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建物内に入った美貴はエレベーターで最上階まで行き、廊下の奥の階段を上った。
先ほどの亜弥の様子を思い返してなんとも言えない複雑な心境だった。

亜弥を傷つける言葉がどんどん口から溢れ出て美貴は自身で止めることができなかった。
止めるつもりがなかったというのが正確だが
亜弥を目の前にしてなんの躊躇いもなくそうできたことに少なからず戸惑ってもいた。

亜弥とは長い付き合いであるしずっと手のかかる妹のように親友としてそばにいた。
そんな彼女に向かって自分がああいうことを言えたということに美貴自身驚いていた。
少しでも自分の中に残っていると思っていた良心がとっくに消え失せていたことに
美貴は何よりも驚き、そしてそのことがたまらなくおかしかった。

そう、とにかく自分の言動がおかしくて仕方なかった。
亜弥に対してしたことが子供じみた八つ当たりであることを美貴は十分に承知していた。

人気のない冷たい階段を上りながら美貴は待ち人について考えた。
自分が亜弥に言ったことを知ったら彼女はどう反応するだろう。
そのときの顔を思い浮かべて美貴は唇の端を上げた。

屋上へと繋がる階段を上りきり美貴は錆びた鉄の扉を押した。
年月を感じさせる重々しい音をたてて扉は開く。
すかさず差し込んでくる太陽の光に美貴は目の前に手をかざした。

「すっげー待った」

逆光で顔はよく見えなかったがその人物が誰であるのか美貴には判っていた。
間延びした少し滑舌の悪い声。ふてぶてしいその口調。胸に響く低音。

美貴は約束の時間よりもわざと遅れて屋上に来た。
わざとひとみを待たせた。
それはこれから美貴がしようとすることに比べれば些細な仕返しにすぎなかった。

「そう?」

屋上の周囲に張り巡らされた緑色のフェンスにもたれかかって、ひとみは表情を歪めた。

「そうだよ。何分待ったと思ってんだよ」
「さあね」
「携帯は繋がらないしさー」

学食で真希との会話を終えて美貴は自ら携帯の電源を切っていた。
それも待たされたひとみが自分のところに連絡しようとするのを見越してのことだ。
ほんのちょっとした仕返しだったがひとみの苛立ちようを見て美貴は嬉しくなった。

「さっき亜弥ちゃんに会ったよ」

ひとみの綺麗に整えられた眉がぴくっと上がる。
続きを促すように両腕を組んだひとみに向かって美貴はゆっくり歩を進める。

「どんな話をしたか知りたい?」
「あぁ」

自分より10センチほど背の高いひとみに合わせて美貴は背伸びをする。
鼻先が触れ合うくらいまで顔を近づけて片手をフェンスにかけた。
人差し指でひとみのサラサラした髪を梳き露わにした耳元でそっと囁く。

「教えない」

ムッとした顔を隠さずひとみは美貴から離れた。
ひとみには美貴の目的が判らなかった。呼び出された理由も。

美貴のあの日の捨て台詞をなるべく考えないようにはしていたが
こうして誰もいない屋上に呼び出されどこか様子のおかしい美貴に会って
やはり来るべきではなかったとひとみは思う。

「許さないから」

ひとみの心臓が大きく跳ねる。知らず唇を噛んだ。
美貴に距離を詰められてひとみはまた一歩後ずさりをした。

「って美貴が言ったこと、覚えてる?」
「いや…美貴そんなこと言ったっけ?」

美貴は惚けるひとみが可愛くて仕方なかった。
怯えたように目を背けるひとみが憎くて仕方なかった。

「言ったよぉ。覚えてるくせにー」
「お、覚えてないっつの」

あくまで白を切るひとみを美貴は睨む。一方でひとみに近づきたくてまた距離を詰めた。
可愛いと思う反面憎くて仕方ない。複雑な思いを抱えながら美貴は睨み続けた。

「わかった。降参。覚えてるよ、覚えてる。忘れられるわけないでしょーが」

ひとみの言葉ににっこりと笑った美貴の顔は誰もが認める彼女らしい彼女だった。
ここに来てから初めて、ひとみは恋人だった頃の美貴の面影をその笑顔に垣間見た気がした。
そして考える。美貴は一体何がしたいのだろうと。

「そっか。よかった」

『忘れられるわけがない』という言葉が自分を指しているのではないことを
美貴は百も承知していたが、それでもひとみの口から聞くと胸は自然に熱くなった。
まだひとみを想っていることを再確認できて、素直に頬が緩む。

「前はさ、よくここに来たよね〜」

それまでの調子とは一転して美貴は昔を懐かしむように遠くに見えるビル群を仰ぎ見た。

「冬なんて凍えそうになりながらよくやったよ」
「美貴っ」

ひとみは美貴の言葉を遮ると景色を眺めている相手の体を自分に向かせた。
そしてきちんと真正面から美貴を見据えて目を逸らさずに尋ねた。

「美貴は一体、何がしたいの?」

美貴の向こう、遥か下方に豆粒ほどの人の群れがちまちまと動いているのを目の端で捕らえながら
ひとみは過去の情景を思い出していた。


ノースリーブから真っ直ぐ伸びる細い腕が緑色のフェンスを掴む。
夏の太陽の下、するするとキャミソールの中に潜り込んだ自分の手が自由気ままに美貴の体を這う。
ギラギラと照りつく日差しと耳に飛び込んでくる悩ましげな声。そして音を立てるフェンス。
眼下に広がる何人もの人間と、目の前で体を揺らすほとんど裸の美貴という光景のギャップに
ひとみは興奮を抑えきれなかった。

夏だけではない。春も秋も冬も。ほぼ同じような光景をひとみは見てきた。
変わるのは季節ごとに色づく植物たちやちっぽけな人間たちの衣服。
変わらないのはいつも美貴を求めていた自分の手と、ひとみを見つめる美貴の眼差し。


キャンパスを一望できるこの場所を発見したとき迷わず美貴を連れてきた。
そんな数々の思い出を共有したこの場所。
しかしひとみは美貴と同じようには、昔を懐かしむことはできなかった。

「美貴は何がしたいんだよ」

ひとみの問いに美貴はにっこりと笑って答えた。

「セックス」
「え?」

瞬間、ひとみの脳裏に再び美貴との行為がフラッシュバックした。
熱を帯びた体。汗ばむ額。美貴の小さな手が掴むその先は緑色のフェンス。
すっかり古びたそのフェンスがぎしぎしと音を立てる。美貴を突くたびにぎしぎしと。
過去の記憶がまざまざと思い出され、ひとみは言葉を発することができない。

「よっちゃんとセックスがしたいの」

過去と現在がめまぐるしく交錯する中で、ひとみは一人、ぽつんと放り出されたような気分だった。



 * * *



美貴の吸いさしの煙草をぐりぐりと灰皿に押しつけて真希は再び亜弥を見た。
どれくらいの時間が経ったのか、はっきりとは判らなかったが
随分と長い間亜弥を見ていたような気がする。無言で俯いたままの亜弥を。

「ごっちん…ごめんね」
「なんでまっつーが謝るの」

亜弥は姉に対して『許さない』と言った美貴が心配で仕方なかった。
美貴はいつも堂々としていて自分に自信を持って生きている。
そんな美貴が一方的に振られて自分の姉のせいで傷ついた思いをしていることが
亜弥にとっては自分のことのように苦しかった。
姉に話を聞いてからというもの親友として美貴に何をしてあげられるのだろうと考えていた。
それは同情とは違う純粋な気持ちからだった。

「謝らなきゃいけないのはむしろミキティじゃん」

だが亜弥は真希の言葉に素直には頷けなかった。
姉の次、ひょっとしたら姉と同じくらいに心を許していた相手にひどいことを言われ
言葉も出ないほどショックを受けた。怖かった。裏切られたという思いがあった。

美貴はいつから自分のことをそういう目で見ていたのだろうかという疑問。
美貴の言葉を即座に否定できなかった自分への猜疑心。

「みきたんの言ったことはもしかしたら正しいのかもしれない……」
「なにバカなこと」
「あ、ごっちんのことは違うって信じてるけど…」
「当たり前だよ」

真希の言葉に少し安堵したものの、亜弥はまた涙が零れそうになり鼻をすすった。

「私、みきたんに嫉妬していたのかな…」

幼い頃から亜弥は姉の後をついて歩くのが習慣だった。
いつでも姉について家中を歩き回った。
トイレや風呂や姉の部屋。どんなときも後を追った。
ひとみは鬱陶しい素振りをしながらもそんな妹の行動を内心では許していた。
両親が呆れるほどに姉妹は常に一緒に行動していた。

離婚した両親によって引き離されるまでは。

「自覚してないだけで、お姉ちゃんの恋人になったみきたんを……」

真希は喉まで出掛かった否定の言葉を寸前で飲み込んだ。
「そんなことないよ」と言うのは簡単だが、亜弥を納得させるにはその台詞は白々しすぎて
ふさわしくないように思えてならなかったからだ。

「まっつーはよしこの恋人になりたいの?」
「えっ…?」
「そういう気持ちでよしこを見てそばにいたいって思ってるの?」
「ううん。違う。私はただお姉ちゃんのことが…」

美貴が言うように亜弥は嫉妬していたのかもしれないと真希は思う。

まだ中学生だった亜弥にとって姉との別れは想像を絶するほど辛かったのだろう。
両親の離婚によりひとつ屋根の下に一緒に住めなくなっても姉妹は頻繁に会っていた。
特にひとみは姉としての責任感からか亜弥をしょっちゅう訪ねては様子を見に来ていたらしい。

それでも亜弥は心のどこかで物足りなさを感じていたのだろう。
大学に進学してひとみと暮らすようになってからの亜弥は
年を重ねるのに比例してますます姉にベッタリになってしまっていた。
そしてそのことに亜弥自身はおそらく気づいていない。

「よしこのことが?」

でも、と真希は思う。
それは純粋に家族としての愛情なのだと。

姉と離れたことはもちろんだが亜弥にとって両親の離婚は
本人が思う以上に大きなダメージではなかったのだろうか。
亜弥は家族の愛情に飢えていたのではないだろうか。
その反動がすべてひとみに向けられているのだと真希は真希なりに分析していた。

だから美貴の言うように亜弥が『嫉妬していた』というのはある意味では正しく
そして間違っている。
おそらくは美貴もそれを判っていてあんなことを言ったのだろう。
単に亜弥を傷つけることができればそれでよかったのだ。

その事実にまた真希の心は傷んだ。

「まっつー、ちゃんと考えなよ。よしこのことどう思っているか」

亜弥は姉の後姿を思い浮かべていた。
幼い頃の記憶の多くを占めているのはいつもついてまわった姉の背中だ。
そして常にいろんなことから自分を守ってくれた姉の凛々しい顔。

4歳のとき、自宅の階段から落ちそうになった亜弥をかばって代わりに転げ落ちた。
7歳の七五三のときには近所中に写真を見せて自慢の妹だと嬉しそうに笑っていた。
12歳のとき、喧嘩が絶えない両親の言い争う声が聞こえないようにと耳を塞いで抱きしめてくれた。

14歳の別れのとき、いつかまた一緒に暮らそうと指きりをしてくれた。

「ぐすっ…お姉ちゃんっ……」

嗚咽を漏らした亜弥の頭を真希はそっと撫でた。
ひとみがよくそうするのを真似て亜弥が落ち着くのを待った。

「私はお姉ちゃんの…恋人になりたいわけじゃない」
「うん」
「お姉ちゃんの妹ですっごく幸せだもん」
「うん」
「ごっちん、ありがと」

ふにゃっと笑う亜弥を見て真希は胸を撫で下ろした。
無邪気に笑う顔もひとみによく似ていると思った。

「まっつーが嫉妬していたって言ってもそれはあれだよ」
「あれ?」
「小さいときにさ、お正月とかお盆とかに親戚中で集まったじゃん?」
「今もたまに集まるけど…ごっちん何を言い出すの?」
「いいから聞いて」

目を丸くしてきょとんとする亜弥を真希は軽く制して話を続ける。

「でさ、親が従兄弟とか他の子供に優しくしたり世話したりするのを見て
 なんか子供心に悔しかったりしなかった?なんていうか盗られた、みたいな気がして」
「あ〜、したかも。そういえばお姉ちゃんなんて無言で従兄弟を殴ったことあったもん」
「あはは。よしこらしい。つまりね、そういうことなの」
「つまりちっちゃいコと同じレベルということですか…」
「まあ、そうゆうことだね」

あまり上手い例えではなかったが納得したような亜弥を見て真希は安心した。
むしろ亜弥とひとみとの関係を嫉妬していたのは美貴のほうだということを
亜弥が気づいたかどうかは判らなかったが、それは知らないままでいいと真希は思っていた。

「でもみきたんは…」
「よしこがミキティを振ったの?」
「うん…」
「新しい彼女ができたって?」
「うん」
「いつ?」
「夏休みの終わりくらいかな」
「そっか。よしこのやつ…」
「ごっちん、みきたんは私のことすごく怒っていたよね」
「嫉妬云々はさっき説明したじゃん。ミキティの誤解だよ」

美貴が本当に誤解していたなんて真希はさらさら思っていない。
どういう意図があって亜弥を傷つけるようなことをしたのか
真希には八つ当たり以外に思いつかなかったが
美貴も相当ダメージを受けているらしいことは確かだと思った。

「そうじゃなくて」
「うん?」
「みきたんね、お姉ちゃんに『許さない』って言ったんだって」
「許さない…?」
「そう。だからみきたんは私のことも許さないんじゃないかなぁって」
「なにそれ」
「だって姉妹だし」

亜弥の言うことはめちゃくちゃな論理だったがあながち間違ってもなさそうなだと真希は思った。
美貴は今すべての人間が敵に見えているのかもしれない。
恋人に裏切られたショックがそうさせているとはいえ
ひとみのとばっちりを受けた亜弥に責任はないはずだ。
美貴が亜弥に嫉妬していたとしても、やはりそれは亜弥の責任ではない。
ひとみのいい加減さにすべてが起因している。

しかし姉に迷惑を被ったからといってそれを妹に当たるのはやはり筋違いだ。
憤りながらも真希はそれほどまで追い詰められている美貴が心配になってきた。

「ミキティどうしちゃったんだろう」

徐々に人が減っていく中庭で二人は途方に暮れた。

「そういえばよしこの新しい相手は誰なの?」
「あのね、石川梨華さんっていう人」
「誰それ」
「中学のときの先輩」
「よしこの?」
「ううん。私の」

そう言って逃げるように目を逸らした亜弥を見て真希は首を傾げた。
まだ何かを隠していると真希は敏感に察知したがこれ以上詮索する気にはなれなかった。
この後きっと会えるだろう姉のほうに詳しい事情を聞けばいい、そう思った。

ふいに亜弥の携帯が甲高い音を鳴らした。
携帯を取り出す亜弥を横目で見ながら真希は自分の携帯で時間を確認した。
次の講義が迫っていた。

「あ、どうも。この前はありがとうございました。
 いえ…あの、やっぱりあんな高級なもの返します。ホントに、あの気持ちだけで。
 私こそすみません。先輩のことそういうふうには…いえ、あの、だから何度も…
 先輩がどうとかってそういうんじゃなくて……そんな……はい、それじゃ失礼します」

会話の内容もさることながら亜弥の表情がみるみるうちに暗くなっていき、真希は心配になった。

「なに?また誰かに告白でもされた?」
「うーん。石川先輩の友達で、やっぱり中学のときの先輩なんだけど…」
「やな奴なの?」
「ううん。いい人だよ。ちょっと強引なところがあるけど…」

困ったように笑う亜弥の目はいつもの輝きがなく疲れた色をしていた。
その様子から相当しつこくされているだろうことを真希は感じ取った。

「よしこはそのこと知ってるの?」
「まだ。だってお姉ちゃん、ほとんど家に帰ってこないんだもん」

全然話す機会がないと膨れる亜弥がおかしくて真希は声を上げて笑った。

「もぅー。ごっちん、笑わないでよぉ」
「あはは。だってその顔」
「人の顔見て笑うなー!」
「だって、サルみたいで…あっはははー」
「なんだとぉ、ごっちんだって、ごっちんだって魚みたいな顔のくせにぃ」
「うわっひっど〜。あ、あたし講義だからもう行くわ。んじゃ」
「あ!私ももう行かなきゃっ。じゃあねー」

笑顔で真希を見送った亜弥はふっと表情を変えてから手にしていた携帯に目を向けた。
着信履歴を表示して映し出された『柴田あゆみ』という文字を見つめる。

深い溜息をついて片手で携帯を折り畳んだ亜弥の目は
真希が見たその何倍も暗く、翳りを帯びていた。











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