8






梨華がそこを通りかかったのはまったくの偶然だった。
あゆみと別れ、湧き出てきた不安感とともに夕暮れ時の街並みを歩いていた。
だから家とは反対方向のその場所で恋人にばったり出くわすことを運命と思えるほど
明るく声をかけられるほどの余裕は今の梨華にはなかった。

「よっすぃ?」

二人の女が自分を見た。
一人はよく知っている。体の隅々まで知り尽くし、知り尽くされた相手。
いつも一緒にいて寄り添って肌を重ねて、楽しいことがあれば笑い、笑われ
さまざまな喜怒哀楽をともにしている、相手。
梨華の頭の中にあやふやに存在しているひとみ。

もう一人は梨華の見たことのない綺麗な女。
自分の恋人と差し向かいでお茶かなんかを飲んでいる。
こちらを不思議そうな顔で凝視して、そしてなぜか厳しい顔で眉間に皺を寄せていた。

「梨華!」
「えっ」

ひとみの声でその女は弾かれたように目を見開いた。
品定めするような目ではなかったがじろじろとした不躾な視線。
自分のことをもしかして知っているのだろうか。どこかで会ったことが…?
いや、こんな綺麗な人なら忘れるわけがない。相手はじっと自分を見ている。

困惑した梨華は下を向いた。自分の靴を見てそれから思い切って顔を上げた。

「友達?」
「あ、そうそう。ごっちん。後藤真希ちゃん」
「ごとーです」
「それからこっちはあたしの彼女。石川梨華」
「石川です」
「ごっちんは亜弥の親友で、梨華は亜弥の中学時代の先輩なんだよ」

真希と梨華を交互に指差しながら説明するひとみの表情は明るく口調も軽い。
だが腋の下には嫌な汗を掻いていた。
なぜこんなところに梨華が?いや、問題はそのタイミングだった。
ひとみにとって考えられる限り二番目に最悪の時と場所で梨華に出くわした。
一番はもちろん美貴といるときだ。
もしここにいるのが美貴だったら…そう考えてひとみはぞっとした。
今一緒にいるのがなんの後ろめたいことのない真希でよかったが
さっきまでしていた会話の内容を考えると居心地の悪さは計り知れないものがあった。

「何してるの?」
「見てのとおり。茶ぁ飲みながらくだらないおしゃべりだよ」
「ふうん」
「………」

不自然な沈黙。
重苦しい空気が澱む。

「そっち、お邪魔していいかな?」

先に動いたのは梨華だった。

二人がその問いに答える間もなくスタスタと店に入り、出迎える店員を制して
自らオープンカフェの、ひとみの隣に座った。
バッグを置き、足を組み、肩まで伸びたストレートの黒髪を右手で軽く後ろに流した。
呆然としているひとみと真希を尻目に片手を上げて店員を呼ぶ。

「カフェオレ」

梨華は二人があっけに取られているうちに注文をして澄ました顔で足を組み直した。
そしてまた自分の髪を触り、満面の笑みで真希に向かって言い放った。

「よっすぃは渡さないから」

にっこりと微笑を浮かべる梨華に真希は唖然とし、ひとみは相変わらず腋の下で汗を掻いていた。
一人涼しげな顔でカフェオレを飲む梨華に対し二人は黙りこくったまま。
言いたいことは山ほどあるのに口を開くことができない。
真希とひとみはなぜか勝ち誇ったような梨華に圧倒されていた。

「やっだ〜。二人とも何か言ってよ〜」

真希は知らず鳥肌が立っていた。
なんなのだろう、この人は。この雰囲気は。なぜこんなに上機嫌なの?
幼い子供のように無邪気に笑ったかと思えば上品な佇まいで微笑んでみせる。
こんな状況でなければもしかしたらこの人に惹かれていたかもしれない。
ひとみが溺れているのもわかる気がした。
一緒にいる人間を狂わせるような、そんなオーラを梨華から感じていた。

「あのな〜」
「よしことはそんなんじゃないですから」

誤解してるようですけどただの友達ですから、と真希は弁明した。
梨華の顔を直接見るのは躊躇われ、代わりにカフェオレに視線を向けていた。
そして美貴の顔を思い浮かべて、あながち誤解でもないなと、ひとみをちらりと見た。

「昔も今もこれからも正真正銘友達。恋とか愛とか、絶対にありえないですから」
「たしかに」

慌てて言い切る真希を見つつひとみは他人事のように苦笑した。真希に睨まれ首を竦める。

「大体オマエはいきなりすぎなんだよ」

梨華を小突くひとみ。
「なによ〜」と口を尖らす梨華。

なんとなくお似合いのような気がして真希は胸が痛んだ。
コタツにもぐる親友の後ろ姿を思い出して。

「だって、よっすぃがこんなとこでかわいい子とお茶してるからぁ」
「あたしが誰とどこで茶ぁ飲もうが勝手だろーが。どういう発想してんだよ」
「もうっ。そんな言い方しないでよー。冷たいんだからぁ」
「うるさいなー。さっさと帰れよ」
「イヤ。もうちょっと傍にいさせて」

ひとみに冷たくあしらわれることに慣れているのか梨華はめげない。
真希にとって意外だったのは主導権をひとみが握っているらしいことだった。
会話と表情、お互いに対する仕草から読み取れる二人の関係は圧倒的にひとみが有利だ。
梨華の目にはひとみしか映っていない。
さっきまで存在を認めていた真希のことはもう眼中にないらしい。

「ラブラブだね」

真希はことさら抑揚のない声で言った。
その意味するところをひとみが理解するかどうかは疑問だったが、精一杯の皮肉を込めて真希はそう言った。

ひとみの顔が曇り、梨華の顔は明るくなった。

「そうなのー。ラブラブで毎日大変だよねー」
「ごっちん、あの…」
「ラブラブなお二人の邪魔しちゃ悪いからお先。ここはよしこの奢りね」

店を出て二人の目の前を通り過ぎた真希は振り返って手をあげた。
応えて梨華が軽く手を振る。ひとみは顎をくいっと上げるだけだった。

帰り際、目に入った梨華の顔に自分に対する敵意が見てとれ真希は思わず足を速めた。
店からだいぶ離れ曲がり角をいくつも曲がって何も見えなくなっても
梨華の恐ろしい表情がずっと背中についてきているような気がして何度も振り返った。

振り返ってもそこには何もなく、ただミルクティーの残り香が口の中にあるだけだった。



「こんなに汗掻いて、どうしたの?」

梨華に言われてひとみは自分の額に手を伸ばした。
生温かいじとっとした液体が指に触れる。
真っ直ぐにこちらを見てくる梨華から目を逸らすことができなかった。
額に指をあてたまましばらくそうしていると梨華がハンカチを取り出して、ひとみの額を押さえた。
行き場のないひとみの指が数秒、宙をさまよった。

「お医者さんと看護婦さんみたい」

クスリと笑う梨華の目元は決して笑っていなかった。
貼りつけたような笑顔にひとみはぞっとした。
額に触れているハンカチを通して自分の怯えが伝わってしまいそうだった。

「もういい。サンキュ」
「そんなに暑いならアイスティーにすればよかったのに」

ひとみの空になったカップを見て梨華は額からようやく手を下ろした。
真希が座っていた椅子を一瞥してまた先ほどの台詞を口にした。
今度はひとみを真っ直ぐに見ながら、一字一句ゆっくりと。

「よっすぃは渡さないから」

ひとみは心臓を鷲掴みにされたような思いだった。
梨華の小さな手がずぶずぶと胸の中に入り込みドクドクと脈打つ心臓を捕える。
少しでも力が込められればあっという間に握りつぶされてしまう。
爪が食い込み、血が溢れ出て梨華の手を濡らすだろう。
囚われの身のひとみは梨華に抗うことができずそっと目を伏せた。

「誰にも」

震える睫毛に梨華の声が圧し掛かる。
息が苦しくなりひとみの肩が上下した。

「絶対に」
「あ…」

ひとみの長い睫毛が震えた。
その震えは全身を伝わり指先にまで及んだ。

「渡したくない」

梨華の声もまた、震えていた。

「あぁ…」

ようやく口を開いたひとみの声は掠れていて音を為していなかった。
全身に汗を掻き喉は渇き切っていた。
唾を飲み込み、意を決したように梨華の細い手首を捕まえた。
思わず力が入り、梨華が少しだけ表情を歪めたが
ひとみはそれには気づかず自身の下唇を舐めるとまた掠れた声で言った。

「それでいいよ」

それでいいとしかひとみは言えなかった。
どこにもいかない。ずっと傍にいる。安心して。梨華だけだよ。愛してる。
いつもならば軽々しく口をついて出てくる言葉が今日に限って出なかった。
それでいいと言うのがやっとだった。

「痛い」
「あ、ごめん」

ひとみは慌てて掴んでいた梨華の手首を離した。
予想以上に力が入っていたのか真っ赤な痕が残っていた。
それは激しいセックスの名残のようにも見え、ひとみの中の黒い欲望を刺激した。

梨華は片方の手で手首を擦りながらひとみを見て言った。

「胸が痛いの」
「胸が?」
「治してくれる?」
「どうかな。あたしにできるかわからないや」
「よっすぃじゃなきゃダメなの」
「そんなこと…」
「わからないの?よっすぃじゃなきゃダメなんだよ?」
「わかってる。わかってるよ」
「わかってない」
「わかってないかもしんないあたしがいいの?」

ひとみは静かに終わりの時を感じていた。
ふうっとひと息吐いて水を飲み、通りを見た。
真希が去った光景と梨華の驚いた顔が見えた。
ほんの数十分前のことなのに遠い昔のように色あせていた。
さっきまでのざわざわとした気分はどこかに消え失せ、妙に冷静な自分がいた。
掴まれていた心臓もそれはそれで動いているだけマシだと思えた。
すべてが面倒になり梨華の言葉を待たずに席を立った。

「よっすぃじゃなきゃ…ダメなんだもん!」

ひとみを追うようにして梨華が勢いよく立ち上がり
その拍子にミルクティーの入っていたカップが派手な音をさせながら床に落ちた。
ひとみが飲んでいたものか真希が飲んでいたものか判別できぬほど粉々になっていた。

音に気づいた店員が慌てて駆け寄ってきた。
怪我はないか、大丈夫かとしきりに梨華の様子を窺う。
しゃがみこんでカップの残骸を確かめ、また立ち上がり梨華に話しかける。
しかし梨華は答えない。
数メートル離れた場所に立ち尽くすひとみを見つめ、両手を胸の前で組み、祈っていた。

「ったく、なにやってんだよ」

踵を返し、呆れたような声でひとみは梨華の元に戻った。
どこからか持ってきた箒で粉々になったカップを片付ける店員の横を通り過ぎる寸前に
梨華はひとみに抱きついた。
普段からは考えられないような力強さでひとみの背中に腕をまわして顔をぐりぐりと胸に押し当てる。
呆然とする店員を無視して二人は固く抱き合っていた。

「梨華、苦しい」
「私のほうが苦しいんだから」
「それに恥ずかしいよ」
「私は恥ずかしくなんてない」
「みっともねー」
「みっともなくったっていいんだもん!」

梨華に抱きつかれたままひとみは店員に頭を下げた。
壊れたカップの代金を弁償しようとしたが断られ、店の好意に甘えることにした。
結局ミルクティー2杯とカフェオレ1杯分の料金だけを払い、ひとみと梨華は店を出た。
その間、梨華はずっとひとみにしがみついたままだった。

「もうあの店には行けねーなぁ」

呟きながらひとみはそのほうがいいのかもしれないと思っていた。
あの店は美貴との思い出がありすぎる。
危うく同じ店で梨華にも別れを告げるところだった。
ほっと胸を撫で下ろしたひとみだったが梨華と別れなかったことに安堵したのか
同じ店で別れを告げずにすんだことに安堵したのかは自分自身でもよく判らなかった。
ただ考えて考えて、考え抜けば、答えが見えそうな気がしていた。


『ちゃんと考えて、はっきりさせろ!』


真希に言われた言葉が頭の中にずっと引っかかっていた。




 * * *



やるだけやってことが済むと美貴はひとみの下から這い出た。
セミダブルのベッドに二人、くっつくでもなく離れるでもなく体を伸ばしていた。
カーテンが引かれた窓の外は何色をしているのだろうか。
天井を凝視しながらひとみは取り留めのないことを考えていた。

美貴の部屋は青い。青で統一された部屋だ。
青いモノだらけというわけではないがポイントポイントに青を効果的に使っているため
部屋を訪れた誰もが青いと感じる。青だけが印象に残る。

一口に青といってもその種類はさまざまだ。人によって印象も変わる。
雲ひとつない澄んだ青空を想像する者もいれば色鮮やかな濃いブルーをそこに見出す者もいる。
ひとみが美貴の部屋を初めて訪れた日、初めて美貴を抱いた夜。
浅いまどろみの中で薄っすらと目を開けたひとみが抱いた印象は深海だった。
青というにはあまりにも深く、暗い。
目を凝らしてようやく青だとわかる、海の底のようだった。

ベッドの上で乱れたシーツとともに美貴と折り重なる自分はまるで深海生物だった。
音のないその場所で身動きひとつせずじっと時が過ぎるのを横目で見る。
ふわふわと波間を漂うのとはまた一味違った心地よさ。
夜がそうさせるのか朝になれば消えてしまうその泡沫の刹那をひとみはいつも惜しんでいた。
眠らずにただじっくりと、見えない時の流れに目を凝らしていた。

「この部屋」

美貴が突然話し出したのでもうとっくに寝ていると思い込んでいたひとみは少し驚いた。

「引っ越そうかと思って」
「マジで?」
「マジで」
「なんで?」
「なんとなく」

ひとみはあらためて部屋を見まわした。
床に無造作に置かれた青いクッション。
寝転んだときに頭の座りがちょうどよくなる固さでひとみは気に入っていた。
美貴の膝枕の次に。
キッチンとの境にあるガラス戸のガラスは限りなく透明に近かったが
光の加減で赤やオレンジ、黄色や黄緑色に見えることもあった。
初めて美貴に殴られ、その拍子によろめいてぶつかったときにできたヒビが
光線を上手い具合に折り畳んで、摩訶不思議な色合いを醸し出していた。

そのガラス戸の木枠は青で塗り込められている。
なんでも前の住人が美術系の大学だか予備校に通っていたらしく
勝手にアレンジして満足して出て行ったらしい。
どういう配合をしたのかその青はもう二度と作れないような、幾重にも重ねられた趣のある色をしていた。
その貴重な青をぼうっと眺めるのも好きだった。

「引っ越すのかぁ」
「寂しい?」
「うん。そうだね」
「美貴と別れるときも寂しいって思った?」
「いや、思わなかった。早く帰りたいって思ってた」
「やっぱり」

バカ正直に答えるひとみに美貴は呆れたような、諦めたような、それでいて嬉しそうな笑いを返した。
寂しいだなんて言われたら美貴はひとみを殴ってやろうと思っていた。
その言葉が真実かそうでないかは別として、ひとみに余計な気遣いなんかを見せられたら
殴りつけてやろう、と。
美貴の予想は的中し、密かに握りしめていた拳をゆっくりと解いた。

ひとみは嘘でも寂しいだなんて言わないだろう。
強がりや反発ではない。寂しいと思っていなければ絶対に口にすることはない。
もしかすると仮に寂しいと思っていても言わないのかもしれない。ひとみはそういう人間だ。

相手の真意を測るでもなく、ましてや同情するでもなく
美貴の一番聞きたくなかった言葉を予想どおり言わないでいてくれたひとみが、やはり好きだと思った。
随分と捻じ曲がった好意ではあったが。

「裏のない優しさって罪だよね」
「は?意味わかんねー」

自分を突き放すときに少しでも寂しいだなんて思っていられたら、虫唾が走る。
きっぱりとあっさりと振ろうとしたこと、そちらのほうが潔い。
自分に少しでも縋りつく間を与えなかったひとみには感謝していた。
みっともなく泣いて、頼って甘えて元の鞘に納まろうとした自分を拒絶しなかったひとみには
感謝とは反対の感情を持っていたが。

「コンダクターは美貴だよ」
「よくわかんないけどかっけー」
「なんでこんなにバカなんだろ…」
「あぁ?バカって言ったのか人のことバカって」

億劫そうに寝返りを打ったひとみは美貴の顔を覗き込んだがその眼光の鋭さに恐れをなす。
しぶしぶ元の位置に戻り掛け布団を跳ね除けた。
暖房が効きすぎた部屋は裸のままでちょうど良い温度だった。

バカなのは自分だと、美貴は独り言つ。

「よっちゃん…」

掠れて弱々しい、誘うようなその声に反応しひとみは美貴の上に覆い被さった。
もう何度となく聞いたその声はいわば合図だった。始まりの合図。
ひとみはすでに義務でも強制でもなくなっているその行為にただ嵌り、浸り、美貴の肌に自身を重ねた。



青い夜が過ぎて、朝があったのかなかったのか、ひとみが目を覚ますとカーテンが揺れていた。
隣にいたはずの美貴の姿はなく、無意識に伸ばした腕が所在なさげにシーツを撫でた。
深呼吸をして起き上がり、窓際に立って外の色を確かめる。
晩秋の太陽はとっくに空高い位置にあった。

「外から丸見えだよ」
「大丈夫。あたし白いから」
「大丈夫って、意味わかんない」
「光が反射したりなんかして同化してそうじゃね?まわりと」
「なにその理屈。とにかく服着れば?」

脱ぎ散らかしてあった服を掻き集めてひとみはひとつひとつ身につける。
下着を身につけ、カーキ色のシャツに袖を通してあらためて外を見た。
何を期待してたわけではないが、あまり代わり映えのしない見慣れた風景に少しだけ落胆した。

「今日あったかいなぁ」

ひとみの呟きもドライヤーを使っている美貴の耳には届かない。
「あったかいあったかい」と言いながらひとみは冷蔵庫から野菜ジュースを取り出して飲んだ。
ふと携帯を見ると着信とメールがあった。
その場で確かめることはせず無造作に尻のポケットに突っ込んだ。
どうせ梨華か亜弥だろうと思った。

髪を整えて洋服を選ぶ美貴の後ろからひとみは声をかけた。

「引っ越し、手伝おうか」
「覚えてたんだ」
「そこまでバカじゃないよ」

野菜ジュースの入ったグラスを片手にひとみは美貴の後ろ頭を軽く小突いた。
ベッドに腰掛けてストッキングにするすると長い足を通す美貴を見ながらさらに声をかける。

「今日あったかいよなぁ」
「そう?ここのとこずっとこんなもんじゃない?」
「そうかなぁ」

ひとみはスカートから覗く美貴の綺麗な足に見とれていた。
美貴に気づかれぬようにごくっと喉を鳴らして野菜ジュースの残りを飲み干す。
バッグの中身を確認する美貴を見つめながら、昨夜の不在を梨華になんと言い訳しようかと考えていた。

「よっちゃん」

すっかり出かける準備万端の美貴がひとみの肩を叩いた。

「講義あるから美貴もう出るけど、よっちゃんは?」
「あたしは…今日はサボる」
「そう」
「送ろうか?」
「いい。せっかくセットしたのにメットかぶりたくないもん」
「今日もばっちり決まってますねぇ。惚れ惚れするくらい」
「当然」

ひとみと美貴は軽口を叩きながらアパートの階段をトントンと音を鳴らしながら降りた。
停めておいたバイクに跨るとひとみは美貴に「じゃあ」と言いエンジンをかけた。
美貴は口を開きかけたがひとみの肩に手を置き、そっと唇を寄せた。
ひとみの右手が美貴の腰にまわり、美貴は両手でひとみの頭を掻き抱いた。
唇を離すとひとみは再び「じゃあ」と言ったが、それには応えず美貴は駅の方角に足を向けた。

バイクに跨ったままひとみはこの不思議な関係についてぼんやりと考えていた。
半ば習慣と化した美貴との行為、日常。当たり前の日々。
最初の頃こそぐちゃぐちゃといろんな言い訳やこじつけをして行為に及んでいた。
真希に言ったようにデートこそしていないが梨華と会わない日は美貴の部屋でまったりと時を過ごす。
何をするわけでもなく(セックスはするが)ぼうっとその青い部屋にいる。

この美貴との時間が満更でもないように思えてきてひとみは戸惑いを感じる。
だがそんな自分の変化を認めつつもどこか諦めたような納得したような感覚もあった。
そして同時に、頭の片隅の醒めた部分で何かが警告するようにチクチクと疼いてもいた。

梨華への思いと美貴へのそれはまったく違うものだと理解してはいたが、やってることには大差がない。
会って抱き合って眠る。
そのパターンを繰り返しているうちに、どちらがどちらなのかわからなくなるのが怖かった。
どちらの自分が本当の自分なのか、わからなくなるのが怖かった。

きびきびと歩く美貴の後ろ姿をしばらく見てから携帯をチェックした。
予想どおり、着信は梨華でメールは亜弥からだった。
両方に簡単なメールをして、ひとみはようやくバイクをスタートさせた。
目的地は決めていなかった。

ひとみが去った後には、一部始終を目にしていたあゆみがその場で立ち尽くしていた。



 * * *



大学のキャンパス内をとぼとぼと歩く亜弥の足が止まる。
片手に持った携帯を泣きそうな顔で覗き込んだ。
着信相手の名前を確認して表情が固まる。
手に力が入り、うんざりとした様子でかぶりを振った。
そしてその場で大きく深呼吸をしてから亜弥は通話ボタンを押した。

「もう電話とかメールはしないでください」
『そんな悲しいこと言わないでよ、亜弥ちゃん』

相手の物腰は柔らかく、穏やかで諭すような口調だ。
昔と、そして先日となんら変わっていない。
亜弥は表情を引き締め、携帯を強く握り直した。
あゆみのどこか余裕のある雰囲気が亜弥を苛立たせた。

「私は柴田先輩とお付き合いする気はありませんから」
『はっきり言うねー。ちょっと傷つくなぁ』
「もう何度も言ってることです。今さら、何の意味があるんですか?」
『意味?意味なんてないよ。どんな意味があれば亜弥ちゃんは納得する?』

あゆみの声のトーンが明らかに変化したことに亜弥は気づいた。
普段とはかけ離れたほど低く、暗く、重い。
不気味なその様子に寒気を覚えた亜弥は、足早に学食の中に駆け込んだ。
今すぐにでも電話を切ってしまいたい衝動に駆られたが、堪えて
息が切れているのを悟られないように平静を装った。

「意味なんて求めてません。柴田先輩が諦めてくれればそれで納得しますから」
『あたしだって求めていたのは亜弥ちゃんで、あるんだかないんだかわからない意味なんかじゃ、ないよ」

求めていた、とあゆみは言った。
求めている、ではなく求めていた。
その言い回しを亜弥は怪訝に思った。

「過去形、なんですね」
『あたし、亜弥ちゃんのこと好きだったよ』
「もう好きじゃないってことですか。それならなんでこんな…」
『なんでわかってくれなかったのかな』

それはこっちの台詞だと亜弥は喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
中学時代に世話になった先輩であるし、姉の恋人の親友ということで今までどこか遠慮をしていた。
なるべくやんわりと拒み続けてきてはいたがもうそれも限界に近かった。
好きという気持ちがもう過去のものであるなら、こんな電話や時間は無益だ。なんの意味もない。
なぜあゆみはこんなことを続けるのだろう。
亜弥の口調にはっきりと嫌悪の色が表れた。

「そんなこともうどうでもいいじゃないですか」
『………』
「うんざりしてるんです。やめてください」

重苦しい沈黙が続いた。
これでわかってもらえないようならば仕方ない、姉に相談しようと亜弥は決めていた。
姉を通じて梨華にも口添えをしてもらえれば、このしつこい電話やメールをやめてもらえるだろう。
着メロが鳴るたびにびくびくすることも、きっとなくなる。

沈黙を先に打ち破ったのはあゆみだった。
それも亜弥が予想もしていなかったような明るい声で。

『亜弥ちゃん』
「………」
『聞いてるよね?』
「………」
『おーい、亜弥ちゃーん?』
「…聞いてます」
『あぁ、よかった。ねぇ亜弥ちゃん』
「なんですか」
『そんなにお姉ちゃんがいい?』

亜弥は冷水を浴びせかけられたような思いだった。
なんでこの人は今さらそんなことを言うのだろう。
しつこさとかそういう次元の話ではない。
どこかおかしい。この人は、どこかがおかしい。
亜弥はあゆみとは根本的に分かりあうことはできないのだと痛烈に感じた。

『亜弥ちゃんはお姉ちゃんのことが大好きだもんね〜』

バカにしたような口調と声。心底意地悪そうなその様子に亜弥は不機嫌を隠さない。

「やめてください」

シスコンなのは自覚している。今までだって何人もの人間にそのことを嘲笑されてきた。
この歳になって今さら腹の立つことはそうそうないが、このあゆみの物言いは自分の中のなにかに触れた。
穏やかな亜弥にしては珍しく感情が際立っていた。

「柴田先輩と付き合えないこととそのことは関係ありませんから」

自分の言葉に偽りはなかった。
実際にひとみとはなんの関係もない。何度も言った台詞だ。
あゆみに誘われるたびに、断るたびに何度も口にしてきた理由。
単にあゆみに対して恋愛感情が持てないというはっきりとした理由なのに
何回も、それこそ何十回となく伝えているというのに決して解ろうとは、認めようとはせずに
しつこくいつまでも言い寄ってくるあゆみ。
そんな日々に亜弥は神経を磨り減らしていた。

『ふーん。そういうこと言うんだ。じゃあさ、亜弥ちゃん知ってる?』
「………」
『お姉ちゃんが何をしてるか、知らないでしょ』
「……何の、ことですか」

あゆみの言わんとしていることがわからず亜弥は眉をひそめた。
ただその口調からは自分を好きだと言う気持ちはもはや微塵も感じられず
むしろ悪意や敵意が満ち満ちていた。

その負の感情が向けられた先が自分よりもむしろ姉に対してのものだったとは
このときの亜弥は気づいていなかった。

『亜弥ちゃんの大好きなお姉ちゃんが二股かけてるってこと』
「え…?」
『あたしの親友の梨華ちゃんって人がありながらさー、やってくれるよねぇ』
「そ、そんな」
『可哀相な梨華ちゃん。吉澤さんに傷つけられて』
「う、うそです!そんなこと…そんなのうそに決まってる」
『あたしも亜弥ちゃんに傷つけられたし。ほんっと最悪の姉妹だよ』

吐き捨てたあゆみの言葉が亜弥の胸に突き刺さった。
鼻の奥がつんとして溢れてきた涙が視界を遮る。

『あんたたちサイテー』

堪らず亜弥はその場にしゃがみこんだ。
悲しくて悔しくて仕方なかった。
こんなときに何も言い返せない自分が嫌で仕方なかった。
あゆみの言葉を否定したいのにできない。涙と嗚咽で声が出せない。
心で訴える。言い返す。あゆみを拒絶する。認めたくない。あゆみの言葉を信じたくない。

お姉ちゃんのことを悪く言わないで。
私たちを侮辱しないで。

頭の中で声になれない言葉だけがぐるぐると当てもなくまわり続けた。
声にしたいのに声が出ない。声にしなければ言葉たちは消えてしまう。
消えてしまった言葉は意味を持たない。真実にはなれない。
発散されない感情や行き場のない怒りに支配されて、亜弥は身動きが取れなかった。

「亜弥ちゃん?」
「まっつー!」

突然、聞き慣れた声が亜弥の耳に飛び込んできた。
涙で見えないはずの二人の顔がはっきりと見えた。
張りつめていた糸がぷつんと音を立てて切れ、亜弥はその場で意識を失った。



まどろみの中で姉の匂いを感じていた。
昔、亜弥がまだ小学生にも満たない頃ひとみの後を文字通りついて歩いて
自分の身長よりも遥かに高いブロック塀によじ登り、何も考えずに姉の背中を追いかけていたあの日。
姉の背中だけを見てよろよろと幅の狭いブロック塀を歩いた。


おねーたん、まってよ
あやをおいていかないで


ふいに驚いたような顔でひとみが振り返った。
まさかついてきているとは思わなかったのだろう。
今にも落ちそうな亜弥を見てひとみは見る見るうちに青ざめた。
姉の顔を見て気が抜けた亜弥はあっけなく下に落ちた。
足からずり落ちて膝の皮がペロンと捲れた。
幸いにも怪我は膝だけで済んだが、生々しく流れる自分の血と
感じたことのない熱い痛みを前にして亜弥は泣き叫んだ。

泣き叫んでいる亜弥をひとみはおぶって両親の元へと連れ帰った。
事情を聞いた両親にひとみはこっぴどく怒られたが、そんなことよりも亜弥が心配でならなかった。
母に手当てをされて泣き疲れて眠る亜弥の手を、ひとみは一晩中離さなかった。
亜弥の小さな手も、ひとみの手を決して離さなかった。



「あれ…?」

目を覚ました亜弥は自分がひとみのベッドで寝ていることに首を捻った。
すべてが夢かと思ったが、生々しく耳の残るあゆみの言葉や、自分の服装を確認して現実のものだと理解した。
しかし学食であゆみにひどいことを言われてから後の記憶がない。
落ち着いてようやく手繰り寄せた記憶の先に、二人の大切な友人の顔があった。
ベッドから飛び起きて亜弥はリビングに向かった。

「まっつーおはー」
「亜弥ちゃんも食べる?鍋」

鍋を囲む真希と美貴の姿を見止めて亜弥はへなへなとその場に崩れ落ちた。

「なんで…なんで鍋なんてやってんのぉ〜?」

しかも人の家でだ。
暢気に美味しそうな匂いを漂わせて、友人が鍋を囲んでいる。
脱力した亜弥は四つん這いのまま友人たちの傍に近寄った。
鍋のあたたかい熱気が亜弥を包みだした。

「ミキティがお腹空いたって言うからさー」
「そしたらごっちんが寒いから鍋にしようって」
「鍋はどうでもいいんだけど…」
「やっぱり焼肉のが良かった?」
「ミキティそればっか」
「だからそうじゃなくて…」

亜弥と話しながらも二人の手は忙しなく動いていた。
もくもくと立ち上る湯気に顔を赤くさせながらほくほくと美味しそうに鍋をつつく。
それを呆然と眺めていた亜弥の腹が反応した。

「ほら、まっつーも食べなよ」
「そうそう、早くしないとなくなるよ。話は食べてからでいいじゃん」

あれもこれもと次から次へと亜弥の器に鍋の具がのる。
空腹感と二人の勢いに押され、亜弥はそれらをどんどん胃の中に収めていった。
真希の作るものはなぜいつもこんなに美味しいのだろう。
いつも眠そうな顔をしているのに料理をするときは別人のように顔つきが変わる。
そんな真希の顔を思い出しながら亜弥は次々と鍋の中身を食していた。

「うん、やっぱりごっちんの鍋は最高だね」
「美貴が作ったかもしれないとか、ちょっとでも思わないわけ?」
「思わない」
「あはっ。言うねーまっつー」
「だから焼肉にしようって言ったのに…」

こうして3人で談笑するのはいつ以来だろうと亜弥は鍋に舌鼓を打ちながら考えていた。
随分と久しぶりのような気がするが、そうでもないような気もする。
当たり前のようなこの時間が今はただ嬉しかった。
ただひとつ不満があるとすれば、姉の不在だった。
こんなときこそいてほしかった。
ぽかりと空いたスペースに目をやり亜弥は溜息をついた。

「言っとくけどここにまっつーを運んだのはよしこだよ」
「えっ?」
「いくら亜弥ちゃんが軽いっていっても美貴やごっちんの細腕じゃ運べないし」
「ま、それはちょっと言いすぎだけどよしこはまっつーのことになると目の色が変わるからね」
「えっえっ?」
「そうそう。うちらが交代しようかって言っても聞かなかったからね」
「お姉ちゃん…」
「あ、でも医務室まではミキティと交代でおんぶしたよ」
「亜弥ちゃんちょっと太ったよね。お菓子食べすぎなんじゃない?」
「うん、それお姉ちゃんにもよく言われる…って、ひどいよみきたん」

喋りながらも鍋をつつく手だけは休めない真希と美貴。
亜弥は状況を整理するのに手一杯になり自然と箸が止まった。
姉がどれだけ自分のことを心配したのか想像すると胸が切り裂かれたかのように痛んだ。

「あれ?私って倒れたの?」
「なにを今さら」
「あれ?なんでお姉ちゃんいないの?」

鍋のまわりを縦横無尽に動き回っていた二人の手が同時に止まった。
ゆっくりとこちらを向く二人の顔はなぜか険しく
まるで自分が悪いことをして責められているかのように感じた。

「まっつーさ、シバタナントカさんだっけ?そんなに困ってるなら言ってくれればよかったのに」
「なんでそれ…」
「亜弥ちゃんが携帯で誰かと喋ってるのをうちら見てたんだよ。終わったら話しかけようと思って」
「そしたらまっつーの様子がおかしくなって、急に倒れるんだもん」
「びっくりしたよね。とりあえず医務室に運んで、よっちゃんを呼んだの」

亜弥が倒れたと連絡をするとひとみはすぐに駆けつけた。
固い表情で真希の説明を聞きながら亜弥の前髪をそっと撫でたひとみ。
その様子を傍で眺めていた美貴は、やっぱり亜弥には勝てないと思わずにはいられなかった。
勝ち負けなんて考えるのは不毛なことだとわかっていたが。

「で、まっつーをここに運んで寝かせたの。よしこが自分の部屋に運んだのはなんでか知らないけど」
「それはたぶん…私が、お姉ちゃんのベッドだと…昔から、その、安心して眠れるから…」
「はぁ〜、そうですかぁ。シスコンですかぁ」

呆れたように笑う真希を見ても亜弥は腹が立たなかった。
やはり言う人間の感情によって受け止め方が左右される、と当たり前のことながら亜弥は実感していた。
あゆみのときとは違う真希の温かい声には救われる思いだった。

「よっちゃんね、亜弥ちゃんの携帯の着信履歴見て…なんか凄い顔で出てった。
 シバタナントカさんって誰なの?よっちゃんの知り合い?
 ただ亜弥ちゃんにしつこくしたってだけじゃないでしょ」

畳み掛けるような美貴の問いかけに、亜弥はどう答えればいいかわからず真希を見た。真希に救いを求めた。
卑怯だとは思ったが、自分の口からその話を持ち出す勇気は
この後のもうひとつのことのために取っておこうと思った。

「よしこの新しい彼女の…もう面倒だから言っていいよね?石川さんっていう人らしいんだけど。
 石川さんとそのシバタナントカさんは亜弥ちゃんの中学時代の先輩なんだよね。
 で、石川さんのどうやら友達らしいんだわ、シバタナントカさん。」
「親友」
「ああ、そうなの?どっちでもいいじゃん。
 要するに石川さんの親友の柴田ナントカさんに、亜弥ちゃんはひどいことされたのか、言われたのか
 その両方か知らないけど泣かされたってことか」
「ごっちん顔怖いよ。すっごい怒ってるでしょ」
「ごっちん…」
「ふん。怒るに決まってるじゃんか」

珍しく感情を露わにし、怒った口調の真希を見て美貴は反対に怒るタイミングを失った。

「でも泣かされたっていうか…」
「泣いてたじゃん」
「泣いてたけど」

真希と亜弥のやりとりを聞きつつも、美貴は初めて聞く名前で頭が一杯になっていた。
気にしていないつもりだったが、やはり聞くと考えずにはいられない。
もう半ば吹っ切れているというのに恋人を奪った女の名前を気にしている自分がいる。
でもそれも仕方のないことだと、美貴はあくまでも前向きに受け止めて
そんな自分に諦めにも似た感情を抱いていた。

「お姉ちゃんなんで出てったんだろう」
「そりゃシバタナントカさんとガチンコでやり合うためじゃない?」
「えぇぇーっ!!!そそそそんな、な、なんで?ダメだよ〜」
「よしこ大丈夫かなぁ。やっぱりあたしが行けばよかった」
「たしかに…。よっちゃんってああ見えて喧嘩めっちゃ弱いもんね」
「たぶん返り討ちだね」
「たぶんね」
「エーンエーン。おねーちゃんが死んじゃうー。エーン」

泣き喚く亜弥を無視して真希と美貴は再び鍋に手をのばした。
「そろそろ雑炊いく?」とか「卵といて」とか暢気に会話する二人を見て亜弥はさらに泣いた。
雑炊が食べ頃になり、亜弥もひときしり泣いてすっきりしたのかまた箸をとった。
いつものことだと、とくにつっこみもせず二人は亜弥と雑炊を食べた。











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