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定刻に少し遅れて大講義室に入った真希は中段の右隅、いつもの定位置で突っ伏している
ヒヨコのような金髪頭を見つけてちょっとした悪戯心が芽生えた。
幸いなことに講師はまだ来ていない。階段を降りながら湧き出る笑みを必死で堪えた。

ピクリとも動かない背中に近づきそっと屈みこんだ真希はひとみの耳元に唇を寄せた。

「許さない」
「うわぁっっっ!!」

素っ頓狂な奇声をあげて仰け反ったひとみはそのまま椅子から転げ落ちた。
大きな物音に学生たちが何事かと一斉に振り向く。
まさかこれほど派手にひとみが驚くとは予想もしていなかった真希は急に気恥ずかしくなり
さっと立ち上がって他人の振りを決め込みひとみの横を何食わぬ顔で素通りした。

「オイコラてめーちょっと待ちやがれ」

怒ったような低い声が背中に降りかかったが、真希は聞こえない振りをして階段を少し降りると
素知らぬ顔でちょうど空いていた席についた。

「真っ希ちゃ〜ん!そこの他人の振りしてるやつ!コラバカこっち向けアホエロ魚ハゲ…」
「あー、もう!うっさい。わかったから大きい声で呼ばないでよ」
「タチの悪い悪戯をするほうが悪い」

床に転げ落ちたままのひとみに手を貸した真希はちらりと周囲の反応を窺った。
もうすでに興味を失ったのかこちらを見ている学生はいないようだった。

「あ、ていうか今よしこ魚とかエロとかって…」
「ほらほら詰めて。あたしが座れないじゃん」
「あぁ、はいはい」

先ほどひとみが転げ落ちた席の横にちょこんと座った真希は魚の件をつっこもうとしたが
それより重要なつっこみ所が山ほどあることを思い出して真剣な顔でひとみを見た。

真希が言うよりも早くひとみはうんざりしたような顔で真希を見つめた。
そしてその顔にははっきりと、「何も聞いてくれるな」と書いてあった。

「そんな顔したって『許さない』から。あ、また言っちゃった」

ぺロっと舌を出した真希にひとみはムッとした表情を隠さず言い返す。

「絶対わざとだろ、今の」
「もちろん」

髪をかきあげながらひとみはどうしたものかと考えた。
真希のこの様子ではもうほとんどのことを知っているのだろう。
隠したって仕方ないし特別隠すような間柄ではない。
全てを話してしまっても構わないがそれはひどく面倒だった。

「で、何が聞きたいの?」
「えーとねぇ、大体は聞いたんだよ」
「じゃあ面倒だからさ、ごっちんが聞きたいことにあたしが答える、でいい?」
「いいよ。それにしても先生遅いね」
「なんか事故で渋滞してるらしいよ。3時までに来なかったら休講だって」
「マジで?!」
「うん。さっき研究室の人が説明してた」
「あと20分か」

携帯で時間を確認する真希の横でひとみは首をさすった。
学生たちはふいに訪れた空き時間を思い思いに過ごしている。

「石川さんってどんな人?」
「げ」
「なによ」
「そこなんだ、聞きたいとこは。つーか亜弥のやつ…」
「よしこがミキティから乗り換えるなんてどういう人なのかなーって」
「嫌な言い方だねぇ」

真希はおそらくそんなつもりはないのだろうが、実際に身も心も『乗り換えた』ひとみにとって
今の言葉は多少なりとも耳が痛かった。自業自得であるのはもちろん自覚している。

「まっつーは悪くないでしょー」と言いながら頭を叩こうとする真希の手を一瞬遮ろうとしたが
ひとみは素直に叩かれることにした。たしかに亜弥は悪くない。
真希のチョップを受けてもひとみはなんでもないことのように首を掻いた。

「美人だよ。スタイルもいいし」

感度もいい、と言いそうになってひとみは慌てて口をつぐんだ。
聞いておきながら真希はさほど興味がないという素振りで爪をいじる。
ひとみの答えを聞き流しながら本当に聞きたいことを口に出すタイミングを真希は計っていた。

「ミキティさぁ、なんかヤバくない?」

美貴の名前が出た途端ひとみは首を竦めた。その隣で真希は怪訝な顔をする。

『ヤバイ』という言葉が何を指しているのかひとみには判らなかったが
屋上での美貴の言動を思い出してたしかに『ヤバイ』という言葉がぴったりだと思っていた。

「機嫌が悪いとかそういうレベルじゃないよ、あれは」

首を竦めたまま何も答えないひとみを無視して真希は喋り続ける。

「ミキティってもっとあっさりした人だと思ってた」
「あたしも」
「長く付き合っててもわからないことってあるんだねぇ」
「まったくだ」

二人はそれぞれ先ほどの美貴とのやり取りを思い出しながら深い溜息をついた。

「そんなにあたしのこと好きだったのかなぁ」

欠伸をして指先でボールペンを器用に回しながらひとみは呟いた。

「バッカじゃないの、よしこ」
「んだとぉ」
「ミキティは意地になってるだけだよ。あんなの恋じゃない」

真希は少し強めの口調で吐き捨てるように言った。
ひとみは再び欠伸をしながら真希にしてはきつい物言いだと口には出さずに思っていた。

「美貴、なんて言ってた?」

真希は少々のことでは怒らない。
ムッとすることがあってもすぐに忘れてしまうタイプだ。
感情をあまり表に出すことがないとも言える。
そういう真希の気質はまわりの友人たちはもちろん真希自身も承知している。
その真希がここまで感情を露わにしていることにひとみは驚いていた。
と同時に、真希にそこまで思わせた美貴が一体何をしたのか気になっていた。

「べつによしこのことだけだったら、ただの愚痴として聞けたんだけど…」
「どういうこと?」

真希は少し躊躇ったものの中庭での一部始終をひとみに教えた。
美貴が梨華の名前を執拗に知りたがっていたこと。
亜弥に対して八つ当たりともとれる暴言を吐いたこと。
ひとみは口を挟まず、神妙な顔つきで真希の話を聞いていた。

「だからその石川さん…だっけ?気をつけてあげたほうがいいんじゃない?」
「………」
「ミキティがなんかするってことはないと思うけど…一応、ね」

梨華の身を案じるように言われひとみはそうしなければと思ってはいたが
このとき実際に心の中を大きく占めていたのは傷ついて涙を流す亜弥のことだった。
美貴を責める気持ちにはなれなかった。
むしろそこまで美貴を駆り立ててしまった自分に激しい嫌悪を抱く。
結果として妹を傷つけたのは自分だ。美貴をイヤな奴にしてしまったのも。
亜弥と美貴のことを想いひとみは唇を噛んだ。

「はい、そこまで」

突然真希は手を叩いてひとみの思考をストップさせた。
きょとんとするひとみの頬を両側から引っ張りながらニヤニヤと笑う。

「あにすんだよ〜」
「そりゃあよしこのやったことは最低だよ?ミキティはすごく傷ついた」
「うん…」
「でも仕方ないことだとも思う。恋愛って押しつけじゃないし」
「………」
「でも、だからってミキティがまっつーを傷つけていいことにはならない」
「………」
「八つ当たりにもほどがあるよ」
「ごっひん…」

そうでしょ?と同意を求めるように真希は首を傾げた。
両頬を引っ張ったままひとみの顔を下から覗き込む。

「わかったから手ぇはにゃせ」
「あ、忘れてた」

真っ赤になった頬をさすりながらひとみは真希に感謝した。
亜弥の傍にいてくれたこと、美貴や梨華の心配をしてくれたこと。
そしてこんな自分を励ましてくれたこと。

「ねぇ、ごっちん」
「うん?」
「美貴はあたしが憎くて堪らないらしい」
「そりゃそうだろうねぇ」
「あたしどうしたらいいのかな…」
「そんなこと自分で考えなよー」
「えーそんなこと言うなよー。いいじゃん、教えてよ。頼む」
「や、そういう経験ないからあたしだってわかんないし」
「ひっでー。修羅場になったらどうしてくれんだよー」

零れそうな涙を隠すようにひとみはわざと明るい口調で真希にからんだ。
真希もそれに気づかない振りをしながらひとみとじゃれ合う。

二人が話しこんでいるうちに時計の針は3時を過ぎていた。
学生で溢れ返っていた大講義室はいつのまにかひとみと真希の二人だけになっていた。
なんとなく立ち上がるのが億劫になっていた二人はそのまま話を続けた。

「そういえばまっつーさ、また言い寄られてるみたいよ」
「なにっ!マジかよっ」
「マジマジ。電話しながら困ってた」
「どこのどいつだよ、亜弥に近づくのはっ」
「…まっつーのこと言えないくらいよしこもシスコンだよね〜」
「はぁ?!どこが!」

広い室内にひとみの声が大きく響いた。
心底意外そうなひとみの様子に真希は呆れる。

「なんだかんだ言ってもまっつーに激甘じゃん。妹離れしなよ〜」
「バッカ、そんなんじゃねーよ。心配なだけだっつの。あんな可愛いから」

だからそれが姉バカなんだよ、と真希は心の中で叫ぶ。
亜弥に好きな人でもできたら大変な騒ぎになるなと身震いした。

「まっつーだっていつかは恋人できるんだからさ」
「ずぇったいに認めない。そんなやつぶん殴ってやる!」

誰だかわからない亜弥の未来の恋人に同情する真希だった。

「で、誰なんだよ。亜弥に言い寄ってるのは」
「さあ?まっつーの先輩だって」
「誰だよそれ」
「だから知らないよー。あ、石川さんの友達とか言ってたような」
「梨華の?マジかよ…」

ひとみがこれほど亜弥を心配していることを、当の亜弥は全く知らないのだから
面白いというか馬鹿馬鹿しいというか、呆れたものだと真希は思う。
ひとみはなかなか亜弥の前では素直な感情を出さない。
姉らしく大人ぶって本当はそうしてほしくないくせに姉離れしろと言う。
わざと邪険に扱って亜弥の怒りを誘い、怒った顔を見ては可愛いなぁと思っている。
素直にひとみを慕う亜弥にとってはこれほど迷惑な話はない。

亜弥がいるときといないときのひとみのギャップについて美貴とよく笑いながら話した。
そのときの美貴の顔はどんなだったろう。
嫉妬しているようには見えなかったが、特別注視していたわけでもないので
今の真希には判断がつかなかった。

「ミキティは」
「ごっちん」

真希の言葉を遮りひとみは急に真剣な声で真希の名を呼んだ。
おもむろにシャツの首元をぐいっと引っ張り白い首を真希に晒す。

「はぁ〜お盛んですねぇ」

ひとみの首についた無数のキスマークや噛み痕。
見ようによってはひどく痛々しい傷のようだと真希は思った。

「バッカ。そんなじゃないよ」
「えっ?」
「美貴が」

それきりひとみは何も言わなかった。
爪を噛みどこか一点を見つめている。
どう話すべきか考えているように見えて真希は辛抱強く待った。

「殺すって言うんだよ」
「……」
「抱いてくれなきゃここから突き落とすって」

真希が予想していたよりもずっと早くひとみは先ほどの続きを話し出した。
どこか一点を見つめたまま、まるで他人事のような口調で。

「ここって?」
「屋上」
「抱いたの?」

真希の問いにひとみは首についた印を指差した。
見ればわかるだろうと言わんばかりに。

「あたしどうしたらよかったのかな」

真希は何も言えなかった。それでよかったとも悪かったとも。
抱いてくれなければ殺すと言われたら真希もきっと抱くだろう。
相手の要求を呑まざるを得ない。
だからといってそれが正解かというとそうではないような気もしていた。
素直に従うことが正しいかというとそれは誰のためにもならないと真希は思う。

ひとみもまた真希と同様のことを考えていた。
美貴が本気かそうでないかはこの際どうでもよかった。
ただあの場面で美貴を抱かないのはひどく失礼な気がした。
プライドの高い美貴が脅迫するように自分を求めてきたこと。
殺す、殺さないよりもそちらのほうがひとみにとっては遥かに衝撃だった。

だから結局は抱くしかない。
でもそれは美貴のためにはならない。

「ミキティは…なんて言ってた?」
「なにも」

屋上でひとみに抱かれながら美貴はただ泣いていた。
ひとみの腕の中で絶頂を迎えてもなお涙を流し続けた。


『許さないから』


屋上にひとみを置いたまま、美貴はまた捨て台詞を残して去った。
ひとみは緑色のフェンスにもたれてしばらく空を眺めていた。

「石川さんのことホントに好きなの?」

真希の不意の質問にひとみは回想を中断した。

「え?好きだよ?なんだよ急に」
「べつに。なんとなく聞いてみただけ」
「ふうん」

冷静に答えてはいたがひとみは内心では真希の勘の良さに驚いていた。
もちろん梨華のことは好きだ。これは間違いない。
ただひとみはどこかでこの関係が長くは続かないような気がしていた。
梨華に溺れる一方でもう一人の自分が冷めた口調で囁いていた。

どうせダメになるに決まっている、と。

相手の体に溺れていても、心から恋だの愛だのには身を浸していない。
相手にすべてを預けきれない。
そんな表面的な付き合いしかしてこなかったひとみは屋上で美貴を抱いたときに
これっぽっちも梨華に悪いとは思わなかった自分の感情を当然のように受けとめていた。
それは自分の心に問うまでもなく『どうせ』と諦めきった態度の表れでもあった。

ひとみはこんなことを考える自分がまるで不良品の機械のように思えてならなかった。
人として大事な部分が少し足りないのではないかと昔から思っていた。
真希とは違う意味で感情が希薄な自分。亜弥を別として人に執着がない。
そんな自分を変えようともせずに嫌悪感ばかりが募る。

この調子ではそのうちどこかが壊れて、回収されたのちにスクラップになってしまう。
持ち主に見放されて、どこかに置き去りにされた機械のように。

だからこそ亜弥にはちゃんとした恋愛をして、好きな相手に胸を張って好きと言えるような
そんな自分とは違う人間になってほしいとひとみは願っていた。
まかり間違っても自分のようにはならないでほしいと。
こんな自分を見て軽蔑するなり悪い手本にするなりして学んでほしいと。

ただできればもう少しだけ、もう少しだけなにもわからない顔で
『お姉ちゃん』と慕ってきてほしい、後をついてきてほしいとひとみは思っていた。
思いながらも勝手な言い分だと自分に唾を吐いていた。

「っと、もうこんな時間だ」

俯いていたひとみははっとして窓の外を見た。
もうすっかり陽は傾き空が薄暗くなっている。

「帰るか」
「うん。今日バイク?」
「なに?送ってほしいとか?」
「まさか。ミキティに殺される」
「うっわー。それちょっと、笑えないわ」

立ち尽くすひとみを置いて真希は先を歩いた。
真希なりに美貴のことで考えていることはあったがひとみには話さなかった。
話せばきっと「楽観的すぎ」と鼻で笑われるか或いは「他人事だと思って」と怒られる。

「待てよー、ごっちん」
「早く来ないと置いてくよー」

美貴はきっと立ち直る。自分の力で。
根拠などない。ただなんとなく真希はそう思っていた。そう信じてもいい気がしていた。
時間はかかるかもしれないが時間が解決してくれる部分もきっとあるだろう。
どっちにしても美貴が立ち直るのを黙って見てるしかないのだから、それなら信じたほうがいい。
美貴が立ち直るのを待つしかない。

ひとみと美貴。どちらも真希にとっては大切な友人だ。
そのどちらもが同じくらい追い詰められている。
一見すると美貴のが『ヤバイ』感じだがひとみが抱えている問題も根っこが深い。

「ったく、ちょっとは待てよなー」
「待たないよー」

本気の恋愛ができないひとみのほうがむしろよっぽど重症ではないかと
真希は後ろを振り返りながら胸の内で密かに思っていた。



 * * *



梨華にとって恋愛は常に気持ちのいいものだ。
ふわふわしてとろとろして美味しいもの。
生きるために補給するエネルギーの源だ。
「それじゃ食べものだよ」と友人に笑われたことがあるが
梨華にとって恋愛はまさに食べものだった。
栄養を取らなければ死んでしまう。
どうせ食べるならより美味しいものを。

それがたとえどんなカタチを為していても美味しければいい。
ふわふわでとろとろで気持ちよければ。
そうやって梨華は今まで恋愛という名の栄養を取って生きてきた。
いつも楽しくてふわふわでとろとろで美味しく。
欲求は常に満たされ、自分のペースで恋愛の手綱を握ってきた。
恋愛とはそういうものだと思っていた。

ひとみと出会うまではそれが恋愛のカタチだと信じて疑わなかった。


「はぁひっ…あぁぁっ」

ひとみが梨華の中を縦横無尽に駆けまわり
ここというポイントを激しく責めて掻きだすと梨華はあっけなく達した。
一週間ぶりにことに及んで体が敏感になっていたのかもしれない。
シーツに残る自分の痕跡を指でなぞりながら、梨華は柄にもなく頬を染めて
横で天井を見つめているひとみの手をそっと握った。

「イクときの梨華はかわいいね」

ひとみは梨華の頬や鼻、瞼や首筋、鎖骨や耳たぶ、手の甲など余すところなくキスをした。
ついでにすべすべした褐色の肌を舐めたり咬んだり
時折吸いついて自分のシルシを付けたりして遊んでいた。

いつものひとみは終われば淡白だ。
心地よい疲労を連れたまま眠りにつくことを望み
誰と付き合っていてもピロートークなんて滅多にしなかった。
後ろめたいことがあるときを除けば。

「イクときだけ?」
「イク前もイッた後も全部かわいいよ」
「それってつまりいつもってこと?」
「そうそう。梨華はいつもかわいい。あたしを夢中にさせる」

顔を上げ満面の笑みでそう返したひとみはまたチュパチュパと音を立てた。
赤ん坊のようなその仕草に梨華の頬は自然と緩む。
自分の体をひとみの好きにさせて、求められることに喜びを感じていた。

ひとみは特別に優しかったり思いやりがあったりするほうではない。
どちらかと言えば気まぐれで、ぶっきらぼうな物言いや態度が多いと梨華は思う。
そうかと思えばうっとりとした甘い時間を作り出して目を逸らせなくするからタチが悪い。

淡白かと思えば情熱的。
大雑把なようで繊細。

何度体を重ねてもまだまだひとみの本質を掴めない。
感情があやふやで何を考えているのか判らない。自分のことを本当に好きなのかも。
しかしだからこそ、ひとみに惹かれたのかもしれない


先の見えない恋は梨華にとって初めてのものだった。

「今日はやけに機嫌がいいのね」
「ん〜?そうかな」
「それにすごく優しい」
「イヤなの?」
「ううん。嬉しい。でも珍しいから」
「そうかなぁ」
「そうよ。よっすぃはいっつも終わるとすぐ寝ちゃうじゃん」
「梨華といると安心するからだよ」

梨華の頭の下に左腕を通しながらひとみは苦笑した。
次から次に零れるウソなのかホントなのかわからない自分の言葉に。
意識していないつもりでもどこかで梨華に罪悪感を抱いているのだろうか。
たしかに今日の自分は梨華が普段望んでいることを実践している。
甘い言葉に甘いセックス。そしてこの腕枕もしかり。

「そういえばお土産は?」
「ん〜?」
「仙台のお土産。ささかま買ってきてって言ったじゃん」
「あ、ごめ…忘れた」
「もうっ、一週間も仙台にいてなんでささかま買ってこないのよ〜」
「いや、だって遊びに行ったわけじゃないし。ばあちゃんの見舞いだし」

この一週間ひとみは祖母の見舞いで仙台に行っていた、ということになっていた。

一週間前、美貴につけられた決定的な浮気の証拠にひとみは頭を抱えていた。
梨華に見られないようにするにはどうすればいいのか
しばらく考えた挙句に出した答えは身を隠すことだった。
身を隠すといっても大げさなものではない。
ただほんの少しの間だけでも梨華に会わずにすめばそれでよかった。
梨華に会えば必ずせがまれて彼女を抱いてしまう。それで浮気がバレないわけがない。

理由は言わず(言えず)亜弥に口裏を合わせてもらい少しの着替えを持ってひとみは家を出た。
家に籠もることも考えたが梨華に見られたくない以上に亜弥にも見られたくはなかった。
何がきっかけでバレるとも限らない。家の中で始終マフラーをしているわけにもいかない。

面倒なことになったと途方に暮れて
誰の家に世話になろうかと携帯を眺めているときに美貴から連絡が入った。
いろんな意味で絶妙なタイミングだった。

『彼女を抱くように抱いて』

半ば強制的に美貴の家に引き込まれ希望どおりに抱いた。
ひとみは終始言いなりだった。抵抗も拒絶も面倒だった。
もとはといえば美貴に痕をつけられたことが原因で今の状況になったというのに
美貴を抱いている自分をおかしいと思うことすらひとみは面倒だった。
それでも今度は痕を残さないと念を押すことだけは忘れなかった。
そんな自分の要求を、美貴があっさりと受け入れたことは意外だった。

「感謝してよ」と言う美貴に、「誰のせいだと思ってんだよ」と軽口を叩いた。
昔に戻ったようで少しだけ楽しかった。



「よっすぃ?」
「…ん、あ、なに?」
「ぼぅっとしてた」
「あ、悪い。一瞬寝てたわ」
「人が喋ってるときに寝ないでよー」
「悪い悪い」

たまに、ごくたまにひとみは今のようにどこを見ているのか判らない目をする。
何を考えているのか判らない顔をして。
自分の存在がまるで無視されたような気がして梨華は悲しくなる。
自分といても何か別のことに心を奪われているひとみが、梨華は嫌だった。

もっとこっちを見て欲しい。
もっとこっちに来て欲しい。

体を求められているときが梨華は一番幸せだった。
ひとみの目に自分しか映っていないのが、このときだけははっきりと判るから。

「ねぇ、私のこと好き?」
「好きだよ」
「私のことだけ?」
「好きだよ」

『好き?』と聞くと『好き』と答える。
そう言われてもいつのまにか素直に喜べないようになっていた。
なぜだか心に響いてこないその言葉をそれでも梨華は聞きたかった。
ひとみに想われていることを確認したかった。
今ある体の距離をそのまま心のそれだと信じたかった。

「浮気したらヤダよ」
「ばーか」

実際にひとみが浮気しているかどうかなんて、梨華は考えたことがないし考えたくなんてなかった。
ただ自分に向けられる目や体を撫でる手、サラサラして気持ちのいい唇を独占したい。
心の底から自分を求めて欲しいという想いに常に囚われていた。

だからいつだって聞いてしまう。

『私のこと好き?』
『浮気してない?』

こんな台詞が自分の口から日常的に出るようになるなんて。
ちっとも楽しくない。美味しくなんてない。こんなの恋じゃない。
自分が知ってる恋ではない。いつもの恋愛と全然違う。

ふわふわしてとろとろして気持ちいいのは抱かれているときだけ。
だから何度も求めてしまう。何度も何度も。果てるまで。
本当に求めているのは体ではなく、心なのに。

「携帯鳴ってる」
「取って〜」
「ほい」

ひとみはベッドからごそごそと抜け出して携帯電話を梨華に放り投げた。
その足でバスルームに向かうひとみの姿を横目で見ながら
ため息とともに梨華は通話ボタンを押した。



「そういえばさぁ」

梨華が電話を終えた直後、タオルで髪をガシガシと掻きまわしながらひとみは戻ってきた。
その手からタオルを奪った梨華はベッドに腰掛けたひとみの後ろにまわり甲斐甲斐しく水滴を拭う。

「そういえばなに?」
「ちょっと小耳に挟んだんだけど」
「うん」

梨華の優しい手つきにひとみは目を瞑って身を任せる。

「亜弥に言い寄ってる奴がいるって」

一瞬、梨華の手が止まった。

「そっちの知り合い?らしいじゃん」

ひとみは目を瞑ったまま。

「さっきの電話ね、その人」
「あん?」
「さっき、よっすぃがシャワー行く前に携帯鳴ったでしょ」
「あぁ」
「柴ちゃんっていう人。中学のときからの友達」
「フルネームは?」
「柴田あゆみ」
「ふうん」
「亜弥ちゃんが心配?」
「べつに」

後ろ髪の水滴を丹念に拭った梨華は、鏡に映るひとみを見た。
自分にもたれかかりながら正面にある鏡を見つめるひとみと目が合った。
梨華の手が再び動き出し、ひとみの前髪を丁寧に拭きだした。

「いいコだよ、柴ちゃん」
「ふん。どうだか」

思いのほか拗ねた口調のひとみに梨華は少しだけ眉をひそめた。
鏡の中のひとみと目が合ったがさりげなく逸らされ、梨華の手がまた一瞬止まった。
何かを言おうとしたが自分の言いたいことがよくわからず、当たり障りのない話題を振った。

「よっすぃの髪いい匂いがする」
「そりゃそうだろ。シャンプーしたばっかなんだから」
「うちのシャンプーこんなにいい匂いだったかなぁ」

ひとみの髪に顔を埋めた梨華は先ほどのあゆみとの会話を思い出していた。



『梨華ちゃんだけじゃないんじゃない?』
『そんなこと…』
『けっこう遊んでたって噂聞いたことあるし』
『噂でしょ?そんなの関係ないよ』
『梨華ちゃんだって本当は疑ってるんでしょ?』
『…柴ちゃんどうしたの?何かあった?』
『………』
『今日の柴ちゃんおかしいよ』
『なんでもない。ごめん』



梨華が再び顔を上げると鏡の中のひとみがじっとこちらを見ていた。
何かを言いたそうで、でも言いたくなさそうな顔。
嫌な予感がしてひとみの髪にまた顔を埋めた。
理由はわからないが聞きたくない、そう思っていた。
シャンプーの甘い匂いがしていた。

「亜弥は恋愛に免疫がないからさ」
「かわいい妹には誰も近づかせたくない?意外に心配性だね、よっすぃは。
 あ、でも亜弥ちゃんに関しては意外でもないか」
「あんだよそれー」
「自分はいっぱい遊んでるくせに妹がするのは許せない?」
「は?」
「そうじゃないか。単にシスコンなだけだもんねー」

ひとみの頭にタオルをかぶせて、梨華は足早にバスルームに向かった。
剥き出しの細い足首がタオルの隙間からちらちらと見え隠れする。
ひとみは無性に梨華を抱きたくなった。
喘ぐ声や苦痛と快楽に溺れる表情、涙をいっぱいに溜めた梨華の目が見たくて堪らなかった。

タオルをベッドに投げ捨て、ひとみは再びバスルームに向かった。











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