9






雑炊を食べながらも亜弥はひとみのことが心配だった。
冷静に考えてみればひとみの行き先は梨華のところだろう。
ひとみがあゆみの自宅を知っているとは思えない。自分ですら知らないのだから。
おそらくそれを知る梨華のところにまずは向かうはずだと推測した。

ひとみのことももちろん気にはなっていたが、倒れる前にあゆみに言われたことを思い出すと
心がざわざわして落ち着かない気分になり、亜弥は居た堪れなかった。

「みきたん…」
「うん?」

あゆみはひとみが二股をかけていると言った。
どうしてそれを知ったのか、知る術があったのか亜弥にはわからなかったが
その二股の相手だけは容易に想像がついた。
目の前にいる美貴。姉を許さないと言った美貴。
梨華と付き合いながら姉は美貴とも続いていたのだろうか。
或いは美貴がそう仕向けたのだろうか。
考えながら亜弥はどうしようもなく悲しい気分になっていた。

「どうしたー?まっつー」

真希に顔を覗き込まれ、自分が知らず知らずのうちに俯いていたことに亜弥は気づいた。
心配そうな真希に笑顔を返そうとしたがうまくいかない。
今日はまわりに迷惑をかけてばかりだと亜弥は自己嫌悪に陥った。
いや、今日だけではない。昔からそうだった。
いつも助けられて守られてばかりだと、そんな自分が情けなかった。

「亜弥ちゃん」

顔を上げると美貴が笑っていた。
両手に持っていた箸と茶碗を置き、そして真っ直ぐに亜弥を見て頭を下げた。
ひと呼吸置いてから美貴ははっきりと通る声で亜弥に告げた。

「ごめん」
「たん…?」

そう言うと美貴は頭を上げて再び箸をとった。
言い訳などない短い謝罪だった。
何に対しての謝罪なのか美貴の説明はなかったが
亜弥はなんとなく空気を読み取り素直にそれを受け取った。
真希の優しく見守る視線も、何かを納得しているように窺えた。

「うん」

亜弥は頷き、先ほどまで考えていた疑問を美貴に投げかけた。

「みきたんはお姉ちゃんとまだ付き合ってるの?」
「付き合って…はないよ」
「お姉ちゃんには石川先輩がいるのに?」
「だから付き合ってないって」
「許せないって言ったのはこういう意味だったの?」
「欲しかったの」

真希が固唾を呑んで見守る中、亜弥は意外なほど落ち着いていた。

「よっちゃんがね、欲しかったの。ただそれだけだよ」
「たん」
「亜弥ちゃんからも、その石川さんって人からも奪って美貴だけのものにしたかった」
「………」
「美貴だけのよっちゃんにできたらって……軽蔑した?」
「まさか!そんな…みきたんのことそんなふうに思わないよ」

それは亜弥の本音だった。
美貴の気持ちは痛いほどわかる。少し前まで自分は美貴だった。美貴と同じ気持ちを抱いていた。
それは姉を独り占めしたいという子供じみた考え。
結局それは独占欲という名の醜い感情にほかならなかった。

「そっか。よっちゃんは?お姉ちゃんのことは軽蔑しない?」
「しないよ」

考えるまでもなかった。
あゆみに言われたことが真実だとわかっても軽蔑などしない。
亜弥の心にはただ悲しいという想いがあるだけだった。
美貴の、梨華の、ひとみの心情を思うと軽蔑などという言葉は浮かびもしなかった。
皆それぞれ亜弥にとっては大切な人間で、いろんな理由からそれぞれが心を痛めている。
そのことが亜弥にとっては何より重要で、何よりも悲しかったから。

「そっか。よかった。ホントに…よかった」

美貴は安心したように優しく微笑んでいた。
その笑みを見て亜弥はなんの根拠もないが美貴は大丈夫なのだと感じた。
姉とのこと、これからのことを聞きたい気持ちはあったがそうはしなかった。

「まっつーさぁ、シバタナントカさんになんて言われたの?」
「うーん…忘れちゃった」
「そっか」

真希には大体察しがついていた。
亜弥がひとみと美貴のことを知るに至った経緯。それが今回の騒動の発端なのだろう。
心情的に美貴寄りであった真希だが、結局は梨華とひとみが付き合っていて
美貴は邪魔者でしかないのだとあのオープンカフェで梨華を見たときに悟っていた。

そして、ひとみがどんな答えを出したとしても亜弥はひとみの味方であり
美貴や梨華にも心を配ることができる。
こんな状況で不謹慎かもしれないが、少しだけ成長した亜弥の姿に真希は嬉しさを隠せなかった。

「とりあえずは丸く収まった感じ?」
「そんな感じだねぇ。よく考えたらそうでもないんだけど」
「あはっ。よく考えちゃダメなんだよ〜。ま、一番悪いのはよしこってことで」
「そうだね、よっちゃんだね」
「あっ!お姉ちゃん、大丈夫かなぁ」

また泣きそうになる亜弥に二人は腹を抱える。

「ヘタレだからなぁ」
「喧嘩弱いしねぇ」
「エッチは強いけどね」
「ミキティ…それは反則」
「ウワーン!おねぇーちゃーん!」

それぞれがひとみのことを考えていた。

ある者は冷静に心配をしながら。
ある者は複雑な胸中を抱えながら。
そしてある者は純粋な涙を流しながら。

そうしてすっかり空になった鍋を残し、夜が更けていった。



 * * *



真希たちの想像とは裏腹に、ひとみは至って落ち着いた様子で梨華の部屋にいた。
いきり立って家を飛び出したものの、肝心の相手の居所が判らない上に
詳しい事情も知らないということに気づきとりあえず梨華の部屋にやってきた。
部屋に来てまず梨華を問い質すつもりだった。

あゆみの居場所。
あゆみが亜弥に何を言ったのか。

だが梨華はいなかった。ひとみの知っている梨華は、そこにいなかった。

「別れよう、よっすぃ」

こんな穏やかな表情ができる人だったのか。
ひとみは出会ってから今まで見てきた梨華の様々な面を思い出す。
だがそのどれにも当て嵌まらない。それは、穏やかな表情だった。

「梨華?」
「ちっとも楽しくないんだもの」

ベッドの端に腰掛けて軽く両手を握り合わせたまま梨華は目を伏せた。
梨華の向こうに体を重ね合わせる二人の幻を見たような気がした。
だがそれも一瞬のことで、ひとみの眼前から音もなく消える。

「ね、よっすぃだって、そうでしょ?」

ゆっくりと一語一語区切って話す梨華の口調は控えめだった。
控えめな中にも微かに感じられる憤りめいたものにひとみは納得し頭を垂れた。
なんの躊躇いもないその言葉を聞きながら、ひとみは梨華が本気なのだと悟った。

「よっすぃだって、楽しくなんてないでしょ?」

楽しいか楽しくないかなどひとみは考えたことがなかった。
楽しもうという気も早い段階でなかったのかもしれない。
立ったまま腕を組み、眉間に深い皺を寄せて首を傾げた。

「考えるんじゃなくて心で感じるんだよ」

梨華が体を揺すりながらひとみに言った。
それは諦めたような口ぶりだった。
表情は相変わらず穏やかで、時折薄っすらと笑みを浮かべる梨華。
だがその視線は強く、ひとみを責めるように射抜いていた。
その瞳には同情するような翳りも見え隠れし、ひとみはますます混乱した。

「梨華はあたしを…体だけじゃなく、心で感じてた?」
「少なくともよっすぃよりはね…ううん、ホントはいっぱい感じてたよ」

そう言って梨華は笑った。
立ち尽くしていたひとみはその場にへなへなと座り込んだ。
フローリングの床の上で胡坐をかき、頬杖をついて梨華を見る。
こんなことになった原因をあらためて考えた。

「あたしはどっかおかしいんだと思う」
「……」
「どっか感情のネジが一本、ヘタしたら何本も足りなくてうまく機能しないんだ。
 考えようとかわかろうとかしない自分がいる。実際、今もわからない。
 別れようって言われて自分がどう思ってるのか」
「よっすぃは自分が何も考えてないって思ってる?」
「うん。人にも言われたよ。もっと考えろって」

ふっと笑って梨華は目を細めた。仕方ないなぁという視線だった。

「逆だよ、よっすぃ」
「逆?」
「考えすぎ」
「なんだよ偉そうに」

ひとみは一瞬言われたことの意味が理解できなかった。
梨華の言葉を口の中で反芻し、意味を咀嚼したものの素直には頷けなかった。
ただ目の前にいる梨華が普段より数倍大人びて見えていることは確かだった。

「もっと心で感じていいんだよ?素直に」
「あたしひねくれてるからな」
「ほらまたそういうこと言う。私がなんでこんなこと言うのかわかる?」
「わからない」
「そこは考えなよ」

苦笑して梨華は立ち上がった。
すっかり闇に覆われた窓の向こうに目をやりカーテンを引く。

「ギブ。考えたけどわからない。
 梨華があたしに何かを教えようとしてるのはわかるけど、理由がわからない。
 もう知ってるんだろ?あたしが二股かけてたこと」
「知ってる」
「なんでわかったの?」

ルール違反にもほどがある。
図々しいのは承知の上で、ひとみは疑問に思ったことを聞いた。
梨華にはもう包み隠さず話すしかない。
諦め、というよりもようやく解放されて肩の荷が下りたような気がしていた。
だがすっきりするにはまだ早い。それくらいはひとみも十分理解していた。

「柴ちゃんが教えてくれたの」
「何を?」
「よっすぃが女の人とキスしてたって。アパートから出てくるのを偶然見たんだって」
「………」

いつのことだろう。
ひとみには心当たりがありすぎた。

「そのアパート、柴ちゃんの家の近所なんだよ。私、思わず笑っちゃったよ」
「すげー偶然だな……」
「そのキスの相手と付き合ってるの?」
「付き合ってないよ…でもたしかに笑える。いや、やっぱ笑えないや」

バレたことに動揺はしていなかった。
ただ梨華の冷静さが不気味で仕方なかった。
いつもより落ち着いたトーン。静かな口調。
こんな日がいつか来ることをどこかで予想していたひとみは
目の前にいる恋人が自分の想像とまるで違う態度で、淡々と話していることに驚いていた。

「前の、彼女だった。梨華と付き合うことになって別れようとしたんだけど、できなかった」
「どうして?」
「別れないって言われて面倒になっちゃったんだろうな。ずるずると関係が続いて」
「もういい。わかったからそれ以上は聞きたくない」
「ごめん」
「………」
「殴ったり罵ったりしないの?そうされたってあたしは文句言えないのに」
「なんか疲れちゃって」

それは梨華の本音だった。
あゆみから聞いたとき、梨華はこめかみのあたりに脈々と波打つ熱いものを感じた。
いまだかつて湧き出たことのない大きな嫉妬を。
だがそれも一瞬のことですぐに静寂が訪れた。
自分以上に冷静さを欠いているあゆみを、逆にいさめたほどだった。
激昂するあゆみを冷静に見つめ、そして自身を見つめ直した。

梨華はカーテンの隙間から外を覗いた。窓に映る自分の輪郭を指でなぞる。

「最後くらい分かり合いたいじゃない?」
「………」
「必死に恋にしがみついていればいいってもんじゃないんだね。
 必死だった…。私こんなに必死になったの初めてだった。
 だからそのうち絶対楽しくなるって思い込んでいた。
 こんなにみっともないくらいしがみついているんだからそのうち、絶対って…。
 でもダメだった。そういうことじゃないんだって気づくのが少し遅かったね。
 気づいたらすっと気持ちがラクになった。そうしたらね、なんだかよっすぃが可哀相に思えてきたの。
 哀れだよ、よっすぃは。私よりもそのもう一人の彼女よりも」
「あたしが?なんで?」

自分を見下ろす梨華にひとみは座ったまま尋ねた。
可哀相だなんて、梨華に言われるとは思ってもみなかった。
それならむしろ二股をかけられていた梨華のほうがよほど可哀相じゃないかと
自分のしでかしたことを棚に上げて思っていたが、それを口にするほどひとみは無神経ではなかった。

「私ね、意地になってたの」
「………」
「恋することに。うまくいかないことに。イライラして意地でもしがみついてやろうって」
「意地、か…」
「でもよっすぃは意地も張れない。幸せになろうとか思ってもないんだもん」
「そんな…」
「それってすごく可哀相じゃない?」

梨華の言葉にひとみは曖昧に首を振る。
自分がしてきたこと、美貴のこと、梨華のことを考えた。
誰ひとりとして幸せになれなかった。
梨華はもがき、美貴もまたあがき、自分は何もしなかった。
幸せを掴み損ねた3人だけれど、何もしようとしなかった自分がもしかしすると一番
幸せから遠かったのではないだろうか。
そんなことを考え、ひとみはまた首を振った。
否定とも肯定とも取れるその動作に梨華は諦観の笑みを浮かべた。

「どうせわからないんだから考えなくていいよ」
「考えろって言ったり考えるなって言ったり、どっちだよ」
「どっちもだよ」

笑いながら梨華はカーテンの隙間から目を離した。
僅かに零れてくる闇をシャットアウトするように勢いよくカーテンを引く。
とっくに見切りをつけたはずの感情を振り払うように。カーテンは音を立てて揺れた。

「ねぇ、今どう思ってる?」
「…帰りたいなぁって思ってる」
「よっすぃらしい。でも仕方ないよね。それでいいんだよ。それでいいんだと思う」
「何がいいんだか」
「さあ。何だろうね」

梨華はひとみの軽口に合わせた。
油断すると溢れ出そうな嗚咽を喉の奥に飲み込み、これでよかったのだと自分に言い聞かせていた。
梨華の様子に気づかぬフリをして、思いつめた表情を隠しながらひとみは立ち上がった。
軽く伸びをしてから腰に手をやり、しばらく考えて梨華に尋ねた。

「あたしって恋人としてどうだった?」
「どうって?」
「最低とか、最高とか」
「最低に決まってるじゃない」
「やっぱり」
「最低だけど好きだったよ」

ひとみは急に気恥ずかしくなった。
今まで何度となく梨華に愛を囁かれ耳にタコができるほど、飽きるほど好きだと繰り返し聞かされてきた。
その中でも今の告白は、特別にひとみの心を大きく揺さぶった。
今さら、と思いつつも嬉しいという感情が素直に湧いてきて、そんな自分に戸惑い、呆れ果てた。

「ありがとう。こんなあたしが言うなって感じだけど、でもありがとう」
「最後にキスしていい?」
「いいよ」

ひとみがその場で目を閉じると間髪入れずに梨華の張り手が飛んできた。
派手な音と頭が眩みそうな痛みにひとみは思わずしゃがみ込む。
口の中で鉄の味がして、唾をごくりと飲み込んだ。

「体重の乗ったいいビンタだ…」
「もしかして予想してた?」
「まあね。歯ぁくいしばってたけど意味なかったな…」
「なんでわかったの?」
「キスするときの顔じゃなかったし、前にも同じ手でやられたことあるから」

あのときはパンチだったな、と数日間頬の腫れが引かなかったことをひとみは思い出す。

「当分この失恋の痛手から立ち直れそうにないよ、私」
「うん」
「そのことだけは覚えていて」
「わかった」
「私を傷つけたこと、忘れないで」


私を、忘れないで。ううん、忘れて。


梨華は最後の言葉を声にはしなかった。

「…わかった」

その場に合鍵を置いてひとみは梨華の部屋を出た。

この数ヶ月間梨華の体に溺れ、何度も足を踏み入れたこの部屋。
ドアを開けるといつも出迎えてくれた梨華の顔や薄いベージュの壁紙は忘れても
梨華に言われたことだけは忘れずにいようと心に決めて。



バイクのキーをチャラチャラと回しながら携帯を見るとメールが一通入っていた。


『おねぇーちゃーん、死なないでぇぇ〜』


妹からのそのメールにひとみは思わず噴き出した。
そうして自分がここに来た目的を思い出したがもうすでにどうでもよかった。
メールに添付された泣き顔の妹と、その後ろでピースをしている二人の友人の写真をしばらく見つめて
バイクのエンジンをかけた。

一度も振り返ることなく、梨華の元を後にした。



 * * *



亜弥は姉の帰りを待ちわびていた。
数時間前にバカなメールを送ったもののひとみからの返答はない。
一体どこにいて、何をしているのか。
普段からひとみはマメに連絡をするほうではないが
今日くらいは心配している者の身にもなってほしいと亜弥は所在無く部屋の中をうろついていた。

「お姉ちゃんのバカちん」

クッキーを食べながら亜弥は独りごちた。サクサクという食感が耳を通ってやけに響く。

「お姉ちゃんのあほぅ」

亜弥は空になったクッキーの袋をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り込んだ。
姉に言われた『甘いもの食べすぎ』という言葉を思い出して少し後悔する。
真希の作った鍋があまりにも美味しくてついつい食べすぎてしまったというのに
またクッキーの誘惑に勝てなかった。
おまけに歩き回りながら食べていたからあちこちにクッキーの残骸が落ちている。
帰ってきた姉に呆れられないように亜弥はひとつひとつ手に取って集めてゴミ箱に捨てた。
夜中じゃなければ掃除機をかけたいところだった。

真希と美貴が帰った後の部屋はがらんとして寒々しい。
留守がちな姉のせいで一人には慣れているはずなのに、今夜は心細かった。

「お姉ちゃんのとんちんかん」

掃除を終えると自然にひとみの部屋に足が向き、冷えたベッドにもぐりこんだ。
クンクンとふとんの匂いを嗅いで姉を思い出す。

「お姉ちゃんの…」

幼い頃から慣れ親しんだ匂いに安心したのか亜弥はいつのまにか眠りに落ちていた。



携帯が震えている。呼んでいる。
亜弥は頭の片隅でその音を聴いて状況を理解していたが脳の指令が体にうまく伝わらない。
ブーンという低く重苦しい音が亜弥を急かすように鳴り響く。
もぞもぞとベッドの中から這い出し鉛のように重い体をなんとか動かしてようやく覚醒する。

携帯は床でうるさく震えていた。
まだきちんと開いていない瞼をこすりこすり亜弥は通話ボタンを押した。

「おっせーよ!!」

出た途端耳をつんざくような大声が亜弥の脳を揺らした。
数秒その痛みに耐え、声の主が誰なのか理解した。

「おねーちゃん…声、おっきぃ」
「ばっかやろう。何回鳴らしたと思ってんだ。さっさと降りて来い」
「えっ、な…なに?今?下にいるの?」
「そうだよ。いいから来いって」
「ていうかおねーちゃんが来ればいいじゃない。外、寒いんだし」
「!!」
「自分の家なんだから下で待ってないで入ればいいのに」
「あ、亜弥?」

明らかにいつもと違う態度の亜弥にひとみは戸惑いを隠せない。
話しているうちにすっかり目が覚めた亜弥は姉の動揺に気づいたが畳み掛けるように言い放つ。

「お姉ちゃん、私怒ってるんだよ?」
「………」
「さっさと上がってきなさい」
「…はい」

携帯を切ると亜弥は洗面所に向かった。
さすがにあれだけ泣いたので目が腫れているだろうと思ったが予想していたよりはまだマシな顔だった。
顔を洗い軽く髪を整えた。
鏡の中の自分に渇を入れる。もう泣き言は、言っちゃダメだ。

ふと気になって時計を見ると見事に真夜中を指していた。
姉の常識外れな行動に慣れているとはいえ、少しは普通の人間と同じサイクルで寝起きしてほしいと思った。
こんな時間に電話に出ろというほうがどうかしている。

チャイムが鳴り亜弥は玄関に向かった。

「開けてくれ〜」

やけに能天気なひとみの声がした。
亜弥が鍵を開けると悪びれた様子もなく至って普通に、ひとみは片手をひょい上げた。
そしておどけたように頭を掻いた。

「よっ!お姉ちゃんです!鍵忘れちゃってさ。マイッタマイッタ」
「お姉ちゃん…夜中になんなのそのテンション」
「ん?」
「高すぎ」

ひとみが淹れたコーヒーを飲みながら(亜弥はココアだが)二人はリビングで向かい合わせに座っていた。
亜弥は姉の顔をじっと見つめて上から下まで隅々と視線を這わせた。

「オネーサマの顔がそんなに珍しいか」

ソファーに浅く座っていた亜弥はもぞもぞと腰を動かしゆっくりと背中を背もたれに預けた。
そして大袈裟に溜息をつき両手を組んで足を組み替えた。
ひとみを見据えるその強い視線は、昨日、いや、先ほどまでの亜弥のものではなかった。

「みきたんも石川先輩も外見だけでお姉ちゃんを選んだのかなぁ」

亜弥の言葉にひとみは持っていたコーヒーカップを落としそうになった。
唖然として妹を見つめる。
動揺を隠せず組んでいた足を投げ出し、大きな瞳をさらに大きくさせて亜弥を見た。

「二股かけるなんて、お姉ちゃんってばサイテー」

脳天に激しい衝撃を受けたような顔のひとみに亜弥は攻撃の手を緩めない。

「私、ここ出るから」

亜弥の言葉はひとみにとってまさに晴天の霹靂だった。

あの、亜弥が。
あの、妹が。
あの、シスコンが。

今、この妹は何て言った?ここを出るだって?
エイプリルフールにはまだ早すぎる。

「で、出るってどこに?いや、なんで」
「ごっちんが留学したら。今の部屋そのまま使ってもいいって」

ひとみは真希に初めて殺意のようなものを覚えた。

「もういい加減、姉離れしないとね」

亜弥にとっては今までの人生の中で一番の決心だった。
正直辛い選択でもある。
べつに姉に愛想が尽きたわけではない。
たしかに呆れた部分もあるにはあったし美貴や梨華の心情を慮れば少なからず怒りも覚える。
姉のだらしない恋愛観念というか行動にも情けない気持ちでいっぱいだった。

だが、それとこれとは別問題だ。

守られてばかりじゃいけない。
一人で立たなければいけないのだと実感していた。

「じょ、冗談…」
「冗談じゃありません」
「あたしのこと…」
「キライになんてなってないよ。最低だけどお姉ちゃんはお姉ちゃんだもん。
 私の大好きな、大切なお姉ちゃんに変わりはないもん。
 でももうそろそろ私はお姉ちゃんがいなくてもちゃんとしなきゃね。
 お姉ちゃんだけじゃない、みきたんやごっちんにいっつも守られてばかりで…
 こんなのダメなんだって、ようやく判ったの。一人で立たなきゃって」

姿勢を正して亜弥は言い切った。
澱みないその口調にひとみは圧倒される。

「そっか…」

ようやくそれだけを呟くことができたひとみを、亜弥は複雑な思いで見つめていた。

「柴田先輩に会った?」
「え?」
「それで出かけたんじゃないの?」
「あ…そうだった。なんか途中で目的がすりかわって…」
「どういうこと?」
「梨華と別れたよ」

亜弥はひとみの様子が少しおかしいことに気づいていた。
始めに電話をしてきたときとは明らかに違うテンション。
玄関先で見せた暢気な表情が自分の独り立ち宣言で
みるみるうちに暗いものに変わったのはある程度予想していた。
だが今の姉の顔はどこか変だ。
どこがとはうまく言葉にすることができないが
姉のその表情を亜弥は以前にもどこかで見たような気がしていた。

「ちゃんと、殴られてきた」
「………」
「ちゃんと殴ってくれたよ、アイツ」

亜弥は動かなかった。
正確には動けなかったと言うのが正しい。
いつ以来だろう、何年かぶりに姉のその姿を見た。
物心ついてから今まで、自分の前では頑なに見せなかったその姿を。



ひとみが泣いていた。



「考えろって、考えるなって…アイツ。あたし、あんなひどいことしたのに…
 なのに、教え、て…教えようとしてくれて、でもあたし…わかんなくて、
 わかろうとしたけど、全然わかんなくて…どうしようも、なくて…」

堰を切ったように泣きながら、心の底から絞り出すようなひとみの断片的な言葉を
亜弥は理解することができなかった。
けれど感情は伝わってきた。痛いほどに。
ひとみが心の中で叫んでいる言葉が聴こえた気がした。
助けを、赦しを求めていると感じた。

「もう無我夢中で、バイク飛ばしてたら、なんか急に…。あたし、ホントに急に思ったんだ。
 梨華が、梨華のこと、好きだったんだって…。あたしは、ちゃんと梨華のことが好きだった。
 もう、伝えられないけど。好きだって言っちゃいけないんだけど…伝えたい。今さら、ホントにバカだよ」
「お姉ちゃん!」

姉の独白を聞いていられず、涙で濡れる顔を見ていられず、たまらず亜弥は立ち上がった。
そして姉の元に駆け寄ろうとした。
駆け寄って抱きつきたかった。抱きしめたかった。
だがひとみは右の手のひらを亜弥に向けてそれを制した。
溢れ出る涙を拭おうともせずに。

「なさけね…」
「お姉ちゃん…」
「なさけねーなぁ」

泣きながら鼻をすする姉を亜弥はただ黙って見下ろしていた。
かける言葉がわからず、小刻みに震える肩を見ながら
姉はずっと泣きたかったのではないだろうかとぼんやり考えていた。
泣きたくても泣けなかったのかもしれない。自分の前では。

どれくらいそうしていただろう。
亜弥の感覚では短いとも長いともわからない時間が経っていた。
ひとみはいつのまにか泣き止み、すっかり冷め切っただろうコーヒーを啜っていた。
目も鼻も真っ赤にして。白い肌にそれは見事に映えていた。
バツが悪そうに首を竦める姉の横に亜弥はそっと座った。

「そういえばシバタナントカに何されたんだよ」

姉たちの間では『シバタナントカ』で定着しているのだろうかと首を捻りつつ亜弥は答えた。

「お姉ちゃんが二股かけてるって言われた。ついでに姉妹揃って最低とかなんとか」
「なんで亜弥まで最低になるんだよ」
「さあ?わかんない。単に罵りたかっただけなんじゃない?八つ当たりとか」
「八つ当たりかよ」
「柴田先輩はたぶん、すごくお姉ちゃんに嫉妬してたんだと思う」
「あたしに?なんで」
「私がシスコンだから。おまけに親友の石川さんはひどい目に遭わされるし。怒るのもムリないよね」
「それに関しては耳が痛い」
「自業自得だよ、お姉ちゃん」
「…オマエやけにあっさりしてるな。大丈夫なのか?」
「うん。ごっちんやみきたんとお鍋したから」
「そっか。ならよかった」

残りのコーヒーを飲み干して、そう呟く姉の肩に頭を預けた亜弥は
ひとみが梨華と別れたということの意味を考えていた。
梨華には悪いと思うが亜弥の頭に真っ先に浮かんだのは美貴の顔だった。
わずかな期待を込めつつ姉に聞く。

「みきたんとはどうするの?」

少し間をおいてからひとみは自分の膝の上に置かれた妹の手をそっと握った。

「情けないねーちゃんでごめんな」
「そんなことないよ」
「守ってるつもりが…本当は守られてたのかもなぁ」
「え?」

言葉の意味がわからず亜弥は繋いだ手に力を込めた。
何も言わないひとみの手のひらを抓ったり、引っ張ったりして続きを促したが
ひとみは曖昧に微笑むだけだった。

この際、せめて美貴とはうまくいってほしいと亜弥は純粋に願っていた。
だが高校生の頃のように何も考えずに好きな二人をくっつければいいというわけではないことを
亜弥は十分に理解し、思い知っていた。
そして本当は二人のことに自分が口を出すべきではないということも。

「美貴とのことはちゃんと考えてるよ」
「やり直すの?」

ひとみは無言で首を横に振った。

どういう結果になるにせよ一番は姉の思うとおりになることだ。
今度こそちゃんと考えて好きなようにすればいいし、してほしいと思った。
肩を震わせて泣く姿を見るのは辛すぎる。
泣いている本人だけじゃなくまわりの人間をも否応なく悲しみに巻き込むのだということを
姉の姿を見て、亜弥はこのとき初めて知った。
そして今までの自分を省みてあらためて姉に、真希に、美貴に頼りきっていたのだと気づいた。

「私にもっと頼っていいんだよ?お姉ちゃん!」

姉の肩に腕をまわし、亜弥はひとみの顔を覗き込んだ。
偉そうな妹の物言いに苦笑しつつも、ひとみは亜弥の体に身を委ねた。
小さな体で自分の肩に手をまわす亜弥がおかしくてたまらなかったが、同時に嬉しくもあった。
心地のよい体温に包まれて、徐々に眠気が襲ってくる。

自分の腕の中で安心したように目を閉じる姉の顔を見て、亜弥もまた眠りに落ちていった。











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