ロンドン編 7






薄々予想はしていたことだけど
本当にその通りだと悲しいのを通り越してなんだか笑ってしまう。
あたしがこの仮宿をスウィートホームにしようと奮闘したって
肝心のなつみがいなければなんの意味もない。なんの意味も為さない。

お腹に子供がいる体で、なつみは前と変わらず
酒を飲み、煙草を吸っておそらくドラッグもやっているのだろう。
でもそんなことは正直どうでもいい。帰ってきてくれれば。
あたしたちの部屋に帰ってきてあたしを抱きしめてさえくれれば、それでよかった。

例のフランス人が取り壊そうとしていただけあって
この仮宿にはあたしたち以外の住人はほとんどいなかった。
たまに怪しげな連中がフランス人とともに階下をウロウロしていたけど
なるべく関わらないように過ごしていた。
もっとも顔を合わせることはおろか、姿を見かけることもほとんどなかったから
それほど杞憂することはなかったけど。

あたしの毎日はまるで一人暮らしのように無言で寝起きして、食事をして
時々散歩をするといった具合だった。
馬鹿のひとつ覚えのようになつみのことだけを想いながらただ孤独に過ごしているだけだった。

寒い中、屋上で星を眺めたり野良猫にエサをやったり。
窓の外に見えるガーデニングと呼ぶには小さすぎる寂しい庭の
手入れをしようかと思い立ったこともあった。
名前も知らない冬の花たちがひっそりと咲いてるのを見て、自分の姿を投影させていた。
そしてたまにフラっと帰ってくるなつみを抱いて、言いたいことのひとつも言えずに
そのぬくもりだけに満足して朝を迎える。

そんな毎日だった。



「ちゃんと食べてるの?」
「うん。食べてるよ」
「よく眠れる?」
「うん。大丈夫」
「そう…運動は?若いんだから体動かしなさいよ。セックスだけじゃなくて」
「けいちゃ〜ん。どっかのエロオヤジじゃないんだから。
 そのうちセクハラで訴えられるよ。そんなことばかり言ってると」
「アンタにしか言わないわよこんなこと。で、毎日ダラダラしてるんじゃないでしょうね?」
「ダラダラっつーか、ガーデニングをね…」
「始めるの?!」
「と、思ったんだけどあっさり断念した。もっとあったかくなってからにするよ」
「だと思ったわ。でも冬の花も綺麗よね」

家を出て何週間か経ってもオヤジから連絡が来るようなことはなく
けいちゃんはというと最初の頃から変わらずに心配をして
時々様子を窺うように電話をかけてきてくれた。
体調のことや最近のニュースなんかを報告して、されて、あたしは従順に受け答えをする。
なんでもない会話の端々にも彼女との繋がりを感じることができて
この時間はいつもホッとした。

「なにか困ったことがあったら」
「わかってる。すぐに電話するよ」
「最近なにか楽しいことしてる?ちゃんと笑ってる?」
「けいちゃん…子供じゃないんだからさ」
「子供よ。十分過ぎるほどに、アンタは」
「………」
「とにかくたまには遊びに来なさいよ。せっかく近所なんだから」
「わかった」

なぜだかけいちゃんは一度もあたしに家に帰れとは言わなかったし
なつみの話題も極端に避けていた。
予想外のことに安堵した反面、それはそれで寂しかった。
そんなことあるはずがないのだけど
けいちゃんがもうあたしのことなんか気にしてないんじゃないかと
どうでもよくなったんじゃないかという考えが時折頭をよぎった。

そう考えてしまうのは何もやることがなくて
ただただ愛しい人の帰りを待つだけの日々だからだろうか。
なつみが帰ったら帰ったでそんな考えはおろか
けいちゃんのことだって頭からすっぽり抜け落ちるくせに。
勝手だな、そう思った。

「ねぇ、ひとみ」
「なに?」
「アンタ何座だっけ?」
「突然なにさ。牡羊座だけど?」
「今ホロスコープ見てたの。おひつじおひつじと…あ、来週アンタ運気いいわよ」
「マジで?」
「全体的にいいけど特に恋愛運がいいみたい。パートナーとの関係が深まりそうだって」
「へ〜。やったね。そういうけいちゃんは?」
「……聞かないで」

たしかけいちゃんは射手座だったかな。
声の様子からすると相当良くないのか。
そういえばけいちゃんは昔から占いとか心理テストとかそういう類が好きだったな、たしか。
医者のくせに非科学的なものを信じるから不思議だ。
あたしは占いの結果すべてを信じるわけじゃないけどイイコトが書かれてたらやっぱり嬉しい。

「アンタだって嫌いじゃないでしょ?こういうの」
「まあね」
「それにあながち非科学的とも言い切れないのよ」
「へ〜。そうなんだ」
「そうよ。とくに占星術はね…」

けいちゃんのよくわからない講義が始まってしまった。
止めるのも面倒であたしは爪をいじったり落書きをしたりしながら暇を潰す。
もっともらしく語るけいちゃんの声をBGMのように聞き流しながら時々相槌を打つ。
そういえばなつみの運勢はどうなんだろうと思ったところであることに気づいて愕然とした。
あたしはなつみの誕生日を知らない。
誕生日はおろか正確な年齢すら聞いたことがない。

「それでね、その周期的に動く星が…」
「けいちゃん!」
「なによ。これからが本題なのに」

話の腰を折られて不満を言うけいちゃんを無視して、もしかしてと思いつつも尋ねる。

「なつみの歳っていうか…誕生日とか、けいちゃん知らないよね?まさか」
「アンタ知らないの?」
「う、うん」
「聞いたことないの?」
「…ない」
「………」
「け、けいちゃんは知ってるの?」

受話器の向こうからアンタねぇ、と怒ったような呆れたような声が聞こえた。

「なつみのこと、どれだけ知ってるのよ」
「けいちゃん質問の答えになってないよ〜」
「どれだけ知った気になって好きとか愛してるとか口にしてたのよ」
「無視かよっ」
「アンタは本当になつみのことが好きなの?」
「好きに決まってんじゃん。そうじゃなかったらこんなとこにいるかよ」
「こんなとこねぇ…」
「あ、いや、こんなとこってのは言葉のあやで…」
「なつみと楽しくやってるの?ハッピーな家庭を築くんじゃなかったの?」
「スウィートなホームだよ…」
「どっちでもいいわよ。本当に相手のことを想ってたらもっと違う形で」
「あー!もういいよ!けいちゃんの言うことはきっと正しいんだよ。
 わかってるよ。わかってる。でもあたしはこうすることしかできなかった。
 なつみのそばにいたかったから、なつみのそばにいられないって思ったから、
 だから、こうすることがベストなんだって……」

落書きの模様が滲んだ。
ペンを持った手に涙の粒が落ちたのを見て、泣いているのだと気づいた。

「ひとみ」
「………なに」

受話器の口を押さえて聞こえないように鼻をすすった。

「あたしはべつに責めてるわけでも否定してるわけでもないのよ…
 アンタのなつみに対する想いをね。
 ただね、二人が、二人でいることで良い結果を生まないのなら
 それは残念だけど、好きっていう気持ちだけじゃどうにもならないのよ?わかる?」
「………」
「あたしはかすかに、ほんのわずかだけどアンタたちが幸せになれる可能性があるなら
 それに賭けてみようって思った。だから家に戻れなんて頭ごなしに言わないの。
 でも今のアンタは……あたしはね、ひとみ。なつみにも幸せになってもらいたいの。
 問題もいっぱいあるけど、でもなつみのことは好きよ。友達だもの。
 アンタとなつみの二人が幸せならあたしは……」
「けいちゃん…」
「あたしはアンタに賭けたのよ…ひとみ。
 なつみを太陽の下に連れて来られるのはアンタだって思いたかったけど……」
「けいちゃん、あたしは、なつみが…やっぱり好きで、こんな状況でもやっぱり、
 なつみのことを待ってしまうくらい…どうしようもなく好きで、
 その気持ちがたとえ間違った方向に進んでいたとしても、やっぱり好きで…」

情けないほど泣いていた。
声が上擦って、小さな子供のように泣いていた。

「本当はね、よくわかってるんだ。先なんて見えない。
 あったとしてもそれはたぶん明るいものじゃない。
 なつみにとって、あたしは………あたしが思うほどにはなつみは
 あたしのことを好きじゃないってこともよく知ってる。でも、だって、それでも」



好きなんだもん。



「けいちゃん、なんであたしはこんなになつみのことが好きなのかな」
「人が人を好きになるのに理由なんてないのよ」

そっか。そうだよね。
この気持ちを説明なんてできっこないし、知ってほしいとも本当は思ってないんだ。
けいちゃん、ごめんね。

「賭けには負けちゃったみたいだね…」
「あたしは昔っから賭け事には弱いのよ。でもまだ一発逆転…あるかもしれないでしょ?」
「へへ。どうかな」

ありがとう。
心の中でけいちゃんに頭を下げて電話を切った。
そしてあたしはある決心をしていた。





水音がして目が覚めた。
なつみが帰ってきたのだろうか。
あたしはベッドの中でモゾモゾと動いてから目をこすって起き上がった。
そして頭をガシガシ掻いてぼんやりとした視界の中に
なぜか立ち尽くしたまま動かないなつみの姿を見つけた。

「こっちにおいでよ」と手を伸ばして呼びかけたつもりが
寝起きの喉は正常に働かず、よくわからないぐにゃぐにゃとした音を発するだけだった。

「どうしてここにいるの…?」

なつみの声だ。ああ、やっぱりなつみだ。
あたしに向かってなにかを喋ってるけどあんまり聞こえないよ。
なつみ、もっとこっちに来てよ。
薄暗い部屋の中じゃなつみの顔もよく見えない。
せめて今夜、なつみの可愛い顔を照らしてくれる月が出ていればと
朦朧とした頭で考えていた。

「あたしがもう二度と帰って来ないとか、そんなふうに考えないの?」

なにを言ってるんだろう。
なつみはあたしに向かってなにを?
囁くようなその声はとてもセクシーだけど、伝えるという手段には適さないよ。
だってあたしはその声に魅了されて意味を考えることなんてできないんだから。
近くに来てよ、なつみ。

「いつまでもあたしを待っていてくれるの?ひとみは…ずっと、あたしを…」

わからない。わからないよ、なつみ。
あたしの胸になにかが届いてはいるけれど耳をとおして聞こえてくる声は意味を為さない。
どこかわからない国の言葉のように理解できないよ。
届いているのに、聞こえないんだ。
もどかしいよ、なつみ。
どんな顔で今あたしに話しかけてるの?

「さっさと見限って出て行ってくれればいいのに…どうしてよ。
 ひとみはどうしてあたしを選んだのよ…あたしなんかを…。
 どうしてあたしの前に現れたのよ…ねぇ、どうして……」

いつまでたってもなつみはその場に立ち尽くしたままで
近づこうとしても体が鉛のように重く、動かなかった。
相変わらずなにかを喋り続けるなつみの声を理解しようと必死に耳を傾けるものの
あたしの脳は眠気を堪えきれずに拒否してしまう。
声を出そうと口を開けても伝えたいことは音にならず
そのうち頭の後ろが重くなり、どこまでも深い闇の中に沈んでいく錯覚を覚えていた。

瞼が落ちるその刹那、雲の切れ間から覗いたのだろう月に照らされたなつみの顔は
今までに見たこともないような哀しい表情をしていた。
それはあたしにとって、もしかしたら二人にとって
なにかの終焉を意味しているような、そんな表情にも見えていた。





◇◇◇◇◇



飯田先生が颯爽とハンドルを操るミニの助手席であたしは柄にもなく縮こまって
指をパキパキ鳴らしたりせわしなく首を振って窓の外を眺めたりしていた。
まあつまり子供みたいに落ち着きがなかった。

「らしくないですね」
「は?!な、なにが?だれが?」
「吉澤さんしかいないでしょう」
「……あ、そこ、その角曲がってベーカーストリート方面に向かって」
「了解しました」

見慣れた風景とあの頃の自分の背中が嫌でも思い出される。
右から左に猛スピードで流れていく景色が妙な心細さを増長する。
だれかの温もりが欲しくて、自分の左手を右手でしっかりと握り締めた。

「降ってきましたね」

窓にポツポツと水滴の粒が出来上がり始めた。

「吉澤さんのそんなに落ち着きのない様子を見るのは久しぶりです」
「落ち着きなくなんかないっつの。え?今久しぶりって言った?」
「どこからどう見ても落ち着きがなくて面白いですよ。
 そんなあなたを見るのはたしか…昨年末に帰国したときだったかな。
 副理事にお会いしてから病院で雑務を済ませて…そうそう、
 帰ろうと受付を通りかかったら藤本さんを見つめるあなたの姿が目に入ったんです」
「………」

昨年末…いつのことだろう。
あの時期はたしかまだ美貴の気持ちがあやふやなままで
あたしのことを好きだってのはなんとなくわかってたけど
まだあと一歩のところで美貴は踏ん切りがつかなくてもがいていたように思う。
あたしはそんな美貴の姿を見るのが少しだけ辛くて
自分のせいでこんな想いをさせてしまっていることに申し訳ない気さえしていた。
あたしたちはやはり友達のままでいるほうがいいんじゃないかとまで思っていた。

「ははっ。今思い出しても傑作ですよ。
 受付に座って俯いている藤本さんにどう声をかけようかあなたの手は宙をさまよって
 がっくり肩を落としたり踵を返したり、観葉植物にぶつかりそうになったり…
 あんな面白い光景はめったに見れないですね」
「ぐわっ!マジかよ!どこまで見てたんだよっイイダー!」
「どうするのかとしばらく眺めていたら、あなたはふっと真剣な表情になって
 それから藤本さんの髪を撫でて、藤本さんが弾かれたように顔を上げて……。
 残念ながら見ていたのはここまでです。約束の時間が迫っていたので帰りました」
「残念がるなよ…」

そっか、あのときか。まさか飯田先生が見てたとは。
なんつー偶然。嫌な偶然だな。

「あの後は結局どうしたんですか?」
「勇気を振り絞ってチュウしたらそれをアヤカに見られた挙句美貴に突き飛ばされた」
「本当ですか?!ぷっ、くっくっくっく…あーはっはっはっは!!」
「飯田先生もそんなバカ笑いするんだね…」

目尻に涙を浮かべながら高笑いをするこの人を見ていたら
なんとなくこっちまで可笑しくなってきて気づいたら声を上げて笑っていた。
そんなに笑うなよなーと飯田先生の腕に軽くパンチして、自分の目許をそっと指で拭った。

バカ笑いをしながらクリニックの患者の話なんかをしつつ
飯田先生の軽やかな運転に身を任せていたら
いつのまにか目的地までもうすぐそこというところまで迫っていた。
さっきまでの笑いや穏やかな時間が消え失せて
かわりにあたしの胸の中は重々しい闇でいっぱいになっていた。
でも、逃げるわけにはいかない。

「ちょっと寄り道していいですか?」

あたしの暗い表情を察したのか、それとも本当に寄りたいところがあるのか
飯田先生はこっちの返事を待たずにハンドルを切り返した。
なんとなく面倒だったのでしばらくなにも喋らずにいると
飯田先生は自らこれから向かう先の説明をしだした。

「まいが行ってる料理教室でレクチャーしている人が
 ご主人とこの先でベーカリーをやっているんですよ。
 そこのビスケットとジャムが美味しくて私たちはよく食べてるんですが
 ストックが切れていたことを思い出して」
「ついでに買ってこうってわけね」
「そういうことです」
「だったら帰りでもいいじゃん」
「帰りが遅くなっては店が閉まると思いまして」
「そんなにかからないから大丈夫だよ。それこそ一瞬で済む」
「一瞬で済むことをダラダラと引き延ばしてるわけですか…」
「………」
「なにも聞かない約束でしたね。すみません。お詫びにビスケット奢りますよ。
 あそこのジャムは本当に美味しいんですから。
 店主の…ジャックだったかな、がよく言うんですよ」
「知ってる。『うちのジャムを食べたらもうほかでは食べれないよ、お客さん』でしょ?」
「どうしてそれを…」

目を大きく見開いてこちらを向いた飯田先生の顔には驚きの表情が貼りついていた。
あたしは遠目にもよくわかるジョーイの店の看板を見ながら軽くため息をつく。

偶然、と言うには運命的すぎて。
あの頃何度も足繁く通ったジョーイの店の看板は
ジョーイの名前の隣にドナの名前が堂々と掲げられていた。

「そっか、結婚したのか…」
「吉澤さんご存知だったんですね」
「ご存知もなにも一時期常連だったよ。こんな穴場的な店よく見つけたね、飯田先生たち」
「さっきも言いましたがまいの料理教室の講師なんですよ。ドナが」
「ああそっか。ていうか飯田先生、ジャックじゃなくてジョーイだよ」
「そうでしたっけ」

そんなことはどうでもいいという口振りで
飯田先生は道の端に車を寄せゆっくりと停車させた。
この人も根っからの女好きなんだろうな。
そんなこと言ってもきっとしれっとした顔で否定するだけなんだろうけど。

「さて、行きますか」

雨の中を二人で少しばかり歩いた。
ジョーイ(とドナ)の店はやや奥まった場所に入り口があり
看板は表通りから見えるもののいざ行くとなると初めての人間は少し戸惑うだろう。
まさに隠れ家的な店だけど、ビスケットとジャムの評判が口コミで伝わり
今では知る人ぞ知るけっこうな有名店らしいと飯田先生は説明してくれた。

「昔うちのメイドが大好きだったんだよな、ここ」
「メイド、ですか」
「よく怒らせては、機嫌直してもらうのにジャムとビスケット買って帰ったなぁ〜」
「その人は今も働いていらっしゃるんですか?」
「いや、あたしが…昔ちょっと怪我したときに辞めちゃった。まわりは止めたんだけど…」
「そうですか。今も交流が?」
「ん、まあぼちぼち」

昨年末にオヤジに会いにロンドンに来たとき
あたしは家よりもどこよりもまず真っ先にマリアのところに向かった。
どうしてもちゃんと会って謝りたかったから。
あの頃何度も心配をかけたり迷惑をかけたりしたことを自分の口で謝りたかったから。

「吉澤さん」
「うん?」
「どこに行くつもりですか」

マリアのことを考えていたらいつのまにか店の入り口を素通りしていた。

「悪い悪い」

店のドアを押して中に足を踏み入れようとしている飯田先生の背中に声をかけてから
店の外観をあらためて見回した。
昔とあまりにも変わっていないその様に、まるでタイムスリップをしたような錯覚を覚えた。
顔に受ける雨の冷たさを感じながら飯田先生の後を追って店に入った。

店内では飯田先生がショーケースを指差してあれこれとジョーイに注文をしていた。
ジョーイはあたしの来店に気づくと一瞬なにかを考えるような顔をして
それからぱぁっと明るい表情を見せてくれた。
それにつられて笑みを返す。

「こいつは驚いた!お客さん、久しぶりだね〜。
 昔はよくひいきにしてくれたのに、とんと来なくなっちまって」
「ごめんごめん。しばらくロンドンを離れてたんだ」
「そういうことかい。いや〜あんなことがあったからまさか死んじまったんじゃないかって
 ドナと二人で心配してたんだよ。元気そうでなによりだ。うん」

飯田先生の背中がピクリと反応したのを目の端で捕らえながら、あたしは苦笑する。
きっとまったく悪気はないのだろう。
ジョーイはあたしの苦笑に気づかずに昔を懐かしむように話を続けた。

「ほらお客さんが昔住んでいたあそこ、あのときの火事で今じゃすっかり見る影もないよ。
 まあ昔から壊れかけてていつ崩れてもおかしくはないと思ってたけどね。
 お客さんはまたロンドンに?」
「いや、今回はちょっと友人に会いにね。もうロンドンに住むことはないと思う」
「そうかぁ。そいつは残念だ。またこっちに来ることがあったら寄ってくださいよ」
「かなり繁盛してるみたいだね。あたしが来ていた頃もそこそこ客が多かったけど
 今じゃすっかり有名店だってここにいる先生に教えてもらったよ」

なにも言わずにあたしたちの会話を聞いていた飯田先生を顎で指し示すと
ジョーイはこっちがびっくりするほどのオーバーアクションで両手を広げて天を仰いだ。

「なんてこった!二人が知り合いだなんて!!
 飯田先生にはいつもひいきにしてもらってるよ。
 それにしても日本ってとこは行ったことがないけどこんなに美人揃いなのかい?」
「ドナが聞いたら怒りますよ」
「まあうちらみたいな美人はめったにいないよ。ね、飯田先生」
「そうですね」
「二人とも言うね〜」

ロンドンにもかわいい子がいっぱいいるけどやっぱり日本だよ。
だって、日本には世界一かわいいあたしの恋人がいるんだから。あ、宇宙一だった。
これだけは誰がなんと言おうと譲れない。
ジョーイがいくら日本人に興味を示しても美貴は渡さないからな。

「アジア系は美人が多いって前々から思ってたんだけどあれはどうしてかね?」
「ジョーイ、美人なんてどこの国にもいるじゃん」
「いや、日本人や中国人の美人ってのはこう…なんていうか、なにかが違うんだよ」
「なんだそれ。ま、あたしの恋人は日本人だけど
 たしかにちょっとやそっとではお目にかかれない美人だよ」
「ほー。お客さんがうらやましいねぇ」

ジョーイと美人談義に花を咲かせていると、飯田先生はチラッと窓の外に目をやってから
やれやれといった顔であたしたちを呆れたように見ていた。
この先生だって美人やかわいい子に弱いくせに自分だけ硬派な顔なんてしないでもらいたい。
本当はまいちんの自慢を思いっきりしたいんだろ?ウザイからしないでね。

「そういえば日本人で思い出したけど…あれはいつだったかなぁ。
 何年か前にお客さんのことを尋ねて来た日本人がいたよ。
 もしかしたら中国人か韓国人かもしれないけど、あの英語はたぶん日本人だろうな」

ジョーイの思いがけない発言にあたしは一瞬言葉を失った。
あたしのことを尋ねた?誰が?

「お客さんのことっていうより…あの火事の…」

そこまで言ってからジョーイは飯田先生を見て、それからあたしの顔を見て
話してもいいのかという視線を送ってきた。
あたしはとにかく話の続きが気になったからぶっきらぼうに続きを促した。

「あれはけっこうな火事だったのになぜかあんまり大きなニュースにならなくてね。
 それに新聞の扱いも小さくて…あ、こんなことはお客さんのほうが知ってるか。
 まあニュースや新聞では小さな話題だったけど逆に興味本位で
 お客さんのことを聞いてくる人間が当時はけっこういたんだよ、これが。
 書きようによってはいくらでもスキャンダラスな内容になっただろうからね。
 ふんっ、三流雑誌のハイエナ連中がどこから嗅ぎつけたのかよくここに来ていたよ」

当時、オヤジがいろんな方面に圧力をかけて
大事にしなかったということは圭ちゃんから聞いていた。
でもこの店にまでそんな輩が来ていたとは考えもしなかった。
たしかにあのときはやたらうるさいパパラッチみたいなのが
家のまわりをウロウロしていたとは聞いたけど。
もしかしてマリアもあたしの知らないところで迷惑を被っていたのかな?
今までそんなことにも頭がまわらなかった自分が迂闊でならない。

「そっか。迷惑かけたね」
「ふんっ。あんなカスみたいな奴らのことでお客さんが謝ることないよ。
 事情はよく知らないけどうちのジャムを本当に好きでいてくれる人に
 悪い人間はいないからね。しかもそれが美人とくれば尚更だよ」

太い眉毛を器用に動かして、ジョーイはあたしに同意を求めた。

「まあね。たしかにここのジャムを食べたらよそではもう食べれないよ」
「だろだろ?やっぱりお客さんはわかってくれると思ってたよ」
「それよりその日本人ってどんな人間だった?」
「それがびっくりすることにかわいい女の子だったんだ」
「女の子?」
「そう。お客さんのこととか、お客さんの…恋人のことをなんでもいいから教えてくれって。
 若く見えたけど物腰は大人みたいに落ち着いていて礼儀正しい子だったな、たしか。
 それに笑顔がとびっきりキュートだったね」

まったく心当たりがなかった。
もしかしてなつみと付き合う以前の恋人か?
でもこっちで付き合った中に日本人はいなかった。
あ、一人だけ中国人がいたな、そういえば。
でもそれほど深い付き合いではなかったし
第一あたしとなつみのことをジョーイのところまで尋ねに来るなんて…
一体どんな理由があってそんな面倒なことをするんだ?

「まあうちで教えられることなんてお客さんが美人で
 よくジャムを買ってくれていたってことくらいだから大した話はしなかったけどね。
 後でジャーナリスト志望なのかもなってドナと話してたんだよ。
 とにかくキュートな子だったなぁ」
「へ〜そんなに可愛いならちょっと見てみたいな。ね、飯田先生」
「あなたは本当に節操がないですね。藤本さんに言いつけますよ?」
「それだけは勘弁。ていうか飯田先生、いい加減お目付け役はやめろよなー」
「そういやたしか一緒に記念写真を撮ったはずなんだが…はて、あれどこにやったかなぁ」
「ジョーイ!そこが一番肝心なのに。思い出してくれよ〜」

横で深いため息をつく飯田先生を無視してその女の子について考えを巡らした。
ジョーイの言うようにただの興味本位で尋ねて来たジャーナリスト志望の人間という線も
たしかにあるし、あたしの昔の恋人という可能性だってないわけじゃない。
でもあたしはなぜか、漠然とだけどそのどれでもないような気がしてならなかった。

それでもあの事故から数年経った今の今まで
そういう人間があたしの前に現れていないことを考えれば
きっとたいしたことではないのだろうけど。

「今度ドナに聞いてみるよ。でも本当にキュートだったなぁ」

キュートを連呼するジョーイに今度はあたしがため息をついた。
そんなにかわいい子ならやっぱり見てみたいじゃん。
飯田先生がうんざりしたような顔してるからもう言わないけどさ。
美貴に言いつけられても困るし。
だからもうそんな顔しないでさっさとビスケット買ってくれよな、飯田先生。

「今度はお客さんの恋人も連れてきてくださいよ」

ジョーイの言葉に笑いながら店を出た。
飯田先生に奢ってもらったビスケットを頬張りながら雨の中をまた歩く。
何年かぶりに口にしたそのビスケットの味はあたしを一気に昔の光景の中へと攫っていった。
小降りになってきた雨を体中に受けながら同じ道を歩いていると
嫌でも思い出さずにはいられない。
そして口の中に広がる甘い味覚が自然とリージェンツパークへ誘った。

「飯田先生、ついでにもうちょっと寄り道して行こうか」











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