ロンドン編 8






荷物なんてほとんどなかった。
ストリートマーケットで買った古着をかき集めて畳まずにバッグに詰める。
安物だし愛着があるわけでもないから無理に持っていく必要もないけれど
自分の痕跡を残していくのはみっともない気がして無理やり小さなバッグに押し込んだ。

そうしてからしんと静まり返った部屋を見渡す。
なにもない。あるのはかび臭いベッドと古びたテーブル。
イスもソファもクローゼットもない汚い部屋。

だれもいない。いるのは甘い考えに目が眩み
その結果なにを得ることもできなかったただのガキがひとり。
それでも少しの間でもなつみと一緒に住むことができたこの部屋は
この時間は、きっと愛しいあたしのスウィートホームだったはず。

せめてそうでも思ってやらなきゃ報われない。
あたしも部屋も、そして…なつみも。

「さよなら」

誰もいない空間にあたしが吐いた言葉は伝えたい相手に届く前に消え落ちた。
でも、届かなくてよかった。

「ひとみ?」
「なつみ…」

あれほど毎日会いたいと願っていた相手がよりによって
絶対に会いたくないそのときに現れるなんて。
皮肉にもほどがある。笑えない冗談みたいだった。

「出てくの?」
「うん」

期待なんてしていなかった。
なつみがあたしのことをどう思っているか…そして思っていないかなんて
とっくに承知していた。
淡い期待を抱くほどあたしはもう子供ではない。
ガキには違いないけど夢を見続けるほどバカではない。
いろんなことを経験して、悟って、あんなに毛嫌いしていた大人ってやつに
なりつつあったのかもしれない。

それなのに。

「どうして!」

なつみの口から出たのはあたしが予想していた言葉とはまるで正反対のものだった。

「なんで!なんで…あたしを置いていくの?!」
「なつみ……?」
「ひとみは、ひとみはあたしのことを、ずっとあたしのそばに…」
「そのつもりだったよ。あたしはずっとなつみのそばにいた。
 でも…なつみは、あたしのそばにはいてくれなかった。だからあたしは」
「いやっ!やめて…それ以上言わないでっ!」
「なつみ!」
「いやーっ!!ひとみヤダ!お願いだから…やめて!行かないで!ここに、あたしと一緒に」
「なつみ?!」

バッグを持っていた右手を強く掴まれて、思わず顔をしかめた。
その小さい体にどうしてこれほどの力があるか不思議なくらい
なつみはあたしの手首を掴んだままぐっと唇を噛み締めていた。
そんななつみの姿を見て、あたしは初めて、あたしとなつみの歳は
もしかしたらそれほど変わらないんじゃないかという気がした。

顔だけ見ればベビーフェイスだけどその物腰や言動は
あたしより遥かに歳を重ねてきた人間のものだったから
漠然となつみは大人だと思っていた。
けれどこうしてあたしの手首を掴んで唇を震わす姿は
あたしが知っているなつみとは程遠くて。
あたしだけじゃない、きっと今まで誰も見たことのないなつみがそこにいた。

「ひとみが行っちゃう……」
「………」
「あたしのひとみが……あたしの……」

どうしてだろう。
言われるはずのない言葉を聞いて、本来ならば淡い期待どころか
けいちゃんの言うところの一発逆転を目前にしているというのに。

どうしてだろう。
予想もしていなかった態度と言葉であたしに縋ろうとしている彼女がここにいるというのに。
まさにあたしの願いどおりのことが起きているのに。

どうしてだろう。
初めてこんなに取り乱す彼女を見て、それでもあたしが冷静でいられるのは。
求められて嬉しくないはずがないのに。
気持ちが冷めたわけではないのに。
それどころかあたしは今だって、この瞬間だってなつみが欲しくて仕方ないというのに。



どうしてあたしは、なつみが可哀想だなんて思ってるの?



これがあたしたちの終わりなの?
教えてよ、なつみ。

どうしてなつみはあたしを求めてるのか。
あたしはなつみを置いていけないのか。



「なつみ……」

あたしの手首を掴んだままがっくりと首を落として俯いたままのなつみを呼んだ。
彼女からの返答はなかった。
かわりに掴まれた手首がさらにぎゅっと締まって声にならない苦痛が漏れる。
いつまでこうしているのか、どうしたらいいのか。
途方に暮れて窓を打ちつけている激しい雨音に耳を傾けていた。

「もういい…」
「え?」

久しぶりになつみの声を聞いた気がした。
喉の奥から搾り出したような、掠れた酒焼けをした声。
舞台の上であんなに通っていた声は見る影もない。
あんなに澄んで、どこまでも響いていた声がいつのまに。
覇気のない瞳はどす黒く、すべてを見透かすような強い眼差しは影も形もない。
一体いつから?それもこれもあたしと出会ってから?
あたしはなにを見てきた?なつみのなにを。

なつみはあたしを、あたしはなつみを、もう二度とは戻れない舞台上から引き降ろして
お互いになすすべもなく深い闇の底へと堕ちていったのか。
それでも一緒にいたいと思うのは自分勝手で傲慢な、歪んだあたしの愛情なのか。
こうすることでしか表現できなかった稚拙な愛。
なつみはあたしを愛してるの?

「もう…ひとみなんか、どっかに行っちゃえ…行っちゃえ!出てけ!!」
「なつみ!なつみ!」
「イヤ!触るなっ…イヤだってば!出てけ!出て行かないならあたしが出る!」

しっかりと掴んでいた手首を離してなつみはあたしの脇の下をすり抜けてドアに向かった。
その勢いに圧されて一瞬追いかける足が出遅れた。
すぐさま体勢を立て直して駆ける。
ドアの外に出たとき焦げたような臭いがしたけど無視してなつみを追った。
屋上に向かう階段を脱兎のごとく上るなつみの背中を目に留めて反射的に体が動いた。
なにかを考える余裕などなかった。

ユニオンジャックをデフォルメしたような歪な形の落書きを横目に
屋上に抜ける長い階段を上りきると、漆黒の闇の中にはっきりとなつみの姿が見えた。
そしてその背後には赤々と燃える炎。
容赦なく降りそそぐ冷たい雨などものともしない息苦しい熱。

どうして?
いつのまにこんなことに?
なつみはどうして笑っているの?

「なっ、なんで?!」
「ほら見てよ、ひとみ。こんな闇の中でもあたしは輝いている」
「なつみ?!」
「あたしの一人舞台よ!みんながあたしを見ているわ!!」
「なつみ!」

名前を叫びながら一歩一歩彼女との距離を詰めた。
なつみはフェンスも柵もなにもない屋上で軽やかに踊っていて
熱気といつのまにかモクモクと立ち上った煙に遮られながらもそんななつみにゆっくりと近づく。
ふと下を見ると何人かが動く影。そして男たちの怒号が聞こえた。
まさか、という嫌な思いがよぎったけれどそんなことを考えてももう遅い。
危なっかしく動きまわるなつみにだけ神経を集中した。

「ふふっ。あのフランス野郎…あたしがヤラせなかったからって」
「は?どういう…」
「ひとみは逃げなくてもいいの?今ならまだ外梯子で下に降りられるわよ」
「なつみは?」
「あたしはステージの最中よ。主役が逃げ出すわけにはいかないわ」

あたしは煙を吸い込み少し咳き込んだ。
なつみはまるでそんなことには動じず、優雅なステップを踏んで
聞いたことのないメロディを楽しそうに口ずさむ。
この切羽詰った状況でも屋上はまさに彼女の言葉どおり、一人舞台だった。
あたしが初めて彼女を見て、一瞬で心を奪われたときのように彼女は舞台上で踊っていた。

「見て、ひとみ。あたしを照らすライトを」

炎は勢いを増して今にもあたしたちに圧し掛かりそうだった。
逃げなければと思いつつ、彼女から目が離せない。
死というものが迫ってきていることは漠然と感じていた。
ただ現実感はなかった。
こうしてまた彼女が笑い、歌い、あたしを見つめていることが夢のようで。

「最高にハイな気分よ。どんなクスリだってセックスだってこんな気分にはなれないわ!」
「なつみ…綺麗だよ…」

踊り狂う彼女に目を奪われて、心を鷲掴みにされて、なにも聞こえなかった。
無音の世界にあたしとなつみの二人きり。
あたしがずっと望んでいた世界がここにあった。
誰にも邪魔されず、あたしとなつみ以外の人間なんて入らない二人きりの静かな世界が。

「あはははっ。ねぇ、ひとみ」
「なに?なつみ」
「こっちに来て。もっとあたしを見て」

柵もフェンスもなにもない屋上の縁でなつみはゆらゆらと舞いながらあたしを誘う。
一歩間違えればなにも見えない地上に真っ逆さまという場所で、それでもなつみは踊る。
この炎の中ではそんなことも些細な状態に過ぎない。

ターンを決めてあたしの鼻先でピタリと止まったなつみが笑った。

「一緒に死のうか?」





◇◇◇◇◇



渋る飯田先生の背中を押して、あたしたちは雨の中をまた歩いた。
寒かったけど冬の澄んだ空気は気持ちが良かった。
これからあたしがしなければいけないことを考えたら足がすくんだけど
何度も訪れたこの公園に寄ることで勇気をもらえるような気がした。

この期に及んでも尚、あたしは嫌で嫌で仕方ないらしい。
飯田先生がついてきてくれると言ったとき、これであの場所に行けると思った。
確かめることができると。
でもそれは甘い考えだった。
誰がいようとなにも変わらない。
すべてはあたしの気持ちひとつで決まるなんてこと、始めからわかっていたのに。

「こんな寒い中をあなたも物好きですね」
「あたしが言う立場じゃないけど飯田先生も相当だよ」
「それもそうですね」

こんな姿、美貴が見たらどう思うだろう。
雨の中を決して仲がいいとは言えない二人があてもなくトボトボと歩いている。
手にはビスケットを持って。
楽しい話をしてるわけでもなく、ただ淡々と歩いているこの姿を。

美貴はきっと笑うだろうな。
それか泣いてしまうかもしれない。
根拠なんてないけどなんとなくそう思う。
美貴を泣かしてしまうかもと。

でもまず間違いなく嫉妬するなんてことはないだろうからその点は安心だ。
後ろを振り返って同じように歩いてくる飯田先生の顔を見ながらまたビスケットを齧った。

「吉澤さん」
「んー?」
「ほら、あそこ。手招きしている人が見えませんか?」
「んんー?見えない。あたし目、悪いんだよね」
「ああ、やっぱり。どう見てもあれは私たちに向かって手招きしてますよ。行ってみます?」
「えぇ〜。怪しいからやめとこうよ。どんな人?」
「黒人の、恰幅のいい紳士…いや、婦人かもしれないな。
 暗い色のコートを着込んでいるのでよくわからないのですが…」

それを聞いてあたしは弾かれたように駆け出していた。
ビスケットを口に放り込んでむしゃむしゃと勢いよく飲み込む。
後ろで「えっ?」と驚いた声をあげる飯田先生を置いて目指す人物に一直線。
飯田先生の呆気に取られたような顔がたやすく想像できた。

「マリア!」

顔に満面の笑みを浮かべた彼女がそこにいた。
両手を大きく広げてあたしを迎え入れてくれる。
まるであたしがここに来ることがわかっていたかのように、どっしりと待ち構えて。
しわだらけの顔には深い年輪が刻まれていたけれど
あの頃と変わらないマリアの笑顔はあたしをいつでも安心させる。

「お嬢様はいくつになっても変わりませんね…」
「それ、この前も言ってた」

昨年末に渡英した際、久しぶりにマリアと再会したときもやっぱりこうして抱きしめてくれた。
でもどうしてだろう。あのときよりも今のほうがよっぽど嬉しい。
嬉しすぎて視界がぼやける。
顔をマリアのコートにグリグリと埋めて懐かしい匂いをかいだ。
あの頃の匂いがした。

「ほら。涙をお拭きになってください」
「泣いてなんかねーっつの」

マリアが差し出したハンカチを勢いよく掴んで目許を素早く拭いた。
ゆっくりとこちらに向かってくる飯田先生に見られないように。
いつまでも子ども扱いするマリアに少し不満げな表情を見せると
ハンカチを受け取りながら彼女は意味深なウインクをひとつした。

「なんでこんなところにいるんだよ」
「あらまあ。お嬢様こそ私のお気に入りの場所にどうして?」
「さあね。マリアに会えるかもって思ったからじゃないよ。残念ながら」
「ええ。そうでしょうとも。私はなんとなくですがお嬢様に会えるような気がしてましたよ」
「マジで?!」
「嘘です」

してやったりといった顔のマリアが頬を染めて指を鳴らした。
あたしが引っかかったのがよほど嬉しいらしい。
その場で軽くステップを踏んで年甲斐もなくジャンプなんてしている。
くっそー。なんだよー。昔はあたしがからかう立場だったのに。
本当はほんの少しだけマリアに会えるんじゃないかって期待してたことは悔しいから言わない。

「ロンドンには例の件でいらっしゃったのですか?」
「いやあれは年末にオヤジに会って事足りたから。今回は別件」
「別件と申しますと…」

少し躊躇した。
ひとつ息を吐いてからいつのまにか霧状になった雨空を見上げる。
再びマリアの顔に視線を戻すと彼女はすべてを悟りきったような穏やかな表情をしていた。
年の功なのか、それともあたしの考えてることなんて昔からお見通しなのか。
そういういろんな要件を抜きにしてもマリアは昔から勘が良かった。
だからオヤジにも気に入られたんだろうな。

「あの、事故のことですか…?」

事故、とマリアは言った。
少し間があったのは言葉を選んだためだろうか。
ワカゾーのあたしにはそのへんを見抜くことはできない。
ただ、事故と言われても困った顔をしなかった自分はそれだけで上出来だろう。
彼女の言葉を無理に否定することはない。
彼女にとって、そしてあたしにとっても、あれは事故だったんだから。

「そう。あれ以来会ってなかったから……ちゃんと、するために会いにきたんだ」
「では、お気持ちの整理がついたのですね」
「まさか」

軽く笑って否定した。
マリアの表情は変わらない。
相変わらずあたしを優しく見つめている。

「整理をつけにきたんだよ」
「お嬢様ならきっと大丈夫でしょう」
「そう思う?」
「ええ、もちろん。お嬢様のことならなんでもお見通しです。
 あなたなら大丈夫ですよ、ヒトミ。私はヒトミのことを本当の娘のように思ってきました。
 もちろん今でもその思いは変わっていません。あなたは私の娘です。
 いつだって、どこにいたってあなたの幸せを願っているのですよ。同じ空の下で」
「ありがとう」

頬にキスをして固く抱きしめた。
あたしだってマリアのことをオフクロみたいに思っているよ。
恥ずかしいから言わないけどさ、いつか絶対言うからそのときまでもう少し待っていてよ。
あたしが今よりももっと大人になるまで。
ちゃんと面と向かって言えるようになるまでね。

「あたし、本当は怖くてたまらないんだ。考えただけで足がすくみそうになる」
「おやおや。あんなに怖いもの知らずだったお嬢様が情けないことを」

手の甲を口許に押し当ててマリアは軽く笑った。
そしてすっと真剣な顔になると逞しい腕であたしの頭を抱き、
自分の胸の中にすっぽりと収めた。
マリアの心臓の音が微かに聴こえてあたしは自然と耳をすませていた。

「過去の過ちを埋めるために現在があるのです。あなたは素晴らしい女性です。
 過去を悔いることがあったとしてもなにも恥じることはありません。
 私の大切な娘ですから…あなたを誇りに思っていますよ、ヒトミ。神のご加護を」

ありがとう。
あたしは再びマリアの匂いをかいだ。
心地よくて懐かしい匂い。
あの真っ白な清潔なシーツに包まれながら爽やかな朝を迎えて
二人でお喋りをしながら紅茶を飲んだ時間。
憎まれ口を叩いて怒らせたり、勝手に家を抜け出して心配をかけたり。
いろんな時間を共有してきた記憶が、匂いとともに蘇る。

しばらく抱きついていたら気持ちよすぎて寝そうになった。危ない危ない。
こんな状態で寝たらマリアになにを言われるかわからない。
またからかいのタネができたと大喜びするだろう。
少しだけ名残惜しかったけど、マリアの言葉を胸にそっと体を離した。
彼女はやっぱり優しく微笑んでいた。

「お嬢様が気持ちの整理をつけようとなさるのはあの方のためですか?」
「あの方?」

マリアの視線をゆっくりと追う。
その先には手にビスケットの袋を持ったまま所在無さげに立ち尽くす飯田先生がいた。

「あ、忘れてた」

あたしたちのなんとも言えない雰囲気を察してかそれとも話に入るのを面倒と思ったのか
気を使って少し離れたところにいる飯田先生は、霧の中でやけに綺麗に見えた。
なにか声をかけるとかしてくれればよかったのに。それか車に戻ってるとか。
あんなところでただ突っ立ったまま待っていた飯田先生に少し悪い気がした。

「お嬢様の大切な方ですか?霧でよく見えませんが綺麗なお方ですね」
「ちっがーーーう!!違うから!
 全然、まったく大違い!勘違い!そんな関係じゃないっつの!」

すごい剣幕で否定するあたしにマリアは目を剥いて驚いていた。

「そんなに必死にならなくても…」

いや、だってさ。冗談じゃないよ。
あたしがここまで苦しんでまわり道してもがいて頑張ってきたのが
飯田先生のためだなんて、勘違いでも思われたくない。
それは飯田先生がどうこうって言うんじゃないけど
あたしの大切な人はこの世でたったひとり、たったひとりのかけがえのない人だから。
マリアにはいつかちゃんと美貴を紹介したい。
胸を張って一緒に会いに行くよ。

「お嬢様の言いたいことはよーくわかりましたよ」
「ホントにわかってんのかよ…」
「では、あの方は?」

少しきょとんとした顔でこちらを見ている飯田先生。
なんの因果でこんなところにいるんだか。
ここに至るまでの経緯とかを抜きにしてもビスケットの袋を持って立ち尽くす姿は笑える。

「彼女は…あたしの友達だよ」
「そうですか。お嬢様の」
「兼ドライバー、かな」
「まあ、お嬢様ったら」

マリアはどこか嬉しそうに飯田先生を見つめていた。



再会を約束してその場でマリアと別れ、飯田先生のもとへ歩み寄る。
口を開きかけてから思い直して、ビスケットの袋を指差した。
渡された袋からビスケットを取り出して齧る。
食べながらあたしたちは来た道を引き返し、今度こそ目的地へと向けてミニを走らせた。
運転はもちろん飯田先生の役目だった。

「どこに向かうのか聞いてもいいですか?」

公園墓地の名前を告げると飯田先生は怪訝な表情を隠さなかった。

「聞かない約束、破ってしまいました」
「もうそれは無効でいいよ。なにも言わないってのも飯田先生に悪い気がしてたし」
「ではあとひとつだけ。吉澤さんはなにを確かめにロンドンに来たのですか?」

広い通りに出てミニのスピードが上がった。
徐々に雨足が強まりガラス面に打ちつける雨粒が斜めに走る。
街灯のない寂しげな直線をあっという間に駆け抜けて、いくつかのゆるやかなカーブが過ぎ
その入り口に差し掛かる門を通り抜けた頃あたしはようやく口を開くことができた。
雨の音がやたら耳についていた。

「なつみが……昔、あたしが愛した人がどこにいるのかを確かめに」



ずっと考えていた。ずっとずっと考えていた。
あの夜、落下する速度を体全体で感じながら。
なにも見えなくなった瞬間から今までずっと。



ずっと考えていた。ずっとずっと…。



なつみは本当に、あのとき死んでしまったのだろうか。




◇◇◇◇◇



いろんな色があった。
煌々と輝く星。燃え盛る炎。
素肌に突き刺さる空気が痛いほどの中に吐き出される白い息。
そしてそれよりももっとずっと白い自分の手と、なにもかもを覆いつくす闇。
その闇よりも深くて底知れない色を持つなつみの瞳。
それらすべてに降りかかる雨だけはなんの色も持っていなかった。
だれもかれも平等にふりそそぐ雨があたしたちのかわりに泣いていた。

「好きよ、ひとみ」

あたしとなつみ、二人以外は誰もいない薄汚れた建物の狭い屋上の縁に立つ。
体は離れたまま。でも唇が触れるくらいの距離でなつみに囁かれて眩暈がした。
あたしはやっぱりまだこんなにもなつみのことが好きで
なつみの一言にこれでもかと心が揺れ動く。
この人を置いてなんて行けるわけがなかったんだ。
この人の行く先に一緒に行きたい。

「あたしも大好きだよ」

めきめきと高くて鈍い金属音が鳴り響いた。
建物全体が悲鳴を上げているよう。
炎はもうそこまで迫っていた。
あちこちからサイレンの音も聞こえている。
街の灯りはいつもと変わらずぼんやりしていた。

「ねぇ、抱きしめて。強く…抱きしめて」

なつみの腰あたりに置いていた両腕をそっと背中に滑らしてゆっくりと引き寄せた。
柔らかさや温かさをじっくりと確かめるように徐々に力を込める。
今まで数えきれないほど何回も抱きしめてきたのに
なつみはまるで初めてそうされるかのようにあたしの腕の中で震えていた。
震えながらあたしの背中に手をまわし、慈しむように何度も同じ場所を撫でていた。

「お願い…もっと、もっと強く抱いて」
「好きだよ…」

ただ抱きしめた。
なつみを抱きしめていた。
このために、この瞬間のためだけにあたしは、
あたしたちは生まれてきたんじゃないかと思えるほどに心が満たされていた。

こんなにも愛しい。
愛しい人を抱きしめることがこんなにも神聖だなんて。
自分の存在がひどくちっぽけなものに思えて抱きしめる腕に力を込めた。
なつみともう二度と離れたくはなかった。

ガシャンと今までで一番大きな音がした。
なにかが崩壊するような消滅するような悲しくて恐ろしい音だった。
炎が生み出す煙とは違う粉塵を吸い込みむせた。
それが目に入り涙が出た。
口の中がカラカラに乾いていて、噛むとジャリっという嫌な音がした。
終わりのときが迫っているのがわかった。

「今の音…」
「うん?」
「外梯子が落ちたのかも」
「そっか…そうかもね」
「もう逃げられないね」
「なつみは逃げたかった?」
「ううん。そんなことどうでもいい」
「そうだね。一緒に死のう」

あたしの、まるで休日にどこかに誘うような口ぶりで放つ死という響きに
なつみはただ笑って頷く。
頷いてからまた少し困ったように笑ったのはなぜだろう。

まるで現実感がないその笑顔に癒され、絆されて、またゆっくりとなつみの体を抱きしめた。
自分となつみの体の境界線がわからなくなるほどに隙間を許さず抱きしめる。
密着した部分はまわりの熱気とはまた違った温かみを持っていた。

「ひとみは夜が似合うって、初めて見たときから思っていた」
「いきなりどうしたの?」
「こうして闇の中に浮かんでいるとあらためて思うの。
 なにも見えない闇の中でひとみの存在だけがはっきりと分かる。
 白い肌と澄んだ瞳がそう思わせたのかもね…」
「なつみ?」
「ひとみはいつも輝いている。だから眩しくて目が開けられないの。
 でも舞台の上の女優たちのような下品な輝きじゃないわ。
 そんなひとみが羨ましい。どこまでも純粋で……。ねぇ、ひとみ?」
「……なに?」
「あたしはひとみの顔が好きよ。この綺麗な顔が。
 でも汚したかったの。あたしの手で汚れるのが見たかった。
 汚れたら捨ててしまうつもりだった……でも」
「でも?」
「ううん、いいの。もうそれは……」



いいのよ。



掠れた声でそう言いながらなつみは目を閉じてあたしの胸に顔を埋めた。
なにがもういいというのか、聞く気にはならなかった。
なつみがそう言うのならもういいんだろう。

遥か遠くテムズ川の方向に目をやった。
真っ暗な闇が見えるだけ。
ちらちらと薄ぼんやり光る街の灯りの中には
今こうしてあたしのように好きな人と抱き合っている人たちがいるだろうか。
あたしのように愛する人の髪にキスを落としているだろうか。
その人たちとあたしたちはなにが違うというのだろう。

なにが違っていたのだろう。
ただ、人を好きになっただけだというのに。なにが。

「愛してるよ」

愛を囁くのには若すぎたのかもしれないあたしは、それでも幸せだった。

「なつみは?あたしのこと愛してる?」

背中を撫でていた手がとまる。
背骨に沿って滑らかに降りてきた指がなぜか目の前に翳された。
目を閉じると頬に手を添えられて顔全体の形を確かめるように指が動いた。
ぷにぷにと頬を引っ張ったりこめかみから目の下、鼻、唇にかけてのラインを
ゆっくりと触れたり離したり。
惜しむように撫でまわした後になつみは再びあたしを抱きしめた。

「なつみ?」

今までで一番力強く抱きしめられた。
きっとなつみの精一杯の力で。
降りしきる雨で髪も服もずぶ濡れだったけど温かかった。
初めてなつみに抱きしめられてドキドキしたあの頃よりも少し余裕ができた今
心の中は穏やかだった。
ダウンジャケットの下に着ているTシャツはなつみの涙で濡れていた。

「ごめんね………」

それは鎖骨の下あたりに顔を埋めたなつみのくぐもった声が
聴こえたと思った瞬間だった。

「え?」

あたしの声は声になっていたのだろうか。

軽い衝撃。
なにがなんだかわからないままなつみが遠ざかる。
一瞬の浮遊感。
突き飛ばされたとわかるのに時間はかからなかった。
ゆっくりと落ちていく。

スローモーションかあるいはコマ送りのように視界を占める空の面積が広くなる。
必死に手を伸ばしたダウンジャケットの裾の向こうに見えるなつみの姿。



どうして。



伸ばした手の行方はどことも知れない世界。
あたしとなつみとお腹の子供と築くはずだったスウィートホーム。
甘い夢物語に溺れても、せめて最後のときは一緒にと。

肉体が滅びてもそれでもなつみはあたしを支配して。
きっとあたしは永遠に囚われの身。
それがあたしの…望んだ結末。

それなのに、どうして。



指の隙間から見えたなつみが優しく微笑み、そして唇を動かした。










 ア イ シ テ ル










刹那、なつみは炎に飲まれ、あたしは体全体に強い衝撃を受けた。
嫌な音がして今までに味わったことのない苦痛が体を襲い視界が歪む。

土の匂いと微かな甘い香りがしたような気がした。





ブラックアウト











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