ロンドン編 3






  よっちゃんへ


 ハイハイ、わかってますよー。
 あたしはよっちゃんが好きで好きでどわぃ好きだもん。
 よっちゃんもあたしがこーんなに想ってるって知らなかったの?
 まったく相変わらずバカ大王なんだから。
 飯田先生やまいさんに迷惑かけないようにね。

 一昨日、飯田先生からメールがあったよ。
 よっちゃんとまいさんってホントに仲良しなんだね。
 心配はしてないけどやっぱりちょっと妬けちゃうかな。
 今よっちゃんのそばにいる人やあるもの全部にあたしは妬けちゃうよ。
 だってよっちゃんの一番近くにいていいのはあたしだけなんだもん!

 でもね、よっちゃん無理しないで。焦らなくていいんだよ?
 もちろん早く会いたいに決まってるけど、よっちゃんに無理はしてほしくない。
 あたしはちゃんと待ってるから。よっちゃんを待ってるから。
 だから体に気をつけてね。

 あたしも愛しています


  あなたの美貴より





メールを見てまだ少し頭痛の残る頭をフラフラさせながら熱いシャワーを浴びた。
どうして美貴はこうもあたしのことをよくわかっているんだろう。
絶妙のタイミングでほしい言葉をくれる。
やっぱり愛の力かな。自分で考えて照れくさくなった。
鏡を見るとやけに真っ赤な顔をした自分がいる。

普段はフザけた口調でクサイことも平気で言ってのけるのに素で考えるとどうもダメだ。
恥ずかしい。
ひとりニヤニヤしている姿はとても美貴には見せられないな。
でも美貴ならきっとそういうあたしも好きでいてくれるだろうけど。
そこまで考えてまた頬が熱くなるのを感じた。
もう、いい加減にしろ!自分。
落ち着け!自分。

昔はこんなんじゃなかったよなぁ。あたし絶対退化してる。
脳みそつるんつるんになっちゃった気がする。
美貴にバカ大王って言われてもホントだよなって納得してる自分がいるし。
おっかしーよなぁ。
昔はクールさがウリだったのにいつのまにこんなアホキャラになったんだ?
ロンドン時代は、あれはあれでちょっと暗すぎたけど…大学のときはどうだったかな?
今度まいちんに聞いてみよう。

会社に勤めだしてからバカに拍車がかかったのはたしかだな、うん。
美貴につっこまれるのが快感になってからはますますアホなことやって
彼女の気を引こうとしたんだ。
そのうちホントに自分はアホなのかもって思いだして小一時間ほど頭抱えたけど
まいっかで済んだし。
いつからこんな楽天的になったんだか。

でも楽天的になわりには(しかも前向きだ)なんであんな夢を見るんだろう。
正直きつすぎだよ。心臓もたねーっつの。
恐すぎなんだもんあの人たち。
もうちょっとヴィジュアル的におとなしめなものにしてくれると助かるんだけど。
でもそれもこれも自分が自分に見せてるわけで…うーん。
ムズカシイ問題だ。とりあえずメシでも食うか。
ってダメだ!ダメだ!こんな暢気に構えてちゃダメだ!
あたしは一刻も早く日本に帰って美貴とヤリた…じゃなくて、美貴に会うんだから。
会いたいんだから。


…でも無理するなって言われたしな。やっぱとりあえずメシだろ。ここは。



「だからってなんで飯田先生なのかなー」
「不満ですか」
「いや不満っていうんじゃないけど。まいちんは?」
「彼女は仕事が残っていて今日は遅くなるそうです」
「なーんだ。ガックシ」

微妙に片眉を上げてなにか言ってやろうかという素振りを見せるものの
飯田先生はなにも言わずに水を飲んで横に飾られた絵画を見ていた。
目の前に座っているコドモがなにか騒いでいるな、くらいにしか思っていないかのように。
どうもこの人の前だと必要以上にくだけた態度と口調になってしまう。
なぜだろう。相手は出会った頃と変わらぬ距離で適度な言葉遣いだというのに。

「飯田先生って小児歯科むいてるかもねー」
「なんですか突然」
「なんかさーべつにこれっていう理由はないんだけどそんな気がする」
「考えたこともないですよ。小児歯科だなんて」
「圭ちゃんってあんな顔して実は子供好きなんだよ。おっかしくない?」

一瞬、飯田先生が怪訝な顔をしたからその理由に気づいて言い直した。

「保田先生」
「ああ」

やっぱり下の名前までは知らなかったか。
というか覚えようという気がないだろうな。

「保田先生が子供好きとは意外ですね」
「だしょだしょ?」

それにしてもなんであたし飯田先生と二人っきりでメシ食ってんだろう。
大体この人あたしのこと嫌いだったんじゃないの?
よくのこのこ嫌いなやつとメシ食いに来るよなぁ。
そんなに美貴の頼まれごとは断れないのか?
なんかまたモヤモヤした気持ちが再浮上してきた。
ここにまいちんがいたらそんなこと思わないのに。

「まいが朝まで飲もうなんて言ってたけど無理しなくていいですよ」
「はいぃ?」
「吉澤さん一時期体調崩してたって藤本さんが言ってたから。あまり深酒させないようにって」
「はぁ。飯田先生ってマジで美貴のこともうなんとも思ってないよね?」
「当たり前じゃないですか。まだそんなこと言ってるなんて吉澤さん相当馬鹿ですね」
「ひっでー。丁寧な口調で人の悪口言うなよなー。冗談に聞こえないでしょ」
「冗談じゃないですし。このほうが喋りやすいんですよ」
「…いちいちムカツクけどまいっか。それじゃもしかしてあたしに気があるとか?」

世界一のバカを見るような憐れみの目線を向けられたら、さすがに泣きたくなる。
美貴ならまだしもなんでこの人にこんな顔されなきゃいけないんだ。
あたしだってべつに本気でそんなこと思ってないよ!
まるであたしが飯田先生を誘ってるみたいじゃんか。チックショー。
この人といるとペースを保てないのが悔しくてたまらない。

「吉澤さんおもしろいねー」
「飯田先生よりはね」

感情のこもってない声でそう流され、マッシュポテトを頬張りながら少しため息を漏らした。



「べつに聞きたくないんだけどまいちんとはなんで?」
「聞きたくないなら聞かなきゃいいじゃないですか」
「聞きたくないけど聞きたいんだよ。女心をもっと察してよー」
「吉澤さんが女心を持ち合わせているとは驚きですね」
「そうそう、あたしもびっくり…ってうぉい!イイダー!」
「よっちゃんって呼んでもいいですか」
「ぜってーヤメロ」
「心が狭いですね」
「からかってるでしょ、あたしのこと」
「察しがいいですね」

はぁ、疲れた。なんなんだこの人。
まったく、ホントに、うんざりだ。
先生から聞かなくてもそのうちまいちんから馴れ初め話を聞かされるのだろう。
仕方ない、今夜のところは引き下がるか。
この人はあたしをからかうためにここにいるんだ。きっとそうだ。

「まいとはつい最近こうなったんですよ」
「って話すのかよ!いいよもう」
「聞きたいって言ったのはそっちじゃないですか」
「気が変わったんで」
「何度か友人として食事に行くうちに徐々に…
 ゆっくりとですが彼女に惹かれている自分に気づいたんですよ」
「あの〜人の話、聞いてます?」
「彼女もそうだったみたいで。なるようにしてなったということです」
「あ、とくにヤマとかオチとかないんですね」
「吉澤さんたちにはあるんですか?ここに至るまでに乗り越えてきたものが」
「…それなりには。端から見たら焦れったかったかもしれないけど
 本人たちはこれでも必死だったからね」
「私たちもそうですよ。口にしたら簡単に済みますけど
 そこに至るまでの複雑な部分もあるにはありましたから。
 いずれにしても当人たちにしかわからないことです」
「たしかに」

では週末に、となぜか念を押され飯田先生と別れた。
今度こそまいちんと二人でいいんだけどなぁ。
飯田先生とそういう話をしたからか、美貴とのことを自然と思い出していた。
出会って友達になってから今に至るまでのことを。
いろんなことがあってその都度いろんな感情が渦巻いていた。
彼女はけっこう考えてることがミエミエのバレバレだったから
すごくわかりやすかったけど、逆にそれがあたしを躊躇わせて…。

ベッドの上でひとりポツンとそんなことを考えていたら無性に寂しくなった。



とりあえず寝よう。寝てしまえば、嫌でも明日がくる。





◇◇◇◇◇



今夜のなつみはどこか様子がおかしい。
おかしいといえばいつもおかしいんだけど、いつものおかしさとはどこか違っている。
今日はことさらにおかしかった。
口で説明するのは難しいそのおかしさが彼女に絶え間なく纏わりついている。
彼女の表情は明るいけど、心の中までは覗けない。

「今度の芝居は見ものよ。なんとあたしが天使の役なんだから」
「なつみに似合うと思うけどな」
「笑わせるわ」

彼女は自嘲じみたセリフを本当に面白そうに放った。
そしてなにか思いついたのかあたしの顔を嬉しそうに見た。

「天使と悪魔って表裏一体だと思わない?」
「よくわからないな。でもそうだとしたら」
「あたしにピッタリ」

手を叩いて喜ぶ彼女は無邪気で明るくて
心底楽しそうにベッドの上をピョンピョン跳ねているから
本当の天使のように見えてあたしの顔はだらしなく綻んでいた。

「天使でも悪魔でもいい」

彼女の腰に手をまわす。上目遣いで顔を覗き込んだ。

「あたしのものになってくれるなら」

抱き寄せ、唇にキスをした。

「ひとみのものだよ」

彼女があたしのものだとしても、あたしだけのものではない。
あたしの唇を美味しそうにピチャピチャ舐めるこの人の舌も独占することはできない。
暗黙の了解のように誰もそうしようとしない。
したくてもできない。彼女がそうさせない。
自分のものだけにしたいのにできないのは、彼女が天使だから?それとも悪魔だから?

「ひとみが欲しい。この綺麗な顔と大きな瞳と白い肌、全部をあたしのものにしたい」

彼女を独占できないのなら、せめて彼女にあたしを独占してほしい。
この体を欲しているのなら彼女に全てを捧げよう。
彼女が望むのならこの体がどうなっても構わない。
欲してもらえることが今のあたしにはなにより幸せの瞬間。
たとえ錯覚でも。

たとえ心は欲してもらえなくとも。

「フフ」
「なにがおかしいの?」

彼女の首もとに顔を埋めながらあたしは聞いた。

「ただの思い出し笑い」
「どんなの?聞かせて」
「そうね…また今度」
「……」
「拗ねた?」
「まさか。そんなガキみたいなこと」
「そうね。ひとみは大人よね」

彼女はあたしのことをよく大人だと言う。大人扱いをする。
あたしは全然そんな意識はないのに彼女の前だと大人になるらしい。
大人になんてなりたくないのに。かといってガキ扱いも御免だ。
じゃあどう見てほしいのか。大人も子供も嫌ならあたしはどう見られたいのだろう。

どう見られようとも、彼女があたしをずっと見ていてくれればそれでいい。
それでよかった。

潤んだ瞳と湿った唇であたしを誘う彼女を少し焦らした。
ことに及ぶと彼女はひと言も喋ってくれなくなるから
もう少し彼女との会話を楽しみたくて額にキスをした。
彼女との夜を噛みしめたいから。

「意地悪」
「なつみよりは全然だよ」
「あたし意地悪?」
「うん。あたしがどんなになつみが好きか知ってるくせに、なつみは…」

言おうか言うまいか少し迷った。
そういえばこんな不満を口にするのは初めてだ。
やっぱりあたしたちはけいちゃんの言うように不健全だな。
恋人同士だなんてとてもじゃないけど言えないこの関係が、今さら健全であるはずがないか。

「なつみは他の人のことも好きだから」
「そんなこと気にしてるんだ」

大した動揺も見せず彼女はあっさりと答えた。
半ば予想していたとはいえ、ここまであっけらかんとされると
自分が間違ったことを言ってるかのように思えるから不思議だ。
彼女の顔を見ているとそう思わずにはいられなくなる。
正常な判断ができなくなる。
だからもしかしたら…あたしが間違っているのかもしれないな。

「気に…してるけど、仕方ないかな」
「どうして?」
「それがなつみだもん。仕方ないよ。あたしはなつみの全てが好きだから
 何しててもなつみが好きだから、たとえあたしがイヤだと思うことをしてても
 そんななつみさえもあたしはたぶん好きなんだと思う」

言い終らないうちに抱きつかれたから彼女の顔は見えなかった。
どんな表情をしているのか気にはなったけど、彼女の小さな肩が小刻みに震えていたから
無理に引き剥がすのが躊躇われてそのままでいた。
肩を震わす彼女が泣いているのか、それとも笑っているのかを確かめるのが怖かった。

しばらくそのままの姿勢でいたら、彼女が耳もとに唇を寄せてきた。
そしてそっと囁いた。

「早くやろうよ」





◇◇◇◇◇



  藤本美貴 様


 ありがとう。

 美貴はいつもあたしを助けてくれる。
 たぶん美貴に自覚はないだろうけどあたしはわりと前からそう思ってるよ。
 何度美貴の笑顔に救われたかわからない。
 いつだって美貴の笑顔があたしの支えなんだ。
 あたしがこんなこと言うのは意外?たぶんそうだろうな。
 メールとか手紙ってつい感情込めすぎておかしくなっちゃうから
 あたしは送ったメールは見直さないことにしている。
 美貴からのメールは何回も何回も読み直してはニヤニヤしてるけど。
 こんなあたしのことも好きだよな?好きって言ってくれ〜!

 つーかさ、飯田先生って一体どういう人なんだよ〜。
 アイツ人の話全然聞かないよな。
 いや、聞いてるくせに聞いてないふりをするんだ。無視するんだ。
 あの人といるとこっちのペースが乱されまくるよ。
 あの先生あたしのことからかって楽しんでるんだよ、まったく。
 なんとかしてくれよ〜美貴ちゃーん。

 今日はどしゃぶりだからずっとホテルの部屋で美貴のことを考えてるよ。
 明日、ホラーな夢の元凶になった場所に行ってみようかと思う。
 考えるだけで憂鬱だけど行ってくる。でもやっぱヤダな〜。
 こんなヘタレに愛のお言葉をプリーズ!

 勇気がほしい


   吉澤ひとみ





美貴を初めて見たのは入社した年の、たしか1月か2月だったと思う。

あたしはボストンの大学を卒業して以来いろんなとこをプラプラしていた。
オヤジとの生活からやっと解放されてしばらくのんびりしようと思っていたからだ。
久しぶりに日本の正月を迎えて、そのままいろんな女のところを
転々とする生活をしていたらある日圭ちゃんに呼び出された。
彼女と会うのは2年前にあたしがボストンの大学に編入することになって
日本を離れたとき以来だった。

親戚筋が多く集まるそのパーティーで待ち合わせるなんて
そんな恐ろしいことを平気で提案する圭ちゃんに必死で抵抗したけど
そろそろ大人になりなさいという彼女の声が涙混じりだったような気がして渋々承諾した。
後でそれがあたしを引き寄せるための演技だったと判明して大喧嘩になったけど
もとよりあの人に敵うはずがなかった。

そのパーティーには大学の理事長一家が全員出席していて
挨拶もそこそこにのぞみに捕まってしまい
コロコロと気分の変わるガキンチョ相手にあたしは忙しかった。
そういえばあの頃ののぞみはほとんど日本語が話せず始終英語で会話をしていた。
その後の1年で驚くほど日本語が上達していて、その成長ぶりには目を見張った。
と言っても語彙は乏しく英語混じりのなんだかよくわからない日本語だったけど。
でも子供ってすげーと思った。

「こんなの一気に飲めなきゃ男じゃないのれす」
「いや、あたし女だから」
「ののは男なのれす!」
「オマエいっちょまえに酔ってんのかよ」

そうやってずっとのぞみとじゃれて?いたら理事長が唐突にあたしを大学に誘った。
どうせなにもしてないならうちでしばらく働いてみたらどうか、と。
あまりに軽いノリで聞いてきたからあたしはアルコールの勢いも手伝って
それもいいですねーとか適当なことを口走っていた。
とにかく一度遊びに来なさいと言われまた曖昧に頷いた。

やんちゃな盛りののぞみからようやく解放され、
ようやく圭ちゃんと久しぶりの対面を果たしたと思ったら
前述のように大喧嘩をしたためあたしはその日かなり深酒をした。
だから翌日の気分は言うまでもなく最悪で、理事長と会話したことなんて
すっかり忘れて数日を過ごしていた。


「アンタうちの大学に来るんだって?」
「はぁぁ?圭ちゃーん、あたしが今さら歯科医になりたくて受験勉強すると思う?」
「そうじゃなくて勤めるんでしょ?」
「どこに?」
「だからうちの大学に。たぶん事務機関よね」
「だれが?」
「だからアンタよ」


あたしの知らないところでなにがなんだかわからない話が進んでいた。
とにかくわけがわからず、あたしは一度大学を訪れる必要があると感じていた。
まさかこの話にクソオヤジが一枚噛んでるとは夢にも思わずに。



「無駄に広い大学ですねー。歩き回って疲れちゃいましたよ」
「ははは。相変わらず口がへらないな、ひとみは」

キャンパス同様無駄に広い応接室であたしは、近くの料亭から取り寄せたという
特別弁当を向かい合わせに座った理事長と二人で食べていた。
なかなか美味い。さすが特別なだけある。
値段もきっと特別なんだろう。あたしの知ったことではないが。

「モグモグ。それにしても、中澤さんがこんなに大学経営に本腰だなんて
 うちのばーちゃんも天国でびっくりですよ。モグモグ」
「きみんとこのばーさんには、モグモグ。
 ホテル経営には向いてないって50年前に太鼓判を押されてから、モグモグ。
 とんとそっち方面に興味が無くなってね、モグモグ」
「まあ今じゃ、モグモグ。病院方面で広く手を延ばしてるみたいですし、モグモグ。
 うちのばーちゃんも先見の明があったってことっすね、モグモグモグモグ」

あたしより一足早く食べ終わった理事長はお茶を啜った。
食べるのが早いじーさんだ。

「人間何事も向き不向きってのがある。
 あのばーさんは私に経営能力が無いのを見抜いていたんだろうな。
 今実権を握っているのはうちの馬鹿息子だが近い将来それもどうなるかわからん」
「副理事長ってやっぱり馬鹿なんですか。それにしても珍しく弱気ですねモグモグ」
「私はいつも弱気だよ。だからここまでやってこれた。
 昔から二代目ってのは総じて馬鹿が多いんだ。うちしかり、保田のとこのあの貿易商もしかり。
 それにひとみのお袋さんもだな」
「うちのオフクロは馬鹿じゃなかったと思いますけど」
「馬鹿だよ。あの若さで逝ってしまったんだから…一番の大馬鹿者だ」

たしかに。
お茶を啜る理事長の表情は普段となにも変わらない穏やかなままだったけど
オフクロの話で途端に声のトーンが変わったこの人はやっぱり正直者だ。
ばーちゃんがよく言ってたな、オフクロはこの人のお気に入りだったって。

「あー美味しかった。仕事はともかく中澤さんの味覚はさすがですよ。
 だてに長いこと金持ちやってないですね。ま、うちほどではないですけど」
「まったく、吉澤のばーさんにそっくりだなひとみは」

それにしてもこの部屋は居心地がいい。
お茶を啜りながらあらためてまわりを見渡してみた。
調度品も趣味がいいし金持ちにありがちな下品さがない。
弁当といいこの部屋といいきっと全て理事長の好みによるものなんだろう。
相変わらず嗜好にこだわるじーさんだ。

「圭ちゃ、保田先生に聞いてびっくりしましたよ。
 なんであたしがここで働くことになってるんですか」
「まあまあ。どうせなにもやってなくて暇なんだろう?
 久々に帰国したついでに働いてみたらいいじゃないか。
 保田くんだってここにいるのは道楽みたいなものなんだから。あれも変わった女だな」
「なんつームチャクチャな」
「気楽にやってくれて構わない」
「なんつー適当な」
「ボストンの吉澤くんも心配しているみたいだったからな。
 私が責任を持ってひとみを預かると言ってしまったんだよ」

オヤジか。こんなことを仕組んだのは。
それを聞いたらますます反発したくなった。
一瞬だけ働いてもいいかなって思ったけどやっぱ無理だ。
そんなことを言われて働くことなんてできない。
オヤジの思うようにことを進めてたまるか。

「すみません。好意はありがたいんですが、お断りします」
「吉澤くんのところに戻る気はないんだろう?
 きみら親子の仲の悪さを知らない人間は、私ら親戚筋の間じゃモグリだからな。
 後継者が不在のままの吉澤家の動向を見守っているのはうちだけじゃない。
 保田家だって、それに天国のばーさんだって…」
「理事長。うちのクソ親父が勝手に増やした会社がどうなろうと
 あたしは知ったことじゃないし、それを中澤家が取り込みたいと思ってるなら
 どうぞご勝手に。そうすればいいじゃないですか」
「バレたか」

いい歳して舌出すなよじーさん。

「バレバレですよ。死んだばーちゃんがよく言ってました。
 あなたは経営手腕は無いけど野心だけは無駄にあるって。
 それにばーちゃんは自分で選んで婿入りさせたくせに親父のことが嫌いだったから
 たぶんあたしの味方ですよ。何をしたって」
「わっはっはっは。そうかそうか。吉澤のばーさんそんなことを。
 まあそこまではっきり言われたら仕方ない。だが気が変わったらいつでもここに来なさい。
 ひとみのことはもう人事に話を通してあるから君が望めばいつでも
 明日からだって働ける状態だよ」

手回しいいですね、理事長。
でも人事の人には申し訳ないけど無駄骨だよ。
あたしはやっぱりここでは働かない。
それに圭ちゃんと同じ職場なんてまっぴらだ。

「本当にすみません」

再び謝りその場を後にした。



せっかくここまで来たことだし圭ちゃんの顔でも拝んで帰ろうとウロウロしていたら
案の定迷ってしまった。
無駄に広い所はこれだから困る。
勘を頼りに吹き抜けのホールの2階部分を歩いていたら下のほうからよく通る声が聴こえてきた。
なんとなく足を止め、下を覗いて声の主を探した。

逆光で影になって顔がよく見えない。
目を凝らしたりなんとなく屈んだりしてその人物を見た。
ほんの一瞬、影になった部分から垣間見えた顔に息を飲んだ。



なつみだった。



なつみがいた。
清潔そうなスーツに身を固めたなつみがそこにいた。



いつのまにかあたしは駆け出していた。
心臓がバクバクで汗が噴出してもがむしゃらに走り続けた。
どこをどう走ったのかどれくらいの時間そうしていたのかわからなかったけど
気づいたらあたしはあるフロアのトイレの個室にいて
変わらず飛び跳ねている心臓を抑えながらしゃがみこんでいた。


なつみだ。なつみが戻ってきたんだ。
あたしを追ってなつみが来たんだ。
でも声は違った。なつみの声じゃない。
さっきの彼女はもっと凛としていて澄んだ響きが耳に心地よかった。
いややっぱりあれはなつみだ。なつみに決まっている。
まさか。そんなわけがない。なつみは死んだ。
死んだ?生きてる?
なつみによく似た顔の彼女は一体誰なんだろう。
なつみなのか?


呼吸を落ち着かせあたしはようやく外に出た。
握り締めた手のひらにそう長くはない爪が食い込む。
顔面はきっと蒼白だろう。
角を曲がる寸前、人の声がして思わず身を隠した。
コソコソする理由などないのに。
苦笑が漏れる。まったく動揺しすぎだ。
もう遠い昔のことなのに。そう、もうすっかり忘れ去ったことなのに。

「それでは採用が決まりましたら、その旨通知しますので」
「はい。よろしくお願い致します」

男の声の後、先ほどの凛とした声が聴こえてきた。
その声はあたしの心の中にしばらく響いていた。



そしてそのままあたしは理事長室に向かった。
今度は迷わずに行くことができた。

「さっきの今で申し訳ないのですがこちらでお世話になってもいいですか?」





最初はただの好奇心だった。
なつみによく似た彼女は誰なのだろう。



このとき、あたしはすでに美貴に惹かれていたのだろうか。
それともまだなつみの亡霊に囚われていたのか。
どちらにせよ最初はただの好奇心だった。





好奇心のはずだった。











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