ロンドン編 1






狭い路地を駆ける。
息を乱して時折後ろを振り返りながら、暗い道をひたすら走り続けた。
水たまりに豪快に足を踏み入れ靴の中がジメッとした。
目の前を猫が横切り心臓が飛び跳ねた。

角まで来て首をひょいっと出し辺りを見回す。
見慣れたジャガーと黒いコートを確認して軽く舌打ちした。

「しつこいっつーの」

せっかくここまで走ってきたのに。
あの人の目を盗んで通りを渡るのには少し無理がある。
仕方ない、引き返すか。
来た道を戻ろうと踵を返すと突然肩を掴まれた。
そして低く恐ろしい声が耳元で響く。

「捕まえた」
「…けいちゃ〜ん」

万事休す。この人の勘の良さにはもしかしたら一生敵わないのかな。
ズルズルと引き摺られジャガーの後部座席に放り込まれながらそんなことを思った。

「まったく。毎回毎回よくもまあ懲りずに逃げ出すものね」
「人間は挑戦することでここまで進化してきたんだよ。
 そこに壁があるなら乗り越えなきゃ。向上心は常に持ち続けていたいよね〜」
「そのご立派な向上心とやらをアンタが持ち合わせてるなら
 たまにはおとなしく家庭教師と勉学に励んでほしいものだわ」

冗談じゃない。
いい歳して17の小娘に色目を使ってくる女となんて、1分だって一緒にいられるもんか。
オヤジの奴会社のこととなると目の色変わるくせに娘の家庭教師選びなんて
きっとランチになにを食べるか決めるより適当に扱ってるんだ。
絶対そうに違いない。

「そろそろ大人になりなさいよ」
「けいちゃんも大変だね。今度ちゃんとマリアに言っとくよ。
 あたしが家抜け出したからっていちいちけいちゃんに報告するなって」
「大変だと思うなら夜中にフラフラ出歩くんじゃないわよ。
 ちゃんと行き先を言わないからマリアが慌てふためいてあたしに連絡するんじゃない。
 それとも言えないようなところにでも行こうとしたの?」
「夜中って。まだ早いよ。夜は長いんだから」
「アンタの歳からしたらもう夜中よ」

どこに行くかなんて、けいちゃんは知ってるくせにいつもあたしに問う。
答えを知ってるくせにいつも。
あたしの口から違う答えを聞けるとは思ってないくせに。
そんなけいちゃんに反発したい気持ちと心配かけて申し訳ないと思う気持ちが入り乱れて
あたしはどうしていいのかわからなくなる。

そんなに自分は悪いことをしてるのだろうか。
そんなに心配させるようなことなのだろうか。
彼女の元に向かうのは。

自問自答を繰り返してみたところで、答えは出ない。
ただ行きたいという欲求のみがあたしを走らせる。

「マリアをもっと労わりなさいよ。アンタのこと娘みたいに思ってるんだから」
「へーい」
「吉澤さんには…」
「オヤジなら今はニューヨークらしいよ。マリアが言ってた。
 どうせまたどっかの会社乗っ取りに行ってんじゃない?」
「相変わらずね」

母親のような顔をして昔からあたしの世話を焼いてくれるこの人が
時々小さく感じられるときがある。
それは今日のようにあたしが勝手に家を抜け出して
ちょっとアブナイ地域をウロウロしてるのを見つけられたときや
新しい学校になかなか馴染めなくて彼女の職場に入り浸ったとき、
嫌ってるオヤジのことを口に出したときなんかによくそう感じる。

きっとあたしのことをすごく心配してくれているのだろう。
あたしが自嘲気味になると悲しいのか情けないのか
らしくない顔をしていつもの強気な口調がどこか遠慮がちなものになる。
本気で怒るべきか、親戚らしくほどほどのところをキープしておくべきか迷ってるように見え、
その揺らぐ気持ちがあたしに彼女の背中を小さく見せているのかもしれない。

「夜遊びもほどほどにしなさい」
「なつみのところに行こうとしていただけだよ」

おとなしく家に帰るのもなんだか癪だったからかわりに爆弾を投下した。
けいちゃんの、ハンドルを握る手が心なしか震えたような気がする。
あたしはイヤな奴だ。わざと困らせるようなことを言った。
けいちゃんが良く思ってないのを知っててわざと。

でも彼女はあたしなんかより断然大人で
その物腰に少なくとも表面上は動揺なんて微塵も感じさせず、普通に会話を続ける。

「行くなとは言わないけど…なにもこんな時間に行かなくてもいいでしょ」
「愛し合う恋人同士にはいつ、どこで、なんてルールはないんだよ」
「…恋人だったらね」

そっと呟いたけいちゃんの言葉は耳に届いていたけど、聞こえないフリをした。
なつみとのことをあたし以上にわかったような素振りのけいちゃんがイヤだった。
あたしとなつみの関係はそんな傍から見ていてわかるような単純なものじゃない。
誰にもわかってほしくなんてない。

自分で話を切り出しておきながら随分と勝手な言い分だと思った。



ろくに家人が寄りつかない、広いだけが取り柄のような家に続く
細く長いカーブの手前でジャガーが減速する。
もうそろそろつく頃だろう。
ついたらマリアに声をかけてからシャワーを浴びてさっさとベッドに潜り込もう。
お説教は明日にしてもらって。でも寝る前に一言謝っておかなきゃな。

そこまで考えたら急に眠気が襲ってきた。
丁寧な運転がさらに睡魔を運んでくる。
欠伸をして、目尻に溜まった涙をダウンジャケットの袖で拭った。
心地よい揺れに体を預け、あたしは目を閉じた。
今夜会うはずだった愛しい彼女の顔を思い浮かべながら。



ロンドンに移り住んでから約3年。冬はもうすぐそこまで迫っていた。



あたしは愛という言葉を口にするだけで、
ただそれだけで満足していたのかもしれないな。





◇◇◇◇◇



ヒースロー空港に降り立ったあたしを意外な人物が迎えてくれた。

「はっきり言っておきますけどあなたのことはあまり良く思っていません」
「知ってます」
「副理事からの電話がなければ、
 この時間はミス・テイラーにホワイトニングをしていたところです。」
「ミス・テイラーには機会があればお詫びしたいですね」

彼女はムッとした表情を隠さずにあたしを上から見た。
冗談が通じない女はこれだから困る。
第一あたしよりデカイってのが気に入らない。
初めて会ったときからそう思っていた。

「とにかく迎えにきたからにはお送りしますよ」
「不本意ながらも?」
「仕事だと思えば大抵のことはできます」
「あたしの足になるのも?」

振り返ってあたしを見た彼女は明らかに憤っていた。
目を剥いてなにか言いたそうな顔をしてる。
背だけじゃなくて目もデカイな。
やっぱり気に入らない。

「あなたの軽口に付き合っていられるほど暇ではないですしあなたの足になる気もありません」
「わかってますよ。ちょっとからかってみたかっただけです」
「なっ…」
「副理事になに言われたか知らないけどあたしのことにはお構いなく。
 地元みたいなもんだし、知り合いもそれなりにはいるのでなにも困ることはないですから。
 送ってくれるって言うならとりあえず今日だけは甘えますけど」

あたしと彼女が相容れるはずがない。
一緒にいて有益なことなどなにひとつないんだから。
その点では彼女と意見が一致するはずだ。
だから送ってもらったからといってこれからも彼女と会う必要なんてない。
向こうだってそれを望んでいるはず。
いくら会社人間でも上司から遠く離れたロンドンで
毛嫌いしているあたしの世話を焼くのは遠慮したいはずだ。
あたしはそう軽く考えていた。

「私も構う気はありません。ただ」
「ただ?」
「まあいいです。とりあえず車に行きましょう」



ミニって。デカイ体してこんなかわいい車に乗るか?普通。
でもちょっと可愛いかも。
あたしこういうギャップに弱いんだよなぁ。
彼女とこのミニのミスマッチさが妙にマッチして
あまり喋らないで寝てしまおうとか思っていたのに
ややテンションがあがってつい口数が多くなってしまった。

「先生はロンドン好きですか?」
「好きじゃなきゃ来ませんよ」
「仕事だったらどこにでも行くでしょアナタは」
「必然性があれば」
「髪長いっすね」
「……」
「お昼食べました?」
「……」
「クリニックにかわいいコいます?」
「……」
「ミス・テイラーって美人ですか?」
「……」

ぽんぽん言葉を投げかけるあたしがウザくなったのか、彼女はただ黙って前を見ていた。
まったくノリが悪い女だ。
どうせ今だけなんだから少しはこの退屈な時間を
どうでもいい会話で潰すのに手を貸せっつーの。

「副理事に電話をもらったってさっきは言いましたけど」

なにを言っても反応がないのでいいかげん話すのを諦めて
窓から外を眺めていたら突然彼女が口を開いた。
ウトウトしかけていた意識をむりやり起こす。
まったく唐突な女だ。

「あれ、嘘なんです」
「は?ウソ?」
「ええ」
「じゃ、なんで空港に?」
「電話をもらったのは本当。ただその相手は違います」
「…やっぱり。副理事があたしのプライベートのことで飯田先生に電話するなんて
 おかしいと思ったんだ。大体ロンドンに行くことすら教えてないのに。
 誰が先生にそんな余計なことを?」
「たしかに余計でしたね。でもその人にとってはそうではなかったんでしょう」

喋りながら彼女は少し間をとってあたしの顔をチラリと窺った。
まったく本当に余計だよ。
それにしてもその意味深な言い方。
さっきからかったのを根に持ってるでしょ、アナタ。

「はぁ…藤本くん、ですね」
「ご名答。昔の恋人とミス・テイラーを秤にかけて、その結果がこれです」

昔の恋人だと?
軽々しく口にしないでほしい。今はあたしの恋人なんだから。

「美貴のやつ」

よりによってこの人に連絡するなんて。
そんなにあたしのことが心配だったのか。迎えなんか必要なかったのに。
まさかとは思うけど迎え以外のことも頼んでないだろうな。

というか理由はなんであれ愛しのマイハニーが
昔の恋人なんかに電話したっていう事実に相当腹が立つ。
この仕事人間が仕事よりもそっちを優先させたことも気に入らない。
ミス・テイラーより美貴ってわけかよ。ムカツクな。
面白くない。ああ、そうさ!嫉妬さ!

「あなたを迎えに行ってあげてほしいなんて言われたときは断るつもりだったんですけど」
「どうして来たんですか」
「さあ。どうしてでしょう。声が切実だったからかな」
「飯田先生」
「はい」
「美貴のことどう思ってます?」
「友人だと思ってますが」
「それだけ?」
「さあ。どうでしょう」

颯爽とミニのハンドルを操る彼女の口の端が少し上がっていた。
サングラス越しに見える目は意地悪く笑っているような気がした。



やっぱりこの女だけは、気に入らない。





◇◇◇◇◇


朝は嫌いだ。朝は彼女をイヤな女にさせるから。
夜がいい。夜の彼女は優しいから。


「いないじゃん」

せっかく家を抜け出して、けいちゃんにも捕まらずにここまで来たのに。
彼女はどこかに出かけているのか狭いアパルトマンはしんと静まり返っていた。
まだ宵の口だ。きっと買物にでも行っているのだろうと勝手に上がって待つことにした。
ドアを開けた途端、合鍵のキーホルダーがどこかにぶつかり鈍い金属音がした。
無性に切なくなり手の中の鍵をしっかりと握り締める。

理由のわからない寂しさを胸に、固いベッドに寝転び天井を見上げた。
汚れなのか模様なのかよくわからない茶色い染みを見るのが
すっかり習慣のようになってしまった。
少し肌寒い。アルコールと煙草の匂いが鼻についた。
でもこれは彼女の部屋に染みついた彼女の匂い。
この匂いであたしをいっぱいにしてほしいといつも願っている。

ふいに電話のベルが鳴り、あたしは起き上がった。
一瞬彼女から?と思ったけどすぐにその可能性を打ち消す。
出かけている人間が自分の家に電話などするはずがない。
頭の中に浮かんだ別の人物にどう言い訳しようか考えながら受話器を取った。
取ってから、律儀に電話に出る必要なんてなかったということに思い至った。
後悔してももう遅い。

「ひとみ?」
「けいちゃん…」

他人の家に電話をしておきながら家主以外の名前を真っ先に口にする
けいちゃんの勘の良さにあらためて脱帽した。
なぜあたしが出たとわかったのだろう。
受話器を取っただけで声は出していないのに。

「なつみはしつこく鳴らさないと電話に出ないから」
「へぇ〜よく知ってるね」
「基本的に嫌いみたいなのよね、電話。
 利用価値を教えてあげなさいよ。アンタも困るでしょ?」
「あたしは基本的になつみに電話なんてしないもん」

あたしの知らない彼女の情報を他人の口から聞くのはいい気がしない。
たとえ友人であるけいちゃんだとしても嫉妬の気持ちは否定できない。
つい拗ねた口ぶりになってしまった。

あたしってガキだな。

でもそれも仕方ないとも思う。
実際自分はまだハタチにも満たない正真正銘の子供なんだ。
無理して大人ぶる必要なんてない。大人になんてまだなりたくはない。

「はいはい。電話してる暇があったら会いに行くってことね。アンタは欲求に忠実よね」
「だってほかにしたいことないんだもん」
「やりすぎると飽きるわよ。なつみはいるの?」
「そんなー。けいちゃんじゃないんだから。どっかに出かけているみたい」
「飽きるほどやってみたいわ。ってなに言わせるのよ。今日はずっとそこにいるの?」
「さあ。彼女次第だけど」
「会うならもっと太陽の下とかで会いなさいよ。アンタたちいつも不健康なんだから」

曖昧に頷いた。不健康とか不健全とかよく言われるな、そういえば。
彼女とふたり太陽の光が降りそそぐ中、公園かどっかを散歩してる図を思い浮かべる。
…イメージが湧かない。似合わなすぎておかしさがこみあげてきた。
けいちゃんも本気でそんなこと思ってないくせによく言うよ。

「そうだね。いつかそういうこともしてみるよ、きっと」
「なつみにもそう伝えて」
「自分で言えばいいのに。友達なんだから」
「友達、か…アンタもなつみとばっかりいないで友達作りなさいよ」
「気が向いたらね」
「生意気なガキ」

電話を切って冷蔵庫からビールを取り出し一気に半分ほどを空けた。
ベッドを見つめる。

彼女に覆いかぶさるあたし。
官能的な表情で目も虚ろにあたしを求める彼女。
闇の中で響く二人の息遣いとベッドの軋む音。

最中の二人は無言のままで、特に言葉を交わすことはない。
時折漏れる喘ぎ声が耳に残るだけだ。
目を開けていても思い浮かべるのは容易い。
何度となく体を重ねた情景が手に取るほど簡単に目の前に広がる。
ビールの残りを胃に流し込み、あたしは再びベッドに横になった。



初めて彼女を見たとき、暗い女だと思った。
小さい体でちょこまかと動く仕草は愛らしくて
ベビーフェイスとそのパッとまわりが明るくなるような笑顔は文句なしに可愛かった。
それなのにあたしはなぜか思った。彼女の中に闇を感じ取ってしまった。
そうなるともうダメだった。彼女のことが気になって仕方ない。
相手にされないとわかっていてもつきまとい、困らせ、ときに怒鳴られた。
彼女の黒いつぶらな瞳の中にある闇を見つけたときから
あたしはそれにどうしようもなく惹きつけられ、むりやり彼女を抱いた。

はじめのうちこそ抵抗されたものの、徐々に甘い声が漏れるに従い彼女は本性を見せてくれた。
とてつもなく厭らしく下品な表情であたしに身を委ねてくれた。
まるでこうなることがわかっていたかのように終始あたしをリードして
自分の思うがまま夜に堕ちていった。
ひょっとしたら初めて会ったときからあたしは囚われていたのかもしれない。


その闇に。彼女に。


悪魔のように甘美な誘惑に抵抗する術はなく
どっぷりと嵌った穴から這い出す手立てもなく、こうして今夜も彼女を待つ。
でも傷んだ髪の隙間から見える彼女の瞳にはなにも映っていない。
誰も。あたしさえも。

囚われの身のあたしには彼女の瞳に映るほどの価値はないのかもしれない。
それでも太い鎖で繋がれたように彼女から離れられないのは彼女が好きだから。
これほど単純明快なことはない。
男にも女にも時間にも金にもだらしない、どうしようもない女だけど涙が出るほど愛しい。
アイシテルという彼女の言葉が偽りでもあたしは彼女が愛しかった。



いつのまに眠ってしまったのか薄っすらと目を開けると彼女の姿が目に入った。
ピチャピチャとあたしの体を子犬のように舐めまわす彼女。
眠っている間に服を脱がされたらしい。
あたしは裸で、彼女もまたなにも身につけていなかった。
へそのまわりを舐められ、舌が下降するのにつれて思わず声を漏らす。
あたしが起きたことに気づいた彼女は頭を上げて
こちらをチラリと一瞥してからまた一心不乱に舌を動かし出した。
言葉を交わさぬまま快楽に身を落とす。



このまま、いつまでもこうしたいと思っていた。
こうしていることが幸せなんだと思っていたかったのかもしれない。





◇◇◇◇◇



   藤本美貴  様


 わざわざ飯田先生を迎えに来させるなんて人使いの荒さに惚れ惚れしたよ。
 (そんな美貴にオイラはゾッコンLOVEだぜっベイベー!)
 心配してくれるのはありがたいけど大丈夫。
 無理はしないしちゃんと自己管理もできるから。
 実家に帰るのは鬱陶しいからこっちでは馴染みのホテルに逗留するよ。
 (ひとり寝は寂しいよウワーン)
 とりあえず明日は昔の友人に会いにロンドンクリニックに顔を出そうと思う。
 (飯田先生とはもう顔を合わせたくないけど)
 それからこんなこと言うのはみっともないと自分でも思うけど、なんつーか…やっぱいいや。


 うーん、やっぱ言おう。
 飯田先生のことはもうなんとも思ってないんだよな?
 お互いになんでもないんだよな?
 こっちとそっちで遠く離れているってのに嫉妬なんかしてオイラ馬鹿みたいだよ。
 つーか馬鹿だよなぁ。でもあんまりヤキモキさせないでくれよ〜。頼むから。


   吉澤ひとみ





飯田先生との楽しくないドライブの後
いつものホテルにチェックインしてそのまま何時間か眠りこけた。
さすがに疲れが溜まっていたのか、ぐっすりと寝て夢も見なかった。
夕方すぎに目を覚まし、シャワーを浴びルームサービスで軽く食事を取った。
支配人からのメッセージカードにはいつものように礼を述べる言葉が連なっていた。
あのオッサンまだ支配人やってたんだな。もういい歳だろうに。

まだ少し眠気の残る頭で美貴にメールをした。
電話にしようかとも思ったけど声を聞いたらこのまま空港に直行して
彼女の元に飛んで帰りそうな気がしたからあえてメールにした。
彼女からの返事も電話ではなくきっとメールでくるような気がする。
確信はないけどたぶん、なんとなくそんな気がした。

一旦彼女のことを考え出したら止まらなくなった。
温もりや髪の感触や匂いなんかがこうして離れていてもはっきりと思い出せて
求める彼女がここにいないことが辛かった。
それはべつに邪な考えではなく純粋に彼女と一緒にいたい
彼女といろんな話をしたいという欲求。
顔を見て笑いあって、生きていることを実感したい。

再び睡魔に襲われのろのろとベッドに入った。
この分なら明日の朝ちゃんと目が覚めて時差ボケも解消されていることだろう。
身体とともに疲れた頭も思考能力が徐々に停止する。
今はただ、彼女が恋しかった。
また夢は見なかった。



目覚めはまあまあ快適だった。眠りが深かったからかもしれない。
ホテルで簡単な朝食を取った後、地下鉄を乗り継いで
ロンドンの中心地にあるリージェンツパークに向かった。
たとえ目当ての人物がいなくともあそこで少しのんびりしてから
ロンドンクリニックに顔を出そうと思った。どうせヒマだし。

地下鉄の長い階段を上りのろのろと歩いてその巨大パークに足を踏み入れる。
何年ぶりだろう。年末に渡英した際は家のことやなんかで結局来られなかった。
別に特別な場所というわけではないけどこうして歩いていると感慨深い。

晴れていてもさすがに寒さが身にしみる。
この季節に散歩は少し無謀だったかと後悔したけど
マリアは寒い季節のここも好きだと言っていたからつい足を向けてしまった。
お茶を飲みながらよく話してくれたっけ。
リスの手なずけかたや季節ごとの風景を。
広い家の中でたった二人、そんな話をしながら飲む紅茶は
コーヒー党のあたしからしてもかなり美味かった。
年末に会ったばかりでどうしても会いたいというわけではなかったけれど
あのでっぷりした腕に抱かれて温もりを感じたかった。
やはり寂しかったのかもしれない。

寒さに耐え切れず公園を後にした。
滞在中またいつでも来ればいい。
たとえ会えなくともまたの機会に会えるかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、また地下鉄に揺られながらロンドンクリニックに向かった。



オフィスビルが立ち並ぶロンドンの中心街の一角にうちの大学のロンドンクリニックがある。
久しぶりに目にして自然と懐かしさが込み上げてきた。
昔はよく圭ちゃんに会いに入り浸ったものだ。
特になにをするわけでもなく本を読んだり音楽を聴いたりしながら
圭ちゃんの仕事が終わるまで待っていた。
家に帰りたくなかったから、ただ待っているだけの時間でも幸せなひと時だった。

あの頃とほとんど変わらない街並みがあたしをどこか感傷的にさせた。
相変わらずビジネスマン風の男女がせかせかと歩きまわり
肩をぶつけ合っては紳士淑女らしく謝りながらどこかに消えていく。

歴史を感じさせる重厚な外見とは裏腹に中身はかなり洗練された空間が広がる。
何年か前に改装工事をしたらしいが、それでも昔の面影は至るところに残っていた。
エレベーターで10階に上りこちらにはまだ気づいてない受付嬢に目が留まった。
なんと言って驚かしてやろうかと考えていると、奥のドアが開き見慣れた人物が顔を出した。
しかもあろうことか目が合ってしまった。
まったくなんてタイミングだ。

やっぱり気に入らない。

「ああ。吉澤さんじゃないですか」
「昨日はどうも」
「よく眠れました?」
「おかげ様で」

ん〜。なんか余裕ありげなこの態度が鼻につくな。
あたしたちの会話が当然耳に入ったのだろう。
受付嬢は驚いたように顔を上げた。

「よしこ?」
「オイッス!まいち〜ん」
「久しぶりじゃ〜ん!でも何で?!
 あっ、もしかして昨日カオリンが迎えに行った人ってよしこなの?」
「そうそうカオリンが空港に…ってカオ…リ…ン?ン?!」

『カオリン』ってまさか飯田先生のことか?
先生をファーストネームに『ン』をつけて呼ぶほど
彼女は礼儀を弁えない人ではなかったはずだ。
それに先生も仕事をキャンセルした理由まで受付嬢に話すか?普通。
それにしてもフザけた愛称だこと。

「声が大きいよ、まい。それにしても吉澤さんからこちらに来るとはね」

先生もやけに気安い喋り方だなオイ。
つーか今なんつった?まい、とか呼んでたよな。
普通にまいって聞こえたんですけど。まいって。
なんつーかもしかしてこの二人って…。

「キミたちできてるの?」

なんとも上品とはほど遠い尋ね方をしたあたしに二人は嫌な顔ひとつせず答えてくれた。

「「イエス」」



まったく、昨日から気に入らないことのオンパレードだ。











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