ロンドン編 9






日が落ちて辺りはすっかり薄暗くなっていた。
鬱蒼と立ち並ぶ木々の間にある外灯が
申し訳なさそうに自身のまわりだけをほのかに照らしている。

きょろきょろと首を振りながら舗装された小道をゆっくりと歩いた。
なにしろ初めての場所だ。なにがどこにあるかなんてさっぱりわからない。
飯田先生と二人、肩を並べて道幅いっぱいに歩く。
この狭い道を数年前のあの日、圭ちゃんはどういう気持ちで歩いたのだろうか。
一体どういう顔をして。

「傘持ってくればよかったな」

止みそうだった雨がまたポツポツと降ってきていた。

「これくらいならまたすぐに上がるんじゃないですか」
「そうだね」

広い敷地に綺麗に張り巡らされた芝生が雨に濡れて光っていた。
その上を一歩一歩確かめるようにして踏み進む。
立ち並ぶ墓標を前にして息を漏らした。
ため息とは違う、畏敬の意が込められたあたしの声に隣に立つ飯田先生も無言で同意する。

「やっぱり飯田先生についてきてもらってよかったな」

コートのポケットに両手を突っ込んだまま、飯田先生はあたしの顔を見た。

「これだけの墓の中から目当てのもの探すなんて、ひとりじゃいつ終わるんだか」
「どこにあるのかわからないんですか?」
「だって初めて来たから」
「で、私に手伝えと」
「当ったり前じゃん。せっかくいるんだから一緒に探してよ」
「それは構いませんが……」

ポケットから手を出して長い髪をかきあげ一瞬目を伏せてから
飯田先生は意を決したように口を開いた。

「教えてください。吉澤さんがかつて愛したという人は、ここにいるのですか?」

前髪を伝った水滴が目に入った。
手で擦ってからあらためて飯田先生越しに目の前にずらっと並んだ墓を見る。
壮観だった。
雨に濡れて光る石が外灯の灯りを反射して微妙な色合いを醸し出し
この墓地という異質な空間をよりいっそう引き立てているかのようだった。
そしてそこに佇む飯田先生。
巻き込んでしまったことを、今さらながら申し訳ないと思った。

「ここにいるって聞いた。あのときあたしは確かめもしないで日本に帰ったから…」

怖かった。
確かめるのが怖くてあたしは逃げ出した。
なつみの死を聞いても頑なに信じようとはしなかった。
受け入れることを拒絶した。
圭ちゃんの話も警官の説明もなにひとつ耳に入らず、理解しようとしなかった。
瞼の裏に焼きついた落下する間際のなつみの顔。
それだけが、あたしの世界では唯一の真実だった。

「なさけねぇ…」

なつみが優しく微笑んでいたことだけが。
あたしの中では真実だった。

「では探しましょう」

あたしの呟きが聞こえなかったのか、あるいは聞こえないフリでもしてくれたのか
飯田先生はことさらなんでもないような口調で促した。
なつみの名を告げるとつかつかと一番近くにあった墓に近寄り
刻まれている文字を確認しだした。

「しらみつぶしに探すしかないですね」
「………」

事務的に次々と名前を確認する飯田先生の傍らで
あたしも探さなければと思いつつも足がさっぱり動いてくれなかった。
「次、次」と声が聞こえてきそうなほど飯田先生は流れ作業をひとりでこなしているのに。
肝心のあたしは馬鹿みたいに突っ立って、それをぼうっと眺めているだけだった。

ぼんやりとだけど外灯もついてるし綺麗に整備された公園だから
墓地といっても特別に不気味だったり気味が悪かったりするわけではない。
現に飯田先生はなんの躊躇もなく足を踏み入れて
尚且つ抵抗なく墓石をまじまじと眺めては名前を探す作業に没頭している。

ただあたしは怖かった。
物言わぬ墓たちが、ではない。

「吉澤さん?」

最後のとき、愛する人に拒絶され奈落の底へ突き落とされた記憶が蘇ることが、ではない。


「吉澤さん……」

さっぱりと動かなかった足が前に進む。
あたしの意思とはまるで無関係に、でもゆっくりと進んでいた。
フラフラと引き寄せられるように墓の間を縫うように進み
怪訝な顔をしている飯田先生の横を通り抜けて。
外灯の届かないある一角に向けて歩いていた。
なにかに誘われるようにそろそろと動き出したあたしの後を
飯田先生はなにも言わずについてきていた。

そして止まる。

影になったその場所でしばらく立ち尽くした。
なにも見えない。外灯の光は届かない。
ふと視界の右隅からポツンと小さな円が浮かび上がってるのが見えた。
飯田先生のペンライトだとわかった。
妙に用意がいいなぁと感心していると、その円はあたしの足元で機械的な動きをしてから
見えなかった先を照らしてくれた。

円が、文字をなぞる。

いつのまにかすぐ横に飯田先生が立っていた。
無言のまま何度も何度もペンライトで文字をなぞっていた。
それをぼんやりと眺め、ひとつ深いため息をつくと急に膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ちるように倒れこんだら濡れた芝が口の中に入った。

「吉澤さん、泣いてるんですか…?」



あたしが恐れていたのは確かめること。
なつみの死を確かめるのが怖かった。
なつみの死を受け入れることが、怖かった。



心のどこかでなつみはまだ生きていると思いたかった。
信じたかった。
あの夜、あたしを屋上から突き落としたなつみ。
炎に飲まれる間際、優しく微笑んでいたあの顔がずっと脳裏に焼きついていた。

あたしが生き残ってなつみが死ぬわけがない。
なつみはあたしに一緒に死のうと言ってくれた。
あたしはなつみと永遠に一緒にいられると…。
そんななつみがあたしを置いて逝ってしまうわけがない。
あたしはなつみに最後の最後までも突き放されたの……?

信じたくなんてなかった。
嘘に決まってる。
みんなであたしを騙してるんだ。

「嘘だ…」

だってなつみは言ってくれた。
好きだと。
あたしのことが好きだと言ってくれた。
アイシテルと、落下するあたしに向けて放った言葉はなんだったの?
お別れの言葉にしては悲しすぎるよ、なつみ。

どうしてあたしを…突き落としたの?
なつみは知っていたの?
あの下が柔らかい土に覆われた花壇だということを。
どうしてあたしを…。

「嘘だーーーーーっ」

目の前に刻まれた文字はかつて愛した人の名前。
あたしが命をかけて心の底から愛を囁いたその人の名前。
信じたくなくて、確かめたくなくて、弱いあたしは今の今まで逃げていた。
現実から、なつみから、なつみを愛した自分から…。
なつみ以上に愛する人ができてしまったことへの罪悪感を抱えながら。

「なんで…なんでだよっ。なつみはどうしてっ」

両手で芝を掻きむしった。
爪の間に土が入り込み、痛みが走る。
額を地面に擦りつけ、許しを請うように泣いていた。

激しい雨がいくら洗い流してもあたしの顔や頭や手は泥にまみれて
なつみの墓標の前にひれ伏し声の限り叫んだ。
叫んで、責めて、怒鳴って、力いっぱい拳を地面に叩きつけ、また泣いた。

「ごめん…ごめんね、なつみ…ごめんなさい…」

なつみの死を恐れる反面、あたしは心のどこかでなつみの生をも恐れていた。
たとえなつみが生きていたとしても、もうあたしはなつみの傍にはいられない。
あれほど全身で愛を訴えていた相手だけれど、自分はもうあの頃の自分ではない。
あの頃、なつみが世界のすべてだったあたしでは、もうなくなってしまっていたから。

愛と死を囁きあったあのときの自分はなんだった?
なつみがいて、あたしがいてそれがすべてだったあの頃をまるで否定するように
あたしは美貴を愛するようになっていた。
それが死んでしまったなつみへの裏切りのような気がして、そんな自分がたまらなく嫌だった。
のうのうと生き残ったこの身が憎いとさえ思った。

「でもあたしは…それでもあたしは…美貴を、もうどうしようもないほど美貴を…」

愛してしまっている。

そう、なつみの死を受け入れられない反対側で、あたしはなつみの死を望んでいた。
すっかり心変わりしてしまった自分がなつみと向き合える勇気などありはしなかった。

反吐がでるほど汚い自分。
過去に囚われ、過去を裏切り、過去を否定していた自分。
あたしはたしかになつみを愛していたのに。
なつみだけを愛していたのに…
どうしようもなく美貴に惹かれてしまったんだ。

かつてあたしはなつみとともに死にたいと思った。
でも今は…。

「あたしは美貴と…美貴と、生きていく。これから先の人生を美貴と…」

美貴と生きたい。
決して離れることなく最後のときを迎えるその瞬間まで、一緒にいたい。

「だから、ごめん…ごめんね、なつみ…あたしを…こんなあたしを…」





生かしてくれて、ありがとう。
そして、さよなら。





体も、心もぐちゃぐちゃだった。
雨が打ちつけ、風は吹き荒び、外灯はいつのまにか消えていた。
泥と涙にまみれながらようやくあたしは別れを告げることができたのだろうか。
なつみに、過去に、そして…弱かった自分に。





覚えているのはそこまでだった。
次に気づいたときにはどこかわからない白い部屋にいて、ベッドに寝かされていた。

頭はハンマーでガンガン殴られているかのように痛み、手足はピクリとも動かなかった。
顔や体が熱くてたまらなかった。
瞼が重く、視界がいつもの半分もなかった。
喉がカラカラ渇いて水分を欲していた。
眼球だけを動かして左右に目をやると、見慣れた顔がそこにあってホッとした。

「気がつかれましたか?」

声は出せなかった。目線だけで頷く。

「まだ熱が高いので動くのは無理でしょう。喉は渇いていますか?」

そろそろと水を飲ませてもらい、ついでになにかよくわからない薬を飲まされた。

「お嬢様は、まったく無茶をなさいますね」

マリアの顔は呆れていて、あたしはまた迷惑をかけたのだと申し訳なく思った。

「もう三日も目を覚まさずに寝込んでいたのですよ」

マジで?!三日も?

「元気になったら飯田先生にお礼を言うんですよ?」

眉間にしわを寄せて、なんでだ?という表情を作る。

「ぐったりしたお嬢様を抱えてうちの病院に飛び込んでこられたのですよ。
 ご自分も雨や泥ですっかり体が冷えていたというのに…。
 そのときのお嬢様は血の気のない顔をして叩いてもなんの反応もありませんでした」

オイオイ。叩くなよ。

「飯田先生が私の働いてる病院に来たのは偶然でしょうけど
 私がこうしてまたお嬢様の看病をしているのは
 神様が気を利かせてくれたのかもしれませんね…」

神様がどんな気を利かせたってんだよ。

「とにかくここまで回復して安心しました。
 一時は肺炎を起こしかけていたのですから。安静にしてゆっくり寝ていてください。
 ちなみに飯田先生はピンピンして診療に励んでいるようですよ」

へーへー。どうせあたしは弱っちいよ。
タフな飯田先生にくらべたら情けないですよ。

「それでは、ゆっくり休んでください。私はずっとここにいますから…」

マリアの手があたしの頭を撫でて前髪を梳いてくれた。
その温かくて大きな手にまたホッとして、それからすぐに深い眠りに落ちていった。



夢の中では美貴が楽しそうに笑っていた。











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