ロンドン編 6






昔から記憶力はあまり良くない。
小さい頃のこととかあまり覚えてないし、人の顔や名前なんかもすぐに忘れてしまう。
第一印象の記憶なんてまず残らない。
よっぽどインパクトがないと、あたしの脳は必要無しと判断して
保存せずに消去してしまうのだろう。
大切なこともいつか忘れてしまうのが怖くて胸に仕舞っておくことができない。
最初からこれは大事じゃないからいいやと、諦めてしまう自分がいる。


美貴を初めて見たあの日から数日が経ち
あたしは段々と落ち着くとともに冷静に考えられるようになった。
あれがなつみなわけがないじゃないかと。
ただ似ているというだけで、あたしはなにを期待しているんだ。
それともなにを知りたいんだと。
そうすると不思議なもので徐々に興味が薄れて気持ちが冷めていくのがわかった。
理事長に頼んだことも激しく後悔した。
でも今さらやっぱり辞めますと言えるほど、あたしはもう子供ではなかった。

直前まで出ないつもりだった入社式では、朝迎えに来た圭ちゃんが
プレゼントだと言って無理やり押しつけた真新しいスーツに身を固めて
夢の世界と現実を行き来しつつ理事長の長ったらしい話を聞いていた。
さすがのあたしもその場で大っぴらに寝るのは憚られたので
何度か足を組み替えたりして寝たり起きたりを繰り返していた。

それなのに偶然隣りに座った後藤さんはこれでもかというくらいに堂々と眠りこけていて
その可愛い顔に似合わず涎まで垂らしていた。
これはかなり印象的だったから覚えている。

そしてさらに逆隣りには冗談のような衣装に身を包んだ石川さんがいた。
これはもう笑いを通り越してこの人の頭は大丈夫だろうかと心配になった。
いくらなんでもショッキングピンクのスーツはないだろう。
しかもお世辞にも可愛いですねとはいえないデザインで。
でも背筋をぴんと伸ばして、なにが楽しいのか始終ニコニコしながら理事長の話を
聞いていた彼女は文句なしに可愛くてその場にいた誰よりも輝いていたような気がする。


その会場で美貴の姿を見つけることはなかった。
理事長の話が終わり、なんだかんだお偉いさんの話も終わり
場所がラウンジに移った頃、ようやく美貴を発見することができた。
そう、あたしは探していた。

朝はなんとも思っていなかったのに会場について大勢の新入社員を前にしたら
無意識に美貴の姿を探していた。
だから交流会と称したそのお見合いパーティーのようなお茶の席で美貴の後姿を見つけたとき
あたしはもうすでに彼女への興味が好奇心だけじゃすまなくなりそうなことを予感していた。
だって、あのあたしが、記憶力の悪いあたしがたった一度見ただけの女を
しかも後姿で見つけることができるなんて。

「こんにちは」

あたしは自分の中のかっこよさを最大限に発揮して思い切って声をかけた。

「…こんにち、は?」

振り返った美貴は自分が声をかけられたのか微妙にわからないといった感じで
半信半疑に挨拶を返してきた。
あたしのキラースマイルはこのとき全く威力を発揮していなかったと思う。
なぜなら間近で見る美貴の顔に心を奪われてしまっていたから。
耳に入ってくる美貴の声に聞き入ってしまっていたから。

「あの〜…」

放心状態のあたしに美貴は恐る恐る声をかけた。
肩をトントンとやられたかもしれない。
そこは記憶が曖昧だ。今度聞いてみよう。

「あ、ごめん。つい見入ちゃった」
「…なんでですか?」

正直に答えるあたしも馬鹿だけど、瞬時に目つきを鋭くして
不審人物を見つけたような警戒モードに入る美貴もすごい。
睨むと余計に綺麗さが際立つなぁと暢気なことを思っていたあたしは
やっぱり馬鹿なんだろうな。

「綺麗だったから。名前教えてくれる?」

自慢じゃないけどこういうシチュエーションで名前を聞けなかったことはない。
いや、ちょっと言いすぎたか。でも大概の女の子たちは教えてくれる。
だからあたしはニッコリ笑ってこれでもかと自分の魅力をアピールしたのに。

「はあ?いきなり何言ってんの?」
「あ、吉澤ひとみでーす」
「誰それ」
「あたし」
「聞いてないし」
「そっちは?」
「……藤本、美貴」
「みきちゃんかー。名前も可愛いねー」
「いきなりちゃん付けしないでくれます?」
「みきちゃんこの後ヒマ?」
「いえ仕事があるんで…って人の話聞けよ」
「ええ!マジで!!それは残念。
 つーかオイラも仕事があるんで、じゃ終わってからゆっくり…」

言い終わる前に美貴はくるっと背を向けてスタスタと離れていった。
その後姿を呆然と見送りながらもあたしは笑いを堪えるのに必死だった。
久しぶりに面白い女に会ったと、一気にテンションが上がるのがわかった。


同じ課に配属されたのはあたしにとってはラッキーだった。
もし違っていたら理事長に泣きついて異動させてもらおうと思っていたから。
あたしと同じ課だと知った美貴は露骨に嫌そうな顔をしていたけど。


あたしはとにかく美貴に構ってほしかった。
バカやって彼女の気を引こうと懸命だった。
変なところで律儀な彼女はあたしのやるバカなことに
ちゃんとひとつひとつ突っ込んでくれたから、それが楽しくてさらにバカに拍車がかかった。
彼女の遠慮せずにズバズバ言う性格や、仕事中の真剣な眼差しが好きだった。



「よっちゃんってなんでそんなバカなの?」
「オイラほかに欠点がないからさー。ちょっとくらいバカじゃないと不公平でしょ」
「なんだそれ」
「でもバカなコほど可愛いとも言うし。まいったなぁオイラホントに欠点ないじゃん」
「ここまで前向きだとつっこむ気もなくなるよ…よっちゃん幸せそうでいいね」



この時期あたしはたしかに幸せだった。
会社に入って本当に良かったと思っていた。
理事長にも、圭ちゃんにも、あのクソオヤジにさえも感謝していた。

愛とかそういう曖昧なもので縛られるのではない関係。
友達としての距離感があたしを安心させた。
いつも笑い合って、飲みに行ってバカやって。
ある日突然失うことは決してないこの関係。
友達としてあたしたちはいつも一緒だった。それが嬉しかったし幸せだった。

そう、幸せだった。
なんていったって、なつみのことをこれっぽっちも思い出しもしなかったんだから。





「吉澤さんはいつから美貴のこと…ではなくて藤本さんのことを
 友達以上に思っていたんですか?」

なんとなくダラダラと喋っていたらけっこうな数のビール瓶が転がっている。
普段自分からは口にしないような話をよりにもよって飯田先生に話しているのは
このビール瓶のせいか。

「それにしてもなんでこんな話してるんだ?あたし」
「話したかったんじゃないですか」
「そうかなぁ」

話したかったのかなぁ。うーん、わかんね。
それに体のあちこちが痛いしやけに絆創膏が貼ってあるのはなんでだ?
あたしなにしたっけ?

「飯田せんせぇも飲めよー」
「だから駄目なんですってば」
「どうしてぇ」
「吉澤さん酔ってます?」
「酔ってねえよ!」

うん、酔ってねえっつの。
酔っ払いはたとえ酔ってても酔ってるなんて言わねーんだよ!

「そうですか。では話の続きをしましょう」
「うぉい!イイダー!そこは酔ってるだろって突っ込むとこだろーが。
 ったく、これだからあたしよりデカイ女は…」
「身長は関係ないと思いますけど」
「あーあー。ここに美貴がいればなぁ。
 あたしがツッコミ役なんてしないですむのに…会いたいなぁ」
「会ったらいいじゃないですか。というか吉澤さん、どうしてこっちに来たんですか」
「確かめたいことがあるんだもん」
「ではさっさと確かめて藤本さんのところに帰ったらいいじゃないですか」

簡単に言ってくれる。
あたしだってそれが出来たらこんなところで酔い潰れそうになってない。

「なにか、出来ない訳でもあるんですか?」
「……いから」
「え?」
「…こわ…い、から」

バカ、あたしなに言ってんだよ。
ぽろっとこんなこと言うな。
こんなところでこんな人に。

「怖いんですか?」

それには答えずあたしはコクンと頷いた。
バカ、答えてるじゃんか。
ダメだダメだダメだ。
コントロールが利かない。
自分の感情が制御できない。
頼むから飯田先生、これ以上聞かないでくれよ。

「そうですか…吉澤さんでも怖いもの、あるんですね…」

それきり飯田先生はなにも聞いてこなかった。
なにが美味いのかちびちびと水を飲んで。
あたしはそれを眺めているうちにいつのまにか眠りについていた。
朦朧とした意識の中でそっとかけられた毛布の暖かさに安堵しながら。





◇◇◇◇◇



中指と薬指に赤いものがついていることに気づいた。
激しくしすぎて彼女を傷つけてしまったらしい。
でもそれよりももっとあたしは彼女に傷つけられている。
目には見えない言葉の刃はあたしの心を切り裂いた。

「妊娠してるの。あたし」
「………」
「それでも一緒に住む?住みたい?」
「誰の…」
「そんなことどうでもいいわ」

自分の指についた血を眺めながら彼女の言葉の意味を考える。
でもなにも考えられずあたしはただ指を見つめていた。

「どうでもいいってそんな」
「どうするの?住む?住まない?」
「ちょっと待ってよ、突然すぎてなにがなんだか…」

そんなことを言われても頭が混乱して感情が追いついていかない。
理解ができない。
なぜなつみはそんなに落ち着いているんだろう。
どうしてあたしにその二択を迫っているんだろう。
そもそも子供を産むつもりなのかどうかすらあたしは聞いていない。

「なっ……」

ふいに指を咥えられた。
あたしの中指と薬指をなつみは丹念に舐める。
ぴちゃぴちゃと唾液を絡めつつ美味しいものを与えられた子供のように。
そしてあたしの指から赤が消えた。

「ふうっ…。またさっきみたいにして?」

ああ。この人は、本当に子供のことやその父親のことはどうでもいいんだ。

「いいよ。なつみはハードなのが好きだね」
「ひとみも、でしょ?」
「うん…でもなつみとならどんなのも好き」

セックスをしているうちになんだかいろんなことがどうでもよくなってきた。
どうやらなつみは子供ができたからといってあたしと別れる気はないらしい。
その点ではかなりホッとした。
妊娠していようがなつみはなつみだ。
たしかにショックだったけどそれをきっかけになつみと離れることのほうが
あたしにとってはツライ。

産むにしろ産まないにしろなつみの決めることだ。
あたしが口を出す余地はもとからないんだろう。
でも一緒に住むことはあたしが決めてもいいらしい。
それならば、あたしの答えはひとつだ。

「いつ引っ越そうか?」



二日後、フランス人の案内してくれたアパルトマンになつみは移り住み
あたしは体ひとつで家を出た。
なにも持たずにただマリアに短い手紙だけを残して。

けいちゃんには、結局なにも言えなかった。
家のことや学校のことなんかどうでもよかった。
なつみといられればそれで。



数日後、ピカデリーサーカスのパブになつみを迎えに行くと
これ以上ないほど怒った表情のけいちゃんがいた。
どうやらあたしを待ち構えていたらしい。
その場に似つかわしくないカチっとしたスーツが少し笑えた。

「言葉もないわ。まったくなに考えているのかしら」
「けいちゃん…あの…」
「呆れてモノも言えなかったわよ。あたしもマリアも」
「あたしさ…その…」
「まったく!なんなの?!あれでも父親って言える?」
「……はあ?!」
「娘が家を出たらもっと普通は怒るなり心配するなりするもんじゃない?」
「はあ…まあ…そうだね」
「それなのにあのバカオヤジときたら…とんでもないわね」

どうやらけいちゃんの怒りの矛先はうちのクソオヤジに向けられているらしい。
オヤジがあたしのことを心配してないとかそんなことよりも
鉄拳を覚悟していたあたしは妙に白けてしまった。

「そんなこと言いにきたの?けいちゃん」

瞬間、頬が熱くなった。
引っ叩かれたとわかるのに何秒かかかった。

「誰もアンタのことを心配しないとでも思ったの?ふざけんじゃないわよクソガキ」
「ごめん…な、さい」
「マリアがどんな思いでアンタを探したと思う?後で連絡入れなさい」
「わかった」

マリア、ごめん。
心の中で呟いた。

「それにあたしも…ひとみがいなくなったって聞いたときは…」

俯くけいちゃんの肩が小刻みに揺れていた。
歯を食いしばって堪えているのがわかる。
ごめんね。けいちゃん、本当にごめん。
口の中に広がる血は少しばかり後悔という名の味がした。

「ごめんなさい」

バッグからハンカチを取り出してけいちゃんは涙を拭った。
あたしはなるべくその姿を見ないように窓の外を向いていた。

「連絡先くらい教えなさい。それにアンタお金持ってるの?」
「現金はそんなにないけどカードならあるよ。
 どうせオヤジは探してないんでしょ?仕事仕事で。そのほうがむしろ都合がいいけどね」
「アンタたちは親子して大馬鹿よ」
「引越し先はね…」

大体の場所を教えるとけいちゃんに頭を叩かれた。

「ちょっと、なによ。それってあの3階か4階建てのあそこでしょ?うちの近所じゃない」
「ああ。そういえばそうだね」
「そういえばじゃないわよ、このバカ」

また叩かれた。
あんまり頭ばっかり叩くなよなー。バカになっちゃうじゃんか。

「これ以上馬鹿になろうったって無理よ!」

人の心を読むのはやめてほしい。
呆れ顔のけいちゃんがさらに聞いてくる。

「どうするの?これから」
「んんー。なつみとスウィートなホームを築くよ」
「馬鹿言ってないで。この先どうするのよ」

冗談のつもりで口に出した言葉にあたしは急に胸が躍った。
いい響きだ。スウィートホーム。

「うんにゃ。バカじゃないっす。今決めた。あたしスウィートホーム作るよ」

高らかに宣言をするあたしを見てけいちゃんはまた泣いた。
今度はあたしがバカすぎて情けないといった感じで、
しくしくとハンカチ片手に親戚のおばちゃんのようだった。
あ、実際そうなんだけど。

「ひとみお待たせ。ケイちゃんなんで泣いてるの?」
「さあ。あたしがバカすぎて涙がでるみたいだよ。もう行ける?」
「うん」

仕事の終わったなつみがあたしたちの席にやってきた。
ハンカチで目尻を押さえるけいちゃんがキッと睨む。
マスカラがとれた怖い顔にあたしは…それときっとなつみも、ちょっとビビった。

「言いたいことがありすぎて混乱中よ」
「じゃ、またってことで」
「ばいばーい、ケイちゃん」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

ひらひらと後ろ手に振ってけいちゃんと別れた。

なつみと手を繋いで帰る道すがら、夢物語のようなスウィートホームで頭がいっぱいだった。
あたしとなつみと、そしてお腹の子供と。
3人で暮らすスウィートホーム。
甘くてあったかいスウィートホームを作るんだ。

その空想の中であたしは幸せそうに笑っていた。



それが現実逃避にすぎないとわかっていても、束の間の幸せに胸を躍らせていた。





◇◇◇◇◇



「それで吉澤さんは結局どうしたかったんですか?」
「………」

いきなりなに言ってんだろこの人。
あたし結局あのまま寝ちゃったのか。
つーか体イテェ…。

「美貴と友達のままでいろんな女性と付き合うのは苦痛じゃなかったんですか?」

窓から差し込む光が確実に朝だと告げている。
昨日と同じソファの上で、いつのまにか掛けられていた毛布から手を出して目をこすった。
紅茶のいい香りが漂っている。

「起きぬけになんなんだよ…」
「いえ、昨日途中だったから」
「オハヨウとかよく眠れましたかとか昨夜は可愛かったよとかないわけ?」
「では昨夜は可愛か…」
「はいはい。わかったわかった」

この人は絶対にあたしをからかうことを楽しんでいる。
そしてかなりはっきり言えることがもうひとつ。

「マイペースすぎなんだよ…」
「吉澤さん紅茶でいいですか?」
「コーヒー」
「ミルクは先に入れる派ですか?」

こっちの要望は無視かよ。
さらに言えることがもうひとつ。

「人の話聞かなすぎ。ちなみにミルクは後に入れる派」

諦めてあたしは紅茶に手をのばした。
まあコーヒーでも紅茶でもどっちでもいいんだけどさ、ホントは。

「まいちんは?」
「なんでも料理教室があるとかでもう出掛けましたよ」
「マジで?あんなに飲んでたのに…タフだなぁ。あたし久々に酒に飲まれたよ」
「みたいですね。昔話をするほどに」
「ぶはっ…ゴホッゴホッ」

思わずむせた。
危うく紅茶を零すところだった。

「あ、あたし…なに喋った?」
「覚えてないんですか?」
「ちょっと待って、考える…」

考えること数十秒。
飯田先生はパンを齧りながら悠然と新聞なんか読んでやがる。

「あー…思い出した、かも。酒はほどほどにしないとなぁ」
「では教えてください。友達のままでいられなくなったのはなぜですか?」
「飯田先生さぁ、なんでそんなこと聞くの?
 べつに興味ないでしょ。元カノのコイバナなんて」
「そうですね。でも吉澤さんには興味ありますよ。変な意味ではなく」
「どういう意味なんだか」
「それはやっぱりあなたが面白いからですよ。
 あれだけ女性に対して奔放だったのが美貴…失礼。藤本さんに驚くほど熱を上げている。
 それにその気になればあの大学を牛耳ることだって、あなたの家柄を考えれば可能でしょう。
 それなのにそっち方面には一切興味を示していない。
 まいから聞くあなたのイメージと今のあなたではギャップがありすぎますし…
 それにこれはあまり言いたくはなかったんですが」
「なんだよ」
「あなたは妙なフェロモンの持ち主ですよ」
「はぁ?!」
「なにもしなくても女性が放っておかないタイプですよね。ひょっとしたら男性も。
 女性に対して母性本能をくすぐらせるというか、そういう雰囲気を持っています」
「はあ、どうも。で、飯田先生もあたしの魅力にやられそうってわけ?」
「あいにく私は母性本能というものは持ち合わせていませんが……
 少なくとも外見上は守備範囲です」

朝っぱらからとんでもないこと言うな、この先生は。
この人のがよっぽど酔ってるみたいだ。

「お互いフリーだったらどうかなってたかもってこと?」
「さあ、どうでしょう。私は外見だけで女性と一夜を共にすることはできませんから」
「…ぷっ…あはははっ、飯田先生のがあたしより何倍もおもしれーよ」
「そうですか?あ、パン食べます?」

笑い続けるあたしを不思議な顔で見ながら飯田先生はひょいっとパンを投げてきた。
それを両手でキャッチして齧りつく。

「あたしは野心なんてないよ。地位とか名誉とかどうでもいい。
 金は幸いなことにけっこうあるから生活には困らないし。
 あたしが欲しいのは美貴だけ。美貴さえいれば、あとはなーんにもいらない」
「でも最初は友達でいることが幸せだったんですよね」
「あたしそんなことまで喋ったの?ちょっと本気で酒控えようかな…」
「それにいろんな女性と遊んでたみたいですし」
「簡単に言うと友達のままじゃ我慢できなくなったんだよ。
 いろんなコと寝て紛らわそうとしたけど最終的には無理だった。
 美貴の虜みたいになっちゃってたから。他にあたし変なこと言ってない?」

飯田先生の眉がピクリと上がった。
うん?もしかしてまだなんかあるの?

「変というか…それなら尚更ここにいる理由がわかりませんね。
 あなたは昨夜酔っていて覚えていないかもしれませんが
 『確かめたいこと』があってロンドンに来たんですよね。
 藤本さんと離れて遠くロンドンまで。
 しかもその『確かめたいこと』をしないのは怖いからだと言ってました。
 あなたはなにを怖れているんですか?
 この前まいが聞いたときに墓参りに来たと答えてましたがそれと関係が…」

立ち上がって飯田先生の唇を人差し指でそっと押さえた。
さすがにこの先生にキスはできない。
意外にも彼女は避けずにあたしの望みどおり口をつぐんでくれた。

「シャワー借りるよ〜ん」
「え、ええ…どうぞ。その奥の右です」

軽く伸びをしながら教えられたドアに手をかけると飯田先生の声が背中に聞こえてきた。

「怖いなら、私が一緒に確かめてあげますよ」





シャワーを終えてペタペタと裸足で戻る。
体中あちこち痛むけど、詮索されないように努めて平気なふりをして歩いた。
髪を乾かすのが面倒で水滴を垂らしながらソファにどっかりと座った。
斜め横からの何か言いたげな視線を無視しつつ
目の前にあったミネラルウォーターをごくごく飲んだ。
タオルからは甘ったるいラベンダーかなんかの匂いがした。
きっとこれもまいちんの趣味なんだろう。

「私はまいのことを愛してます」
「ほんっとに唐突だよな、あんた」

面白いけどさ、ちょっと疲れるよ。

「できれば一生を共にしたいと思ってます」
「本気?」
「本気です」
「で、あたしになにが言いたいのさ」
「吉澤さんがなにかに困っているのなら私にはそれを助ける義務があります」
「いや、マジで意味わかんないし」
「吉澤さんがまいを今の職場に紹介しなかったら私たちは出会えていませんから」

そういうことか。
飯田先生はまいちんをめっちゃ愛してて
まいちんと出会えたことをそれこそ神に感謝するくらいの勢いで
まいちんがあそこに勤めることになったのはあたしのおかげだから
あたしに義理というか恩みたいなものを感じてるわけか。
なるほどなるほど…でもいくらなんでも律儀すぎだろう。

「でもさ、飯田先生は出世したいんでしょ?それって障害になるんじゃない?」
「仕事かまいかと言われたら、私は迷わずまいを取りますよ」

仕事のことを持ち出してまいちんのことを少しでも躊躇するような素振りを見せたら
殴ってやろうと思っていたのに。
こいつ、言い切ったよ。ちぇっ。ちょっと殴りたかったのに。
でもなんつーか、格好いいじゃん。

「それに私も段々と見えてきたことがありますから」
「見えた?なにが?」
「それは秘密です。とにかく、吉澤さんには助けがいるんじゃないですか?」
「…んなこと…ねーよ」
「どういう事情かわかりませんが『確かめる』のが怖いなら一緒に確かめてあげますよ。
 それに親しい人間よりもなんにも知らない第三者のほうが
 吉澤さんにとって少しは気が楽なんじゃないですか?」
「どうしてそう思うんだよ」
「だって、そうじゃなかったらあなた一人で来ないでしょう。ロンドンまで」

飯田先生がただの興味本位でこんなことを言ってるのではないということはわかる。
きっと本当にまいちんのことを愛しているのだろう。
それならばまいちんになにかしてあげればいいのに
どこかズレてるこの人がなんだか好きになりそうだった。
もちろん友人として。
それにもしかしたら美貴とのやり取りの中で飯田先生なりに心配というか
気になるようなことがあったのかもしれない。
なんだかんだ言っても実は情が厚い人なのかもな。

「詳しいことは言いたくない…」
「構いません」
「なにも聞かないでほしい」
「約束します」

これは逃げなのかな?
あたしは一人でやらなきゃいけないと思っていた。
一人ですべて背負わなければ意味がないと。
だから美貴を置いてロンドンに来たっていうのに。

「飯田先生」
「なんでしょう」
「ついてきてほしい所があるんだ」

でもあたしは間違っていたのかもしれない。
あたしが抱えている問題を解決するのになりふりなんて構っていられない。
あたしはあたしのために、美貴のために…幸せになるために、先に進まなきゃいけないんだ。
そのためなら誰だっていい、手を差し伸べてくれる人がいるならそれに甘えても…

いいのかな?

「その前にちゃんと髪を乾かさないと、藤本さんに怒られますよ」

タオルで髪を拭きながら立ち上がった。
初めは嫌なイメージしか持っていなかったこの人に頼ることになるなんて。
美貴でも圭ちゃんでもない、あたしよりデカイこの人に。











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