ロンドン編 4






朝の散歩は吐き気がするほど清々しい。
しかも休日となれば尚更だ。
これでもかっていうほど爽やかな笑顔を撒き散らす人々が
何が楽しいのか笑ったりはしゃいだり。
老夫婦の控えめな談笑さえも鬱陶しく感じられる。
だったら来なければいいのにと自分でも思うけど、でもなぜだか来てしまった。
寝不足でフラフラの頭なのに、さっさと家に帰ってベッドに潜り込みたいのに、
なぜか来てしまった。

「げっ」
「あら、おはよう」
「な、なんで?何してんの?」
「エッチしてるように見える?」
「いや全然見えないし」

いわゆるジョギングルックで汗をふきふき白い息を吐いているけいちゃん。
あたしやなつみのこと言えないくらい太陽の下が似合わないな、この人も。

「それよかアンタさっき『げっ』て言ったわね」
「言ってないよー。けいちゃん耳遠くなった?ヤバイね。年だね」
「失礼の二乗ね」
「すみせんでした」

腕を組みこちらを睨みつけるその姿が恐ろしくて頭を下げる。
まったく、冗談が通じないんだから。

「アンタ今また失礼なこと思ったでしょ」
「えーと、えーと。て、ていうかさ!
 なんでけいちゃんジョギングなんてしてるの?そんな趣味あったっけ」
「うっ、そ、それは…」

珍しくけいちゃんが言葉に詰まった。
腰に手を当てて爪先でトントン地面を蹴っている。
なにかヤマシイことでもありそうな雰囲気だ。
これはもしかしたら形勢逆転できるかもしれない。

「大体けいちゃんスポーツって柄じゃないじゃん」
「ほ、ほら、ええっと…そう、そう!最近健康志向が高いじゃない?
 ちょっとね、なんとなくやってみようかなーって。あたしだって仮にも医者なわけだし」

ピカピカのジャージとシューズからしてどうやら最近始めたばかりの様子。
それにしてもしどろもどろなその受け答えは笑える。
こんなに慌ててるけいちゃんを見るのは本当に久しぶりだ。

あれはいつだっただろう。
たしか5、6歳の頃パンケーキが食べたいと駄々をこねたあたしのために
料理なんてしたことのないけいちゃんがキッチンをとんでもない惨状にして
オフクロにこっぴどく怒られた、あれ以来かな。
あのときのけいちゃんは傑作だったなー。
顔粉まみれで。涙が出るほど笑っていたらそのうちけいちゃんも笑いだして
ついにはオフクロまで腹を抱えて。
あのときは楽しかったなぁ。

「ぷっ」
「なによ」
「いや、ちょっと思い出し笑い」

全身真っ白でお化けみたいだったけいちゃんの顔を思い出したらつい吹き出してしまった。
いかんいかん、もっとけいちゃんにつっこんでジョギングを始めた本当の理由を聞き出してやる。

「ハーイ!ケイ!」

突然声をかけられたけいちゃんはびっくりするほど満面の笑みを浮かべた。
あたしはなんとなくぴんときて、声をかけてきた人物を振り返った。

「ハイ!クレア。今日もキュートね」

言いながらけいちゃんはクレアという人物の胸やら尻やらを舐めるように見た。
クレアはあたしのほうをチラチラと見ていたからそのイヤラシイ視線には気づいてない。
つーかけいちゃん…あなたはエロオヤジですか?
やだなぁこの人と親戚って、と本気で思った。

「ありがとうケイ。こちらは?」
「ああ。親戚のひとみ。偶然会ったのよ」
「初めましてひとみです」

あんまりフレンドリーにするとなんとなく後が怖い気がしたから
無愛想にならない程度に微笑んだ。

「初めましてヒトミ。私はクレアよ。よろしく」
「こちらこそ」
「ごめん、クレア。あたしもう少しひとみと話してるから先に行ってて?」
「オーケイ。でも早くね。あたしもうお腹ペコペコなんだから。またねヒトミ」
「ええ。また」

来たときと同じようにクレアは軽やかに去っていった。
ポニーテールの髪が右に左に飛び跳ねているのを見ながら軽いため息をつく。

「けいちゃんってわかりやすい人だね」
「まだクレアとは友達なのよ」
「見ればわかるよ。それより胸とか尻とか見すぎだし」
「いいじゃない、減るもんじゃないんだから。
 ここまで親しくなるのにあたしがどれだけ苦労したかわかる?
 最初の日なんて朝から死ぬかと思ったわ。心臓に悪いわね、ジョギングって」

まったくよく言うよ。
さっきは健康志向がどうのこうのってもっともらしい理屈こねちゃってたくせに。
けいちゃんが体を動かすなんておかしいと思った。
昔っからの本の虫が今さらジョギングっておかしすぎだもん。

「女目当てでそこまでするんだ」
「ふんっ。ルックスのいい奴はこれだから嫌なのよ。
 でもアンタだってなつみがジョギングを始めたら付き合うでしょ、どうせ」

なつみがジョギング…ありえない。
ありえなさすぎて鳥肌が立つ。

けいちゃんも自分で言っておきながらさすがにおかしいと思ったのか
何ともいえない顔をしていた。

「そ、そんなことよりまた朝帰り?なつみのとこから」
「まあね」
「まったく、よく続くわね」
「怒らないの?」
「怒っても無駄だってわかったのよ。マリアには…」
「ちゃんと言ってある」
「そう。ならまあ、いいわ」

そう言うけいちゃんの顔はちっとも『まあいい』と思っているふうには見えなかった。
無理やり納得しているかのようで、視線を落として言葉を飲み込んでいた。
何か話すべきかと思ったけどこれ以上なつみの話をしても彼女の表情が晴れるとは思えず
再度クレアのことに話をふった。

「クレアとどこで知り合ったの?」
「…クリニックの患者」
「げっ」

聞かなきゃよかった。
この人一体何人の患者に手を出しているんだろう。
あたしが知ってるだけでこれで4人目だ。そしてその誰とも長続きしていない。
こんな人に道徳とか性のことで説教されてるかと思うと情けなくなってくる。
自分のことを棚にあげてよく人にいろいろと言えるもんだ。

「あたしは大人だからいいのよ」
「はぁ〜。あたしとけいちゃんって血繋がってんだよね?」
「なに当たり前のこと言ってんのよ」

あたしは一途でありたい。
どうか神様、こんな大人にはしないでください。

「もう行くわ。クレアが待ってるし」
「へいへい。さっさと行ってください」
「アンタもそんな眠そうな顔してないでちょっとは走ったらいいのよ」
「ぜっっってームリ」
「まったく不健康ね」

捨てゼリフを残し走り去ろうとしたけいちゃんを呼び止めた。
目と眉だけで何?という顔を表現した彼女に一言問いかける。

「けいちゃんってブロンド好きでしょ」

彼女はただ口の端をニヤリと歪めただけだった。
小さくなっていく背中をしばらく眺めてから帰路についた。





◇◇◇◇◇



  よっちゃんへ


 バカだな〜。ほんっとよっちゃんはバカだよ。
 キミは自分で思っているよりずっとずっと強い人だよ?
 ヘタレなんかじゃないってあたしは知ってる。
 キミは正しい選択がわかる人だよ。
 (するかどうかは別ね。よっちゃん優しすぎるところがあるから)
 あたしの言ってる意味わかるかな。
 わからなくてもいいけどニュアンスは汲んでよね。

 今さらあたしに言われなくてもわかってるはず。
 幸せになるためによっちゃんは前に進んでる。
 大丈夫だよ、なんてあたしに言わせる気?もうっ!
 あたしがそのうち大丈夫じゃなくなっちゃうよ。

 よっちゃんが恋しい。
 よっちゃんのひんやりした気持ちのいい唇に触れたい。
 よっちゃんにギュッてしてもらいたい。
 よっちゃんのイタズラな手をつねったりバカなこと言うキミにパンチしたりしたいよー。

 あたしをこんな気持ちにさせるよっちゃんはバカとしか思えない。
 でもそんなよっちゃんが好きで好きでたまらないあたしはもっとバカなのかも。

 キミに必要なのは勇気じゃない。あたし、でしょ?


 追伸

 飯田先生とよっちゃんってもしかしたらすごく気が合うんじゃないの?
 よっちゃんすごく楽しそう。メールから伝わってくるよ。


  あなたの美貴より





メールを読んでからベッドにダイブして枕をこれでもかってくらい強く抱きしめた。
美貴に会いたい。会いたいよーチックショー!
美貴の笑顔が見たい。ナマ美貴を抱きしめたい。激しくキスしたい。
いい匂いのする髪をかきまわしたい。すべすべの肌を舐めまわしたい。
かわいい胸に挨拶してあたしのシルシをいっぱいつけて
あたしだけの美貴にあーしてこーして…ムフフ。
あぁヘンな気分になってきた。
ってちげーよ!なんだこのイヤラシイ妄想は!こんなことしてる場合かよっ!
…でもなんでもいいからとにかく美貴に会いたいよー!

「…………さて、出掛けるか」

ベッドの上でじたばたもがいて叫んで少しだけスッキリした。
コートを着て、マフラーを巻いてニット帽をかぶっていざ出陣。
こういう格好をしているとまだまだあたしも10代でイケるな。
べつに歳とかどうでもいいけど最近美貴がやけに肌のお手入れに時間をかけて
あたしの顔をナデナデしてはため息つくのはどうなんだろう。

『よっちゃんのツヤツヤスベスベお肌が憎いよ』

美貴とそんなに変わらないと思うんだけどなー。

ドア横にある鏡を覗き込んだ。帽子からはみ出た前髪を横に流す。
ぼんやりと見慣れた顔がそこにあるだけだった。
眼鏡を持ってこなかったのは迂闊だったな。
暇なときに買えばいいか。つってもいつも暇だけど。
じりじりと近寄って自分の顔を凝視。
肌を確認。ピタピタ。ツンツン。
睫毛を触ってみた。なんかくすぐったい。
頬をぐりぐりして鼻を引っ張って、眉毛を抜いたら涙が出た。

あたし、なにやってんだろう。

足が止まっている。体が、部屋から出ることを拒否している。
そんなにあたしは嫌なのか。あそこに行くのが。

「ヤダ」

思いのほか低い自分の声にぞっとした。あたしの脳が指令を下す。

『今日はやめとけ』

うん、そうしよう。やめたやめた。べつにいーじゃん?寒いし。

くるっと振り返ってマフラーを取る。
コートを脱ぎかけてふとつけっ放しのパソコンのディスプレイが目に止まった。
ずらっと並んだ文字が無機質に光る。
距離的に見えるはずがないのになぜだろう。
一文字一文字がくっきりと、はっきり頭に浮かんでしまうのは。



あたしに必要なのはたしかに美貴だけど…でもね、ちゃんともらったよ。



勇気。



コートとマフラーを掴んで深呼吸。
そして思い切って駆け出した。何も考えずに足を動かした。
あんまりまわりを見ないようにして(何人かにぶつかったけど)
とにかくダァーッと走ってみた。
脇目もふらず、誰かに、何かに追い立てられるように走り抜いた。
支配人のオッサンがびっくりした顔でこっちを見てたけど
誰かに名前を呼ばれたような気がしたけど全て無視。
あたしの脳が余計なことを考える前に。早く、早く。

見えないなにかに捕まらないようにあたしは走った。
背中に誰かの手が触れるんじゃないかとびくびくしながら。
背筋を走る悪寒は走っても走っても振り切れなくて
ずっとついてくる自分の影からさえもあたしは逃げたかった。
限界が近くても恐怖感がそれをあっさりと打ち破って
ホラー映画の登場人物のようにあたしは命からがら走り続けた。
理由など、もちろんわからずに。

「…はっ…はっ…くっ……はぁ…はぁ…」

コンクリの地面を蹴る音が耳障りだった。
冷えた空気が頬や耳に突き刺さる。
寒いというより痛い。
そのくせコートの中では発散されない熱が籠もって暑苦しい。
手に持ったマフラーが邪魔で仕方ない。
汗ばんだ体にシャツが張りついて気持ち悪いったらない。
なぜだか滲んできた涙が鬱陶しい。
白い息があっという間に吐き出されては後方に消えていく。

「はぁっはぁっはぁっ…くそっ」

だらんと垂れてきた両腕をそれでも振り続ける。前に、後ろに。
自分のイメージの中ではしっかりと90度に曲げられた肘が意志とは無関係に伸びる。
握る力を失った両の手のひらが腿を打ちつける。
足がもつれてバランスを崩した。
その拍子に伸ばした指先がなにもない宙を虚しく掴む。
前のめりに突っ込んで倒れこんで転がって転がって
下り坂の固い地面を転がり続け、ようやく止まった。

「……ドチクショウ」



再び思う。
あたし、なにやってんだろう。なにがしたいんだろう。



数秒やそこらで整うはずのない呼吸。
開けられない瞼。
口の中にはジャリっと砂を噛んだ感触。
鉄の味がする唾液。
寒さと疲労で麻痺した体に転倒の痛みはまだやって来ない。
きっとあちこちすり傷だらけなんだろうけど、でもそんなことはどうでもよかった。

心臓は初めてエッチしたときよりバクバクで
肺は子供の頃に溺れかけたときより悲鳴をあげていて
涙はオフクロが死んだときと同じくらい止まらなかったから。




だって、目の前には。
瞳を閉じてはいたけど、目の前には。



二人で暮らしたあの部屋の残骸がはっきりと見えたから。



あの日、瞼の裏にいつまでも焼きついている炎の中のなつみが微笑んでいた場所。
伸ばした手の行方はどことも知れない世界。



止め処なく溢れる涙がこめかみを伝って冷たいコンクリの地面に小さな水たまりを作る。

半壊したあたしたちの甘いとはいえないホームが
誰にも気に留められぬまま放っておかれたその様子が
逃げるように日本に帰ったあたしを責めるように哀しく見つめている。

しっかりと握っていたはずのマフラーは
あの日あたしが失ったものを象徴するかのように
いつのまにか手の中から音もなく消えていた。





◇◇◇◇◇



辛うじて残っている帰巣本能があたしをマリアの待つ家へと帰らせる。
どれほど夜中に抜け出しても、なつみの元から離れたくないと思っていても
必ず家には帰る。
それはもしかしたら本能なんかではなく
ろくに家に寄りつかないオヤジに対するあてつけなのかもしれないけれど。

いない人間になにをあてつけるんだか。
でも自分とオヤジは違うと思いたかった。



『あなたたちはよく似てるわよ』

いつだったかオフクロに言われた言葉はあたしの顔を醜く歪ませた。
会社のこと、仕事のことしか考えていないあの人間と一緒にされたことへの嫌悪。
政略結婚とはいえ、オフクロになにひとつ愛情など見せなかったオヤジを
あたしは反吐が出るほど軽蔑していた。
自分はそんな人間じゃない。あんな血の通ってない顔の奴と一緒にするな。

外見上のことなのか、それとも内面的なことを指していたのか
オフクロの真意は死んでしまった今となってはわからないけど
似ていると言われたその日からあたしはどこかで自分をも嫌悪していたような気がする。
日に日にオヤジに近づいているような、そんな気がしてあたしは極力オヤジを避けた。
そんなあたしの心の内など知る由もないオヤジは
オフクロが死んでロンドンに移り住むようになってからも
相変わらずそれまでのスタンスを崩すことなく精力的に仕事をしている、らしい。

「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「お食事はどうなさいますか?」
「ん、食べるよ。オヤジは…」
「旦那様は午前中に一度お戻りになられて、またすぐに出掛けられました」
「ふーん。今度はどこ?」
「日本だそうですよ」

いつものようにシャワーを浴びに2階に上がった。
なつみとの痕跡をすべて洗い流すのは、いつも少し勿体ないような気持ちになる。
古いアパルトマンのかび臭さや部屋にこびりついた煙草と酒の匂い。
それらがイコール彼女の匂いだ。
いい匂いだなんて思ったことはないけどなぜだかその匂いに包まれると落ち着いた。
その匂いがしみついた彼女を抱くと気分が安らぐ自分がいた。

肌を伝うシャワーの水流がなつみの匂いを攫っていく。
あたしからなつみを奪うかのように容赦なく水は流れ、排水溝に消えていく。
寂しさと、不安から胸が苦しくなる。
握り締めた右手を心臓の上に置き、じっと息を止めて歯をくいしばる。
耐えて、待つ。
そうしているうちに徐々に不安が治まっていくのがわかる。
よし、大丈夫だ。
すっかり慣れたこの動作もなつみと会わない日はする必要がない。

なつみと会った日のシャワーは、ひどく疲れる。

髪をふきふき鏡を見ると、オフクロ譲りの白い肌と
オヤジそっくりの大きな瞳があたし自身をぼんやりと見つめていた。
自分の顔は好きじゃない。
なつみに好きだと言ってもらっても、オヤジの子供なんだと自覚させるこの顔は嫌いだ。
オヤジに似ている自分がオヤジ以上に、もしかしたら嫌いなのかもしれない。

「ひとみお嬢様は」
「うん?」

シャワーで体力を使い果たして、正直メシを食べる余力なんてなかったけど
せっかくマリアが作ってくれたのだから食べないわけにはいかない。
食べるって言ったのは自分だし。
欠伸を噛み殺しているのがバレてなきゃいいけど。

「なぜそんなに旦那様のことを毛嫌いなさるのですか?」
「さあね」

マリアがこういうことを聞いてくるのは珍しいことではないのでさらりと受け流す。

「親子はなにがあったって親子なんですから」
「へーへー」
「もっとお互い歩み寄ってですね」
「ほーほー」
「もうっ。お嬢様、ちゃんと聞いていますか?!」

心配してくれているのはよくわかる。親身になってくれているのも。
でもイチからジュウまでオヤジとのこれまでを説明するなんて面倒なことは御免だし
なによりあたしの気持ちをわかってもらえるとも思えない。
理解してほしいとも思わない。
どうせ他人だ。わかったところでなにができるわけでもないんだから。

「聞いてるよーうるさいなー」
「うるさいとはなんですかっ。まったくお嬢様ときたらいつもいつも…」

それはこっちのセリフだ。マリアときたらいつもいつも…。
人の世話焼いている暇があったら自分のことをどうにかしろよな、まったく。

「マリアこそその年になるまで独り身でさ、老後とかどうすんだよ」
「私のことはどうでもいいんです」
「一人ぼっちじゃさみしーじゃーん。誰かいないの?男とか」
「お嬢様に心配などされなくても私は平気ですから」

でっぷりした尻を左右に振りながらぷりぷり怒って食器を下げるマリアに
からかい半分でさらに聞く。

「そっか。焦る時期はとっくの昔に過ぎちゃったかぁ」
「いいかげんにしないと怒りますよ?お嬢様」

真ん丸い目を剥き出しに、ドスの利いた声でそんなこと言われたらさすがにビビる。

「お嬢様」
「はいっ」

背中を向けたマリアが恐くて思わずいい返事。そんなに怒らなくても。

「さっき、一人ぼっちは寂しいって仰いましたよね?」
「え?あ、う、うん」
「それはお嬢様ご自身のことですか?」
「…まさか。そう見えるの?」

一瞬切り返しが遅れた。
余計な心配も詮索もされたくはないのになんでこんなこと言ってるんだろう。
これじゃまるで気にしてくださいと言わんばかりだ。

「いえ、私はどちらかというと旦那様のほうがそう見えます」
「………」
「お嬢様は旦那様によく似ていらっしゃいますね…。
 そんなに動揺した顔を見せないでください」

思わず自分の顔を触ろうと右手がピクッと反応した。
年の功には敵わないな。

「ひとりぼっちが寂しいと仰るなら旦那様の心配をしてあげてください」
「アイツはそんな…」
「親子が仲違いをしているなんて、そちらのほうがよっぽど寂しいことじゃありませんか」
「…オヤジにも同じこと言ったの?寂しそうに見えるなんて」
「まあ…ニュアンス的には同じようなことを」

やるなぁ、マリア。
あのオヤジにそんなこと口出しできた人なんて今までいなかったんじゃないかな。
よくクビにならなかったもんだ。
あたしがマリアを気に入ってるってことがもしかしてオヤジの記憶の端にでも残っていたのか?
ふん、あのオヤジに限ってそんなわけないか。

「オヤジはなんて?」
「なにも仰いませんでした。ただ日本に行くとだけ」
「オヤジらしいな」
「だからお嬢様も」
「え?」
「きっと、この後お出かけになるかご自分のお部屋に戻られるのでしょう?
 私の言葉は無視して」
「…よくわかるね」

苦笑したあたしはすでに立ち上がりかけていた。
マリアとこれ以上話すつもりなんてない。

「あなたたち親子はよく似ていらっしゃいますから」

こちらを見ずにマリアが言い放った言葉は彼女の予想通りあたしを自室へと向かわせた。



オヤジが寂しいと思っているかどうかなんてどうでもよかった。
たとえ寂しく思っていたとしてもあたしには関係ない。
それにもしマリアの目にあたしが寂しく映っているのなら、それこそオヤジとは無関係だ。


なつみに会いたい。
なつみの匂いに包まれたい。


寂しいと思えば思うほど、彼女との距離が遠ざかるような気がした。
なつみは寂しいと思うことがあるのだろうか。
あたしと会ってないときにあたしのことを考えるときがあるだろうか。

答えの出ない疑問を胸にあたしはベッドに横になった。
窓を打ちつける音でいつのまにか雨が降っていたことを知る。
シャワーの水流のようにこんな気持ちを洗い流してくれたらいいのにと
雨に濡れる自分を想像しながら眠りについた。





◇◇◇◇◇



  藤本美貴 様


 やっぱり冬は寒いよなー。風邪とかひいてない?
 美貴のことだから鼻水タラタラでティッシュをものすごい消費してんだろうなぁ。
 目に浮かぶよ。受付で豪快に鼻かむなよ?
 通る人が引くからさ。あれはヤバイって。
 すましてニッコリ笑ってたら美貴は美人だからまさに会社の鼻、じゃなかった
 華って感じなんだから。

 あ、でもあんまりニッコリするなよ?勘違いするバカがいるかもしれないから。
 それでなくったって社内で美貴狙いのやついっぱいいそうだし
 お客様だって美貴に案内されたら好きになっちゃうかもしれないからな。
 うん、ダメだダメだ。ニッコリなんてしちゃダメだ。
 やっぱりムスっとしてろよ。ついでにギロって睨んで
 できるだけ人を寄せ付けないように。男も、女も。
 オイラの美貴に誰も手出しできないように頑張ってくれたまえ。
 期待してるよ、藤本くん。

 今夜は飯田先生とまいちんと飲みに行くんだ。
 わかってる。深酒はしないよ。
 飯田先生と気が合うなんてことはありえないけど
 あの先生が酔っぱらったらどうなるのか少し興味があるから楽しみだ。

 藤本くんは最近飲んでる?
 飲んでもいいけどいつかみたいに酔っぱらって店で寝たりすんなよ?
 すげー心配だからさ。
 後藤さんとか石川さんとかアヤカとか圭ちゃんとか安全なメンツで飲んでくれよ?
 ホントにすげー心配だから。
 あ、後藤さんはダメだダメだ。アイツには前科があるんだった。
 オイラの美貴のほっぺをむむむぅ〜…また腹が立ってきた。

 とにかく、飯田先生がどうだったか報告するから楽しみしてろよ〜。
 んじゃ!


  吉澤ひとみ





美貴が不自然に思わないわけがないのに、こんなメールを送ってしまった。
美貴にもらった勇気の行方をちゃんと説明しなきゃいけなかったのに。
どうしてもできなかった。
当たり障りのない文章の羅列を美貴は怒るかもしれないな。
それに今のあたしとエッチしたら美貴は心底びっくりするだろう。
あちこち傷だらけのアザだらけのこの体を見せる機会がなくて本当によかった。

温度には十分気を遣ったつもりだったけどこれ以上ぬるくしたら寒いし
かといってシャワーだけじゃ疲れは取れない。
あたしは傷だらけの体をゆっくりとお湯の中に沈めた。

「…ぐっ…んんー!!」

言葉にならない悲鳴が口から漏れる。温かいお湯は傷口に容赦がない。
しばらく身を固めてじっとしていたら徐々に体も慣れてきて
ふわぁーっといい気分で手足を伸ばすことができた。気持ちがいい。

「温泉いきてー」

日本に帰ったら美貴と温泉でも行ってのんびりしたいなぁ。
露天で雪なんか積もってたりしたらもう最高。
湯上りの浴衣から覗くうなじが色っぽいんだ。
ビール飲んで、美味しいもの食って、それからまた温泉入って。
いちゃいちゃしたり、ちゅーしたり。
楽しいだろうなぁ。幸せだよなぁ。

「そんな日が来るのかなー」

いつかきっとそういう日が来るだろうとは思う。
けど、来ないような気もする。
今はまだ、美貴とのそんな明るい未来があたしには見えなかった。
あたしが見てる先に美貴はいるけど距離はずっと遠い。
とてもじゃないけど手が届くわけがない。
そんなことを冷静に考えてる自分がなんだか嫌だった。
でもやっぱり、そんな幸せがやって来ることはまだ想像できない。

「まさか残ってるなんて…」

いわくつきの建物は利用価値が無いのか、それとも持ち主が忘れているのか
短い間とはいえあたしたちが住んだあの部屋は無残な姿であたしの目の前に現れた。
数年を経てようやく対面をしたその姿に、いろんな感情が湧き出てきて混乱した。
そして傷む体を引き摺ってホテルに逃げ帰った。

「なさけねぇ…」

無様な姿の自分。情けない自分をお湯に沈めた。

情けない繋がりで思い出したのは初めて美貴とキスをしたときのこと。
あれは情けなかった。本当に、今思い出しても悔いが残る。
あのときのキスは、半ば冗談のつもりだったのに。



ちょっとチュッとできればそれで満足だと思っていた。
けど、唇が触れた瞬間あたしの中でなにかが弾けた。
愛おしさが込み上げてきて止めることができなかった。
気づいたら舌を入れていて、絡み合った瞬間は電流が走ったかのように痺れた。
冷静でいられなくて逃げる舌を夢中で求めていた。

毎日バカやったり(ほとんどあたしだけど)冗談言い合ったりする美貴が
あんなに色っぽい顔をするなんて、キスだけであんなに気持ち良くなるなんて。
なにも考えられなくて、でも美貴に悪いと思いつつ首筋に舌を這わして体を弄った。
ただ美貴が欲しくて先に進もうとする自分を止める気すらおきなかった。

もし美貴の携帯が鳴らなかったらあのまま美貴を抱いていただろうか。
もし最後までいっていたら今の二人はあっただろうか。
やらなかったことが二人にとって良かったのか悪かったのかもう知る術はないけど
あのとき美貴を抱きたいと思った自分がいたのは事実だ。

あたしの唐突な行動に動揺を隠せなかった美貴はそれでも必死で取り繕っていた。
友達であるあたしとそういう関係になりかけたことに戸惑い、混乱していたんだと思う。
キスに応えてくれたことや体を触ったときにちゃんと反応していたことなんかが
あたしにとっては追い風だったけど、美貴にとってはそうではなかった。
混乱の原因でしかなかった。

あのときはまだ。友達だったあのときは。

あのまま抱いてしまえることもできた。
それは無理やりってわけじゃなく、そういう雰囲気に持っていって
ちゃんと美貴があとで後悔をすることがないように
遊びだと割り切れるようなセックスにすることができたと思う。

でもそんなのは嫌だった。
一回きりの相手で終わるくらいなら友達でいたかった。
友達だったら、ずっと傍にいられると思ったから。

だから抱かなかった。

だったら最初から深いキスなどしなければよかったのに。
我慢できなかった自分が情けない。
あんな中途半端な形で終わらせなければならなかったことも。



湯上りの自分の裸を鏡で見た。
腕や肩、足にも見事な青アザが存在を主張している。
顎の下や指に擦り傷もある。
これは本当に美貴には見せられない。
心配を通り越してめちゃめちゃ怒るだろうな。
怒られるならまだいいけど泣かれるのが一番辛い。
美貴の泣き顔であたしの心はいとも簡単に張り裂ける。
涙の粒はあたしの胸にたやすく大きな穴を開けてしまう。
美貴はあたしのすべてだ。

鏡の中の自分を睨んだ。
情けない、負け犬のように逃げ帰った自分を。
こんな傷くらいなんともない。あたしにはするべきことがある。
へこたれている暇なんてない。鏡の中の自分に右ストレート。

「ばあか。ちゃんと見ろよ」

自分が作りたかったホームの残骸を、目を逸らさずに見ろよ。
ちゃんと確かめてこいよ。


着替えながら時計を見る。約束の時間まではまだ余裕がある。
濡れ髪を乾かす時間も惜しくなり、あたしはそのままコートを掴んで部屋を出た。
さっきとはまるで別人のような自分の変わりように笑みが漏れる。
勇気とはちょっと違う。
美貴のことを考えていたらなんだか吹っ切れたような自分がいた。
足取りは軽い。
今度は転ばないように気をつけよう。せっかく風呂にも入ったことだし。

先ほど物凄い速さで駆け抜けた道をてくてくと歩いた。
さっきはまわりの景色を見る余裕なんて全然なかったけど
こうして落ち着いて見てみるとけっこう様変わりしていることに驚く。
まあ何年も経ってるんだから変わっててもおかしくはないんだけど。

濡れた路面にタイヤの後がくっきりと残っている。
水たまりを避け、舗道をジャンプした。

その瞬間、目の前にダウンジャケットを翻して同じように歩く自分の姿が見えたような気がした。

あの頃、何度となく通ったこの道。
お気に入りのオレンジの皮入りのジャムを買いに、なつみを迎えに
公園までの道をひとりで歩いた。

大通りから一本外れた人気のない通りにさしかかりさすがに心臓が早鐘のようになった。
呼吸も乱れてくる。
それでもさっき見た光景を思い出しながら歩を進める。
転んだ場所を通り過ぎてから心が決まった。
覚悟は、十分すぎるほどできていた。




半壊して時間が止まったままの建物。
あたしが作りたかったスウィートホームの残骸が、そこにあった。




そう、あの頃のあたしはバカみたいに夢を見ていた。
あたしたちだけのスウィートホームを作りたいと。
あたしとなつみと……。




無残にも打ち砕かれたその夢は、変わり果てた姿で夕暮れ時のオレンジ色に染まっていた。











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