第一話  月よ、見届けて






ことが終わってから、そっと部屋を出た。



ジャケットの袖に腕を通しながら音を立てないように慎重に歩く。
服が散乱するリビングで、静かに自分の靴下を探り当てキッチンに向かった。

一歩一歩、息を殺して。

ブーンと低い音をさせている冷蔵庫から、数時間前に買ってきたオロナミンCを取り出す。
冷蔵庫のドアを開けたまま、あっという間に飲み干してさらに目についたポカリスエットに手を伸ばす。
自分が買ってきたものではなかったが、なにしろ行為のあとは喉が渇く。
一気に半分ほどを飲んでキャップを閉め、残りは元あった場所に戻した。

シンクに寄りかかり、首の後ろに手をやりふぅっとひと息つく。
この瞬間がたまらなく気持ちいい。
喉を潤し頭と体がともに落ち着いた瞬間。
心地よい疲労。

そしてようやく玄関に足を向けた。
瞬間、鉄の扉を前にしてふと頭をよぎった考えに捕らわれそうになる。
自分に向けられた苦い言葉を同時に思い出した。



『よっすぃーは逃げてるんだよ』



ノブを握る手が動かない。
数秒、そのままの姿勢でいた。
頭の中で無数の蟲たちが這いずりまわる。
血管がピクピクと反応し、嫌悪感と多少の高揚感に襲われる。
眉間に深い渓谷をつくり、そしてゆっくりと頭を左右に大きく振った。

ダメだ、わかんねー。

数秒で、思考もまた停止した。
意識的に考えることにストップをかけた自分がひょっこりと顔を出す。

わからないものはわからない。
なら仕方ないか。

自然にそう思った。
頭に負担をかけずラクな方向に目を向ける、得意の二段方式。
もう随分と慣れた作業。
自嘲気味に唇を歪め、そっとノブを回した。

外に出て通りを数メートル歩き出したところでふと携帯を忘れてきたことに気がついた。
チッと舌打ち。来た道を戻ろうかどうしようか思案して、ため息をひとつ。
面倒だが今取りに行かなければ後々もっと面倒になるな、と踵を返す。

眠っているのか死んでいるのか、目を閉じて身を固くしている猫の白い後ろ姿に
ワンワン、と吠えてから別れを告げたばかりの彼女の眠るマンションに向かった。

野良猫はピクリともしなかった。

背中に、白い月がずっとついてきていた。

居心地の悪い夜だった。



シーンと静まりかえったリビングで月の薄明かりを頼りに携帯を探していた手を止めた。
微かに聞こえてくる水音が、部屋の主がシャワー中であるということを告げている。
いつ起きたんだろう。てかホントに寝てたのかなアイツ。

一瞬頭に浮かんだ疑問も、視界の隅に入ってきた黒い塊に手を伸ばすことで消え去った。
いつもと違う重み、感触、ん?でもこの触り心地は覚えがあるぞ。
そう思いながら顔の前まで持ってきて確認した。

「プレステのリモコンかよっ」

ムカついてピンクのソファーに投げ捨てた。
ひっくり返ったリモコンに自分の字で書かれた『吉澤』という文字があるはずだが
この暗闇の中ではそれは見えない。

「なに探してるの?」
「携帯」

おそらくは濡れ髪のまま、バスタオルを巻きつけただけの格好であろう彼女にぶっきらぼうに答えた。
声が聞こえてきたリビングからバスルームへと続くドアのほうを振り返ったが
暗闇に同化した彼女の姿ははっきりとしない。
ただ真っ白に浮かび上がったバスタオルの存在が、彼女がそこにいることを示していた。

「梨華ちゃん」
「なに?」
「顔」
「顔?」
「黒くて見えない」
「なっ…」
「あっ違う違う!暗くて見えないだった!ゴメンゴメン」

本気で間違えたことわかってくれたかな、と彼女のほうを見ると無言でバスタオルが近づいてくる。
うぅ、やっぱ怒ってるかも。なんか言ってよ梨華ちゃん。

徐々に、細い手足の輪郭が見えてきた。
両腕がすっと首にまわされる。
ゆっくりと、顔が接近して…

互いの距離がゼロになり、バスタオルが視界から消え、目を閉じた。
どちらのものともわからない口の中で、どちらのものともわからない舌が踊りだす。

「ほんっとに流されやすいよね、よっすぃーは」
「ん?」

唇を離した彼女の呆れたような呟きが聞こえてはいたが、月明かりに反射している唇の
そのキラキラした動きに見とれていたため言われたことの意味をしばらくは理解できなかった。





「空はどんより曇り空〜オイラのあのコは〜」

調子はずれな歌を口ずさみながら空を見上げると曇り空ではなく当たり前のように月があった。

あの夜とまったく同じ顔をした月。
立ち止まり、苦い思い出に唇を噛みしめる。

傷ついた顔。傷つけられた痕。

ま、月なんていつでも出てるしな、それよりコンビニ寄ってオロナミンC買わなきゃ。

なんでもないふりをして月とあの頃の傷痕をむりやり意識から追い出して
これから行う大仕事に向けて再び歩きだした。
あの夜の月と今夜の月、同じ顔をした両者に奇妙な符号を感じながらも。

コンビニから出るとゴミ箱の影からさっと白い塊が飛び出してきた。
びっくりして手に下げた袋を落としそうになる。
心臓が早鐘のように打った。
コラッと声に出そうとしたら、相手が先手を打ってきた。

ニャオン

一言そう残し、何事もなかったように去っていった猫の後ろ姿を見ていたら怒るのを忘れた。

なんだかなぁ。
あの夜は猫じゃなくて犬だったな。

意識から追い出したはずの考えがまた蘇った。
しかしそれも無理のないことだと肩を竦める。
これから自分はあの夜と同じことをするんだから。
相手は違うけど『サヨナラ』を告げる。梨華ちゃんに、言わなきゃいけないんだ。

急に、足どりが重くなった。
辻加護が両足にひっついているようだ。まったく動かない。

まいったなぁ。
同じ過ちは繰り返したくない。いま言わなきゃ。

遅くなればなるほど傷は深くなると、身をもって体験した。もう、二度とごめんだ。

キッと空を見上げ月を睨む。
ヨシッと気合を入れてゆっくりと足を前に踏み出した。





ほんの数時間前のことなのに、随分昔のことのように思えた。
マンションにつくなり梨華ちゃんに『サヨナラ』を言ったのに、彼女は頭からそれを無視して
ハイハイと適当に返事をして服を脱ぎだした。
美しい裸体を目の前にして心が揺れた。

かろうじてこちら側に踏みとどまり、再度別れを告げた。
すると彼女は最後に抱いてほしいと言った。
どんな顔でそんなことを口にしたのか目を伏せていたあたしにはわからなかったけど、
彼女が真っ直ぐこちらを見据えているだろうことは想像がついた。
情けない自分に嫌気がさし、なるようになれとあちら側にダイブしたんだ。

何も言わず、何も言えず、眠る彼女を残しベッドから抜け出した自分。
明日からは仕事仲間として、普通の友達として過ごしていこうと心に決め外に出た。

そこまではよかったんだよなぁ。
なんで携帯忘れるかなぁ。

目の前でこれでもかってくらいフェロモンを放出している梨華ちゃん。
勝ち誇ったような顔するなよな。どうせ流されやすいよ。
でもね、梨華ちゃん、ごめんね。

「サヨナラ」
「まだ言ってる」
「本気だよ」
「この状態で?」

クスリと彼女が小さく笑った。
たしかにこの状態じゃ説得力ない。
腰にまわした腕を解き、首にまわされた細い腕から抜け出した。
電気をつけようと立ち上がり、ふと外を見ると月が雲に隠れていた。
急に不安になった。見ていてほしい、そう思った。

服を着た梨華ちゃんを正面から見据えて、でも目を見ることはできなくて
額のあたりに視線を向けて話を続けた。

「梨華ちゃん卒業するじゃん。来年。うまくいかなくなるよきっと。いまのうちに別れよ」
「アホだと思っていたけどここまでアホだなんて」
「自信ないもん。体の距離は心の距離なんだよ。ダメになるの目に見えてる」
「私の責任だわ。甘やかしたのがいけなかったのかしら?
 でもよっすぃーのアホさ加減は付き合う前からだったよね」
「アホアホいうな」

しまった。これじゃ梨華ちゃんに主導権を握られてしまう。

「さっき『最後に』って言ったよね?納得してくれたんだと思ったけど」
「『最後に』って?」
「『最後に抱いて』って」
「ああ。だってよっすぃー、そう言わなきゃ抱いてくれないでしょう」
「それは…そうだけど。えっ、じゃあ納得したんじゃないの?」
「………」

短い沈黙のあと、梨華ちゃんは口を開いた。

「私だってバカじゃないんだから恋人に別れたいって言われてハイそうですか
 なんて言えないわよ。よっすぃーはアホだけど」

またアホって言ったよコイツは。

「とりあえず本気かどうか確かめたいじゃない。だから寝てみればわかるかなって。
 抱かれたら、よっすぃーの本音が見えるんじゃないかなって」
「見えた?本音」
「…微妙」
「微妙なのかよっ」

捨て身の戦法?の答えを微妙ってアナタ。たまらずつっこむ。

「愛情は伝わってきたよ。優しい気持ちも。
 付き合い始めの頃から変わらないあなたの手の暖かさとか…
 でもその全部が私の願望が見せる幻なのかもって気もして。
 この温もりすべてが嘘だとは思わないけど、
 私のひとりよがりな勘違いかもしれないっていう気持ちも否定できないの」

『否定できないの』のところで声が少し上ずった。
少し間をおいてからあたしは『否定』した。

「今でも、今までも、昔から梨華ちゃんを愛してるよ。
 だから嘘じゃない。梨華ちゃんの願望が見せた幻なんかじゃないよ。
 勘違いなんて思わないで。けど、先が見えないんだ。傷つけ合う前に別れたほうがいい。
 これからは今までとは違うカタチで梨華ちゃんを愛していくから。
 仲間として、友人として。同期として」

今度は目を見て言った。一度もそらさずに。

「やっぱりよっすぃーはアホだよ」

梨華ちゃんの発する『アホ』のトーンがさっきまでとは明らかに違っていた。
あたしのワガママには到底納得できないって顔だけど、どこか諦めのムードも漂っていた。

「よっすぃーがそう決めたなら、わかった。っていうかわかんないけどわかったよ。
 仕方ないもん。こんなことになるって予感はしてたから。だから、隠してたわけだし」

パッと明るい表情になって、梨華ちゃんが続けた。

「なんかもっとグチャグチャに泣いちゃったり、怒ったり、殴ったりする自分がいても
 おかしくない気がするんだけど、不思議とそういう感情にはならないのよね。涙もでないしー。
 私って思ってたより大人だったんだー」
「うん、もっとドロドロになるかなって覚悟してたんだけどね。
 誘惑には負けたけど最後はけっこう爽やかになったね。あたしが言うのもアレだけど」
「ホントだよ、よっすぃーが言わないでよねー。自分勝手なことしといてさ」

あははは、と二人で笑いあってから「じゃあ」と席を立った。
玄関まで見送りにきてくれた梨華ちゃんにまた明日、と言おうとした。

「プレステは貸しておいてね。ドラクエ途中なの」

えーっと、あたしもFF途中なんですけど…ま、いっか。
自分の痕跡がこの部屋から全く無くなってしまうのは少し寂しい気がしてたから。
あたしもつくづく勝手だな。
苦笑して外に出ようとした背中に声が聞こえてくる。

「あー!クリアできないって思ってるでしょー。攻略本買ったから大丈夫だもんっ」

あたしの苦笑の意味を取り違えている梨華ちゃんがやっぱりまだ愛しくて
振り返らずに手だけで『バイバイ』と伝えた。

いつのまにか雲の切れ目から綺麗な月が顔を覗かせていた。



今度は、あの夜の月とはちょっと違って見えた。










<了>


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