5






ひとみのベッドの上で亜弥は横になっていた。
日付は2時間も前にとっくに変わっており、亜弥もまた2時間前からずっとそうしていた。

美貴のことを考えていた。
美貴と、そしてひとみのことを。

初めて美貴に会ったとき、視線の強さよりもはにかんだ笑顔が印象的だった。
きびきびとした動作やはっきりした口調の影に何かが揺らめいているような気がした。
自身をガードするように固い殻をかぶった何かが。

それが何なのか、そのときの亜弥には判らなかった。
ただどこかでそれと似たものに会ったことがある。
似た印象を抱いたことがあるとなんとなく思ったまま時を重ねてきた。

ひとみのことを許せないと言い、自分に対する態度を硬化させた美貴。
美貴のことを知ったつもりでいたけれど本当は何も判っていなかった。
一体、美貴はどういう人間なのだろう。


『美貴はああ見えてけっこう脆いのかもしれない』


いつだったかひとみがそう言ったことがある。


『ミキティは実は芯がしっかりしてると思う』


ひとみとまるで反対のことを言ったのは真希だ。
亜弥にはどちらが正しくてどちらが間違っているのか判らなかった。
ひとみの言うことはなんとなくだが表面的な部分でしかないような気がしたし
かといって今回のことを踏まえると真希の言葉にも素直には頷けない自分がいた。

『ああ見えて』というのはあくまでひとみの印象だ。
ひとみの言葉は美貴が強い人間だというのが前提だ。
そしていつかその強さが音を立てて崩れ落ちることを危惧している。
まるで今回のことを現していたかのように。

一方の真希は美貴の弱さをベースにして『実は』と言っている。
単純に強い弱いと言うものの、亜弥にはそれが何を表しているのか
具体的なことは思い浮かばなかったが、美貴の心の奥底に潜む何かを指すのだろうと理解していた。

昔、亜弥が見た揺らめく何か。
今回のことは殻を破った何かが引き起こしたのではないだろうか。
それならば美貴はこれから一体どうなってしまうのだろう。
亜弥には到底考えも及ばなかった。

ただ真希の言葉を信じたい。
真希はもう言ったことを覚えてないかもしれないけれど信じたい。
根拠も何もなさそうな真希の言葉を信じるしか、今の亜弥にできることはなかった。



亜弥の携帯がメールを知らせた。
頭の下で組んでいた両手を解き待ち受け画面を覗く。
予想していた人物とは違う名前を見て亜弥はあからさまにホッとした。


『20分でつく。あったかい格好して待ってろ』


文面を読んで亜弥は飛び起きた。一目散に自分の部屋に駆け込む。
考えられる限り『あったかい』服を着てまたひとみの部屋に戻った。
床に散乱したコートやバッグの山の中から目当てのマフラーを見つけしっかりと首に巻く。
お気に入りのアニメキャラクターの手袋を持ってリビングのソファーに座った。

待つこと10分。

再び鳴った携帯を見て玄関へと向かった。



夜中だというのにエンジンをかけっ放しのバイクがうるさい音を立てている。
亜弥が近づくとその鉄の馬に跨ったひとみは何も言わず亜弥専用のヘルメットを投げた。
慣れた動作でひとみの後ろに跨り亜弥はヘルメットをかぶった。
そして両手を固くひとみの腰にまわす。

ぽんぽんっと亜弥の手を2回ほど叩いてひとみはバイクをスタートさせた。
10月に入り夜はぐっと気温が下がっていた。吐く息も薄っすらと白い。
誰もいない夜の国道をややスピードを出して駆け抜けた。

通り抜ける風が確実に体温を奪っていく。
亜弥は寒さと心細さからひとみの腰にまわしている手に力を込めた。
密着させた部分を通してひとみの体温が伝わってくる。
だがそれもすぐに風に奪われる。次から次へと。
まるで自分ごと風に攫われるような気がして堪らなく不安になった。
そしてその度に亜弥は力を込める。涙が出そうになりながらも力を込める。

容赦なく吹きつける風が自分ではなくひとみを攫っていきそうで怖かった。

「お姉ちゃん…」

どこにも行かないで。
置いて行かないで。

よりいっそう力を込めて、亜弥はひとみにしがみついていた。


時々、ひとみは今夜のように突然亜弥を連れ出すことがある。
それは夏だったり冬だったり、朝だったり夜だったりで
予定も聞かず理由も言わずひとみは亜弥をバイクに乗せる。

よほどのことがない限り、亜弥はひとみに付き合ってバイクの後ろに跨る。
行き先は荒れ狂う海だったり満天の星が見える小高い丘だったりで
大抵どこか開放された、あまり人のいない場所だ。

何も言わないひとみに気を遣って亜弥は何も尋ねない。
どうしたのかとか何があったのかとかどういう気分なのかとか。
ひとみのほうも何も聞かない亜弥を不審がるでもなく他愛のない世間話をしたりする。

姉妹とはいえ何を考えているかなんて口にしなければ判らない。
ただこうしてどこか知らない運動場の芝生の上に座っているだけで
ひとみと心が通い合っているような気がして、亜弥は昔からこの時間をとても大切にしていた。

「そっち、ちょっと湿ってるだろ」
「そうでもないよ」
「そっか」

月明かりだけが頼りのこの場所で亜弥とひとみは膝を抱えて座り込んでいた。
目の前に広がる芝はこの季節でもまだ青々としている。
いつのまに買ったのか、ひとみに手渡されたコーヒーの缶はまだ十分に熱を持っていた。

「飲まないの?」
「開けたらあったかくなくなっちゃうから」
「したらあたしが暖めてやるよ」
「お姉ちゃん、エロ〜イ」
「バカなこと言ってないでほら、こっち来い」

自分よりも一回り大きいひとみの体に亜弥はすっぽりと収まった。
後ろから抱え込まれて妙に気恥ずかしい。

「痩せた?」
「ううん。むしろ太った」
「お菓子ばっか食ってっからな、オマエは」
「最近のお姉ちゃんはちょっと痩せすぎ」
「なにかと苦労が絶えないのよ、おねーちゃんは」

亜弥の頭頂部に顎を乗せてひとみは淡々と喋っていた。
ひとみが声を発する度に亜弥の頭に直接振動が伝わる。
口調は悪いが昔から変わらないその柔らかい声が亜弥の耳に心地よく響いていた。

「ババくさぁ」
「お、おまえっ、ひとつしか違わないお姉さまに向かってなんてこと言うんだっ」
「いつまでも若くないんだから」
「ほぅ〜亜弥ちゃんはいつからそんな生意気な口を利くようになったんだぁ?」

言いながらひとみは顎をぐりぐりと動かした。

「イタイイタイ」
「うりゃうりゃ」
「やーん、もうっお姉ちゃんのバカ!タレ目!」
「うおっ」

勢いよく立ち上がった亜弥の頭が見事にひとみの顎にヒットした。
あまりの衝撃にひとみは目が眩み芝の上に倒れこんだ。

「やだっお姉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫…じゃ、ない…」
「えー!お姉ちゃんしっかりして!やだやだ、死んじゃやだー」
「勝手に…殺すな…」
「エーンエーン。ヒーチャンが死んじゃう〜」
「だから…死んでないっつの」

芝の上で大の字になったままのひとみの傍らで亜弥はグズグズと鼻をすする。
その様子を下から眺めながらひとみは自分の顎をさすった。

「あーびっくりした」
「お姉ちゃん、大丈夫…なの?」
「ん、なんとか」

ふぅと胸を撫で下ろした亜弥はそのままひとみの横に寝転がった。
芝が少し湿っていたけれど気にはならなかった。

「ごめんね、お姉ちゃん」
「バーカ」

まだ少し涙声の亜弥に腕枕をしてひとみはポケットからティッシュを出した。

「ほれ」
「ん」

派手な音をさせて鼻を噛む亜弥を見てひとみは美貴のことを思い出した。
美貴のことを思い出すと連鎖的に梨華の顔が浮かぶ。
ひとみは二人の顔を追い出すように頭を振った。

「へへ、こうやるの久しぶりだね」
「あたしの腕枕は高いぞ」
「私の鼻水のが高いもん」
「げっ!コラバカ、鼻をこすりつけんな」

亜弥はなんとなくひとみに連れ出された理由が判ったような気がした。
今まではひとみに付き合ってこうしているという意識だった。
嫌なことがあったのか落ち込んだのか、何かしら心境に変化のあった姉をある種癒すような役割。
亜弥は自分をそういう存在なのだと位置付けていた。

でも実は付き合ってもらっていたのは自分のほうだったのだろう。
本当に癒されていたのは自分だったのだ。
何かから逃げたいと思ったとき、ひとみはいつもバイクの後ろに乗せてくれる。
ひとみがどうしてそれに気づくのかは判らないがタイミングはいつも絶妙だ。

妹の気持ちにいつも敏感にアンテナを張り巡らしていてくれる姉に亜弥は素直に感謝した。

ひとみと一緒にいるだけで亜弥は安らいだ気持ちになる。
姉にどれだけ大切に思われているかがわかるから。
昔から変わらない匂いと感触。
心細い夜はいつもこうして腕枕をして抱きしめてくれていた。
そしてそれは今も変わらない。

「お姉ちゃん」

ありがとう。

「ん?」
「なんでもない」
「なんでもないのかよっ」
「うん」
「そっか。まあなんかあったら呼べよ?」
「うん」
「いつでもいいからな」
「うん」

ひとみを心配させたくない。そんな想いが亜弥を支配していた。
自室に置いてきた携帯のことを考える。
きっと今夜も数え切れないほどのメールが入っているのだろう。
開く気にもなれない、同じ人物からのいくつものメール。

溜息をつきそうになり亜弥は慌てて飲み込んだ。
自分を抱くひとみの横顔を見て、瞬間何かがダブった。
それはいつか見た、美貴の中の揺らめく何かに似ていた。

ひとみもまた、固い殻で自らをガードしているのだろうか。
自分の前でもそれを崩さず本当の気持ちを隠しているのだろうか。

亜弥は胸に湧いた小さな疑念を口にすることができなかった。
この静寂に包まれた夜がそれを阻むように亜弥の口を閉ざす。

夜露に濡れた芝で亜弥の服は徐々に湿り気を帯びてきた。
それでもひとみと密着している部分だけはいつまでも温かかった。



 * * *



誰もいない屋上でひとみは身震いしていた。
ここのところ天気の悪い日が続いている。
空を見上げると灰色の雲が太陽の光を阻んでいた。
天気予報は見てないが雨が来るのも時間の問題だと、傘を持たずに出てきたことを悔やんだ。

「待ったぁ?」

空とは対照的な明るい声にひとみは振り返った。
もう何度目だろう。ここでこうして彼女を待つのは。
その度にひとみはいつも錯覚する。
普通に付き合っていたあの頃と今現在がダブる。

両手を広げて彼女が飛び込んでくるのを待ってしまう。
もはや条件反射だ。ひとみは何も考えてはいない。
記憶の中にあるあの頃の自分の行動をただ反芻して実践している。それだけだった。

「さすがにもうそろそろキツイねぇ」

何を指してそう言うのかひとみには判らなかった。
この状況は今に始まったことではない。
それにキツイと言うならばそれはこっちの台詞だと言ってやりたかった。

「寒くて堪らない」
「ああ」

そのことか、とひとみは納得してまた空を見た。
昼間だというのにもうすでに夜がすぐそこまで迫っているような暗さだった。
時折吹く冷たい風が頬に突き刺さる。

「場所、考えなきゃね」

ひとみの腕の中で美貴はくぐもった声を出した。

「ん?今なんつったの?」
「場所、考えなきゃって言ったの」

顔を上げた美貴は笑っていた。
その笑顔をひとみは可愛いと思った。
あの頃の自分がそう思わせているのか今の自分の本心なのかは判らず。

「寒いから?」
「そ、寒いから」

なんとはなしに話してはいたがこの奇妙な関係がいつまで続くのか、美貴が何をしたいのか
また自分はどうしたいのかなどひとみには全く見えていなかった。
先のことはもちろん現在のことも判らずにだらだらと美貴との関係が続いている。

「なに笑ってんの〜?」
「いや、なんだろ。あはは。無性に笑いが込み上げてきて」

訝しげな美貴を尻目にひとみは笑いが止まらなかった。
美貴を腕に抱いたまま堪えきれない笑いが次から次へと零れ落ちる。
何がおかしくてこんなに笑っているのか。

自分はなんで今ここにいるのか。
こんなことをしているのか。
美貴を抱きしめているのか。

ひとみには何も判らなかった。判ろうという気すら起きなかった。

「よっちゃん…?」
「ん…あははっ…なんでもない…」

美貴を力いっぱい抱きしめてひとみは声を殺した。
込み上げてくるものを抑えるために。

「たしかに寒いね」
「………」
「寒くてたまんねー」

美貴を抱きしめたままひとみはフェンスの緑色をじっと見ていた。
首にまわった手に力が入り、美貴がそっと顔を寄せる。
唇が触れ合い、ひとみは半ば美貴を抱えるようにフェンスに押しつけた。

ガシャン

フェンスの軋む音がひとみの耳の中に響いた。

「んっ、あぁんっ」

喉の渇きを潤すようにひとみは美貴の口腔内を貪り、唾液を啜った。
唇に咬みつかれ微かに鉄の味がした。
ひとみは素早く黒いセーターを強引に捲くりあげて下着をずらした。
美貴の小ぶりの胸を両手で掴んで首筋に舌を這わす。

「やぁんっ…はんっ…あぁぁん」

ガシャンガシャン

ひとみの指と舌に反応した美貴が体を反らすたびにフェンスが軋む。
目の前で揺れる緑と美貴の乱れた顔がひとみの視界をいっぱいにした。
左手で腰を支えて唇を舐めあげる。
右手でスカートの中に侵入し同時に蠢く舌を捕まえる。

「んっんっ…はぁぁ…はぁ」

息もつかせぬままひとみは美貴を攻める。
強引に、乱暴に、欲望のままに。
指を突き立てるたびに美貴が奇声をあげる。
辛そうな表情をしながらも自ら腰を動かし「もっと欲しい」と叫ぶ美貴。

ガシャンガシャンガシャンガシャン

中を掻きまわすたびに肩に食い込む爪。
不思議と痛みは感じず、ひとみはただ揺れる緑を見つめていた。



いつのまにか雨が降っていた。
ひとみは足元でグッタリしている美貴を億劫そうに抱え上げ屋上の入口に向かった。
重い鉄の扉を開けて階段の踊り場、畳にして一畳分ほどのスペースに座り込む。
もうすでにグッショリと濡れた髪をかき上げて、震える美貴をすっぽりと包み込んだ。

「寒い?」

何も言わず美貴は頷いた。
先ほどまでの熱を帯びた体はそこにはなかった。
水分をたっぷり含んだ美貴のセーターやスカートから水滴が滴る。

ひとみはシャツを脱ぎ階段の下に向けてぎゅっと絞った。
しんと静まり返った階段に水が零れる音がした。
そしてシャツをバサバサと振り回し手すりに引っ掛けた。

ひとみは苦心して美貴のセーターとスカートを脱がせた。
絞り、手すりや乾いた場所に放り投げた。
下着姿になった美貴をひとみは優しく包み込む。

「寒い?」
「わかんない」

ようやく美貴が声を発してひとみは安堵した。
雨が降り出してもなおひとみは美貴を攻め続け、何度目かの絶頂の後に美貴はふいに意識を失った。
力の抜けた美貴をそれでもひとみは攻め続け、ふと気づいたときには緑の中に赤があった。

フェンスに擦れた美貴の首筋から流れる血を見てひとみは我に返った。
我に返ったときにはすでに雨はどしゃぶりだった。
美貴の血を洗い流してくれる雨に、ひとみはしばし打たれていた。

「びしょ濡れじゃん」
「ああ」
「よっちゃんオールバックだし」
「ああ」

冷えた体にお互いの体温がしみわたる。
美貴は腹のあたりで組まれたひとみの両手に自身の手を重ねた。

「下半身がなんか変な感じ」
「…ごめん」
「自分の体じゃないみたい」
「…ごめんな」
「しばらくこうしていて?」

美貴の問いに答える代わりにひとみは重ねられた手に指を絡めた。
濡れた髪にキスを落として心から謝った。

「ホント、ごめんな」
「謝ってばっか」
「だって、痛かっただろ?ごめん」
「ん〜イタ気持ちいいっていうの?そんな感じ」

美貴の肩が軽く揺れた。表情は見えなくとも笑っているのがわかる。

「でもごめん」
「だからそんなに謝らないでよ。どっちかっていうと…少し嬉しかったんだから」
「どうして?」
「そんなこと……言わせないで」

その囁くような小さな声は扉に叩きつける激しい雨音の中に消えていった。


ごめん


美貴に聞こえないよう、ひとみは口の中でもう一度だけ呟いていた。



 * * *



キャンパス内を颯爽と歩く可愛いらしい人物に美貴は目を留めた。
向こうはこちらに気づいていない。ジュースを飲みながらしばらく観察した。

大勢の人間に紛れていても隠しきれないオーラのようなものが存在を強く主張している。
姉とはまた違った意味でひと際輝くその容姿は、良くも悪くも目立っていた。

知り合いと会うたびにいろいろな表情をころころと覗かせている。
目を丸くしたり頬を膨らませたり。
屈託のない笑顔を見ているうちに美貴は自分の頬が緩んでいることに気づいた。
はっとして口許を引き締める。
まだ半分以上残っているジュースをゴミ箱に放り投げた。

亜弥に視線を戻すと先ほどまでいた場所に姿が見えない。
あたりを見まわすと男たちの影に隠れちらちらと見慣れたバッグが目に入った。
しばらく様子を窺っていると亜弥の困った表情が目に飛び込んできた。

軽く舌打ちをして、美貴は壁にもたれていた身を起こした。
亜弥がいる場所に向かって歩を進める。
男たちに囲まれて元々小柄な亜弥がさらに小さくなっている。
身長は美貴とたいして変わらないが、イメージ的に亜弥が小さく見えるのは
いつも隣に背の高い人物がいるからだろうか。常に亜弥を守るようにして立つ彼女が。

その場にいるはずのないひとみの残像を美貴は振り払った。
振り払っても振り払っても亜弥を見るひとみの優しい視線は消えなかった。
そんなひとみをずっと見てきた自分の存在も、またそこにあった。

「ちょっと」

美貴が強く睨むと男たちはそそくさと逃げるようにその場を後にした。
言葉少なにただ睨むだけで大抵の場合敵意が伝わる。それで十分だった。

「たん…」

か細い声が聞こえた。
美貴の戦意を喪失させるには十分すぎるほどの声。

「亜弥ちゃんさぁ、いつまでも守ってくれる人はいないんだよ?」
「たん…」
「よっちゃんだっていつも傍にいるとは限らないんだし」
「………」
「ごっちんだって、来年は留学するって言ってたし」
「………」
「いいかげんしっかりしなよ、まったく」
「…たんは?」

俯いていた亜弥がふいに顔を上げた。
また泣いているのではと考えていた美貴の予想は裏切られた。
しっかりと美貴を見据える強い視線。姉ゆずりの大きな瞳に美貴は釘付けになった。
この姉妹に惹かれたのはこの綺麗な瞳のせいだったことを思い出す。

姉を慕う亜弥とさりげなく妹を守るひとみ。この関係が理想的で羨ましくてならなかった。
親友として今まで亜弥を守ってきたつもりだった。けれどもしかしたら、と美貴は思う。
本当に守りたかったのはこの姉妹の関係だったのかもしれない、と。

「…てくれないの?」
「え?」

目の前にいる亜弥の後ろにひとみがいるような気がした。

「みきたんは、もう一緒にいてくれないの?」

美貴は大きく息を吐いた。

「いるよ。だって親友じゃん。今のとこ留学する予定もないしね」

亜弥の顔がみるみるうちに明るくなった。
嬉しそうに目を細め、両手を胸の前で組んでいる。

やっぱりこの笑顔には敵わない。
美貴は素直にそう思った。



嫉妬していた。

ひとみに別れを切り出されたとき、真っ先に美貴の頭に浮かんだのは亜弥の笑顔だった。
あの屈託のない、無邪気な、その場をいっぺんに明るくしてしまう魔法のような笑顔。
その笑顔が向けられる先はひとみ。ひとみもまた亜弥に微笑みかけていた。

悔しかった。

自分とひとみが恋人という関係を解消しても亜弥はずっとひとみの傍にいられる。
妹という特権的な立場が無くなることはない。
優しく守られて、ひとみに傷つけられることは決してない。

自分はもう、ひとみに笑顔を向けられることはないというのに。

そんな亜弥が、美貴は羨ましかった。そして同時に憎かった。
誰だかわからぬひとみの新しい相手よりも。


「お姉ちゃんのこと、まだ許せない?」

自動販売機でコーヒーを買い、手近なベンチに腰を掛けた。
恐る恐る切り出した亜弥の言葉に美貴は飲みかけたコーヒーを噴出しそうになる。

「なにその苦笑い」
「えっと…」

本当に許せなかったのは亜弥だということを美貴は今さら言うつもりはない。
もちろんひとみに対しても負の感情が芽生えたことは事実だ。
ただの浮気だったなら怒りはしても憎みはしなかった。
浮気が本気になったと知って美貴はどん底に叩き落された。

「許せないっていうか…」

それでも時間が経ち徐々に冷静さを取り戻すにつれ、だいぶ落ち着いた。
ひとみは強引に要求すれば抱いてくれたし優しくもなった。
皮肉なことに恋人だったときよりもずっと自分のことを見てくれる。
たとえ偽りの愛情だったとしてもそれはそれで満足だった。今はまだ。

「まあ、そんなこともうどうでもいいじゃん」
「ど、どうでもいいって…」

許すとか許さないとかそういう段階はとっくに超えた。
誰だかわからないひとみの新しい相手に興味はない。
ひとみが自分を抱いている時点でその女の負けだと美貴は思う。
だから相手が誰だろうと関係ない。こちらに分があると信じている。
惰性のセックスだとしても、最終的に流れつく先がひとみと一緒ならば構わなかった。

「なんでこんなに好きなのかなぁ」

塗料が剥げて鉄の肌があちこちに見えているベンチに腰掛けたまま、美貴はぶらぶらと足を揺らした。
それを真似て亜弥も組んでいた足を投げ出した。

「なんでそんなにお姉ちゃんがいいの?」
「…お姉ちゃん大好きっ子の亜弥ちゃんの台詞とは思えないんだけど」
「だって」

心底不思議だという面持ちで亜弥は美貴の顔を覗き込んだ。

「だって?」

その亜弥の仕草が可愛らしかったので美貴も真似て亜弥の顔を覗き込む。
馬鹿にされたと思った亜弥は頬を膨らませた。
可愛いから真似したのになぁと思いつつ美貴は肩を竦めた。

「だってお姉ちゃんはお姉ちゃんとしては最高だけど恋人としては最低でしょ?」
「それ、よっちゃんが聞いたら泣くよ」
「お姉ちゃんが泣いたとこなんて子供のときに木から落ちて以来見たことない」
「へ〜」

ひとみらしい、と美貴は思った。
心配させまいという気遣いと姉のプライドから亜弥には涙を見せたくないのだろう。
そういえば自分もひとみが泣いたところは見たことがない。
やはり基本的にプライドが高いのかもしれない、と自分のことを棚に上げて美貴は思っていた。

「元はといえば亜弥ちゃんでしょ、美貴とよっちゃんの仲を取り持ったのは」
「あの頃は単純に、自分の好きな人同士がくっつけばいいって思ってたんだもん」

口を尖らす亜弥の表情はどこか寂しげだ。
まだ世間のことをよく判っていない、何も考えないで済んだあの頃を懐古しているのだろう。

「誰かが傷つくなんて、思ってもみなかったんだもん」

素直な物言いに毒気を抜かれた美貴はふっと笑った。
そして前々から疑問だったことを思い出した。

「ねぇ、ごっちんっていう選択肢はなかったの?美貴よりもごっちんのが
 よっちゃんに似合うって思ったことなかった?あの二人ってなにかと気が合うし」
「それはない」
「どうして?」
「お姉ちゃんはみきたんのことずっと好きだったんだよ。みきたんが思ってるよりちゃんと。
 もしかしたらお姉ちゃん自身も気づいてないかもしれないけど、私にはわかるの。だって妹だもん」
「はあ。そうですか」
「そうですよ」
「亜弥ちゃんに言われてもねぇ、しかも過去形だし」

肩を落とす美貴に亜弥はさらに追い討ちをかける。

「それにごっちんはお姉ちゃんをそういう目で見てなかったしね。みきたんと違って」
「そういう目って?」
「ん〜獲物を狩るような?」
「そりゃごっちんは魚だもん。そんな目しないよ」
「そっか。みきたんはハンターだもんね」
「いや、それも違うし」

亜弥と話しながら美貴は脱力した。
隣でぷらぷらと揺れている亜弥の足を横目で見ながら溜息をつく。

「あれ?みきたん、それどうしたの…?」
「それって?」

美貴の首の後ろを覗き込むように亜弥は身を乗り出した。
心配そうに眉をひそめておそるおそるといった感じで指をさす。
美貴は少し考えてから亜弥の視線の先に思い至った。

「ちょっとしたかすり傷。たいしたことないよ」
「でもなんでこんな場所…」
「ちょっとね…」

美貴の言いたくなさそうな気配を察して亜弥はそれ以上追求するのをやめた。

「で、なんの話だったっけ」
「みきたんがお姉ちゃんにベタ惚れって話」

そんな話だっただろうか。
美貴は首を傾げながらも亜弥に続きを促した。

「まだ好きなの?」
「好き」

そっかと呟いて亜弥はまた寂しそうな顔をした。

「ごめんね」
「やめてよ」

謝られると惨めな気分になる。同情なんてされたくない。
ましてやひとみの傍にいつもいられる亜弥にだけはされたくないと美貴は思った。

「そうじゃなくて、私の責任なの。私が…」
「亜弥ちゃん?」

数秒の沈黙の後、亜弥は意を決したように口を開いた。

「お姉ちゃんに…今の新しい彼女を引き合わせたのは、私なの」
「…どういうこと?」
「その女の人がお姉ちゃんに…好意を持ってるって知ってたの。知ってて私なにもしなかった。
 お姉ちゃんに釘を刺すようなこともしなかった。ただ見ていただけで。
 どこかで高を括ってたのかもしれない。ううん、お姉ちゃんがみきたんを裏切るわけないって…
 そう信じたかったんだと思う………」
「勝手だね」

亜弥の告白に美貴は憤りを隠さなかった。

「勝手だよ」
「たん…」
「そんなの、勝手すぎる」

美貴には亜弥のせいでひとみに振られたとは思えなかった。
どんな状況だったにしろひとみの心を繋ぎとめておけなかったのは自分の責任だ。
亜弥が手をこまねいていたって、相手の女がどんなに誘惑したって
結果的にひとみがそちらに行ってしまったのは自分の責任に他ならない。
その時点で自分の負けだったのだ。亜弥のせいではない。

「なに勝手に責任感じてるわけ?冗談じゃないよ。そんなの美貴が余計に惨めだよ」
「そ、そんなつもりじゃ…」
「もうこれ以上、惨めなのはごめんだよ…」

ひとつ咳払いをして美貴は空を仰いだ。
気を抜くと零れ落ちてきそうな涙の粒を目尻に溜めたまま、空を見ていた。

そんな美貴にかける言葉が見つからず、亜弥は黙って足をぷらぷらさせるだけだった。











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