ロンドン編 2






朝の彼女はほとんど声を発さない。
最低限の意思表示のみでコミュニケートすること自体を拒絶する。
不機嫌度は最高潮だ。
時々、そんな態度を見せるのは自分に対してだけなのではないかと不安になる。
あたしが知らないだけで、ひょっとしたら他の誰かといるときは
当たり前のように朝の挨拶を交わし軽く微笑んで食卓につくのでは、と。
そんなことを考えるだけで胸が締めつけられるようだった。
自分の勝手な想像に過ぎないというのに。

「コーヒー飲むよね?」

無言で頷く彼女のために年季の入ったマグカップに熱い液体を注ぐ。
自分の分と二つ手にし、ベッドに腰掛けてぼうっとしている彼女の元へ戻った。
薄暗い部屋の中で二人、無言でコーヒーを飲む。
まだ現実と眠気の狭間で彷徨っているらしく
彼女は時折欠伸をしては目に浮かぶ涙を指で拭っていた。

そしてまた考えてしまう。
自分以外の誰かと朝を迎えて飲むのは必ずしもコーヒーとは限らないのでは?と。
なつみが何を飲んだって、コーヒーだろうが紅茶だろうがそんなことはどうだっていい。
けど誰か知らない他人が今のあたしみたいにコーヒーをいれたり
紅茶を注いだりしているのを想像すると、やっぱり胸が痛んだ。
ただそこにいるのがあたしではないということが寂しくて。



ピカデリーサーカスのパブでウエイトレスをしている彼女の本業は役者だ。
小さな劇団に所属している。
彼女を初めて見たのは圭ちゃんに無理やり連れられて行った小劇場の舞台上だった。
端役ながらも天真爛漫でキュートな少女を演じていた彼女に目が釘付けになった。
芝居自体はとりたてて面白味のない、主人公が恋をして誰かが死ぬとかそういう話で
あまり覚えてはいない。
けれど葬式のシーンで皆が涙に暮れる中、悲しみを表に出さないようにと
ひとり明るく演じる彼女の姿が印象的で今でもその場面は目に焼きついている。

それは演技が素晴らしかったとか、気丈に振る舞うその役柄に心打たれたとかではなく
悲しみを秘めたまま明るい演技をしなければならないシーンだというのに
彼女が本当に楽しそうに演じていたことに度肝を抜かれたからだ。

他の役者とは一線を画して突き抜けていたあれは、演技というよりも素直な感情表現のようで
涙を流す演技者にまぎれて心底楽しそうな表情を浮かべる彼女がとにかく気になった。
その瞳が、あまりに無邪気すぎて寒気がするほどに。

けいちゃんが当時付き合っていたブロンド美人が
そのときの公演の主役を演じていたこともあって
終演後、あたしたちは楽屋を訪れてとりあえずありきたりな誉め言葉を並べた。
あたしはけいちゃんとそのブロンドが話している間、なんとなくなつみを目で追っていた。
手早く着替え、化粧を落とした彼女は驚くほど幼い印象だった。
舞台上で見たときとはまるで別人のように地味だった。
目は合ったが特に声をかけるでもなく
あたしは話しかけてくる劇団員に当たり障りのない感想を述べていた。

結局その夜、けいちゃんとブロンドの食事にあたしも付き合うことになり
なつみと一度も接触することなくその場を後にした。
なんとなく後ろ髪を引かれる思いで行きたくもないレストランに連れて行かれた。
そこでなにを話したかなんて当然覚えてるわけがなく
あたしはただ黙々と美味しくもない料理を口にしていたように思う。

帰り際、ブロンドとなつみが実はルームメイトだと知り激しく動揺した。
もっと話を聞いておけばよかったと少なからず後悔もした。
そういう縁もあってけいちゃんはなつみと友達付き合いをしているらしく
時々食事やお茶に行くことがあると言っていた。
それを聞いて今度は露骨に喜んだ。
彼女と接点が持てると嬉しくなった。
珍しく感情のふり幅が大きいあたしにけいちゃんは怪訝な顔をしていたけど
それが彼女のせいだとはそのときはまだ気づいていないようだった。



「今夜どうする?」

なつみはなにも答えない。

「仕事終わる頃迎えに行っていいかな?」

なにも答えず煙草に火を点けた。

「じゃ、また部屋で待ってるよ」

煙草を灰皿に押しつけて、あたしをチラリとも見ずになつみは立ち上がった。
そのままシャワーを浴びに行く彼女の背中に再び声をかける。

「なつみ」
「ひとみ」

遮るようにしてようやく彼女は言葉を発してあたしの顔を見た。
そしてにっこりと笑ってなんでもないことのように言う。

「今夜はディランの店に行くの」
「……」
「だから帰らないと思う。ここにいてもいいけどたぶん帰らないから」

なにも言えず彼女を見つめていたらいつのまにかシャワーの音が聞こえてきた。
見つめていた場所にすでに彼女の姿はなかった。



あたしがなつみとそういう関係になったのと、なにが原因かは知らないけど
けいちゃんがブロンドと別れたのとどちらが先だっただろう。
ブロンドはけいちゃんと別れるとともに劇団にも見切りをつけ
なつみと住んでいたそう綺麗でもない部屋(つまりここ)を出て行った。
今考えるとなつみとブロンドの間になにもなかったとは思えず
もしかしたらそのへんの事情もあたしやなつみ、けいちゃんとブロンドとの関係に
微妙な影響を与えたのかもしれない。

けいちゃんがなつみに対してややひっかかるような態度や物言いになったのは
もしかしてそのブロンドが理由なのだろうか。
そう考えるとなんとなく頷けることが多いような気がする。
でもけいちゃんは単なる嫉妬で人に対する接しかたが変わるような人ではないし
はっきり言ってそんなのけいちゃんらしくない。
だからまあ、きっとというか当然、100パーセント
あたしのことで頭を悩ませているんだろうな、けいちゃんは。

シャワーを終えた彼女は濡れ髪のままポタポタと雫が床に落ちるのにも構わずに
再び煙草をくわえた。
そしてバサバサと乱暴にタオルで髪を拭く。
その様子を眺めながらあたしは彼女の今夜の相手は誰だろうと考えていた。

男なのか女なのか。
いろんな顔が頭に浮かんでは消えていく。
ただ誰であろうとそんなことはさして重要ではなかった。
今夜彼女に会えないことのほうがあたしにとっては大問題で
突き詰めると彼女が誰かといるからあたしとは会わないわけで
つまりはその誰かのせいであたしは迷惑を被っていることになるけど、
不思議と彼女やその相手を恨むという気持ちはなく
ただただ哀しい、寂しい、という思いが先行しては交錯していた。

あまりにも彼女が平然とそういうことをやってのけるから
もしかしたらあたしは感覚が麻痺していたのかもしれない。
正常な人間ならば当然するべきである嫉妬というものが
彼女との生活の中で知らず知らずのうちに欠如してしまったのか。
それを慣れと言ってしまうのは簡単だけどそこから先になにがあるのか、
あたしには見えなかった。

もちろん嫉妬という感情がないわけではない。
ないわけではないけど彼女の相手をするあたしを含めた大勢の輩が
皆同じライン上にいて誰が抜きん出て誰が後退しているとか
そういう差がないことが、あたしを嫉妬という感情から遠ざけているのも事実だ。
もし誰かが、あたしとかが彼女にとって特別な存在になったりなりつつあったりして、
尚且つ彼女が今までのライフスタイルを変えなかったとしたら
あたしなり誰かなりが嫉妬の炎を燃やすのだろうか。
嫉妬に燃える自分なんて想像もできないけど
彼女の特別になり得ることのほうが今はもっと考えられなかった。

出掛ける支度が整った彼女があたしを見た。
化粧っ気のない青白い顔をしている。
地味な服装で装飾品の類も身につけず、とくに人目を惹くような雰囲気でもない。
それなのになぜこんなに彼女はあたしの心のウエイトを占めているのか。
あたしだけではなくなぜ何人もの人間を翻弄するのか。
舞台上にいる彼女のある種狂気めいた意識を感じ取ってしまったあたしたちの
それは哀しい運命だったのかもしれない。

「また明日」

彼女の返事を待たず先に部屋を出た。
もっとも待ったところでなにも返ってはこなかっただろうけど。



体を重ねれば心は勝手についてくるものだと信じていた気がする。
それこそ必然的に。短絡的に。





◇◇◇◇◇



   よっちゃんへ


 飯田先生とのことは前にも話したとおりだから今さらなにも言うことはありません。

 でもちょっと嬉しかったな。よっちゃんに想われてるって感じられて。
 ヤキモキさせるつもりなんてなかったんだよ。でもよっちゃんが心配だったから。
 それに飯田先生ならお互い良く思ってない同士だし
 よっちゃんは自分より大きい女って好きじゃないでしょ?
 だからあたしがヤキモキしなくて済むし。

 ところでロンドンクリニックの友人って女じゃないでしょうね。女なの?
 はぁ〜…きっと女だよね。よっちゃんだもん。なんかムカツク。
 べつに疑ってるわけじゃないけどあたしのがよっぽどヤキモキする機会が多いって思う。
 よっちゃんにその気がなくても寄ってくる人はいるだろうし…。
 だからお目付け役ってわけじゃないけど飯田先生にいろいろとお願いしておきました。

 よっちゃんが悪さしたらあたしのところに逐一報告が来ることになってるからね。
 とにかくそういうことだから。
 あたしのことだけを想ってるように。


 わかった?


   あなたの美貴より





べつにあたしはまいちんとどうかなりたいとかそっち方面の感情はない。
そりゃ可愛いなとか、色っぽいなとか思うときもあるけど
恋愛感情があるかと訊かれれば即座に否定する。
もちろん体の関係だってない。
彼女は純粋に友達。友達として好きだ。
会ったときから、今も、そしてこれからも、あたしの数少ない理解者のひとりで恩人でもある。
あたしはいつだって彼女に感謝してやまない。

だから飯田先生と付き合ってると知って面白くない顔をしてしまったのは
嫉妬したとかそういう理由からではない、と思う。
広い意味では嫉妬になるんだろうけど恋とか愛とかの嫉妬では断じてない。
仲のいい友達を取られた?そんな感じだ。
しかもよりによって飯田先生ときてる。
美貴もまいちんもこの先生の一体どこに惹かれたんだか。
帰国したら美貴に尋ねてみようかな。ま、知りたくもないけど。


「もう〜カオリンってば言ってくれればよかったのに。よしこが来ること」
「私もまさかここに来るとは思ってなかったんだよ。
 食事のセッティングをしてまいを驚かせようと計画していたのに。
 吉澤さんフライングですよ」
「は〜そりゃすみませんでしたね」
「昨日だってただ空港に迎えに行ってくるって言うだけで、誰をとか教えてくれなかったしぃ」
「ははは。だからまいの驚く顔が見たかったんだって。
 まったく来るなら電話の一本もしてくださいよ、吉澤さん」
「は〜そりゃ重ね重ねすみません」

つーかアナタに会いに来たわけじゃないんで。
電話する必要なんてないでしょ。
あたしはただ昔からの友人とゆっくりランチでもしようと思ってたんだよ。
なのになんで3人でまったりメシなんか食ってんだ?!
しかもなんなんだコイツら!
さっきからノロケやがってチックショー!

「つーか飯田先生さ、彼女がいるならいるで言えよな。
 昨日は美貴のことあやふやに答えてあたしを動揺させてさ。ほんっといい性格してるよ」

ムカついてたからついタメ口になったけどべつにいっか。
もうこの際そんなことはどうでもいい。

「美貴…さんって昔カオリンの恋人で今はよしこの恋人の美貴さん?」
「なんだ知ってんだ、まいちん」
「カオリンに聞いたことがあるから。
 それにしてもこのよしこを射止めるなんて美貴さんって相当すごいんだね」
「いやいや、あの美貴ちゅわんを射止めたオイラのが相当マジで本気やっべーくらいすごいよ。
 あ、飯田先生は別ね。あんま好きじゃなかったって美貴言ってたから」
「はははっ。吉澤さん面白いねー」
「飯田先生ほどじゃないけどねー」

目が笑ってないっすよ飯田先生。
あ、しかもあたしが狙ってたエビ食いやがった。チックショー!

「ところでよしこはなにしに来たの?」
「うん?」
「仕事休んでまでロンドンになにしに来たの?」

はれ?なにしに来たんだっけ?
飯田先生の目の前にあった春巻にかぶりつきながらしばし考える。
ん?その顔はひょっとして狙ってたね、春巻。
へっへーザマミロ。あたしのエビを食うからそういうことになるんだ。
エビの恨みをナメんなよ…ってバカかあたしは!目的忘れてどうすんだよっ。

「えーと…墓参り、みたいなもんかなぁ」
「お母さんの?」
「いやオフクロのはボストンだから」
「わかった!お父さんでしょ?」
「オヤジはまだ生きてるっつーの」

飯田先生と二人して思わず苦笑した。
相変わらずまいちんはまいちんだ。
飯田先生と付き合っていても彼女はあの頃のまま。
こういう率直なところが眩しくて、羨ましかったんだよな。
それでいて人を不快にさせないからすごい才能だと思う。
悔しいけど飯田先生は女見る目あるよ。
美貴といい、まいちんといい。

「まい、吉澤さんに失礼だよ」
「べつにいっすよ。こういう人だもん」
「ちょっと!こういう人ってどういう意味よー」

プリプリしながら小籠包にかじりついてるまいちんを見ながらあたしたちはまた苦笑した。

「で、だから誰の墓参りに来たのよ」
「ん〜昔の…友人かな」
「ふーん。こっちにはいつまでいるつもりなの?」
「わかんない。できれば早く帰りたいけど」
「そっかぁ。じゃあいる間いっぱい会おうね。日本とイギリスじゃなかなか会えないんだから。
 せっかくの機会だし大学のときみたいに飲み明かそうよ!」

無邪気な顔してあたしの手をギュッと握るまいちんは飯田先生の殺気に本気で気づいてない。
まいったなぁ。あたしたちはそんなんじゃないんだから睨まれるなんて筋違いだ。
まいちんもまいちんで計算してやってるわけじゃないから余計に厄介だよ。
あたしをダシにして飯田先生に嫉妬させようとか思ってるなら協力して悪ノリできるのに。
飯田先生をからかえるのに。
天然誘惑系ってコワイな〜。

「そ、そうだね。飯田先生とも飲んでみたいし」

さすがに飯田先生という恋人を前にして二人っきりでなんて言えっこない。
藤本くんにバレたら後が怖いってのもあるけど。
それにこの先生の酔ったところを見てみたいっていう好奇心も多少ある。
こういう人ほど酔ったときに面白いことしてくれるんだよなー。
うん、楽しみだ。

「えー!よしこと二人で飲みたいのにぃ」

はぁ〜飯田先生も大変だ。
きっと苦労が絶えないことだろう。



とりあえずこの場に藤本くんがいなかったことを神に感謝した。





◇◇◇◇◇



恋は人をキレイにするらしい。
でもどんな恋でも、というわけでもないらしい。

ずぶずぶと底なし沼に引きずり込まれるように、蟻地獄に落ちていくように
自分の意思ではどうすることもできない恋は人をどういうふうに変貌させるのだろう。

それはまだ、恋と呼べるものなのだろうか。



「あら、来てたの」
「うん。けいちゃんの仕事ぶりを覗きに。ついでに歯垢もとってもらった」
「ここの一番の常連は間違いなくアンタでしょうね」

喋りながらあたしたちはけいちゃんの広い個室に入った。
いつ来ても本や書類やいろんなものが乱雑に溢れている部屋だ。
ソファの上まで侵食してるそれらをべつの場所にそっと移し
空いたそこにドカッと腰を下ろして脇にあった分厚い本をペラペラと捲った。

「ん〜専門用語多すぎ。よくわかんないや」
「たぶん日本語でも難しいでしょうね。そんな簡単に理解されたらたまったもんじゃないわ」

窓の外には鉛色の重そうな空が見える。
今にも雨が降り出しそうな、そんな雰囲気だった。

「ね、けいちゃん」
「なに?」

ずり落ちてくる眼鏡の縁を中指で押し上げながらパソコンに向かっている彼女に話しかける。

「前に付き合ってたブロンドの名前なんだっけ?女優の」
「なによ突然」
「こないだから思い出せなくて。なんか気になるんだよなぁ」
「ブレンダ」
「ブレンダ?」
「そう。ブロンドのブレンダ」
「ふーん。イマイチぴんとこないや」
「だってアンタ、全く興味なかったじゃない」
「まあそうだけど」

カチカチと小気味のよい音をさせながらキーボードを叩く彼女にさらに話しかけた。

「なんで別れたの?」
「大人の事情よ」
「性の不一致か」
「あのねぇ…あっちのほうはそれなりだったわよ。
 でもお互い本気で恋愛する相手じゃなかったってこと」
「本気の恋愛ってさ、どんなの?」
「さあ。それは人によるんじゃないかしら。
 少なくともあたしは不特定多数と寝るような人間とは付き合えないわね」
「……」

けいちゃんの言うことはもっともだし暗にあたしの現状を非難しているのもよくわかった。
けれどそれならどうしろというのか。
込み上げる感情や欲望を抑えて全てをなかったことにするなんて、あたしにはできない。
それが大人のやり方だというのならあたしはやっぱり大人になんてなりたくない。

「本当はわかってるんでしょう?」

こちらを見ないでそう言った彼女は眼鏡を外して眉間を揉みだした。

「心配なのよ。なつみはアンタだけじゃない」
「わかってるよ。そんなこと」
「アンタたちは一緒にいるべきじゃない。
 アンタ以外のなつみの相手はちゃんと割り切っているの。
 体だけならあたしもうるさいことは言わないわ。
 いや言うけど、言ってもほどほどにしろくらいで。でもアンタは…」
「けいちゃんになにがわかるんだよ」
「わかるわよ」
「わかんないよ…けいちゃんには、わかんない」

わかってほしくない。

「なつみはアンタみたいな子供の手に負える女じゃない。関わってほしくないのよ」

いつのまにか雨が降り出していた。
たちまち窓にいくつもの水滴ができる。涙の痕のようだった。

「今ならまだ引き返せる。アンタが傷つくのをこれ以上見たくないのよ。わかって」

無理だよけいちゃん。もう遅い。
引き返すことなんて、出会った時点で無理なんだよ。

「傷つけられても一緒にいたい」
「錯覚よ。自己陶酔にすぎない」
「そうかな」
「そうよ。大人の言うことを聞きなさい」
「なつみに会いたいなぁ」
「アンタねぇ…それならなんでこんなとこにいるのよ」
「今夜は先約があるんだって」
「子供の相手にうんざりなんじゃないの」
「ひっでー。けいちゃんこそあたしを傷つけてんじゃんっ。ウェーン」
「いい歳してバカなこと言ってんじゃないわよ」

白衣を脱ぎながらあたしを見つめる彼女の顔は呆れていて、でも優しい顔だった。

「だって子供だしぃ」
「アンタは10年経ってもそんな調子のような気がするわ」
「けいちゃんもね」

10年後なんて今は想像もつかないけど
あたしとけいちゃんの関係は変わらないでいてほしい。
時々うるさいこと言う彼女をうざったく感じるときもあるけど
そばにいなかったらと考えたら寂しかった。

確実なのはなつみはそのときにはもうあたしのそばにいないだろうということ。
あたしはきっとポイッとゴミのように捨てられて
いつまでも彼女の幻影に囚われ続けていることだろう。
今と同じように、これからも。
哀しいほどそれは確実のように思えてならなかった。



ずっと好きでいればいつかは報われる。
そんなふうに思える時期はとっくに過ぎていて
それでも藁にも縋る思いでわずかな可能性にしがみついていた。
そんな可能性など、元々ありはしなかったというのに。





◇◇◇◇◇



   藤本美貴 様


 昨日はリージェンツパークを少し散歩してからロンドンクリニックに行ったよ。
 昔の友人(♀)は変わらぬ笑顔を見せてくれて、美貴がそばにいない寂しさを
 少しだけ癒すことができたように思う。
 美貴が心配するようなそんな関係じゃないから安心して。
 それに彼女は飯田先生と付き合ってるらしい。
 あの先生のどこがいいのか不思議で仕方なかった。

 お目付け役ってなんだよー。
 オイラがどんなに美貴のことを、美貴だけを好きでこの体がたとえどうなっても
 美貴さえいてくれればそれで構わないって思ってること知らなかった?まったく。
 ま、美貴がオイラのことを好きで好きでどわぃ好きで心配する気持ちはよーくわかるけどね。
 すぐに戻るから。だから待っていて。
 オイラは美貴不足で死んじゃいそうだよ〜。

 愛してるよ


   吉澤ひとみ





休職中の自分とは違い、翌日も仕事を控えている二人とさすがに朝まで飲むわけにはいかず
週末にゆっくり飲む約束をさせられて結局昨日は軽く食事をして別れてからホテルに帰った。
飯田先生の変貌ぶりが拝めるかと思うと週末が楽しみになった。

飯田先生はまいちんとあたしのことを少し疑ってはいたが
天然誘惑娘に腕を絡みとられ上目遣いで寒いよ〜とか言われてデレデレしていた。
これはなかなか貴重な場面だったと思う。
あたしが見ていることに気づいて慌てて取り繕う姿がまたなんとも滑稽だった。
少しだけ、少しだけだけどこの先生に親近感が湧いた。ほんとに少しだけど。

そうやってわりと楽しい時間を過ごしてホテルに戻り
愛しい恋人からのメールにニヤけつつシャワーを浴びてベッドに入った。
なんとなく疲れていたのでメールの返事は明日にした。
あたしは油断していたのかもしれない。
その夜、久々にあの夢を見た。




熱くて息が苦しい。
呼吸がうまくできない。
肌にまとわりつく熱気で痛みさえ覚える。
剥きだしの手足や顔や首なんかがヒリヒリする。
まるで日焼けしすぎたときのように痛かった。

固く目を閉じていたからなにも見えなかった。
ただ耳鳴りのようなごうごうという音がうるさく聞こえる。
そうしているうちに眉間が疲れてきた。
あまりにも力を入れすぎていたからだろう。
強張った筋肉をゆっくりほぐすようにそっと目を開いた。

そこは狭くて汚くて懐かしい匂いがした。
どこなのだろうと考えてすぐに彼女の部屋だと気づいた。
ただそこに見える光景は自分の記憶の中にある彼女の部屋とどこか異なっていて
まるで訪れたことのないような場所に思えた。
ずっと立っているのも疲れたのでベッドに腰を掛けた。

「もういいね」
「なにがいいの」
「もう十分かな」
「なにが十分なの」

いつのまにか隣には煙草を吸う彼女がいた。
お互い前を向いていてどんな表情なのかはわからない。
あたしは自分の表情さえ見当もつかなかった。
飲みすぎたときのように頭がホワンホワンしていてなんとなく気持ちよかった。
気持ちよくてもうちょっとこうしていたいと思っていた。

「どうしてここに来たの」
「だってあたしの気持ち知ってるでしょ」
「ひとみはあたしが好きなのね」
「そうだよ。なつみが好きだからここに…」

そうだ。
あたしはなつみに会いたくて抱きしめたくてキスしたくて、いつもいつもここに来るんだ。
なつみはいたりいなかったりで、そんな会えるか会えないかわからない状況がもどかしくて
あたしはここに一緒に住むことにした。
でもなつみはそれでもいたりいなかったりで、あたしがいてもいなくても
その事実は変わらないんだと今さらながらやるせなくなったんだ。

「あたしも好きよ、ひとみ」
「ほんとかな」
「ひとみの顔を見るとやりたくて仕方なくなるの」
「あたしもなつみと…」

横を向くとそこには誰もいなかった。
彼女に触れようと上げた左腕が宙を彷徨う。

「なつみ?」
「ここよ」

目の前に裸の女性がいた。
俯いていて顔がよく見えない。
跪いてあたしの腰に両腕をまわし、お腹に顔を埋めてきた。

「なつみ?」

瞬間、まわりの空気が突然熱くなった。
部屋がみるみるうちに真っ赤に染まる。
ごうごうという音が再び鳴り響いた。

熱い。
熱くてたまらない。
逃げなきゃ。
早くここから。
彼女を連れて。
彼女を。

誰を?

「なつみ行こう」
「あたしは行かない」
「どうして!」

むりやり立たせて顔を覗き込んだ。
美貴だった。

「行かないで」
「美貴?」
「あたしと一緒にいようよ」
「なんで美貴が」
「ずっとここに」

裸のまま美貴はゆっくりとあたしに迫ってきた。
じりじりと窓際に追い詰められる。
もう炎はそこまできていて、あたしたちのまわりを取り囲んだ。
開け放った窓からは風がびゅんびゅん吹いてきてあたしの髪をめちゃくちゃにかきまわす。
髪の隙間から見え隠れする彼女の姿がその度になつみだったり美貴だったりで
あたしはそのうちなつみと美貴が同じ人間のように思えてきた。

「とにかく行こう」
「どこへ?」

美貴が問う。

「ここから出ないと」
「どうして?」

なつみが問う。

熱い。
熱くてたまらない。
もう我慢の限界だ。
炎はすぐそこまで迫っているというのになぜ彼女は。
どうして。

「熱い。熱いよひとみ」
「早くこっちに」
「ねぇ熱いの。助けてよっちゃん」
「だから一緒に」
「熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!ううあぁぁぁぁつぅぅぅぅぅいぃぃぃぃー!!!」
「美貴ーっ!」

炎に飲まれた美貴があたしに手を伸ばす。
必死にそれを掴もうとするが掴めない。
なぜかあたしたちの距離は遠ざかり始めた。

美貴を助けなきゃ。
美貴が死んじゃう。
そんなのイヤだ。
ダメだ。
耐えられない。

炎の中から伸ばされた手をようやく掴み引きずり出す。
そこには髪が焼け焦げ、顔が半分どろっと溶けた恐ろしい形相のなつみがいた。
あたしの手を力強く掴んで放さない。
剥がれそうな爪があたしの手首になぜかしっかりと食い込み血が滲む。
そして耳もとで声がした。

「行かせないよ」
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁ」

そしてあたしはなつみとともに炎の中へ。



にっこりと微笑んだ彼女はなつみだったのか美貴だったのか。





その日は一日中ベッドの中にいた。
美貴にメールをしても、気は晴れなかった。





◇◇◇◇◇



「マリア!マリア!」
「どうしたのですかお嬢様。そんな大声を出して」

階段の脇からでっぷり太った初老の黒人女性があたしを咎めるように顔を出した。
手には折り畳まれた真っ白なシーツ。
彼女の体の大きさがシーツを面白いほど小さく見せる。
ロンドンに来てからの付き合いだけど、あたしはこの女性がわりと好きだった。

「クソオヤジは?」
「またそんな汚い言葉を。もっと上品な言葉遣いができないのですか。
 お嬢様はいつもいつも…」
「ストーップ!小言はまたにしてよ。疲れてるんだ」
「またクリニックに行って保田様にご迷惑をおかけしたのでしょう」
「それよかオヤジはいるの?」
「旦那様は出張で昨日からボストンです。
 娘のあなたが知らないなんてどういうおつもりですか」

なんだ。いないならもっと早く帰ってくればよかったな。

「もーうるさいなぁ」

キッチンに向かうあたしの後ろをマリアが小言を並べながら追いかけてくる。

「そうやってお嬢様はいつも好き勝手にいろんなことをなさって
 私がどれだけ心配をしているのかお判りですか。
 どこに行くともいつ帰るとも言わずにフラッとお部屋を抜け出して
 私がせっかく食事の支度をしても当の本人がいなければなんの意味もないじゃありませんか。
 それにそのだらしのない格好はなんですか。もう少し女性らしい服を着てください。
 せっかくこんな綺麗なお顔立ちだというのに勿体無い」
「へいへい」

キッチンにあったサンドイッチをつまみながら適当に返事をした。

「お食べになるのならちゃんとしたものをご用意しますから、
 お座りになって待っていてください」
「いーよ。これウマイし。ちょっと小腹が空いただけだから」
「それは私の夜食だったのですけど」
「え、ごめん。今度なんか買って帰るから許して?」
「仕方ないですね。今回だけですよ」
「つーか夜中にサンドイッチ食おうとするなよなー」
「お嬢様!」

膨れるマリアを置いて自分の部屋に入った。
ベッドに寝転がり枕に顔を埋める。
取り替えたばかりのぴんと張ったシーツからはいい匂いがした。
清潔で真っ白なそこにあたしが寝るのはなんとなくふさわしくないように思えた。
あたしのためを思って取り替えてくれたシーツだけど
嬉しいというよりも居た堪れない気がして、マリアに申し訳ないと思いながら眠りについた。

なつみの部屋のベッドが恋しかった。



なんだかんだ言ってもいい匂いのシーツは安眠を誘う。
朝の目覚めを気持ちよくしてくれる。
気分は上々。
散歩でもしようかと休日の午前中から珍しく外に出た。
よく晴れて暖かかったから、着ていた上着を脱いで手に持って歩いた。

リージェンツパークの南、ベーカーストリートに面した通りに
マリアお気に入りのベーカリーがある。
その店自慢の、ベジタリアン用のヘルシーでオーガニックな食パンを買ってきては
よくサンドイッチを作って食べている。
あの体型で今さらヘルシーもなにもないと思うが単純に味が好みなのかもしれない。

初めて訪れたその店はイタリア系の若い店主が忙しそうに客やパンの対応に追われていた。
けっこう繁盛しているのに他に従業員が見当たらないのが不思議だった。
朝食を食べずに出てきたので、とりあえずチーズとピクルスのサンドイッチを買った。
そしてそのままリージェンツパークに向かった。

起きた直後はどうしても胃が受けつけない。なにも食べる気がしない。
だからマリアには悪いけど口にするのは紅茶やコーヒーだけだ。
まるで日課のように、あたしが残した朝食を
マリアが悲しそうに自分の胃に処分するので申し訳ないと思いつつも
でも美味しそうに食べるからそれを見てあたしはいつも楽しくなる。
ゆっくりと紅茶を味わいながらその様子を眺める。
そんな朝のひと時は嫌いじゃなかった。

犬の散歩をしているカップルや、なにも言葉を交わさずに
のんびり歩いている老夫婦を見ながらあたしはサンドイッチに齧りついた。
なるほど、たしかにパンはマリアが作るサンドイッチと同じもののように思える。

「でもマリアが作るやつのがウマイな」

チーズの臭みとピクルスの酸味がバランスのとれたなかなかの味だったけど
あたしはマリアが作るシンプルなBLTのが好きだ。
ベーコンはしょっぱいけど一度食べたら病みつきになる。
でもこれもこれでたしかにウマイな。
今度なつみに買っていこうかな。

サンドイッチを食べ終わりしばらくボーっとしていた。
なにも考えずただそこにいた。
考えすぎの頭を休めたかった。
それでも油断をすると、なつみと同じ髪の色を見かけると、考えずにはいられない。
なつみのことを考えたくないのに考えてしまう。
なぜだろう。恋の痛みというにはかわいすぎる。
出口のない迷路に彷徨い込んだ、そんな感じだった。

帰る途中でふと思いついて再びベーカリーに寄った。
そういえば店の名前はなんだろう。
看板をチラッと見た覚えはあるのに思い出せない。
店内を見回してもそれらしき名前は書かれていない。
どうでもいいことだけど気になったから店主に尋ねようとした。
その瞬間、息せき切った女性が飛び込んできた。

「ごめんなさいジョーイ。おばあちゃんが離してくれなくて」
「遅いぞドナ。キミがいないからさっきまでてんてこまいだったよ」

従業員らしき女性が店主と二言三言会話して奥の部屋に入っていった。
彼女の登場でなんとなく店の名を聞く気がそれ、帰り際に看板を見ればいいかと思い直した。

「この店のビスケットに合うジャムはどれ?」
「どれでも合うさ。うちの店のジャムを食べたらもう他では食べれないよ、お客さん」

あたしの質問に店主、ジョーイはいつも聞かれているからだろう
お決まりのようなセリフをよどみなく返してきた。

「私のお気に入りはオレンジの皮入りのやつよ」

奥の部屋からエプロンをつけながら出てきた従業員の女性、ドナが口を挟む。

「ドナはいつもそれだな。たまには他のやつも勧めてくれよ」
「だってこれが一番美味しいじゃない」

苦笑してドナお勧めのオレンジの皮入りジャムとビスケットを買って店を出た。
渡したときのマリアの顔を想像しながら地下鉄の長い階段を下る。
電車に揺られながら店の名前を確かめるのをまた忘れたことに気づいた。
紙袋には印字されていない。
帰ってマリアに聞けばいいかと目を閉じた。
また次の機会に確かめてもいい。
思いながらなつみの顔を頭に描いていた。



「ほい。お土産」
「お嬢様が私に?」
「うん。たまにはね」
「まあ!あの店のビスケットに…それにこのジャム!これを食べたら他の店のなんてもう…」
「そんなに興奮するなよ」
「これが興奮せずにいられますか!早速お茶にしましょう。
 心優しいお嬢様とのティータイムなんてめったにあることじゃないですからね」
「イヤミだな〜」

久しぶりにマリアとゆったりとした時間を過ごした。
なつみに出会ってからのあたしは家を留守にすることが多くて
(まるでオヤジみたいだ)
しかもなつみ以外のことをほとんど考えなかったから
マリアが寂しく思っていることに気づいてはいても、ないがしろにしていた。
(本当にオヤジみたいだ)
その罪滅ぼしではないけどたまにこうしてマリアとお茶を飲むのも悪くない。
うるさい小言も聞き流していれば苦ではない。
なにより自分を好いてくれている人とのティータイムは自然と楽しいものだった。

午前中たっぷり歩いて疲れていたので自室に戻るとすぐにベッドに横になった。
そういえばまた店の名前を聞くのを忘れた。
べつにたいしたことではないしもうどうでもいいか。
ジョーイとドナの名前だけはやけにはっきりと覚えていて、それが妙におかしかった。



彼女といないときは平穏で落ち着いていられる。
それなのにどうしてだろう。
なぜ自ら苦悩し、心乱される道を選ぶのだろう。
これが恋というものならば、なんてしんどいものなのだろう。











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