼け。



全身にあの日の感覚が蘇る。
オレンジ色に染まった世界の中で同じようにオレンジ色の私と彼女。
温かい光に包まれ目を閉じた。

閉じた世界はやはりオレンジで、でも吉澤さんを見ることができないもどかしさから
繋いだ右手を強く握り締めて存在を確かめた。
もしかしたら私の存在を確かめてほしかったのかもしれない。

そしてこのオレンジ。
目を閉じていてもはっきりとわかる。思い出せる。
このオレンジを私は一生心に留めておくことができると思った。
或いはそれが錯覚だったとしても、それほどに忘れがたいオレンジだった。

「どうして連れてきてくれたの?」
「綺麗だから。後藤さんに見せたかった」
「私もずっと見たいと思ってたからびっくりしたよ。ありがとう。でもすごい偶然だね」
「偶然かな?」
「え?」
「なんとなく、偶然じゃないような気がする」

そう言って吉澤さんも繋いだ手に力を込めた。

このオレンジも繋いだ手の温もりも絡まる視線もひょっとしたら、
何の役目もないと思われた勉強道具でさえも偶然の産物なんかではなかったのかもしれない。

偶然が重なれば必然になる。

そう、これはきっと必然。
吉澤さんとの出会いもまたなるべくしてなったこと。
私たちが今こうしていることも偶然なんかでは済まされない。
そんな気がして私はまたそっと目を閉じた。

オレンジ色に照らされた目尻に溜まった涙がそっと零れ落ちる頃、唇に柔らかい感触が降ってきた。










<了>


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