7






薄気味悪い路地を柴田あゆみは足早に歩いていた。
手には携帯を持ち、視線を片時も離すことはしない。
スクロールさせた受信メールを見ては返信を押し、ためらうフリをしながら携帯を閉じる。
ビルとビルの隙間の、誰にも知られていないような通りを躊躇無く進みながらそれを繰り返していた。
あゆみの指はあるひとつの目的に向かって忠実に動いている。
それをするのはたやすいが、自らを焦らして目的を遂行するまでの道程を楽しんでいた。


『もうメールも電話もやめてください』


あゆみはジグザグに交差した迷路のようなビル群を抜け出して大通りに出た。
視界が開けたと同時に何かに反射した光があゆみの目に差し込んできた。
眉をひそめて空を仰ぐと雲がグングン流されて遠ざかるのが見えた。
沈みかけた太陽があゆみを見ていた。

「メールも電話も、か…」

自身にさえ聴こえないほどの声量で呟くと、再びあゆみは携帯に視線を戻した。
アドレス帳をスクロールさせて亜弥の名前を見つめる。
しつこくすればするほど嫌われるのはわかっていた。あゆみ自身にもそういう経験はある。
高校のとき部活の先輩にストーカーまがいのことをされたのを思い出した。

見つめる先の携帯に影が落ちた。顔を上げると梨華がいた。

「柴ちゃん遅いよー」
「ごめんごめん。これでも急いで来たんだから」
「ゼミ長引いた?」
「そ。毎週のことだからもう諦めてるけどね」

あゆみと梨華は同じ大学の同じ学部に在籍していた。

「梨華ちゃんは?レポート、大変でしょ?」
「そう!聞いてよ柴ちゃーん。もうね、信じられないんだよ?あの先生ってばね…」

あゆみと梨華は中学の頃からの付き合いだ。
梨華の愚痴やイマイチ面白さが伝わらない話を聞くのはあゆみにとって習慣のようになっていた。
慣れ、というのは恐ろしいものでそんな誰が聞いても辟易するような梨華の話を
あゆみは苦もなく聞くことができる。
ベストのタイミングで相槌を打ち、時には突っ込み、オチのない話にも腹を立てることはない。

「そうしたらね、ふふっ。CDのケースだけで中身がなかったのー!!」
「へ〜。意味ないじゃんね」
「意味ないよねー。先輩おっかしいの。慌てて曲の説明とかしだしちゃって…」

梨華の話は終わりがない。次から次へと派生しいていく話には脈絡もない。
今だってゼミの不満をぶちまけていたかと思えば
いつのまにか最近始めたバイト先の先輩の話になっている。
ひとつひとつの話に関連性は薄いのでとくに真剣に聞く必要はないが
さっさと梨華の求めている質問をしなければあっという間に朝が来てしまう。

「梨華ちゃん、その先輩のことちょっと気に入ってるでしょ?」
「えぇ〜。そんなことないよぉ」

ビンゴ。あゆみは漏れそうになるため息を寸前で飲み込みさらに聞く。

「カッコイイ?」
「う〜ん。まあカッコイイといえばカッコイイかな?」

こういうときの梨華は口よりも表情のが素直だ。思っていることが大抵顔に出る。
惚れっぽい梨華の性格を十分に把握しているあゆみは
それでもいつもとは微妙に違うトーンの梨華に気づいていた。

「こんなところで立ち話もなんだからどっか入らない?」
「あ、そうだよ!柴ちゃんが行きたい店ってどこ〜?」
「この通りのもう少し先」

梨華がバイト先の誰がカッコイイだの、大学のどの人が素敵だの言うのはいつものことだ。
ただひとみと付き合いだしてからの梨華からそういう話を聞いたことがなかったあゆみは
梨華の微妙な変化についてどのタイミングで聞くべきか少し迷っていた。
できれば店につく前に聞いておきたい。

「梨華ちゃんさぁ、吉澤…さんとはどうなの?」
「先輩と、もうひとりの人と今度ゴハン食べに行こうって…」
「あんなによっすぃ、よっすぃ言ってたのにどうしたの?」
「…でね、その先輩とバイトのときに」
「梨華ちゃん!!」
「柴ちゃん…」

梨華の足が止まった。あゆみはそっと肩に手を回して顔を覗き込んだ。

「うまくいってないの?」

梨華が首を横に振った。

「じゃあ、どうしたの?」
「柴ちゃん言ってたよね」
「なに?」
「私、だけじゃないんじゃないかって…」
「あ、うん。言ったね」
「もうっ!なんでそんなこと言うのよ!ひどいよ、柴ちゃん」
「だってそう思ったんだもん。むしろあたし親切じゃない?」
「思ってても、もうちょっと言い方ってものがあるでしょ?!」
「そんなにムキになるってことはやっぱりいたの?他に」

あゆみの遠慮のない物言いに梨華は泣き笑いのような、困惑した顔を見せた。

「わかんない」
「え…?」
「私のほかにいるかどうかなんて、わかんないよ!わかりたくもないし…」
「でも疑ってるんだ?」
「………」

あゆみはひとみと面識はない。
だがひとみと同じ大学に通っている友人から聞く限り、ひとみは誠実とは言い難い性格のようだった。
ふらふらしていてかなり派手に遊んでいると聞いていた。

「だからやめなって言ったじゃん」
「だって〜」
「梨華ちゃんもなんでそんな人がいいのよ」
「さあ。なんでだろう」
「って、オイ!」
「う〜ん、たぶんよっすぃがよっすぃだから、かなぁ…」
「はぁ?!梨華ちゃんもたいがい頭悪いよね」
「ちょっと、それどういう意味よ〜」
「梨華ちゃん以外と付き合ってる…とは限らないか。遊んでいるかもしれない人がその人だからいいって、」

一端言葉を切って、ひと呼吸置いてからあゆみは続けた。

「バカでしょ」
「ひどっ」
「もうやめたら?」
「それは無理」

梨華のきっぱりとした口調にあゆみは少なからず驚いた。

「そんなに好きなの?」
「好きっていうか…」

一瞬あゆみから目をそらした梨華は少し考えてから言った。

「ほしいの。よっすぃが」
「そんな倒置法使って言わなくても」
「トウチホーってなあに?」

あゆみには梨華の気持ちが痛いほどわかると同時に、わからなかった。

誰かを、理由はわからないし説明もできないけど求める気持ちはあゆみも一緒だった。
好かれてないのは、いやむしろ嫌われているのはわかっている。
自分が追い求めれば求めるほど相手が離れていくことも。
この先にハッピーエンドなんて待っていないことも。

それでもあゆみは、立場は違っても根底に流れるものはあゆみと同じなのかもしれない梨華は
諦めることなんてできない。
愛とか恋とかキレイごとでは片付かない欲求が
自分たちをどうしようもなく泥沼に引き擦り込んでいるということを
あゆみは頭の片隅で理解していた。

「じゃあ、吉澤…さんに誰か他の人がいても」
「うん。別れたくない」
「………」

しかしこの一点、この考え方の違いがあゆみと梨華を決定的に分け隔てていた。

「今のままでもいいからよっすぃと一緒にいたい」
「ウソだよ」
「ウソ?」
「そんなの、そんなことなんで言えるの?梨華ちゃんだって嫉妬してるんでしょ?!」
「その言い方…。ねぇ、柴ちゃんもしてるの?嫉妬」

あゆみは絶句した。
自分は嫉妬しているのだろうか…?

何かというと姉を優先させる亜弥。
親友を苦しめている亜弥の姉。

亜弥に応えてもらえない苛立ちがひとみに向かう。

「また倒置法なんて使っちゃって…」

自分のしていることになんの意味があるのだろう。
リダイヤルに並ぶ亜弥の名前。送信メールには亜弥に愛を囁いている言葉が並べられている。
どのメールも返信されることを考えない一方的なメールだ。
どこかで捻じ曲がったアプローチは亜弥だけでなく、あゆみ自身にも暗い影を落としていた。

「ムカツク」
「柴ちゃん?」
「ムカツク」

あゆみが目的の店に向かってずんずんと歩き出した。
呆気にとられた梨華が半歩遅れてその後を追う。
夜が近づいた繁華街は大勢の人間でごった返していた。
先を行くあゆみを見失わないように梨華は歩くスピードを速めた。

「柴ちゃん、待ってよ〜」

そんな梨華の呼びかけを気にもせず、あゆみはひたすら歩き続けた。

「もう〜。急になんなのよ〜」

文句を言いつつもあゆみの後を追う梨華。
ふと気づくとあゆみが煌々とライトアップされた店の前に立ち尽くしているのが見えた。
立ったまま、あゆみは店内を凝視していた。
中に入る様子もなく真剣な表情で何かを、或いは誰かを見つめている。

ようやく追いついた梨華はあゆみの横に立ち、同じように店内を覗き込んだ。
女性客で賑わいを見せているそこはなんの変哲もない喫茶店だった。
ショーウィンドウには色とりどりのケーキが数種類並べられ、梨華の顔は自然と綻んだ。
ふと、溢れる客の中で忙しなく動いている店員が目についた。
そこで梨華はようやく理解した。あゆみがこの店に来たがった理由を。

「亜弥ちゃん…」

テキパキと働く亜弥とその姿を切羽詰った表情で見つめるあゆみ。
二人の姿を交互に見る梨華の心には、言いようのない不安感が渦巻き出していた。



 * * *



色とりどりのケーキを眺めるのは亜弥にとって至福のときだ。
それは単純に食欲という欲求に起因するだけではなく
小さい頃よく母親が作ってくれたキャロットケーキを思い出すからだ。
あの頃は、なんて口調で話すのは寂しいような気がして姉にはあまり言ったことはないが
亜弥はあの頃両親と姉と4人で、休日に母親が焼くキャロットケーキの香りに包まれるのが大好きだった。

バイト先をこのケーキ店に決めたのもそんな至って単純な理由からだった。
家や大学から近いとか、時給がいいとか、制服が可愛いからとか
挙げればキリがないポイントの数々は亜弥にとってはどうでもいいことだった。
ただ一点、母親が焼いてくれたキャロットケーキの香りに近いものがあったことが
このケーキ店にした理由だ。

だからあゆみの通う大学や、あゆみの自宅から遠い場所にあるというのは偶然に過ぎない。
亜弥にとっては、あまりにもいいこと尽くしのバイト先だった。

「亜弥ちゃん、そろそろ閉める準備しようか」
「はい」

女店主に言われ、亜弥は店の外に出た。
ドアにかかっていたオープンの札をひっくり返す。
そしてふとガラスに映った顔を見て、漏れそうになったため息を寸でのところで飲み込んだ。

「こんなところまで何の用ですか?」

普段の声とはまるで違う、ましてやバイトの営業用の声ともかけ離れた亜弥の低い声。
すっかり薄暗くなったあたりの雰囲気に、やけにぴったりだとあゆみは他人事のように思っていた。

この場所で梨華と別れてからけっこうな時間が過ぎていた。
外から亜弥の姿を見とめた途端、あゆみは一人にしてほしいと梨華に告げた。
それからしばらく働く亜弥の姿を目立たない場所から眺めていた。
眺めながら先ほどの梨華との会話を思い出していた。

「柴田先輩、いつからいたんですか?」

夜が近づき気温は下がっていた。最近は吐く息もすっかり白い。
あゆみの顔やスカートから覗く両足は雪のように真っ白だった。
その白は自然と姉の姿を思い起こさせた。

「…ここじゃなんですから、入ってください。私もう少ししたら上がれるんで」
「………」
「寒いじゃないですか、ここ」

ため息まじりに亜弥はあゆみを店内へと促した。
あゆみは亜弥に言われるがままに、おずおずと店の中に入りながら冷えた両手をこすり合わせた。
亜弥の言う「ここ」が自分の胸の内を指しているような気がした。

「店長に断ってきたんで、どうぞ」
「ありがと」

コーヒーの湯気を目の前にして、あゆみは少しだけ笑顔を見せた。
先ほどまで外から見ていたのと中に入ってこうしてコーヒーを飲むのとでは店内の印象が違うなと思った。
そして隣でもなく目の前でもない、斜め向かいの席に腰を下ろした亜弥の顔を見て、安心した。
たとえ自分を避けるようにそっぽを向いたその表情が明るいものではなかったとしても。

「亜弥ちゃんのお友達?」

カウンターの向こうから声を掛けられた。あゆみが口を開くよりも先に亜弥が答えた。

「中学時代の先輩なんです」
「あら、そうなの。亜弥ちゃんといいあなたといい可愛いわね〜」
「あ、いえ」
「あなたみたいな可愛い子に働いてもらえたらウレシイんだけどなぁ〜」
「店長〜。いきなりなに言ってんですか」
「だってほら、先週一人辞めちゃったでしょ。勧誘よ、か・ん・ゆ・う」
「そんなこといきなり言われたって、先輩だって困っちゃいますよ、ねえ?」

亜弥の口調は明るく、口許はにっこりと笑っていた。
ただ目は違った。言いながらあゆみを見る亜弥の目は深くどこまでも暗い色をしていた。
そんな目をされるたびにあゆみはやるせなくなる。
哀しみと怒りと申し訳なさで、唇を噛んでしまう。
屈託なく笑う亜弥の姿を最後に見たのはいつのことだったろうと、心の底からやるせなくなるのだ。

「すみません。私ほかのバイトでいっぱいいっぱいなんですよ」
「あら。残念ねぇ」
「店長はいっつも唐突なんだから〜」
「女はね、思ったら即行動に移さなきゃダメよ?それじゃ、ごゆっくり〜」

奥の部屋へと入っていく女店主の後姿を見ながら、亜弥はあゆみの予想外の答えに驚いていた。
自分と接する機会が増えるこのチャンスをあゆみがみすみす逃すはずがないと思っていたのだ。
だからなんとかしてバイト話をうやむやにする方法を考えていたというのに
あゆみのほうからあっさり断ってきたことに驚き、そして安堵するとともに「なぜ?」という思いがあった。

「そんなにバイト、してましたっけ…?」
「してないよ」
「え…じゃあ、なんで」
「思ったら即行動か。でもなかなかできることじゃないよね」

亜弥の言葉を遮ってあゆみは喋り続けた。

「相手に迷惑かけちゃうかもって思ったら躊躇するよね、どうしても」
「………」
「あたしがしてたことは間違ってたんだろうけど…でも仕方ないよね。好きなんだもん」
「好きならなにしてもいいってわけじゃ、ないですよ…」
「あはは。たしかに」
「迷惑だったんですから」
「これでも抑えたつもりだったんだけどね、なんか変なこといろいろ考えちゃって…」

あゆみを避けるように体ごと横を向いた亜弥は自分の足元を見るともなく見ていたが
頬のあたりであゆみの視線をずっと感じていた。
横目でチラっとあゆみを見ると、『変なこと』と言った瞬間にだけ目を伏せたのがわかった。
なんとなく気になってあゆみを見つめた。

「やっぱり梨華ちゃんみたいにはなれないな」
「石川先輩?」
「亜弥ちゃんはあたしだからダメなの?あたし以外に誰かいるからダメなの?」
「前にも言いましたけど柴田先輩だからどうっていうことじゃなくて」
「そんなにお姉ちゃんがいい?」

さっきからいろんな方向に飛ぶ会話に亜弥はうんざりしていた。
あゆみは人の話を、少なくとも亜弥の言葉を聞いていない。
聞いてはいるかもしれないがそれを無視して自分の言いたいことだけぽんぽんと投げかけている。
そんなところが亜弥は苦手だと感じていた。以前はもっと、話していて楽しい人だったのにと。

もちろん振ったり振られたりした関係だから、ただ楽しかっただけの頃のような会話を期待するのは
無理なことなのかもしれない。それでも亜弥はあゆみの優しさとか誠意のようなものを期待していた。
たとえ振ってもあゆみは自分よりも大人だから潔く引いてくれると思っていた。
今思えばそれは自分に都合よく解釈していただけで
大人だとか子供だとかそんな勝手な決めつけは意味のないことだった。
そういう意味では亜弥も自省していた。

可愛さあまって憎さ百倍。
今のあゆみは自分のことなど好きでもなんでもなく、ただやり場のない怒りをぶつけたいと
それをやるためだけにここまで来たのだと亜弥は予想していた。

「どういう、意味ですか?」
「お姉ちゃんのどんなところが好きなの?顔?」

あゆみは梨華にむりやり見せられたひとみの写真を思い浮かべた。
それは梨華がひとみの頬にキスをする瞬間を携帯のカメラで撮影したもので
いらないと断ったにもかかわらず写メールで送られてきた。
横顔でもはっきりとわかるほど梨華はうっとりとした顔つきをしていて
対するひとみはというとかっこつけたのかやたらと真剣な表情をしていた。
なるほど、梨華が夢中になるのも無理はないなと、あゆみはそのメールを削除しながら思った。

「お姉ちゃんのことは関係ないじゃないですか」
「だって亜弥ちゃんことあるごとに『お姉ちゃんが、お姉ちゃんが』って言うでしょ?」
「だからって」
「お姉ちゃん以上に人を好きになったことあるのかなって。今までに」
「変なこと言わないでください」

亜弥は自分の言葉にはっとした。同時に先ほどのあゆみの真意を理解した。

「変な想像、しないでください…」

亜弥は自分がシスコンであることを十分にわかっている。
それもちょっとやそっとの姉好きではない。
もしかしたら「好き」というレベルではないのかもしれない。
だがそれは恋人同士の愛や恋なんかではもちろんなく、亜弥にとって姉は亜弥が亜弥であるための
この世に存在するために必要なもう一人の自分。生きていくために必要な存在。それが姉だった。
誰かと比べることなんて、できはしないのだ。

「……吉澤さんって梨華ちゃんと真剣に付き合ってるのかな」
「当然ですよ」
「そう?吉澤さんモテるでしょー。梨華ちゃんもなにかと気にしてたから」
「そんな、お姉ちゃんはそりゃいろんな人と付き合ってきましたけど」
「心配なんだよね、梨華ちゃんが」
「今は石川先輩がいるんですから。ちゃんと付き合ってますよ。そのために」

余計なことまで言いそうになり、亜弥は慌てて口をつぐんだ。
再び自分の足元に視線を彷徨わせると、やはりあゆみの視線を感じた。
もっと突っ込まれて聞かれたら面倒になる。美貴のことだけは絶対に言うわけにはいかない。

「そのために?」
「………」
「誰かが犠牲になったってことなのかな…?」

あゆみの言葉はまさに確信をついていた。
しかしそれは亜弥に投げかけたというわけではなく、ひとり言のような小さな声だった。
しばらく沈黙が続き、あゆみはわずかに残ったコーヒーを飲み干した。

「さっきの質問」
「え?」
「お姉ちゃんのどこが好きって」
「ああ…」

沈黙を破ったのは亜弥だった。

「お姉ちゃん、ああ見えてすごく優しいんです。
 柴田先輩はいいかげんな噂しか耳にしてないかもしれないけど…。
 お姉ちゃんはいつも私をさりげなく守ってくれて、困ったことがあると助けてくれて…。
 安心するんです。お姉ちゃんといると。だから」
「うん。もういいよ」
「………」
「なんかノロケにしか聞こえないし」

亜弥が反論する前にあゆみは立ち上がった。
そして「これは亜弥ちゃんの奢りね」と目でコーヒーを指しながらバッグを手に取り背中を向けた。
亜弥も慌てて立ち上がりその背中に向けてさっきから疑問に思っていたことを口にした。

「お姉ちゃんと石川先輩、うまくいってないんですか?」
「そういう話しないの?吉澤さんと」
「いえ…最近ちょっと会う機会が少なくて」
「ふうん」
「でも会うといつも『うまくやってる』って言うから…」
「うまく、か」
「石川先輩こそちゃんとお姉ちゃんのこと好きなんですよね?だから付き合ってるんですよね?」
「そんなのあたしに聞かないで直接梨華ちゃんに聞きなよ」
「そう、ですよね…すみません」

そのままあゆみはドアを開けて店を出ようとしたが振り返って亜弥の名前を呼んだ。

「梨華ちゃんは吉澤さんのことすごく好きだと思うよ」
「……そうですか」
「あたしが亜弥ちゃんを好きなように」

あたしが亜弥ちゃんに執着するように。

亜弥の返答を待たずにあゆみは外に出た。
すっかり暗くなった空とは対照的な街の灯りやネオンに目を細めながら
最後の言葉を飲み込んだことをあゆみは少しだけ後悔していた。



 * * *



あゆみが去った後、バイトを終えた亜弥は電車に揺られながら姉のことを考えていた。
自分にとっては優しくて頼りがいのある姉。
恋人としてどうなのかなんて真剣に考えたこともなかったが
あゆみに言われた台詞が亜弥の頭の中に微かに引っかかっていた。


『お姉ちゃん以上に人を好きになったことあるのかな』


その答えはノーでありイエスだった。

姉以上に好きな人は過去も現在も一人もいない。
あゆみの言う『好き』とは違う意味で亜弥には姉以上に好きな人などいなかった。
だが一方で亜弥は思う。
姉に対する気持ちと他の人に対するそれは全然種類が違う。
比較対照になんてならないものだと。
姉は姉。どうあがいてもあゆみの言う『好き』な人にはなり得ない。
例えば真希や美貴ならどうだろう。
ある意味では姉と同じくらい特別な二人。
あゆみの言う『好き』に、もしかしたら当てはまるのかもしれないなと亜弥はぼんやりとした頭で考えていた。


電車が自宅の最寄り駅に滑り込むと、亜弥は携帯の電源を入れた。
メールが一通届いており、不在着信も二件あった。そのすべてが美貴からだった。
とりあえず電話をしようと考えているとタイミングよく美貴から着信があった。

「もしもしぃ」
『亜弥ちゃんもしかして電車だった?』
「うん。今日バイトがちょっと長引いちゃって」
『ふうん。大変だね。お疲れ』

美貴の言葉でどっと疲れを実感した。たしかに、大変だった。いろんな意味で疲れていた。

「んで、どうしたの?」
『美貴さー、急にどうしても焼肉が食べたくなったんだよね』
「また焼肉?!」
『よっちゃん捕まらないしさー、ごっちんも全然携帯繋がらなくて。ねぇ、亜弥ちゃん行こうよー』
「う、うーん」

ダイエット中の亜弥に対してそれは悪魔の囁きだった。
焼肉は食べたい。今日みたいな日はとくに、美味しいものを食べてパーッと騒いでイヤなことを忘れたい。
焼肉焼肉と子供みたいに騒ぐ美貴を大人しくさせるのも難しそうだ。
今日くらいは、と亜弥は焼肉の誘惑に負けた。

『じゃあ30分後にいつものところで』

嬉々として電話を切る美貴の顔がたやすく想像できた。
亜弥は来た道を引き返して、人で溢れかえった駅のホームから満員電車の中へと駆け込んだ。
ぎゅうぎゅうの車両にはうんざりしたが、焼肉のことを考えると自然に笑みが零れた。
そして美貴の明るい声にも。

つい先日、大学のキャンパスで美貴と話したときはまだ少しギクシャクしたものが残っていた。
美貴と元の関係に戻りたいと願っていた亜弥だったが
自分が何か言うことでまた美貴にイヤな思いをさせるのではと、どう接していいのか手をこまねいていた。
そんなところへ美貴からの食事の誘いだ。
電話での会話もいつもとなんら変わらない自然なものだった。

屈託ない美貴の声を聞いて、亜弥は姉と一緒にいるときのような安心感を抱いていた。



「ふぅ〜。食った食った」
「………」
「やっぱ何はなくても焼肉、だね」
「………」
「美貴から肉を取ったら何が残るの?って感じ」
「あ゛〜あ゛〜」
「もう諦めなよ。食べちゃったもんはしょうがないでしょ」
「だって、だって、ダイエット中だから少しにしておこうと思ったのに」
「亜弥ちゃんも、よく食べたよねぇ…」
「うぅ…たんにつられた」
「はぁ?!美貴のせいなわけ?」

焼け焦げた網。タレで汚れた皿。
おしぼりやティッシュが散乱しているテーブルに向かい合わせで座った亜弥と美貴は
そんな会話をしながら食後のデザートが来るのを待っていた。
甘いものは別腹、というのはどんな場合でも例外ではない。

「往生際が悪いな〜。デザートまで頼んだくせに」
「たんがアイス食べるのを黙って見てろって言うのー?!」
「べつに黙らなくてもいいけど見てればいいじゃん」
「ぜっっったいムリ!!」
「だろうね」
「もうっ!たんのバカ!」
「はいはい。バカでけっこう。口のとこ、ついてるよ」
「ん?」

きょとんとする亜弥の口許に美貴が手を伸ばした。
おしぼりの汚れていない部分でさっと拭いて、ニコっと笑う。
その自然な仕草が姉を思い起こさせて、亜弥は少しだけ胸が痛んだ。
美貴の、姉に対する気持ちがきっと変わっていないだろうことを予想して。

まだ、お姉ちゃんのこと好きなの?

言いかけた言葉はバニラアイスと一緒に口の中で溶けた。
目の前で抹茶のアイスを美味しそうに口に運ぶ美貴を見ながら亜弥もまた
一口、二口とアイスの味を確かめながらその一時の甘さに浸っていた。

「よっちゃんが捕まればここおごらせるんだけどなぁ」
「お姉ちゃんどうしてるんだろうね」

店に来る途中、亜弥自身も姉の携帯に何度か電話をしていた。
ひとみはひょっとしたら、イヤな考えだとは思ったが美貴からの電話やメールには
積極的に出るつもりがないのではと考えたからだ。
一瞬でもよぎったその考えに、亜弥はたまらなく嫌悪感を抱いたが
全面的に否定できるような確証も持ってはいなかった。

「亜弥ちゃんからの電話にも出ないってことは…」
「出ないってことは…?」
「お取り込み中なんでしょ」
「お取り込み?」
「エッチ」
「なっ…やだ、もうっ!みきたんのバカっ」
「ぷっ、あはっ、あははは。亜弥ちゃん真っ赤」

腹を抱えてゲラゲラと笑う美貴。
最初は怒っていた亜弥も真っ赤な顔のまま一緒に笑った。
これって笑えるジョークなの?と思いながらおずおずと。
美貴の様子を気にしながら。
もう笑えるような話になったの?そんな視線を美貴に送りながら。

「美貴は平気だから二人のことを聞かせて?」
「二人?」
「よっちゃんと新しい彼女のこと。どんな人なのか、どんな二人なのか」
「それ聞いてどうするの…?」
「どうもしないよ。ただどんなかなーって。好奇心?そんなところ」
「んー、二人のことって言われても…。えっとねぇ…」

複雑な英文法を思い出すときのように難しい顔で考え込む亜弥を見て
美貴は少しだけ申し訳ない気持ちになった。
亜弥にはきっといろんな気を遣わせている。心配をかけている。
無邪気な笑顔がこれ以上曇るのを見たくはないのに。

「あのね」
「うん」
「変な誤解をしないでほしいんだけど…」
「うん?」
「二人のこと、二人がどんな付き合いをしてるのかよく知らないんだよね」
「………」
「お姉ちゃんあんまり詳しい話、してくれないんだ」

気を遣って、のことではなさそうだった。亜弥は本当によく知らないのだろう。
ことの経緯を考えればひとみが亜弥に話さない(というか話せない)のも頷ける。
ましてやひとみと自分が歪な形で続いているなんてこと、想像すらしていないだろう。
美貴は勝手な言い分だとは自覚しつつも亜弥にはひとみとの関係を知られたくないと、そう思っていた。

「ホントにね、言いたくないわけじゃなくて、あの」
「わかってるって。じゃあさ、相手の女ってどんななの?亜弥ちゃんの知り合いなんでしょ?」
「どんなって言われても…」
「キレイなのは想像つくから中身ね、どんな人間なのか知りたい」
「たん、それってホントに好奇心、なの?」

ホントに知りたいの?

美貴にはそう聞こえた。知りたい。知りたくない。知りたい…。
何が、知りたいんだろう。自分は一体、何を。

「好奇心だよ。決まってるじゃん。でも」
「でも?」
「んー、でもやっぱいいや。なんか亜弥ちゃんに聞くなって感じだよね」
「それは、べつに…いいんだけど」
「よっちゃんに聞いてもちゃんとした答えが返ってくるとは思えなくて。亜弥ちゃんに甘えちゃった」
「みきたん、それを知りたがるのって自分と比べたいからなの?
 どこが…例えば、悪かったのか、とかを。たんが悪いっていうんじゃなくて例えばね、例えば。
 だからもしかして、自分とお姉ちゃんの恋人との差を見つけたいとか…そういうことなの?もしかしてまだ」
「亜弥ちゃん、やめてよ。美貴はそんな諦め悪くないよ」

美貴は亜弥の言葉を嘘で遮った。
自分ほど諦めの悪い人間がいるだろうか。
亜弥に見られないように下を向いて自嘲気味に笑った。
ひとみと別れてから、別れた後も寝るようになってから
寝れば寝るほどひとみが遠ざかっていくような気がしていた。
所詮自分の独り相撲なんだということに気づきつつも
肌を合わせていればなんとかなると半ば自棄になって誘い続けた。
ひとみが応えてくれなくなるまで、自分はもしかしたら諦めることなんてできないのかもしれない。

「お姉ちゃんの今の彼女はね、すごく自分に正直な人だと思う。みきたんと一緒で」
「そう」
「うん…。それにお姉ちゃんのことが大好きな人。それもみきたんと一緒だね」
「亜弥ちゃん、けっこう言うようになったよね〜。なにげにグサっとくるんだけど」
「あ、ごめん。なんか、もういいのかなって」

エヘヘなんて舌を出されて笑顔を向けられたら、美貴は怒るに怒れない。
そもそも怒る筋合いもないのだけれど、毒気を抜かれて、亜弥の柔らかい空気に包み込まれて
自分が悩んでいるのが途端にバカバカしくなる。
亜弥の持つそんな天性の素質には美貴だけじゃない、真希も、もちろんひとみもやられっぱなしだ。

「まあ…もういいといえば、いいんだけどね」

ひとみのことを好きな彼女は自分の存在を知っても尚、ひとみと付き合い続けるだろうか。
ふとそんな疑問が美貴の頭に浮かんだ。
もし立場が逆だったとしたら…いろんな事情をとりあえず放っておいても別れられないだろう。
ひとみからは離れられない。恋や愛なんて、そんなものが理由ではなく、きっと意地になって。
彼女がそうだとは限らないがどんな理由にせよやはりきっと、ひとみからは離れないし離れられないと思った。

すべては美貴の想像に過ぎないが彼女に自分と同じ匂いを感じ
会ったことも見たこともないのに奇妙な親近感がわいていた。
そして美貴の心に初めて罪悪感というものが芽生えていた。











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