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「行かないで」

白いシーツに褐色のきめ細やかな肌がよく映えている。
吉澤ひとみはなだめるようにその素肌にいくつも唇を落とした。肩に指に瞼に髪に。
一番欲しがっているであろう場所をあえて避けたのは自らの本能を抑えるため。
歯止めを利かせなければ約束の時間に間に合わなくなることが目に見えていたからだ。

「すぐ戻るよ」

石川梨華はイヤイヤと首を振りベッドの脇に腰掛けていたひとみのシャツの袖口を引っ張った。
強引に自分のほうに引き寄せ手を胸に誘う。
そしてそのまま両腕をひとみの首にまわして唇を突き出した。

「ん〜」

ちゅばっちゅっちゅぅ

「ほら、もういいでしょ」

ぶっきらぼうにそう言うと、ひとみは手の甲で口元を拭いベッドサイドの時計を見た。
約束の時間まではもうすぐ。そろそろ出なければ本当に間に合わなくなってしまう。
いまだ不満気な表情の梨華は赤い舌を覗かせて上唇と下唇を交互に舐めていた。

「もういいなんて言わないで」

おもむろに立ち上がったかと思うと梨華は真っ直ぐベランダに向かった。
カーテンが勢いよく揺れる。
眩しい光が差し込むことを予想してひとみは目を細めた。

「よっすぃのバカ」

鉛色の空はどんよりした厚い雲に覆われていた。そこに光が射す隙間は微塵もない。
昨夜から降り出した雨はいつのまにか霧状になり梨華の褐色の裸体を優しく包んでいた。

「ったくバカはどっちだよ。そんな格好で」

追いかけてひとみは腕を掴んだ。ベランダのコンクリートから冷えた感触が素足に伝わる。
灰色の景色に溶け込んだ梨華の裸体がやけに艶めかしくて思わず息を飲んだ。
そんな相手の変化を敏感に察知した梨華はまた赤い舌を覗かせて潤んだ瞳を逸らさない。
まるで勝ち誇ったかのように。

「ねぇ、来て?」
「雨に濡れた欲情、か…」

湿り気を帯びた体を通してひとみの手にひんやりとした心地よさが伝わっていた。



「最初からこうしてればいいのに」
「……」
「結局よっすぃは誘惑に勝てないのよねぇ」
「うっさい。いいから寝てろ」

ベッドの中で憎らしいほど妖艶な笑みを浮かべる梨華の目の前でひとみは手早く服を着た。
完全に遅刻だ。満足そうな表情の彼女に恨みがましい視線を送った。

「ね〜もっとぉ」
「何回もしたじゃん」
「全然足りないもん」
「セックスバカ」
「よっすぃに言われたくありません」
「はいはい」
「私だけだよね?」
「は?何が?」

ひとみは電源が切れっぱなしの携帯をジーンズのポケットに乱暴に突っ込んだ。
靴下の片方が見つからず舌打ちをしながら辺りを見まわしたものの、諦めて素足になった。

「すぐ戻るから」

さっきと同じ台詞を吐いて梨華に背を向けた。
誘惑に勝てないのなら見なければいい。
始めからそうしていればよかったとひとみは少し悔やんだ。
約束の時間はとっくに過ぎている。待ち人の怒った顔が簡単に思い浮かんだ。

「ね、お願い…」

懇願する梨華を置いてひとみは買ったばかりのバイクのキーを握り外に出た。
ドアを閉めるときに背中に聞こえてきた「よっすぃのバカ」は無視して。



 * * *



ひとみが濡れた服を軽く払いながら店内に入ると待ち人は怒った表情を隠さずそこにいた。
灰皿に山ほど溜まった吸殻が時間の経過を物語る。
最近また一段と量が増えたようだった。

「ごめん」
「………」
「ごめんって」
「よっちゃんさぁ」

睨みを利かす藤本美貴の視線をひとみは真正面から受けとめた。

意思を持った強烈な視線。
射るような鋭い眼差し。
氷のように冷たい空気を纏った長い沈黙。

ひとみの顔に向かってわざと煙を吐いた美貴はたっぷり間を置いてから口を開いた。

「美貴を怒らせたいわけ?」
「いや…」
「連絡もなしに遅れるかな、普通。しかもよりによってこんな日に」

煙草の灰を落としながら眉間に深い皺を寄せた美貴は窓の外に目をやった。
彼女のこういう気の強い部分に惹かれていた時期があったことをひとみは思い出す。
今はもう自分の心からは消え失せてしまった感情がたしかに存在していたあの頃を。

「しかも携帯繋がらないし」
「本当に悪かった」
「本当だよ」
「今までのことも含めて全部、申し訳ないと思っている」
「………」

灰皿に煙草を押しつける美貴の指が若干震えていたのをひとみは見ない振りをした。
気の強い半面、必要以上に自分を強く見せる彼女の心情を思うと見ることができなかった。
かつてのような想いは消えていても好きであることに変わりはない。
自信のある口調や態度が好きだった。たまに漏らす弱さもまた同様に。

「別れよう。あたしはもう、美貴の傍にはいられない」

翳りを帯びた美貴の瞳が自分を映していないことがひとみは少し寂しかった。
ただ彼女の伏せた睫毛が微かに揺らめいているのがわかっただけ。
感情のわからないその様子に居心地の悪さを感じていた。

「勝手なこと言ってごめんな。今までバカばっかでごめんな」
「勝手だよ……よっちゃん…バカすぎ……」

顔を上げ今度はひとみを真っ直ぐに見据えた美貴の瞳に涙はなかった。
声は掠れ、肩を小刻みに上下させてはいたが自分を映す瞳から涙がこぼれていないことに
ひとみは少なからず驚いた。驚きながらどこかで納得している部分もあった。
美貴は滅多なことでは人前で涙を見せない。泣くことは弱さの象徴だと思っている。
ただこの場合、泣かないことが彼女のプライドなのか
それとも呆れ果てた故なのかはひとみにはわからなかった。

「美貴より好きな人なの?」
「………」
「答えてよ。美貴よりもその人のことが好きなの?」
「………」
「美貴には聞く権利、あると思うけどなぁ」

何と返せばいいものかひとみが答えあぐねていると美貴は再び煙草に火を点けた。
軽く手を上げウェイターを呼ぶ。そして水をお替りしてごくごくと飲んだ。
液体が流れ込んでいく細い首に何度もキスをしたことがひとみの脳裏に蘇った。

「もう寝た?」
「…寝たよ」

グラスを持ったままチラリとひとみを窺う美貴の視線にはっきりと軽蔑の色が浮かんでいる。
その視線を振り払うようにひとみは彼女の手から煙草を奪い取った。
口に咥え煙をたっぷりと肺に送り込む。そしてやんわりとした口調で話し出した。

「寝たとか寝ないとかさぁ、そんなこと聞いてどうすんの?意味ないじゃん」
「なにその言い方。なんでよっちゃんが先にキレるのよ」
「キレてねえよ」
「キレてるじゃん」
「キレてないって!」
「よっちゃんがムキになるときはキレてる証拠だよ」
「美貴がどうでもいいこと聞くからだろっ」

思わず語気を強めた自分の声にひとみははっとした。
その拍子に煙草の灰がテーブルの上に白く舞う。

「どうでもいいわけないでしょっ」

ひとみの手から煙草を奪い返した美貴はテーブルの上に拳を投げ出し声を荒げた。
勢いよく舞った白い灰が水の入ったグラスに降りかかった。
そして感情が沸点に達する直前に美貴は堪えるように下唇を噛んだ。

「どうでもいいわけ…ないじゃん……バカ、バカよっちゃん…」
「……ごめん」

ひとみはどうしようもなく居た堪れない気持ちでいた。
早く帰りたい。別れ話なんて楽しいものじゃない。
早く終わらせたい。この時間も美貴とのことも。

「とにかく、あたしが悪かったんだから友達に戻ろうなんて言わないよ」
「美貴だってまっぴら」
「そりゃそうだよな」
「勘違いしないで」
「えっ?」

席を立ち伝票を掴んだ美貴はひとみを見下ろしながらはっきりとした口調で言った。

「別れるなんて、美貴は納得してないから」
「美貴?」
「……さない」
「え?」
「許さないから」

皮肉なことに、そう言い放った美貴の顔はひとみが今まで見た中で一番綺麗だった。
クシャクシャに丸めた伝票を投げつけて去り行く姿に見惚れていることに気づいて
ひとみは軽く咳払いをした。
そしてゆらゆらと煙草の灰が揺らめくグラスを強く握りしめる。

残していった捨て台詞と、決して涙を見せなかった美貴の顔が心にいつまでも残っていた。



 * * *



携帯の充電器を取りにひとみが自宅に帰るやいなや、同居人は怒った表情で出迎えた。
何日かぶりに顔をあわせた松浦亜弥は、その感情とは裏腹に
いつもと変わらない愛らしい顔をしていた。

両親の離婚により姓が違っいてもひとみと亜弥はれっきとした姉妹である。
幼い頃から互いの性格はよく熟知している。
そんな亜弥が相手だからこそひとみは思っていた。
今日だけは軽くあしらうことはできなそうだと。

「今までどこに居たの?」
「大学の近くの喫茶店」

玄関先で仁王立ちになっている亜弥の脇を通り抜けて
ひとみはしばらくぶりの自室に向かった。

「そうじゃなくて。この1週間どこに居たのかって聞いてんの」
「オマエの先輩のとこだよ」
「先輩?…って、まさか石川先輩じゃないよね?」
「その石川先輩だよ」

雑誌や洋服――ほとんどが亜弥のものである――で溢れ返ったゴミゴミした部屋を見て
ひとみはがっくりと肩を落とした。首をぐりんと回し後を追いかけてきた亜弥を見やる。

「オマエなぁ、何で人の部屋をこんなに散らかすんだよ。掃除くらいしろ」
「い、いつから石川先輩とそんなことになったの?!みきたんは?」
「梨華には美貴とのこと言ってないから…わかるよな?」
「それって口止め?」

相手の問いには答えず、ひとみは普段ベッドサイドに置いている充電器を探した。
しかしあるはずの場所にそれはない。
枕をひっくり返したりシーツをひっぺがしたりしたがどこにもない。
念のため毛布の中も探したが見当たらなかった。

「なぁ、携帯の充電器どこやった?」
「私の部屋。それよりまさかみきたんと別れたの?お姉ちゃん」
「なんでオマエの部屋なんだよ。別れたよ。向こうは納得してないみたいだったけど」
「だって私のやつ壊れちゃったんだもん。そんな、納得なんてできるはずないじゃん」
「オマっ、オマエな〜壊れたなら買えよ。ヒトのもん勝手に使うな」
「お姉ちゃんのケチ」

溜息をついたひとみは自室を出てキッチンに向かった。
冷蔵庫を開け、喉の渇きを潤してから少し空腹なことに気づいた。
目についたクッキーの袋に手を延ばすと横から小さな手に奪われる。

「一体どういうことなのかちゃんと説明して」
「なぁ、亜弥」
「なあに?」
「いい加減さ、姉離れしろって」

クッキーの袋を取り返すとひとみはこげ茶色の小さな固体を口に放り込んだ。
甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐりあっという間に口の中の水分が全部吸い取られた。

「あっまぁ〜」
「嫌なら食べなきゃいいでしょ。それに姉離れなんてとっくにできてるもんっ」
「姉離れしてる奴が姉の部屋に入り浸るかよ。おまけに汚すし」
「むぅ〜、お姉ちゃんのアホ」

舌を出して拗ねた表情をする妹を見て再びひとみは溜息をついた。
そしてソファーに座りかけて本来の目的である充電器のことを思い出す。

「いっけね。忘れてた」
「ねぇ〜お姉ちゃ〜ん。ちゃんと聞かせてよ〜」

リビングを出たひとみは亜弥の部屋に向かった。

「うっさい。ついてくんな」
「ひどぉー。ここあたしの部屋だもん。ついてくもん」
「充電器返せよ」
「あっ、ダメダメダメェ!それなかったら私が困る」

困ってるのはこっちだと言おうとしてひとみはあることを思いついた。
冷静に考えればそれは非常に浅はかな、自分本位な思いつきだった。

「亜弥」
「うん?」
「オマエ、美貴の親友だよな?」
「そうだよぉ」
「あのさ、ちょっとアイツ頭に血が昇ってるみたいだからフォローよろしく頼むわ」
「なっ…なにそれ、む、無理無理無理無理」

連呼した後に亜弥はベッドに腰掛け、目の前に立つ姉を見ながらクッキーを頬張った。
食べかすが膝の上や絨毯、ベッドの上にぽろぽろと落ちる。

「あーあ。ちゃんと食えよ。オマエはいつまでたってもそんな食い方だな」
「うるさいなぁ。ていうか無理だから。みきたんが本気になったら止められないもん」
「こえーこと言うなよ」
「本気で怒らせたの?」
「さあ」
「とにかく本気だったら無理。私にも…たぶんごっちんにも」
「本気にもいろいろあるだろ」

絨毯に零れたクッキーの食べかすをひとつひとつ丁寧に拾いながら
ひとみは亜弥の顔をちらと見た。

「どういう意味?」
「テキトーに言っただけ。それよかついてる」

怪訝な顔をしながらも亜弥はクッキーを食べる手を止めない。
ひとみはティッシュを一枚取り亜弥の口許に押しつけた。

「でもみきたんの気持ち考えると怒られたって仕方ないよ、お姉ちゃん…。
 みきたん、あんなだけどみきたんなりにお姉ちゃんのこと愛してたと思う。
 私にははっきり言ったことないけど…でもお姉ちゃんといるときのみきたんは
 すごく幸せそうな顔してたもん。なのに…ひどいよ、お姉ちゃん」
「………」
「どうして?お姉ちゃんだってみきたんのこと好きだったんでしょ?なのにどうして?」
「………」
「そんなに石川先輩がいいの?なんでそう簡単に好きじゃなくなるの?」

言われるほど簡単ではなかった。
簡単に想いを断ち切れていたらいくらかは楽だっただろうとひとみは思う。
自分なりに悩んで出した結論だ。悔いはない。
ただ亜弥の言葉のひとつひとつがやけに心に突き刺さる。
責める妹の顔を正面から見ることができない。

「…無理でもなんでもフォローしてくれよ。充電器あげるから」

コンセントから抜いてすでにくるくる丸めてしまった充電器を
ポンッと亜弥の膝の上に投げてひとみは部屋を出た。
後ろから「あー」とか「うー」とか唸ってる声が聞こえる。

「やるだけやって、それでも無理だったらいいから」

当たり前のように後をついてくる亜弥の頭に手を置いて
ひとみは軽くその柔らかい髪を梳いた。そっと、優しく。

「お姉ちゃんのバカ」

俯いた亜弥は憎まれ口を叩くと立ち尽くし、しばらくの間されるがままになっていた。



ソファーに深く沈んで、今度こそメールをしようとひとみはポケットの携帯を取り出した。
キーをカチャカチャいじってから電源が切れていたことを思い出して
自分のバカさ加減に苦笑した。何のためにここに来たんだか。
立ち尽くしたままの亜弥に目を向けた。
その手の中から充電器を奪い返しソファーの横のコンセントに乱暴に突っ込んだ。
梨華に遅れる旨だけメールして少し迷った挙句また電源を切った。

ひとみがコーヒーを淹れてソファーに戻るとすかさず亜弥が隣に座ってきた。
これで姉離れしていると声高に宣言するのだから呆れてしまう。
と同時にひとみは姉として心配にもなっていた。

いつも自分にべったりと纏わりつき甘えてくる亜弥。
大学進学と同時に誰の了解も得ず、姉の住むマンションにこの春転がり込んできた。
そんな妹を鬱陶しく思うときもあるが無邪気に慕ってくる顔を見ると可愛くも感じる。
ひとみは隣に座って腕を絡めてくる妹の顔を覗き込んだ。

「亜弥」
「うん?」
「オマエって処女?」
「…っっ!!」
「やっぱ処女か」
「サイッテー!!お姉ちゃんのバカ!エッチ!アホ!それからえっと、えっとぉ」
「初めてのときはちゃんと言えよ?お姉ちゃんがアドバイスしてやるから」
「むぅ〜この変態ヒーチャン!!バカバカっ!だーいっきらい!!!」

顔を真っ赤にして慌てふためく亜弥を見ながらひとみは薄く笑った。
妹をからかうという姉の特権を存分に楽しんでいると
お返しとばかりに亜弥が先ほどの話を蒸し返した。

「お・ね・え・ちゃ・ん?石川先輩とどうしてそうなったの?まだ聞いてないよ」
「なんでオマエにそんなこと言わなきゃならないんだよ」
「だって状況を正確に把握しておかないとフォローなんてできないし」

この調子で芸能記者よろしく根掘り葉掘り聞かれたら洗いざらい喋ってしまいそうになる。
そうしたらたぶんきっと自分は妹に幻滅されるだろう。
そう思いながらひとみは自嘲気味に唇の端を歪めコーヒーを啜った。

「バーカ。べつにそんな深く考えなくてもいいんだよ。ただちょっと美貴を…」
「みきたんを?」
「ん、いや…いい」

言いかけてひとみはふと考える。
自分は一体何をどうフォローしてほしいのだろうか。
別れてもいい顔していたいなんて思っていない。ましてや恨むなとも言えない。
ただ先ほど聞いた美貴の捨て台詞がやたらと耳について
ひとみの胸のあたりにざわざわした気持ち悪さを残しているのは事実だ。
それほどにインパクトのある言葉だった。

「許さないから」
「へっ?」
「美貴に言われた。許さないって」
「……ふーん」
「ま、べつに許してほしいとは思ってないけどな」

脱力したようにずるずるとソファーから落ちた亜弥が大げさに頭を振り溜息をついた。
フローリングの床にペタンと座り込みひとみの右足にもたれかかる。

「あんだよ」
「お姉ちゃん、しばらく誰とも付き合わないほうがいいんじゃない?」
「はぁぁ?オマエ、何言ってんの?」
「頭冷やしたほうがいいよ。やっぱりどうかしてる」
「オマエにそんなこと言われるようじゃ、あたしもオシマイだぁ」

茶化された亜弥は真面目に聞けとばかりに顎をのせていたひとみの膝を噛んだ。

「イテッ。凶暴女」
「だってお姉ちゃんの妹だもん。
 みきたんと別れる前から石川先輩と…その、そういう関係だったの?」
「…ま、少しかぶったのは反省してる」
「みきたんの気持ち、わからなくもないなぁ」

そのときの亜弥がどういう顔をしていたのかひとみにはわからなかった。
ただ膝に小さな頭を預けてくる妹の体温を感じながらなんとなく想像を巡らしていた。
ひとみの頭の中に浮かんだ亜弥はなんとも言えない寂しげな表情だった。

「結局どういうフォローをしてほしいの?」

右足にしがみつくような格好のまま亜弥はひとみに尋ねた。

「もういいや。その話は」

ひとみは無理やり話を打ち切った。
亜弥は何も言わず、姉の色褪せたジーンズの裾を弄ぶ。
折ったり引っ張ったり、丸めて伸びしてみたり。
そんな亜弥の様子が言いたいことがわからずに迷っているように見えて
ひとみはくすぐったくて堪らなかったがそのままにさせておいた。

「要するに私は親友としてやるべきことをすればいいんだよね」
「やるべきこと?」
「うーん…だから励ましたり、一緒に悲しみに浸ったり、諦めるなって応援したり?」
「最後のはやめてくれ」
「冗談だよ」

コーヒーを飲み終えたひとみは時計を一瞥して充電器から携帯を引き抜いた。
無造作に尻のポケットに突っ込み、くしゃくしゃにされたジーンズの裾を伸ばす。

「私、もちろんみきたんの親友だけどお姉ちゃんのことも好きだから」
「わかってる」
「だから…えっと、だからね、二人とも大好きで…あの、その、それで私」
「……」
「私どうしたら…」

ひとみには亜弥の言いたいことはなんとなく察しがついていた。
立ち上がったひとみの腕を掴んだ亜弥の手に力がこもる。
そのまま数秒間ひとみは亜弥のいつになく真剣な目つきに囚われていた。
責められているような気がして視線を逸らしたくてたまらない。でもできない。
心の内を覗かれているような気分になり、ひとみは思わず目を瞑った。

だがそれはひとみの中にある罪悪感が見せる幻だったのかもしれない。

「みきたんとは本当に、もうダメなの?」

突然の亜弥の問いかけにひとみは即答できずただ無言で頷いた。
強張っていた顔をなんとかつくり変え、ひとみは亜弥に嘘くさい笑顔を向ける。

『美貴とはもう終わった』とあらためて声に出すことに抵抗を感じてはいなかった。
しかし自分たちの経緯をずっと見てきた亜弥に対してそれをすることには躊躇いを感じる。
美貴に対して心が残っているわけではない。
ただ申し訳ないという気持ちと『やっぱり』という焦燥感があるだけだ。
美貴とも『やっぱり』長くは続かなかった。本気ではなかったのかもしれない。

そういうひとみの心中を亜弥が知ればやはり悲しむだろう。
妹のそんな顔を見たくないという姉心がひとみを躊躇わせていた。

ひとみの笑顔に一瞬怪訝な顔をした亜弥も何かを悟ったのか笑顔を返した。
そして玄関に向かう姉の後を無言で追いかけた。

「お姉ちゃん、ちゃんと帰ってきてよ?私すごく寂しいんだから」
「ん、悪い。今度からちゃんと帰るようにする」

靴を履きながらひとみは答えた。

「石川先輩のところ?」
「ん」
「そう…」
「なぁ、亜弥」

ひとみは小さい頃からよくやるように亜弥の頭をクシャと撫でた。
そして先ほど亜弥が本当に聞きたかっただろうことの答えを投げかけた。

「オマエは美貴の味方をしてやれ。親友なんだろ?」
「お姉ちゃん……」
「大丈夫。あたしには梨華がいるし。それに美貴のことだって
 全然わかってないわけじゃないんだから。友達としては長い付き合いだしな」

俯いたままの亜弥をその場に残しひとみはドアを開けて半身を外に出した。
そして頭だけ振り返り少し大きめの声で妹の名前を呼んだ。

「あたしの部屋、あれ以上汚すなよ?」

弾かれたように顔を上げた亜弥にそう言うとひとみはドアを閉めた。
美貴が残していったあの言葉に比べたらなんとも情けない捨て台詞だと思いながら。
亜弥にしがみつかれていた右足が少しだけだるかった。











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