第一話  予感






何年かぶりに風邪をひき、三日ほど休んだ学校に来ると球技大会の実行委員に指名されていた。
行事ごとの係や担当を決めるためには風邪っぴきの人間にも容赦のないクラスメイトたちは
暗黙の了解で不在の人間に任を押しつけたらしい。

「今日の放課後に実行委員会があるから後藤さんよろしくね」

あまり親しくはないクラス長にそう言われ、渋々了解した。

どうせいつかは何かの係をやらなければならない。
それなら比較的ラクそうな球技大会のときでむしろよかったと、放課後になる頃には前向きになっていた。
それにまだ一年の自分にそれほど重要な役割など回ってこないだろうと軽く考えてもいた。
そしてその予想は見事に当たった。

「一年生は主に点数の記録とメンバー表のチェックなどをお願いします」

見知らぬ上級生が教壇に立ち淡々と説明をしている。
一年生から二年生、三年生の役割説明に話が移るにしたがって猛烈な睡魔に襲われた。
聞くべきことはもう聞いてしまったという安堵感と手持ちぶさたな状態が、寝まいとする力を奪っていく。
生徒間の上下関係はさほど気にならないけれど、万が一重要な話を聞き漏らしたら困ると思いつつ
眠い目を擦りながら必死に耐えていた。

毎日同じことの繰り返しでなんの変哲もない学校生活以上に退屈な話を聞きながら
迫り来る眠気と戦い、ふと窓の外に目をやるとサッカー部と野球部がひしめき合うグラウンドの真ん中を
堂々と縦断する制服姿の人物が見えた。


吉澤さんだった。


隣のクラスの彼女は横着したのかグラウンドの周りを囲むようにある、
下駄箱から門までの通路を通らずに近道をしていた。
たしかに真ん中を突っ切るのは早いし近いけどそれには相応のリスクが伴う。
いつサッカーや野球のボールが飛んでくるかわからない。
駆け回る部員たちの怒号もひっきりなしに聞こえている。

それでも吉澤さんはビクビクするでもなくゆっくり平然と歩いているようだった。
ショートカットの黒髪を揺らしながら進んでいく後姿。
表情が見えないのが少し残念だった。

突然、金属バットにボールが当たった甲高い音が響いた。
快音に目を向けると白球が真っ直ぐ彼女の頭上に落ちていく。
スローモーション。
眠気など、とっくの昔にどこかに飛んでいってしまっていた。

「危ない!」

思わず叫んだ。
派手な音をさせイスから立ち上がる。

「なんだ後藤〜。先生が救護担当じゃそんなに信用できないかぁ?」

教師の呑気な口調が何人かの生徒の笑いを誘った。
我に返り咳払いをひとつしてからイスに座り直した。
再び窓の外に目をやるとそこに吉澤さんの姿はなく、サッカー部と野球部が
相変わらずそれぞれの部活に励んでいた。
大事な瞬間を見逃したことに心の中で舌打ちをする。

それ以来、なんとなく吉澤さんのことが気になっていた。



球技大会当日、一年生のクラス同士の対戦で分担表の予定通りに進行・記録係を務めた。
進行といってもとくにやることはなく、審判の上級生が全てを取り仕切っていた。
記録の仕事は試合後の点数結果を表に書き込めばそれで終わる。
用意されたパイプイスに座ってぼうっとバレーボールの試合を眺めていると、横から声をかけられた。

「ここ座ってもいい?」

吉澤さんだった。
空いたイスのひとつを指差しながらこちらを窺っている。

「あ、どうぞ」

突然のことに驚いて敬語になってしまった。
吉澤さんを見るのはグラウンドの彼女に叫んでしまったあの日以来だ。

「実行委員?」
「あ、はい」
「大変だね」
「そうでもないです」
「なんで敬語なの〜?」

静かに笑う吉澤さんの横顔に見とれていた。
まばたきの度に揺れる睫毛や、透きとおるような白い肌をただ眺めていた。
濡れたように艶やかな黒髪がさらりさらりと揺れる。

「あんまり見ないでよ〜。照れるから」

吉澤さんは本当に恥ずかしそうに首をぶんぶんと振っていた。

「あ、ごめ、ごめんなさいっ」
「だからなんで敬語なのさ。後藤さんって面白いね〜」
「ちょっと緊張しちゃって…ってどうして私の名前を知ってるんですか?」
「へへ〜どうしてだろう。なんでかね、知ってる」

喋りながらニコっと笑うと、吉澤さんはコートに目を向けた。
試合の展開に合わせて「おぉ!」とか「あーあ」などと反応しボールを目で追っている。
拳をぎゅっと握り、ラリーが続くと腰を浮かしかけては下ろすといった動作を繰り返していた。
それに合わせてコロコロと変わる彼女の表情をこっそり見るのは、試合よりも断然面白く感じられた。

「あれ?そういえば吉澤さんってこのクラスじゃなかった?」
「そうだよ〜」
「なんで出ないの?バレー部でしょ?」
「バレー部だからだよ」

意味がよくわからず首を傾げると吉澤さんが説明をしてくれた。

「所属している部活と同じ競技には出ちゃいけないんだよ。戦力が不公平になっちゃうでしょ?
 ていうか後藤さん実行委員なのになんで知らないんだよ〜」

吉澤さんが手を叩きながらケラケラと笑う。

「だって帰宅部だし」
「いや関係ないでしょ。普通皆知ってるし」

そのくだけた口調と遠慮のない物言いは、とても初対面の人間に対するもののようには
思えなかったけれど、吉澤さんの穏やかな低音の声が逆に温かさを醸し出していた。
聞いている人を不快にさせない不思議なリズム。
心を開かざるを得ないような、そんな気にさせる。

「でも仕事はちゃんとしているみたいだから、ま、いっか」

なんでもない言葉の奥から人柄の良さが滲み出るようだった。

「あれ?」
「今度はなーに?」
「この前まだけっこう早い時間に帰ってたよね?グラウンド突っ切って。部活じゃなかったの?」
「あぁ」

吉澤さんはおもむろに反対側を向き、着ている白いシャツの裾をペロッとめくって素肌をさらした。

「腰やっちゃって通院してるから早く帰ってるんだ。どっちにしても部活なんてできないし」

縦に並んだ長方形の湿布が二枚、腰に貼ってあった。
湿布やシャツの白よりももっと滑らかで透き通るような彼女の素肌の白が印象的で、
ずっと見ていたい気持ちがしていたけれど気恥ずかしさが多少上回って、視線をそらした。

「じゃあ球技大会も見学なんだ」
「そう。当分運動できないから。床に直に座るのもきつくて。
 こうしてイスに腰掛けてる分にはラクなんだけどね。だから座ってもいいか聞いたんだ」

そういえば応援しているギャラリーは皆、体育館の床に思い思いに座って
胡坐をかいたり膝を抱えたりしている。
そんな一団から離れて委員のいる席に来た吉澤さんを不思議に思わなかった自分に呆れた。

「どうしてあたしが早く帰ったこと知ってるの?」
「たまたま教室の窓から見えて。あそこを突っ切るなんて、勇気のある人がいるなぁって思った」
「面倒だったんだよね。腰痛かったし。最短距離で家に帰りたくて」

いつのまにか吉澤さんは体をコートからこちらに向けていて
ボールを追っていた目も真っ直ぐに私を見据えていた。
始めからバレーより彼女に集中していた私も体の向きを変えて、お互いに向き合う格好になる。
まわりに応援するギャラリーがたくさんいる中でそんな二人は変に浮いている。
不自然な様子だったかもしれないけど、私はそれが自然なように思えてならなかった。
まるで以前から当たり前のようにこうしていたような懐かしい感覚に襲われた。

「でもあんな所を通るなんて危ないよ〜。ボールとか、人とかいっぱいいるし」
「たしかに。おかげでエライ目にあった」
「あ!あのときのボール!飛んできて当たりそうになったよね?だ、大丈夫だった?
 私その瞬間だけ見逃しちゃって気になってたの」
「そっかー、あれは後藤さんの視線だったのか」

また意味がわからず首を傾げた。

「あのときなんとなく誰かに見られてるような気がして振り返ったんだよね。
 そうしたらボールが飛んできたから思わずキャッチしちゃった」
「素手で?」
「うん」

金属バットの打球を素手で取ることはそんなに簡単にできることなのか
それとも吉澤さんの運動能力というかそういうものが優れているからできたことなのか、
同じような経験がないので何とも言えず返答に困った。

「痛くなかったの?」
「少しヒリヒリした」
「ふーん。でもスゴイね。スゴイ…んだよね?だって普通振り向きざまに
 飛んできたボールって取れないんじゃないかな。よくわからないけど」
「さあ、どうだろう。でもその後野球部の部長にしつこく勧誘されて大変だったよ」
「あはは。もしかしてエライ目ってそのことなの?もう、すごく心配しちゃったよー」
「だって本当に大変だったんだよ。一緒に甲子園に行こうとか言われてさー」

今日初めて言葉を交わしたというのにこの気安さはなんなのだろう。
吉澤さんといると変に遠慮することなく素の自分でいられる。
すっかり打ち解けて笑いあっているこの和やかな雰囲気が
ちゃんと現実だとわかってはいたけれど、夢なら覚めないようにと密かに願っていた。

「視線を感じたってホント?」
「ホントホント。視線っていうか、なんかこう背中のあたりに刺さるような殺気をビシビシと」
「ウッソー!そんな見方してないよー」
「あっははは。ウソウソ。もっとね、柔らかかった。温かくて優しい視線。
 なんとなく気になって早く帰りたかったのに振り向いちゃった。
 でもそれが後藤さんだったなんてすごい偶然だよね」
「うん、すごい。でもそんな風に言われるのって初めて。なんか恥ずかしいね」
「だってそのおかげでボールをキャッチできたわけだし。
 じゃなかったら今頃こんなふうに話してないよね。あたし病院のベッドの上だったかも」

だからありがとう、見てくれて。
そう言葉を足した吉澤さんの眼差しは穏やかで清々しくて
その台詞をそのまま彼女に返したくなるほどだった。
人と話していてこんなにあったかい気持ちになるのは生まれて初めてだった。

「ん?そういえば後藤さんなんであたしの名前知ってるの?バレー部ってことも」

吉澤さんが今さらながらに気づいて尋ねてきた。
意外と抜けたところもあるんだ。ひとつ発見。

「入学式で見かけてからずっと気になっていたから。綺麗な人だなーって」
「へー。なんか照れる…」

視線を下に向けて吉澤さんはごにょごにょと口ごもり頬を染めた。
そして何かを思い出したのかハッとしてコートに目をやった。
つられてそちらを見るとすでに試合は終わっていて、皆散り散りになって談笑している。

「あー!記録しなきゃいけないのに」

得点板はすでに片付けられていて点数はおろかどちらが勝ったのかさえもわからなかった。

「話に夢中になっちゃったねぇ。大丈夫大丈夫。あたしがクラスのやつらに聞いてきてあげるよ」
「ホント?よかったぁ。まさか試合見てなかったなんて二年の人に言えないもん。よろしくー」
「任せといて。すぐ戻るよ」

そろそろと立ち上がった吉澤さんがクラスの喧騒の中にまぎれていく。
腰に手をあて笑いながら片手をゴメンの形にして頭を下げたり、時折驚いたように目を丸くしたり。
そんな光景を少し離れたところから眺めていると突然彼女がこちらを振り向いて
またあの笑顔を見せてくれた。
同じように微笑みを返しながら、私は明日からの学校生活が楽しいものになるような
そんな予感がしてならなかった。










<了>


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