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「これで全部だね」
「うん」

冬が押し迫ったある日、美貴は兼ねてから準備を進めていた引越しを決行した。
それまでの荷物を大胆に整理し、身を軽くした美貴は晴れ晴れとした顔で
それまで住んでいたアパートを後にしようとしていた。

「手伝ってくれてありがとね、亜弥ちゃん」
「ううん。あんまり手伝うことなくてびっくりしちゃったよ。荷物全然ないんだもん」
「思い切っていろいろと捨てたからね」

美貴は約2年住んだ部屋を振り返った。
がらんとした部屋の中には何も残ってはいない。
青を基調としていた美貴の部屋は、もうそこには存在していなかった。
いろんな思い出がつまった部屋を感慨深く見つめる美貴を前にして
亜弥もまた寂しそうな表情を浮かべていた。

「忘れないよ。美貴はこの2年を。忘れない」

誰に言うともなく放たれた美貴の言葉を聞き、亜弥は無言で頷いた。

「うぉーい!なーにやってんだよ」
「お姉ちゃんには関係ないよーだ」
「なんだとー!!」
「あはは。…ホント、亜弥ちゃんありがと」
「みきたん、どうしたの?」
「よっちゃんに言うのは癪だから亜弥ちゃんに言ったの」

舌を出してウインクする美貴を亜弥はきょとんとした顔で見つめた。
それから二人は大声で笑いだした。
借りてきた軽トラの運転席にいたひとみは、ふいに上から降ってきた笑い声に驚き、口を尖らせた。
クラクションを2回、軽く鳴らして美貴たちを急かす。

「もうっ。お姉ちゃんってばちょっとも待てないわけ?!」
「おまえらがいつまでもグダグダしてるからだろー。早くしないと日が暮れるっつの」

軽口を叩き合う姉妹に挟まれて美貴はまた笑った。

「もういいから行こうよ。しゅっぱーつ!」
「そうそう。よっちゃん、早く出してよ」
「ったく、生意気になりやがって。へいへい、行きますか」

ひとみが車をスタートさせると亜弥は今日来ることが出来なかった真希の話を始めた。
留学の準備が忙しいらしいことや、真希が旅立った後に自分が住むことになる部屋をどう改装するかなど。
もちろんそれは真希には内緒らしく、留学を終えて帰国した真希を驚かせるという
壮大なストーリーをひとみと美貴は微笑みながら聞いていた。

亜弥の他愛のない話を聞きながら、ひとみは遠ざかる美貴のアパートを
バックミラー越しにいつまでも眺めていた。


しばらく運転に集中していたひとみを他所に、何が楽しいのか美貴と亜弥は
きゃあきゃあわあわあ、最近あった出来事をおもしろおかしく話し出した。
ひとみの「うるさい」という声も二人の嬌声にかき消され、空しくハンドルを切る。
信号待ちのときでも甲高い声は止まず、ため息とともにひとみは美貴をちらりと見た。
そして美貴越しに、亜弥の表情を確認した。

「なーに?お姉ちゃん」
「べ、べつに」
「人の顔じろじろ見ちゃって」
「よっちゃん心配なんだよねー」
「ば、ばか美貴黙れ」
「なになに?お姉ちゃんどうしたの?」
「あのねー、最近亜弥ちゃんがすっごく綺麗になったから…」
「わぁー!美貴黙れって言ってんだろ!!」
「お姉ちゃんこそ黙って!たん、何なの?」

亜弥が興味津々といった表情で身を乗り出した。
そんな亜弥と慌てるひとみを交互に見て、美貴は笑いが堪えきれない。
一方、黙れと言われて素直に黙るひとみではない。
ましてや妹に命令されるなんて、姉の沽券に関わる。
両手で美貴の口を塞ごうとしたそのとき、無情にも信号が青へと変わった。

「余計なこと言うなよ!」

ひとみの要求をあっさりと無視して美貴は笑いながら言った。

「亜弥ちゃんが恋してるんじゃないかって。泣きそうになってんの」





美貴の新しい新居に姉と家主を残し、亜弥は一人、駅に向かっていた。
うるさく詮索する姉を華麗に交わして(実際は美貴が取り押さえてくれた)
約束の時間を気にしつつ、電車に乗った。
ガタゴトと揺れる車両に身を預け、暮れゆく街並みをぼんやりと眺めた。

目的の駅に到着すると我先にと改札に向かう人の波を避けて、しばらくホームに佇んでいた。
電車が出発したばかりのそこはがらんとして、先ほどまでの喧騒が嘘のようだった。
亜弥はこれから会う人物のことを考えて少し気が重くなった。
だがすぐに顔を上げて、口を真一文字に結び、心の中で気合を入れた。

約束の時間を過ぎても待ち人が現れる気配はなかった。
少し疲れてきた亜弥は、駅のホームの申し訳程度に設置されたベンチに腰を掛けた。
亜弥の目の前を電車が何本か通り過ぎていった。
そのたびに車両から吐き出された大勢の人々が亜弥を素通りし、階段を降りて改札に向かう。
亜弥が目で追う先に待ち人はいなかった。

ふいに亜弥は携帯の電源を入れていないことに気づいた。
電車に乗るときはいつも電源を落とし、改札を出てから再度入れ直すというのが習慣だったため忘れていた。
もしかしてという思いで電源を入れると、携帯がすぐにメールを受信した。


  件名:ラストメール


亜弥の予想どおり、待ち人からメールが一通届いていた。
それは短くも長くもない簡単なメールだったが、亜弥は何度も何度も読み返した。
何度も読み返す亜弥の目の前を、また何本かの電車が通り過ぎて行った。




  今度こそ最後のメールです。
  もう本当に電話もメールもしません。
  謝るのも、これが最後です。ごめんね、亜弥ちゃん。
  いろいろと嫌な思いをさせてごめんなさい。
  もしあたしみたいな人間がまた亜弥ちゃんの前に現れたら、
  そのときはこっぴどく振ってやってください。
  少しでも希望を持たせるような笑顔は絶対に見せないで。
  もし好きな人ができたら、その人だけに見せてあげてね。
  あ、それから梨華ちゃんのことなんだけど…
  意外に元気でやってるからもう心配しなくていいよ。
  あたしたちは次の恋に向けて気持ち切り替えたから。

  亜弥ちゃんが好きになるのはどんな人だろう?好きな人できた?
  それがちょっと気になるっていうか唯一の心残りかな。
  さよなら、亜弥ちゃん。本当にさよなら。

  会う勇気がなくて結局メールにしました。それも重ねてごめんなさい。

   柴田あゆみ



携帯の電源を落とすと、到着した電車のドアがタイミング良く開いた。
降りてくる人並みが切れたのを見計らい、亜弥はわりと空いたそこに乗り込んだ。
流れていく景色を近くで見たかったので、席には座らず立ったままでいた。
いくつかの駅を通り過ぎるのをしばらく横目で見ながらあゆみからのメールを思い出していた。


『好きな人できた?』


できましたよ、柴田先輩。私、好きな人ができました。





運んできた荷物を解きつつも、亜弥のことが気になるのか落ち着きのないひとみは
さっきからいろんなところに頭をぶつけたり、指をドアに挟んだりと、美貴の笑いを誘っていた。
美貴に笑われるたびにひとみはむすっとし、何事もなかったかのように作業を進めるが
またすぐに亜弥のことが頭をよぎり、手元がおろそかになる。
そんなひとみを見兼ねて、美貴は食事に行くことを提案した。

「後は住みながら徐々にやっていくから」
「ま、これだけ片付ければ十分って感じだよな」
「今日は美貴がおごるよ。手伝ってもらったお礼」

ひとみと二人、勘を頼りに歩きながら駅前に出た。
何を食べようかと新しい街に立ち並ぶいくつもの飲食店を外から眺めては
ここがいい、あそこがいいと言い合い、ぶらぶらと日暮れの中を歩いていた。
様々な店舗が並ぶ中から、美貴は目ざとく焼肉屋を見つけるとひとみの腕を引っ張った。

「慌てるなよー。肉は逃げないって」
「当ったり前でしょ。肉は逃がさないよ。席の心配をしてるの!」

笑いながら隣に並ぶひとみを見上げても、美貴はもう何とも思わなかった。
あれほど自分の中を駆け巡っていた欲情が消えてしまったことにも驚かなかった。
あの、狂おしいほどにひとみが欲しかった秋のはじめ。
そして自分を見失いかけた秋のおわり。
ひとつの季節を経て冬を迎えた今、美貴は悟っていた。

「あたしは焼肉よりラーメンって気分なんだけどなぁ…」
「やっぱりよっちゃんのおごりね」
「げ」
「美貴の引越し祝いってことで」
「なんだよー。でもまあ、いっか」

恋にしがみついても、愛に縋りついてもその自己満足は一時のこと。
長い人生から見たらほんの一瞬の出来事にすぎない。
身を焦がすほどの恋愛は、ちゃんと相手と向き合ってこそのものだ。

「ごっちんまだ忙しいかな。呼んでみる?」
「あたしはどっちかっつーと亜弥を呼び戻したい。あいつ誰とどこで何してんだよ…」
「またそんなこと言って。泣かないの!カッコ悪いなぁー」
「泣いてねぇっつの!そんなことで泣くかよ!」

涙目で強がる、このまだまだ妹離れができない友達を、いつかきっと振り向かせてみせる。
今度は他の人になんか目がいかないように。
自分がいなければみっともなく泣き叫んでしまうくらいに好きにさせてみせよう。
そしていい加減、シスコンも卒業させなきゃ。

「ほら、行くぞ!」

少し鼻声で、本当に今にも泣き出しそうな顔の情けないひとみが目指す焼肉屋へと早足に歩いて行った。
よほど涙を見られたくないのだろう。自分でもカッコ悪さを十分に理解しているようだ。
美貴がその背中を追って横顔を覗き見ると、さりげなく指で拭った目許が薄っすらと赤みを帯びていた。





「危ない!前見て歩きなよー」
「あ、ごめんごめん。ありがと」

人ごみの中で携帯をいじりながら歩いていたあゆみに梨華が声をかけた。
もう少しで自転車とぶつかりそうだったあゆみはそれでも先ほどから動かしている指を止めない。
時折考え込むような仕草をしては、また忙しなく指を動かしていた。

「柴ちゃんさっきから何やってるのよ」
「見ればわかるでしょ。メール打ってるの」
「そんなの後にしなよ。ちゃんと歩かなきゃ危ないって」
「梨華ちゃんには言われたくないかも…」
「ひどーい。それどういう意味よ〜」

そのまんまの意味だよ、と悪びれることなくあゆみは歩き出す。
携帯をバッグにしまって、これ以上梨華に怒られないようにちゃんと前を向いた。
その様子を見て安心した梨華はあゆみのメールの相手を聞きだすことにした。

「珍しく真剣な顔してたけど誰なのよ〜、相手」
「梨華ちゃんが期待してるような人じゃないよ。それより珍しくって失礼じゃない?」
「だって柴ちゃんのそんな顔見るの久しぶりだよ。大切な人なんでしょ!」
「うーん…大切といえば大切かな」
「やっぱり〜!!誰?ねぇ、教えてよ!誰なの?!」
「だから〜、梨華ちゃんが考えてるようなそういう甘いものじゃないから」

突然テンションの上がった梨華をいつものことだとあゆみは軽く受け流した。
梨華がただ単に好奇心で問い質そうとしているのではないとわかってはいたが
このことは自分の胸にだけ秘めておきたかった。
自分のこと以上に心配をしてくれる梨華への感謝もやはり密かに仕舞っておく。

「なーんだ、つまんないの」
「面白がらないでよねー」

前言撤回。この人は単純に興味本位だけなのかも。
あゆみは白い息を吐いてから、つまらなそうな顔の梨華を想像しながら振り向いた。

「梨華ちゃんどうしたの?」

梨華の足がいつのまにか止まっていた。どこか一点を見つめて動かない。
梨華の視線の先を追うが、帰宅ラッシュの駅前には溢れんばかりの人が家路に急いでいて
何が梨華の目に留まったのかわからなかった。梨華が人ごみの中で誰を見ているのか。

「知り合いでもいた?」
「…ううん。似てる人だった」
「そう」

あゆみの心配そうな声に梨華は我に返った。
もうすっかり区切りをつけたはずなのに、久しぶりに見るひとみの顔に
梨華は懐かしさと寂しさを感じて思わず足を止めてしまった。
友達なのか、腕を引っ張られて楽しそうに喧騒の中に消えていく姿から目を離すことができなかった。



本当はあのときキスしたかったんだよ、よっすぃ。



「梨華ちゃん今なんか言った?」
「なーんにも!さあ、早く行こうよ」
「まだ約束まで時間あるから、そんなに急がなくても大丈夫だよ」
「いいから早く行くの!」

突然元気よく歩き出した梨華に驚きながら、あゆみもその後を追った。
楽しそうに笑いながら「柴ちゃん早く〜」と離れたところから恥ずかしげもなく叫んでいる。
あゆみは呆れながらも笑顔を返して手招きする梨華の元へと歩み寄った。

「今日も合コン頑張るぞー!」
「おー!!」



 * * *



年が明けてすぐ、真希が旅立つが日がやってきた。
亜弥は数日前に引越しをすませ、真希の部屋に移り住んだ。
亜弥の引越しに最後まで文句を言っていたひとみも、晴れやかな顔で出て行く妹を見て
少しだけ誇らしげな気分だった。
それまでひとみの愚痴や泣き言をたっぷりと聞かされていた美貴は
ひとみが必死で涙を堪えているのを見て、突っ込むのも面倒になり呆れて何も言わなかった。

スーツケースを引いた真希に寄り添うように歩く亜弥を見ながらひとみはため息をついた。
後ろから二人の背中を見てトボトボと歩く。
空港内は混雑していて人の波に飲まれそうだった。

「おねーちゃん、こっちだよー!!」

はぐれてしまいそうになるひとみに向かって亜弥は大声で叫んだ。
慌てたように駆け寄ってくるその姿を見ながら、真希が亜弥にからかい口調で話しかける。

「よしこ一人にして大丈夫かなぁ。まっつー、戻ってあげれば?」
「お姉ちゃんにはいい加減独り立ちしてもらわないと。妹として困ったもんです」
「あははっ。まっつー、成長したねぇ」
「とーぜん!ごっちんが帰ってくる頃にはもっともっと成長してるからね!」
「それは楽しみです」

笑う亜弥を見て真希は心の底から安心していた。
留学が決まったときはひとみも美貴も、亜弥もそれぞれに大きな問題を抱えて、悩み、苦しんでいた。
そんな友人たちを見るにつけて、このまま自分だけ旅立っていいのだろうかと考えた。
友人たちを置いて去ることが裏切りのようにも思えていた。

だがこうして亜弥は笑っている。笑うことができている。
それも今までに見たことのない頼りがいのある笑顔で。
いろんな経験を経て、ひと回りもふた回りも成長した亜弥。
それにひとみも。
今は情けない顔をしているが梨華や美貴との関係を清算し、自分を見つめ直したひとみの顔も
真希が知るそれまでとは明らかに違っていた。そして美貴も。



美貴の引越しの前日、真希は学食で偶然ひとみと出くわした。

「最近忙しくて全然話してないんだけどミキティ元気?」
「おう。明日引越しなんだよ。あたしと亜弥が手伝いに行く」
「明日だったんだー。ごめん、あたし行けないや」
「うん。ごっちんは忙しいから仕方ないべ。美貴もそのへんはちゃんとわかってるよ」

焼魚定食を食べながらひとみの亜弥に対する愚痴をしばらく聞いていた。
真希はひとみと亜弥の立場が完全に逆転したことがおかしくてならなかった。
もうすっかり姉離れをした亜弥に対して、ひとみのシスコン具合はますます激しくなっていた。
亜弥の話になるたびに情けない顔になるひとみをからかいながら、話題を美貴とのことへと移した。

「美貴がごっちんに感謝してた」
「あたしに?なんでまた」
「さあ。なんか知らないけどおにぎりが美味かったからとかなんとか」
「おにぎりぃ?!」
「あとなんだっけな…そうだ、嬉しかったって言ってた」
「なにが?」
「放っておいてくれたことが嬉しかったって」

真希は思いがけず美貴の心情を知り、複雑な表情をした。
美貴がそんなことを思っていたとは。
しばらく好きにさせようと突き放した態度で美貴を見守りつつも
不毛な恋の復讐なんてやめさせるべきだったかもしれないと少しばかり後悔していた真希としては
その言葉にはむしろこちらから感謝したいくらいだった。

「よしこはミキティとちゃんと話し合ったの?」

同じく焼魚をムシャムシャと食べながら神妙な面持ちだったひとみは
少し迷ってから真希には報告するべきだと考え箸を置いた。

「ごっちんにもいろいろと迷惑かけてごめん」
「いいよ、そんなことで謝らなくて。友達じゃん」
「友達だからだよ」

ふわりと笑い、ひとみは続けた。

「美貴さ、あたしを許すって言ってくれたんだ」
「許す…」
「それからあたしに自分のことも許してくれって…」
「………」
「美貴は何も悪いことしてないよってあたし言ったんだけど、許してほしいって…」
「ミキティ……」
「あたしに対してもう恋とか愛とかそんな感情持ってないらしくて、さっぱりした顔してた」
「ホントに?それってミキティの精一杯の強がりなんじゃない?」

真希は半ば冗談のつもりで言ったが、ひとみの真剣な顔を見て口をつぐんだ。
そして、これまでのひとみに対する美貴の態度や言葉を振り返り
自分が口にした言葉はひょっとしたら真実なのかもしれないと思っていた。

「どうだろ。人の気持ちなんて推し量ることはできても結局わからないからな」
「そだね。だから面白いんだけどね、恋愛って」

真希の言葉にひとみは目を丸くして驚いた。

「なんでそんなびっくりしてんのよ」
「だってごっちんが恋してる人みたいなこと言うから。あのごっちんが」
「あのってどのだよ。失礼だなぁ」
「ごっちんもしかして…」
「んあ、まあね」
「うえぇ!マジで?付き合ってんの?誰だよ、その相手」
「だからそんなびっくりしなくても…ちょっと気になる人がいるだけだよ」
「ふうん。ごっちんがねぇ」
「ホントに失礼だよね、さっきから」
「あはは。ごめんごめん」



真希が学食でのひとみとのやり取りを思い出していると
すっかり疲れた表情のひとみがようやく追いついてきた。
亜弥は両手を腰に当て、情けない姉の姿を母親のような顔で見つめている。
亜弥が家を出たことがよほどショックだったのだろう。
ひとみは時折、真希を恨めしげな目で見ていた。

「まったく。ボヤボヤしてると迷子になるよ?お姉ちゃん」
「すんません…」
「うわー。まっつーカッコイイねぇ」
「ホント?ごっちん、それホント?」

亜弥が嬉しそうに真希の顔を覗き込んだ。それを見てひとみは少々ムッとする。

「ホントホント。まるでミキティみたい」
「え゛っ…みきたんみたいなんだ、それちょっと微妙かも…」
「ぶははっ!おま、それ美貴が聞いたら怒るぞ」
「ミキティ今頃くしゃみしてるよ、きっと」

笑いながら、真希は今日見送りに来ることができなかった友人の顔を思い浮かべた。
前日にもらった簡単なメールには美貴らしい簡潔で明瞭なエールが書かれていた。
変に湿っぽくならないようにと気遣った美貴に真希もまた
「いってきます」というあっさりとしたメールを返した。

「バイトなんて一日くらい休んじゃえばいいのに。たんってば…」
「いいのいいの。一生会えなくなるわけじゃないんだからって、ミキティも言ってたし」
「美貴らしいな」

それを聞いても亜弥はまだ少し不満げな様子だったが
真希の飛行機の時間が近づくにつれ妙なテンションで取り留めのないことを喋りだした。
ひとみはそんな亜弥のおかしな言動を寂しさから来る緊張のせいだと思い
とくに突っ込むことはしなかった。
真希は亜弥の話のひとつひとつに丁寧に相槌を打ち、笑い、聞いていた。

「じゃあ、そろそろ行くね」
「あ、もうそんな時間か」

真希が立ち上がり、ひとみも続いた。
頭の上で交わされている会話を聞きながら、亜弥は拳を握り締めて、座ったまま大きく深呼吸をした。
心の中でヨシと気合を入れて勢いよく立ち上がる。

「うおっ!びっくりした。急に立ち上がるなよ」

姉の言葉を無視して亜弥は黙って真希を見つめた。
亜弥の思いのほか真剣な表情にひとみも真希も少し驚いたものの
只ならぬ雰囲気を察知して亜弥の言葉を待った。

「ごっちん、あのね、私…」

亜弥は真っ直ぐに真希を見据えていた。
言葉を探りながらゆっくりと、慎重に話し出す。
だがその声に迷いは一切なかった。
妹の普段とは違うしっかりとした口調に、隣に立っていたひとみも目を見張る。

「私ね、今よりももっともっと成長して大人になる」
「うん」
「皆に頼ってばかりの私だったけど、今度は皆に頼られるようになる」
「偉いね、まっつー」
「だからごっちん、待っててね。私がちゃんとするまで絶対待っててね」
「まっつーはもうとっくにちゃんとしてるよ。大人になったね」
「ごっちん…」
「当分会えないけど…あたしのこと、待っててね?」
「ごっちん!」

亜弥の頭を撫でた真希は後ろを振り向き歩き出した。
そして数メートル進んでから何かを思い出したように慌ててまた振り向いた。

「忘れてた!よしこもまたねー!!」
「忘れんなよ〜」
「あははは。まっつーのことよろしく!ていうかしっかりしなよー?」
「おう!体に気をつけろよ〜」

ひらひらと手を振るひとみの横で、亜弥はずっと真希を見つめていた。
そして弾かれたように駆け出した。
真希に向かって一直線。
驚く姉の声も耳には入らなかった。
飛び込んできた亜弥を真希はしっかりと抱きとめた。
そして亜弥は真希の唇に自分の唇を押しつけた。

「あ゛ーーーー!!」

空港内にひとみの絶叫がこだました。

「私のセカンドキスだよ。帰ってきたらまたしようね、ごっちん」
「大胆だねぇ。ファーストの相手は誰?」

亜弥は呆然と立ち尽くして声にならない声をあげている姉を振り返った。

「もちろんお姉ちゃん」
「そっかそっか。あーあ、よしこってばみっともない。殺されないうちに行くね」
「あははは。情けないお姉ちゃんとみきたんのことは任せてね!」

そう言って真希を見送った亜弥の顔には満面の笑みが溢れていた。



真希と亜弥のキスシーンを目撃し、茫然自失となったひとみを連れて亜弥は電車に乗り込んだ。
「恥ずかしい」とか「みっともない」とか姉を責め立てるとひとみもひとみで黙ってはいなかった。

「恥ずかしいのはどっちだよ。空港であんなことしやがって」
「いい大人が大声で泣き叫ぶほうが恥ずかしいでしょ!」

中途半端な時間帯の電車内はそれほどの混雑もなく、二人は難なく席に座ることができた。

「亜弥さぁ、オマエごっちんのこと好きなの?もしかして」
「うん。好き」
「うあぁぁぁぁ〜。ごっちんかぁ…ごっちんなのかぁ…」
「なによ。お姉ちゃん文句あるの?」
「うぅ…亜弥がごっちんのことを…あぁ…とうとう亜弥が…」
「大体今頃気づくなんて遅すぎ。みきたんなんてすぐに気づいたよ」
「マジかよ…。美貴のやつ、知ってたなら言えよなぁ」

揺れる電車に身を預け、姉妹は互いの顔を見ながら静かに笑った。
やがて亜弥の降りる駅に到着すると、ひとみは亜弥を見送るために立ち上がった。
相変わらず寂しげに肩を落とす姉を見て亜弥は気の毒になり、その頬にそっとキスをした。

「ばぁーか、さっさと行け」

シッシと亜弥を追い払うような仕草を見せたひとみも、嬉しそうな表情は隠せない。

「お姉ちゃん、頑張ってね」
「こっちの台詞だ」
「頑張ってよねー!!お姉ちゃん大好きーー!!!」

電車のドアが閉まる寸前、亜弥はひとみに向かって大声で叫んでピースをした。
まわりの乗客たちが何事かとひとみを見ているうちに電車は動き出す。
顔を真っ赤にしたひとみは立ったまま俯き、でもやはり嬉しい表情は隠せないでいた。










<たかが恋や愛 了>


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