ロンドン編 5






「やめて。そんなふうにひとみのこと言わないで」

ふいに自分の名前を呼ばれてノックをしかけた手が止まった。
立ち聞きなんて悪趣味なことはあたしのポリシーに反するけど
けいちゃんの電話の相手が誰なのか気になった。
眉をひそめながら横を通りかかったクリニックのスタッフに向かって
「シー」と口元で人差し指を立て、耳をドアにひっつけた。

「あのコの気持ちわかってるんでしょう?あたしの気持ちも…ええ、そうよ。だからっ」

けいちゃんが声を荒げるなんて。
それにいつになく真剣な口調だ。
仕事モードとも違う。

「ねぇ、このままじゃ本当にあのコは…聞いてる?聞いてるんでしょ?
 ひとみだけじゃない。あたしはアンタのことだって心配なのよ、なつみ」

息が、止まった。
なつみ?なつみって言ったよな?
聞いていてはいけないような気がしたけど、その名前を聞いた瞬間から
足は石のようにカチコチになって動かなかった。
いっそ耳を塞ごうかと思ったけど足と同じくやっぱり両手も動いてくれなかった。

「まだやってるんでしょう?ひとみには頼むからブレンダのときのようなことはしないで。
 お願いだから…そんな!あたしはなつみにだってしてほしくないのよっ」

離れろ。
立ち去れ。
聞くな。

頭の中ではうるさく警鐘が鳴っている。
でも甘美とはほど遠い、けいちゃんの怒号を一言たりとも聞き逃したくなくて
あたしはやっぱり石のように身を固くした。
全身の神経を耳に集中して、唾を飲み込み息を潜めて。

「いくら中毒性が薄いからってドラッグはドラッグよ。体にいいことなんて何もないわ!」

やっぱり。
全身から力が抜けた。
薄々気づいていた事実だけど、やっぱりけいちゃんも知っていたんだな。
そっか、ブレンダとはそれが原因だったのか。
けいちゃんが執拗にあたしとなつみを離したがる理由も
聞けば深く納得せざるを得ないものだった。

「あたしはひとみを信じている。でもなつみ、アンタのことは………信じきれないのよ…」

こんなに弱々しいけいちゃんの声をあたしは初めて聞いた。
オフクロが死んだときよりも辛そうな声に、逆にこっちが居た堪れなくなる。
フラつく体をドアからそっと離そうとしたとき
間の悪いことにクリニックの顔なじみの先生に声をかけられた。

簡単な挨拶を交わしてあたしが再びドアのほうを振り向くと
そこにはこちらをじっと見据えた厳しい表情のけいちゃんが無言で立っていた。
ドアを開けて中に入るように促され、仕方なくのろのろと部屋に足を踏み入れた。
乱雑な部屋の中でまず真っ先に電話に目がいった。
さっきまであの回線の向こうになつみがいたのだと思うとそれだけで恋しい。

「立ち聞きしてごめん」
「あら、聞いてたの?」
「やめてよけいちゃん。そんなふうに言うのは」
「そうね。あたしとしたことが…迂闊だったわ」
「ううん。あたしがバカなんだよ」

けいちゃんにこんなに心配をかけるあたしが。

「ひとみ、教えて」
「なにを?」
「アンタはドラッグをやってるの?」

デスクにもたれ掛けていた姿勢を正す。
あたしはけいちゃんに負けないくらいの真剣な声ではっきりと否定した。

「やってないよ」

ソファの横で立ったままのけいちゃんの口からふぅっと息が漏れた。

「あたしのこと信じてるんじゃないの?」
「信じてるわよ。でもひとみの口から聞きたかった」
「……」
「天国のお母さんに誓ってやってないって言い切れる?」

オフクロまで持ち出さなくとも、あたしは本当にやってない。
疑い深いというわけではなくけいちゃんは本当に本当にあたしのことを心配してくれている。
だからあたしもそれに誠意を持って答えた。

「天国の母さんに誓ってやってません」

ソファに崩れるようにして座り込んだけいちゃんはただ一言「よかった」と呟いていた。





「アンタのことは本当に信じてるのよ」

立っているのも疲れたのでソファに身を沈めたけいちゃんの隣に腰を下ろすと
あたしのほうをちらりと見てからけいちゃんは言いにくそうにそう切り出した。

「ただ…」
「ブレンダとは本当に大人の事情だったんだね」

遮ったあたしを気にもせず、けいちゃんは心を決めたのか
組んでいた足を下ろしブレンダとの話を教えてくれた。

「最初は気のせいだと思ったのよ。役者だしもともとちょっと変わった女だったから
 感情の浮き沈みが激しいのなんて日常茶飯事だったし。
 そこが面白くて付き合ってたってのもあったから。
 でも歯科医とはいえあたしだって医者よ。
 恋人の体調の変化にはそこらの人間より敏感だわ。
 べつにね、ほんのお遊び程度だったらあたしだってあそこまで………まあ、それはいいわ。
 とにかくあたしは自分から見切りをつけたの。ブレンダにね。
 あたしが許せなかったのは、なつみがブレンダにドラッグを渡し続けていたこと。
 あたしがどれだけ止めてって言っても彼女は止めなかった。
 もちろんブレンダがなつみに頼んでいたってのもあるんだけど
 でもそんなことあたしにとっては些細なことでしかなかったわ」

一気に吐き出してのどが渇いたのだろう、
けいちゃんはテーブルの上に置いてあったミネラルウォーターに手をのばした。

「ブレンダはいまどうしてるの?」
「ドーバー海峡の向こうできっと誰かとよろしくやってるんじゃないかしら。
 どうでもいいことだけど」
「ブレンダのこと好きだった?」
「それも今となってはどうでもいいことだわ。大事なのは過去より今よ」

けいちゃんの手からペットボトルを奪い取りカラカラの口の中を潤した。

「けいちゃん、ブレンダのときがそうだったからってあたしは」
「違うって言える?」
「うん。あのね、けいちゃん……ってイテェ!」

諭すような口調のあたしが生意気に見えたのかいきなりデコピンが飛んできた。

「い、いきなりなにすんだよー!シリアスなときに」
「アンタにシリアスは似合わないのよ」
「それはこっちのセリフだっつーの」

ペットボトルをぽいっと放り投げてあたしは口を尖らした。

「そうそう、その顔。そっちのがよっぽど可愛いんだから。
 あんまりあたしが知らない表情しないでよ。
 もう少しだけ子供のひとみを見ていたいんだから」
「ちぇっ勝手なこと言ってるよ。話戻すよ?」
「ええ。続けて」

嬉しそうなけいちゃんを横目にあたしは言いたいことを頭の中で整理する。
…つもりが自分でもなんだかよくわからなくなってきた。
とりあえず事実を報告してけいちゃんの反応を見るか。

「なつみはたしかにドラッグをやってるかもしれない」
「かも、じゃないでしょ」
「そこは突っ込まないでよ。でもね、あたしの前では一度もやってないんだよ」
「え?」
「あたしといるときは煙草は吸ってもドラッグはやらないし、そんな話をすることもない。
 もちろん勧められたり強要されたりってことも一切ないんだ。セックスのときだってね」
「そう、な…の?」

深く頷くあたしをけいちゃんは訝しげに見ている。
だって事実なんだもん。これ以上なんて言ったら信じてくれるんだ?

「もしかして…あたしたちが思ってるより…なつみは…」
「なに?」

独り言みたいにペットボトルを握り締めながら
そう囁いたけいちゃんに問いかけたけど答えは返ってこなかった。
しばらくそのままでいたらふいにノックの音がした。
隣のけいちゃんは見るからに動揺してペットボトルが絨毯の上を静かに転がった。

「ヤスダ先生、ミスターモンゴメリーが急に診てほしいと言って
 いらっしゃってるんですが、どうしましょう」
「すぐに行く。診察室にお通しして」
「わかりました」

転がったペットボトルを拾うとけいちゃんは鏡を見ながら身だしなみを整えていた。

「そういうわけだからちょっと行ってくるわ。話しの続きはまた今度。
 それとも待ってる?たぶんすぐ済むと思うけど」
「いいよ。帰る。それより今のコかわいいね。新人?」

けいちゃんは白衣を着ながらあたしを軽く睨んだ。
わけがわからず首を傾げるとけいちゃんは小さな声で
でもはっきりとこちらが呆れるような答えを返した。

「手、出さないでよ?あたし狙ってるんだから」

オイ、クレアはどうしたんだコラ。
さてはジョギングに根を上げたな。

「はいはい、帰るならさっさと出てく。あたしはまだまだお仕事が残ってるんだから」

部屋を追い出され、受付嬢に挨拶してエレベーターを待ちながら考えた。

今夜、なつみは部屋にいるだろうか。
誰かと夜を過ごしているだろうか。

考えていても始まらない。
外に出たあたしはなつみの部屋へと足を向けた。





◇◇◇◇◇



なんなんだろう、この状況。



「かんぺー!かんぺー!」
「まい、わかったから。もう乾杯は何回もしたから」
「うぅぅ…ヒドイ!カオリンのばか!ばかばかばかばか……かんぺー!!」
「わ、わかったから。はい、乾杯。ほら吉澤さんもぼやぼやしないで」
「かんぱーい…」

まいちんっていつから乾杯上戸なんだろう。
少なくとも大学のときまではちょっと脱ぎ癖があるけど楽しいオネエチャンだったのに。
いや今も楽しいっちゃ楽しいけど。
でも、それにしても面白いのは飯田先生だ。
ぽんぽん服を脱ごうとするまいちんの後ろから甲斐甲斐しくコートやマフラーを拾う姿は
とても昼間の彼女と同一人物とは思えない。
きりっとした顔も鳴りを潜め、デカイ体でオロオロと
まいちんのまわりをうろつく姿は哀愁すら漂う。

「もうっよしこ!!なによその覇気のないかんぺーは!」
「だってこんな道の真ん中で乾杯はないだろ。大体なに飲んでんだようちら」

一軒目のパブではまだ正常だった。
まいちんは久しぶりにあたしと飲むということで
やっぱり最初からテンションがいくらかおかしかったけど
大学時代の思い出や、共通の友人の話などをずっと喋り倒していた。
あたしはちびちびと節度のある飲み方をしていたし
飯田先生に至ってはひたすらミネラルウォーター。
おいおい、飲みの席でそりゃないだろと思ったけど
その後のまいちんの泥酔っぷりからして飯田先生の選択は正しかったと納得した。
あたし一人じゃとてもこの酔っ払いセクシーネエチャンの相手は無理だったから。

二軒目でもまいちんのテンションの高さは変わらなかった。
あたしがいかに大学時代暗かったかとか
飯田先生がどんなにベッドで有能かを大声で暴露していた。
あたしはまいちんから見たあたしの印象がどんなだったかが知りたかったから
止めることはしなかったけど、さすがに飯田先生は長い髪を振り乱して
必死でまいちんの口を両手で押さえていた。
あたしだったらそういうときはキスしちゃうんだけどなー。
飯田先生にそういう発想はないらしい。

三軒目では下品な言葉でナンパしてきたおにーさんたちを
おにーさんたち以上の下品さで罵り、追い返したまいちんは
四軒目であたしと飯田先生に色目を使ってきたおねーさんたちと
取っ組み合いのケンカを始め、赤毛のけっこうな美人のケツを蹴り上げていた。
五軒目に行く前に警官が来そうだったので場所を飯田先生の家に移して飲み直そうと
渋る酔っぱらいを説得した。

そして今は飯田先生の家に向かうべく
フラフラする彼女を飯田先生と両側から抱えながら歩いている。
当然、手にはなんの飲み物も持ってはいない。

「かんぺー!!かんぺー!!」
「オマエそればっかだなぁ。だからなんも持ってないっつのに」
「吉澤さん、それは禁句です」
「んもぅぅーっ!!あんたたちにはいまじねーしょんってもんがないわけ?!」
「うっせーなぁ、酔っ払いは。飯田先生んちどこよ?さっさと寝かしちゃおうぜ」
「もうそこです。ほら、まいしっかりして」
「…ショージョーリョクってもんが…いのよ…た…は…脳がちゅるちゅる…で…」


ようやくついた飯田先生の家は、なんていうか想像とちょっと違っていた。
意外にカワイイ系なんだな…似合わねー。
もっと近未来的なロボ?みたいな直線的なイメージをしていたのに。
けっこうふんわりした暖かい色づかいが多い。
それになんつーかやけにペアなものが目につくんですけど…。

「新婚家庭かよ…」

まさにそれだった。二人のラブラブっぷりが窺える部屋。
まるで訪れた人間をムカムカイライラさせることが目的のようなそんな部屋で
まいちんが先につぶれたのは幸いだったのかもしれないと思った。
イチャイチャを見せつけられたらたまったもんじゃない。
ま、飯田先生に限ってそんなことはないと思うけど
酒が入ったらわかんねーからな、この人も。
いまだあたしの中では未知数だし。

「まい、寝るなら服脱いで。こっちの腕あげて、はい」
「そうそう。まいちん、ボタンも外そうねー」
「………」

じょ、冗談だって。冗談に決まってんだろ!

飯田先生にすんげー顔で睨まれてあたしはすごすごベッドルームから退散した。
人ひとり殺しかねない顔をしてたな、あれは。
まったく冗談が通じない女はこれだから…ってあたしも懲りないなぁ。

「まあ、寛いでください」
「お構いなく」

酔っ払いを寝かしつけることに成功した飯田先生がリビングに入ってきた。
そのままキッチンに向かい冷蔵庫を覗いて長い髪をかきあげた。

「ビールでいいですか?それともワイン?」
「じゃあ、ビールで」
「吉澤さん、チーズは?」
「あ、好き」

ライムがあるか聞こうと思ったけどさすがにそれは図々しいかなと思い止まった。
長い腕でビールやらチーズやらを抱えて飯田先生がリビングに戻ってくる。
あたしはおずおずと可愛いソファに深く座り、一連の動作を眺めていた。
そういえば肝心なことを聞いてなかったな。

「一緒に住んでるんですか?まいちんと」
「ええ。半ば同棲ですね。私が押しかけて」
「ふーん。やっぱりね。そっかそっか。飯田先生が押しかけ…って………えぇぇぇ!」

マジかよ!絶対逆だと思ってたのに。
飯田先生がそんなことする人だったなんて。
少なくとも美貴から聞いた話の飯田先生はもっとクールっていうか
淡白っていうか情が薄いっていうか…。

「ひどい言われようですね」
「あ、ごめん」

一応謝ったもののいまだに半信半疑だ。
だって、この仕事人間が押しかけ女房ってなぁ。
それほどまいちんのことを愛しちゃってるのか?

「藤本さんから聞いてると思いますけど、彼女とのときはそれほど…その…」
「お互いホントに好きじゃなかったんだ」
「まあ、はっきり言えばそうですけど…吉澤さんやけに嬉しそうですね」

美貴の話は誇張でもなんでもなかったのか。
美貴も飯田先生も、そんなんだったら付き合うなよなー。
でもなんか嬉しくてたまらないんだけど。
ウキウキ気分でビールを一気に飲んだ。
心なしかさっきより断然美味しく感じる。

「ん?飯田先生なんで水飲んでんの?」
「アルコールは一切飲めないんですよ」
「またまた〜。もう自宅なんだからいいじゃん。飲めよー」
「いえ、本当に。昔ひどい醜態をさらしてから絶対に口にしないようにしてるんで」
「ひどい醜態って?」

なんだなんだ。
醜態をさらす飯田先生がむしろ見たいよ、こっちは。

「酔うと誰かれ構わず抱いてしまうみたいで」
「ブハァァーッ!!」

いきなりなに言い出すんだ。
そりゃビールも噴くって。
嫌な顔してタオル取りに行くなよ。
言ったアンタが絶対悪いんだから。あーあ、ビールもったいない。

「飯田せんせぇ。もう一本もらっていい?」
「今度は噴かないでくださいよ」
「あなたがおかしなこと言わなきゃ噴かないよ」
「聞いたのは吉澤さんでしょう」
「だからって言うかな」

二本目のビールをごくごく飲みながらあたしは呆れて床を拭いている飯田先生を見た。

「本当のことを言わなければ水飲むのを許してくれないでしょう、あなたは」
「そりゃそういうアレならさすがにあたしも勧めないけどさ。抱かれたら困るし」
「私だって困りますよ。吉澤さんとそんなことになったら」
「いや、オイラのがぜってー困る。藤本くんが許すはずがないもん。
 まいちんはなんだかんだ言っても許してくれそうじゃない?」

床を拭き終えた飯田先生がなぜだかきょとんとした顔でこちらを見た。
ん?なんかヘンなこと言った?あたし。

「意外ですね。吉澤さんだったら絶対に
 『エッチしたって言わなきゃバレっこないんだから楽しもうよー』
 とか言うと思ったんですけど」

あのねぇ。あたしをなんだと思ってんだよ。
それにその声真似、やけに似ていて気持ち悪いよ。

「吉澤さん本当に美貴のこと大事に思ってるんですね」
「美貴って言うな」
「あ、すみません。藤本さんのこと本気なんですね」
「あったりまえじゃん。飯田センセーがまいちんを好きな気持ちより
 あたしが美貴のこと好きなほうがずぇっっったい勝ってるもん。自信あるもん。
 つーかあたしの愛は世界一だし」
「それなら私は宇宙一ってことで」
「ダァーッ!コラ飯田てめー!宇宙とんなよ」
「あ、もしかして抱かれるより抱くほうが好きですか?」
「いやあたしはどっちもイケる口だけど…ってちげーよ!」

おもむろにあたしの横に座ってきた飯田先生は
なぜだか妖しげな目つきでサラサラの髪を耳にかけた。
誘うようなその視線にあたしはピンとくる。
ははーん、そういうことか。
あいにくだけどあたしだってだてに場数は踏んでないんだよ、飯田先生。

さりげなく距離を詰め、身長のわりにほっそりした肩をそっと抱いた。
一瞬、飯田先生の睫毛が揺らめいて動揺を隠したのがわかる。
敵もなかなかやるなぁ。

じっと見つめる彼女の膝から右手を放してその長い髪をゆるゆると撫で感触を楽しむ。
視線を真っ直ぐに向けられた瞳に合わせ、右手で頬を撫でようとしたそのとき。

「す、すみません」

飯田先生は心持ち顔を赤くしてあたしを振り解き、素早く立ち上がった。

「飯田せんせぇ。続きはぁ?」
「わかりました。私が悪かったですよ。今のは、全面的に」

へっへー。
あたしをからかおうなんて、らしくないことをしようとするからだ。
ザマーミロ。
飯田先生の鼻を明かしたみたいで気分がいい。ビールうんめー。

「でも私だからよかったようなものの、他の女性だったら……。
 藤本さんもなにかと苦労が絶えなさそうですね…」
「なんだよそれ。なんかさー、飯田センセーって
 絶対あたしのこと変なフィルターかけて見てるでしょ。
 あたしは美貴以外の女に興味ないよ?ぶっちゃけ」
「やっぱり第一印象があれでしたからねぇ。
 木村先生とか…あといろんな噂も聞いていましたから」
「あ、あの頃はその、まあ、いろいろと……あって」
「では酒の肴にその『いろいろ』というのを聞かせてもらいましょうか。夜はまだ長いですし」

酒の肴って、オマエ飲んでんの水じゃねーか!
それになんだこの友達みたいな雰囲気は。
あたしたちってそういう関係だったか?
いつのまにこんなに和んでんだろう。面白い女だな、この人。

でもこの人に話したってべつに損するわけじゃないし(得にもならないけど)
それこそつまみ代わりに話してやってもいいかな。
たしかに夜は長い。今日みたいな日は、とくに。



あたしにとっては眠れぬ日になるはずだっただろうこの夜に
こうして酒を飲みながら自分以外の誰かと過ごせることを
あたしはひそかに感謝し、そして安堵していた。

今日だけは、一人でいたくなかったから。
できれば美貴とがよかったけど、それは飯田先生には言わないでおこう。





◇◇◇◇◇



なつみの部屋についたあたしはいつものように合鍵を使って中に入った。
家主が不在の空間はどこか寂しげで、寒々しい。
暖房をつけて勝手知ったる我が家のように冷蔵庫からビールを取り出す。
そういえばビールが美味しいと感じられるようになったのはいつからだろう。
なつみと知り合う前はあんな苦いものどこがいいんだと
美味そうに飲むけいちゃんや今まで付き合ってきた恋人たちを不思議な感じで眺めていた。

まだ完全に暖まらない部屋でダウンジャケットを着たままベッドに腰掛けた。
瓶の冷えた感触が手に痛い。
袖を引っ張って直接触らないようにしてビールを飲む。
ライムがあれば入れたいところだけど
あいにくそこまでなつみはマメに買い物をするほうではない。
食料品だってろくにないこの部屋では食事らしい食事なんてできない。
あるのは酒やチップスやチョコバーとかそんな腹の足しにならないようなものばかりだ。

壁にはブレンダの残していったポスターがいまだに貼られたままある。
往年の女優らしいその人物はスポットライトを浴びて舞台上で輝くほどに美しく微笑んでいる。
名前は知らないがきっと有名な人物なのだろう。
たまに似たような写真を街で見かけることがある。
ブレンダもこの女優のようになりたくて劇団で夢を抱いていたのだろうか。
ポスターの女優に自分自身を当て嵌めて。
結局それは儚い幻想にすぎなかった。


「…にさっ…ふざけ…ん」
「いい加減に…この…アバズレがぁ!」

ポスターを見ながらビールを飲んでいると突然ドアの外で激しく言い争う声が聞こえてきた。
なつみの声のような気がして慌ててドアに駆け寄るとさらに大声がヒートアップしていた。

「出てくわよっ!!出てきゃいいんでしょっこのくそったれがっ」
「あーあー、さっさと出て行きやがれファッキンジャップ!」
「クサイ息吐きかけんじゃねーよ!地獄に落ちな!!」

あたしはドアを開けると太鼓腹のハゲオヤジと今にも殴りあいになりそうなほど
怒鳴りあっているなつみの腕を素早く掴んで、慌てて部屋の中に引っ張った。
そしてしっかりと鍵をかける。
外ではあたしの登場に一瞬気がそがれて呆気に取られたハゲが
我に返ってまたなにごとか怒鳴っていた。

「うるせーんだよ!ハゲ!!」

顔を真っ赤にして怒りを露にしたなつみがドアを蹴った。

「どうしたんだよ!この騒ぎは」
「はんっ!あの大家のハゲがここを出てけってうるさいから」
「なんで?家賃払ってないとか?」
「そういや最後に払ったのいつだったかなぁ。忘れちゃったよそんなこと」
「お金困ってるんなら、あたし…」

なつみはあたしの手からビールを奪うと
スタスタとベッドのほうに歩きながら一気に飲み干した。
空になった瓶がゴロゴロと音を立てながら床を転がる。
ベッドに寝転んだなつみはなぜだかさっきとはうって変わって
別人のような表情になり、あたしを誘うような目つきで見た。

「金持ちのおじょーさま、あたしと寝たいんでしょ?さあ、やろうよ」

それを聞いた途端、あたしは初めて、なつみに怒りを覚えた。
と同時になぜだか恥ずかしいという気持ちも湧き出て
羞恥からか怒りからか顔が紅潮するのがわかった。

そしてそのすぐ後には悲しみが怒涛のように押し寄せてきた。
いろんな感情が一気に噴出して、今日一日にあったいろんなことを
めまぐるしいスピードで思い出した。
けいちゃんと話したことやブレンダのことなんかを考えながら
あたしはとにかく悲しくて仕方なかった。

どれくらい経ったのだろう。
ふと気づくと立ち尽くしていたはずのあたしは床に跪きなつみに頭を抱かれていた。
しっかりと巻きつかれた両腕は温かくて
でもあたしが埋めていた顔のあたりはほんのりと湿っていた。

「ごめんね。ひどいこと言って。ひとみごめんね。
 あたしはひとみが好きなのに…ごめんね。好きよ?ひとみがとても恋しいの。
 こんな可愛いひとみを泣かすなんてあたし最低ね。
 お願いだから泣かないで…ひとみ。大好きよ。あたしの可愛いひとみ…」

ああ、あたし泣いていたのか。情けない。
でもなつみがこんなに優しい言葉をかけてくれるなんて。嬉しい。

「ひとみ好きよ。ねぇ、ひとみがいればなんにもいらない」
「あたしもなつみが好きで好きでたまらないよ」

その場に押し倒して夢中でキスをした。
お互いの舌を絡めあい、吸って、噛んで、血が滲んだ。
スカートの中に手を入れショーツの横から指を入れた。
愛撫するのももどかしく、いきなり突き立てると
なつみは奇声をあげて大きく背中を仰け反らせた。

はだけたシャツの隙間に顔を突っ込み胸の谷間をちろちろと舐めながらさらに突き立てる。
そのたびに叫ぶなつみの声はあたしの耳にとても心地がよかった。
乳首を噛みながら横目でドレッサーに映るなつみを見ると
彼女はだらしなく口を開き、でも恍惚の表情を浮かべていた。



終えて中途半端に服を着たまま二人で床に寝そべっていると
なつみは小さな声で話しかけてきた。

「お金はあるのよ。ただアイツに払いたくないだけで」
「なんだそれ」

笑っているのだろう、なつみの背中が小刻みに揺れている。

「この部屋出るんでしょ?どうするの?」
「んー」
「どっか行くとこって…」

言いかけてあたしはハッとした。
なつみならばいくらだって行く先はある。
数多くいるなつみの相手の誰かがきっと宿無しの彼女を快く招き入れるだろう。
そうなったらあたしはどうなる?どうすればいい?
あたしたちはどこで愛し合えばいい?

「そういえばディランの店によく来るフランス人がアパルトマンを持ってるって言ってたから
 しばらくはそこに住もうかな。誰も入ってなくて取り壊すかどうかまだ迷ってるらしいから」
「え?!そ、それってなつみ一人で?」
「そうよ」
「あ…あたしも、住んでいい?なつみと一緒に」

半ば衝動的にそんなことを口にしていた。
さっきまであったなつみを失うかもしれない不安があたしの背中を後押しして。
でも考えもなしにそんなことを言って
なつみが承諾するはずがないとすぐにまた不安が押し寄せる。

「いいよ」

でもなつみはあたしの予想とは裏腹にあっさりと、快諾してくれて。

「え?!いいの?」

なつみと暮らすということはあの家を出るということで
大切な人たちの顔が次々に浮かんで様々な障壁があるということも十分理解していたけど。
甘い悪魔の囁きに、あたしは一瞬にして心を奪われていた。
これから始まるあたしたちの甘い生活を想像して。



それなのに。



なつみはそんなあたしの夢物語をまるでブレンダからあのポスターを引き離したように
それこそいとも簡単に粉々に打ち砕いた。
それもたったの一言。
油断していたら聞き逃しそうなほどにさらっとなつみの口から零れたその言葉は
浮かれていたあたしの気持ちを容易くどん底に突き落した。



「あたし妊娠してるの」











6へ
カノトモページへ




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送