大学編 9






朝からずっと、ソワソワしていた。
何度も時計を見た。
落ち着きのないあたしを見てなにかを悟ったのか或いは彼女なりの気遣いなのか
後藤さんは特になにも追及しようとはせず、その態度には少々拍子抜けした思いだった。

課長にデータ処理を頼まれても海外からのメールを訳していても
考えるのはよっちゃんのことばかり。
仕事の合間の休憩時間にお喋りしていても、受付でお客様の対応をしていても
思い浮かぶのは昨夜の情景。
よっちゃんのあたしを求める熱い瞳が心に焼きついて離れない。

早く時間が過ぎますように、早くよっちゃんに会えますようにと祈るばかりだった。


「あれ?保田先生」
「あら藤本」

今か今かと時計を睨み続けるのにもさすがに飽きてきたので
散歩がてら中庭をウロウロしていたら見慣れた背中を見つけて声をかけた。

「今出勤ですか?」

時計は午後の1時を指していた。
午前中に有給でも取ったのだろうかと思い尋ねた。

「朝からいるわよ。どうして?」
「だって白衣着てないから」
「ああ。ちょっと外で食べてきたから」
「そうですかー」

ぽかぽかと暖かい日差しが降りそそぐ中を二人してなんとなく歩いた。
昨日の雪のかけらは微塵もない。
すっかり茶色く変色した芝生が季節を物語る。

「あたしがこんなこと言うのもおかしいんだけど…よかったわね。ひとみとうまくいって」
「なんで知ってるんですかー!!」

もうよっちゃんから?
いくらなんでも情報伝わるの早すぎじゃないですか?

「もしかして外で食べたってよっちゃんと?」
「うん。まあ。ちょっとした用事で」

ショック。

どうしてあたしを誘わずに保田先生なんかと。
なんかって失礼か。

でもでも、カノジョを差し置いてそれはないんじゃない?
よっちゃんはあたしに会いたくないわけ?

あたしがよっぽど恨めしそうな目をしていたのか保田先生は慌ててフォローした。

「本当に用事があったのよ。アイツにとっては大切なね。藤本も帰ったらわかるわよ」
「はあ」
「それにしても…あんたも大変ね。なにかと」
「またそういう意味深なことを」
「とにかくなにか困ったことがあったらいつでも電話しなさい。
 あたしが教えてあげられることなんて微々たるものだけど、
 それでも聞いてあげることはできるから」
「ありがとうございます。でも先生、言ってることがよくわからないんですけど」
「いつかわかる日が来るわよ…まあ、来ないほうがいいんだろうけど」

歯周病科の手前で保田先生と別れた。
彼女の言った言葉の意味を考えようとしたけれど
すぐによっちゃんの笑顔が出てきてあたしの思考をストップさせる。
また昨夜の出来事にトリップしてしばらくニヤニヤしながら
散歩の続きをしているとポケットの携帯が着信を知らせた。

「藤本さーん、どこにいるのぉ?」
「えーと西館の4階、いや5階かも」
「どこでもいいけど早く帰ってきてー。
 ウォルシュ教授が予定より早く着きそうなんだって。
 おまけに課長が急な出張でもうすぐ出るって言うから」
「わ、わかった。すぐ戻る」

今にも泣き出しそうな石川さんの声を聞いて我に返った。
そうだ、こんなことしてる場合じゃない。仕事仕事、仕事しなきゃ。

心持ち小走りで階段を降り廊下を抜け南館に入った。
人事課の前を通り過ぎようとしたその時、
ちょうどドアが大きく開いて中から人が出てくるのが見えた。
そしてすれ違い様にその人物と肩が少し触れた。

「あ、すみません」
「いえ」

一言謝り、また秘書課に向けて走り出す。
よく見えなかったけどわりとかわいい顔立ちの、目が印象的な女の子だった。
ひょっとしたら女の子と言うには失礼な年齢かもしれない。
スーツを着ていたし人事課から出てきたということは来年度の新入社員かな。
それとも派遣の人か契約社員の人かもしれない。

いずれにしてもよっちゃんならなにか知っているだろう。
一応理事長の縁故という立場上、社内人事のことは早くから耳に入るらしいし
なによりかわいいコには敏感だ。

と、そこまで考えたところで胸の辺りがムカムカしてきた。
なんだかイライラもする。
こんな些細なことというか、自分の想像の中でよっちゃんとあの見知らぬ女の子の
ありもしないことに嫉妬する自分に呆れ返った。

はぁ〜。あたしヤバイくらいハマってる。
つくづくそう思った。



「それじゃ藤本くん、あと頼んだよ」
「理事会の例の資料は各講座に依頼済みですので」
「おお、そうか。助かるよ。明後日の午後には一度こっちに顔出すから」
「はい。わかりました。お気をつけて」

課長を送り出しひと息つく間もなく声がかかる。

「藤本さーん、総務からの決裁なんだけど…」
「あー!忘れてた。ごめんすぐ上げる」

やっぱり今日も忙しい。
暢気に散歩なんかしてる場合じゃなかった。
まだ他にもやらなきゃいけないことはたくさんあるし
サクサクこなさければ定時に帰るなんて到底無理。
だってもうほらいつのまにか3時だし。
さっきは時間が早く過ぎてほしくてたまらなかったけど、こうなると一分一秒が惜しい。

早くよっちゃんに会うために頑張らなきゃ。
会ったらまず抱きしめて、よっちゃんの匂いをいっぱい吸って
顔に触れて髪を指でかきまぜて…耳を甘咬みされたらもうダメ
きっと立っていられなくなる…それからあの冷たい唇に……。

「…さんっ、藤本さんってば!」
「えっ、なに?」
「やったほうがいいんじゃない?決裁」
「あー!!」

そうだった…うわっなにも進んでないじゃん。
あたしってバカ?バカっていうかエロ?
はぁ…仕事しよ。

その後何度も誘惑に駆られよっちゃんとのいろんなことを妄想しながらも
とりあえず8時前には今日しておかなければならないことを終えて
着替える前によっちゃんに電話をすることができた。
メールにしようかと一瞬迷ったけどやっぱり魅惑のよっちゃんヴォイスが聞きたいわけで。

すぐに行く、という彼女の声を聞いた途端ウキウキ気分が再浮上して
あろうことか石川さんにキショイと言われた。
よりによって一番言われたくない人に指摘されて、
よっちゃんが来るまでの間あたしがどっぷりと落ち込んでいたのは言うまでもない。



「なにこれ」
「なにって見ればわかるじゃん」
「ジャガー、だよねぇ」

あれ?ポルシェはどうしたのさ。
今朝まで乗ってたあの黒くてかっこよくて
そのハンドルを握るよっちゃんのが数倍かっこいいあのポルシェは?
ブルーの縁なしメガネをかけてハンドルを握る姿がやたら知的に見えて
かっこよすぎるくらいのよっちゃんの、あのポルシェは?

「2週間くらいこれでガマンしてよ」
「ポルシェはどうしたの?」
「いや実は新車買ったんだ」
「これ?」
「んにゃ、これは圭ちゃんの」

保田先生のジャガーとは。意外。
もっとゴツイ車に乗ってそうなイメージなのに。レンジローバーとか。

「だからポルシェはどうしたのよ」
「だから圭ちゃんとこ」
「ふぇ?」
「納車まで圭ちゃんと車交換したんだ」

昼間の保田先生の話を思い出した。
ちょっとした用事ってこれ?
ん?でもなんで?
なんで新車が来るまでポルシェ乗らないの?

そんなあたしの心の声が聞こえたのか、
よっちゃんは助手席のドアを開けながら説明してくれた。

「知り合いのディーラーにかなり無理言ったんだけどやっぱり時間かかるみたいでさ、
 でももうあのポルシェには美貴を乗せたくなかったから
 圭ちゃんにも無理言って昼に呼び出して交換してもらったんだ。
 元々圭ちゃんはあたしのポルシェ狙ってたし
 あたしも昔からこのジャガーに乗ってみたかったしってことで都合よかったんだよね」
「なんであたしをもうポルシェに乗せたくないの?」
「いや、だって…あの、あれにはいろんな人が、その、乗ったわけで…。
 なんつーか、やっぱり、ねぇ?」

ごにょごにょと言いよどむよっちゃんを見てこれが彼女なりのけじめなんだとピンときた。
あの何人もの女が身を沈めたシートと決別するための。

バカだなぁ。
ここまでしなくてもいいのに。
ホント、やることが極端なんだから。

…でもやっぱり嬉しい。

胸が熱くなって思わずよっちゃんの横顔にキスをした。
その拍子に彼女のメガネが面白いようにズレてまるでコントみたいになった。

「あっぶね。コラ美貴!運転してるときはマズイって」
「だって嬉しかったんだもーん」
「うん、まあね。エヘヘ…。あ、新車の助手席には美貴しか乗せないからな」
「新車ってなに買ったの?」
「黒のコルベット。超かっけーの。前から欲しかったし」

あんな派手な車で毎日出勤するつもりですかキミは。
よっちゃんに似合いまくりだけど。
でも、新車の助手席にあたししか乗せないってホントかな?
信じていいのかな?
期待しちゃっていいのかな?
愛されちゃってるって思っちゃうよ?

一体誰がそのシートに身を沈めたのか見当もつかないジャガーの助手席で
あたしは朝と同じようにひたすらよっちゃんの横顔を眺めていた。
ずり落ちたメガネを中指でクイッと上げる彼女の姿に見とれながら。
意識しなくても湧き上がってくるシアワセってやつを噛み締めながら、ずっと。


「で、ここはどこ?」
「どこって見ればわかるじゃん」
「うちの近く、だよねぇ」

よっちゃんオススメの和食屋さんで少し遅い夕食をとってから
連れられた先はあたしのマンションから目と鼻の先の、ちょっとした高級マンションだった。

勝手知ったる我が家のようによっちゃんは駐車場にジャガーを停めて
また助手席のドアを開けてくれた。

「もしかして隠れ家?」
「なわけねーだろ。まあとりあえず入って」

エレベーターはかなり上で止まった。
何階か確かめられなかったのはその鉄の箱の中でよっちゃんにずっと抱きしめられていたから。
温かい腕の中で今日の出来事やお昼になにを食べたとか、
ずっとよっちゃんのことを考えてて仕事が手につかなかったとかを報告する。

そしてよっちゃんは答えるかわりにキスをくれた。
触れるだけの優しいキスを。
ちゅっとわざと音を立てて唇やほっぺや額や瞼や、鼻の頭なんかにもキスを落とす。
耳たぶを甘咬みされて思わず声が漏れた。

自分でも気づかぬうちにそういう顔つきになっていたのかもしれない。

「続きは部屋で」

エレベーターを降りるとき耳もとでそう囁かれた。


「じゃーん。どう?新居は」
「しんきょぉぉ?!」
「そう。ちょっと思い立って引っ越してみた」

すごい行動力。唖然。
車だけじゃなく引越しをたった一日で…。

でもなんで?なんで急に。

「どうしたの一体」
「や、今朝ね、なんとなく引越したいなーって思って。
 一日で終わるかどうか微妙だったけど幸い自分の荷物ってそんなになかったし
 ここも親戚筋が所有するマンションだから圭ちゃんにも口利いてもらって
 手続きも簡単に済んだし。ま、終わらなかったら明日も会社休めばいいかなって」
「そうじゃなくて。なんで突然引っ越そうと思ったのよ」

言いながら思い当たる。

まさかまさか。
もしかしてシャワーでのことが原因なの?
まさかそんな。
あれくらいのことで、そんなこと。

「よっちゃん、もしかして…今朝のこと気にしてるの?」
「美貴に嫉妬してもらえるのは嬉しいけど…
 あんな涙声ベッド以外でもう聞きたくないからさ」

バカだなぁ。
よっちゃん、ホントにバカだよ。
そこまでしてくれなくてもいいのに。
あたしはよっちゃんがいるだけで、それだけでいいのに。

言ってからあらぬ方向に顔を向けたよっちゃんの耳は真っ赤で
柄にもなく照れてるんだとわかったら急にすごくからかいたくなった。

「よっちゃん、あたしのためにここまでしてくれたんだ」
「う、うん」
「そんなにあたしのこと好き?」
「わかってるくせに聞くな」
「あたしなしじゃ生きていけないんでしょ」
「そうだよっ!悪いかっ」
「かわいいねーよっちゃん」
「ったく人をからかうなっつの」

腰を引き寄せられて今度は濃厚なキスをされた。
服の上からでも十分に感じるほど胸を弄られ首筋を冷たい唇が這う。
さっきの余韻がまだ残る体に一気に火がついた。

「はぁんっ」
「ガマンできない。美貴がほしい」

早くベッドに行こう、といわゆるお姫様抱っこをされて
あたしはその新居を見てまわる前にいきなりベッドルームに直行した。
そこには見慣れたキングサイズのベッドがあった。
怪訝に思って彼女の顔を覗き込むとまたキスをされた。
手早く服を脱がせながらよっちゃんは説明する。

「ベッドはね、こないだ買い換えたばかりだったから同じなんだ。
 だから美貴しか使ってないよ、このベッド。
 それにこうやって誰かを抱き上げたのも実は美貴が初めて」
「はぁ〜。どうしよよっちゃん」

あっという間に下着姿にされ、あたしはよっちゃんの首に両手をまわした。

「ん?」
「幸せすぎていいのかなって。少し怖いよ」
「これからもっと幸せにしてあげるから」
「ホントに?」
「だからオイラのことも幸せにしてよ?」
「うん。よっちゃん、大好き!」

話しながら服を脱いでいるよっちゃんにキスをする。
舌を絡ませ、歯列をなぞり、唇を甘咬みした。
よっちゃんの両手が滑らかにあたしの体を動き回りあっという間に下着を剥ぎ取る。

すでにあたしは頭の芯がじんじんと痺れていた。

どうしてだろう。どうしてこんなに。

よっちゃんに触れられるだけで何もかもがどうでもよくなるほど感じてしまう。
魔法のような両手が、舌が、あたしの体中を這い回るから。

「ゃぁんっ…はあぁぁん…」
「二人なら怖いことなんてないよ」

すでに溢れるほどに潤ったあたしの中心に手を滑り込ませながら
そう囁いたよっちゃんの言葉は耳に届いてはいたけれど
でも理解する余裕はあたしにはすでになくて。

「あんっあんっ、はぁんっあぁぁぁ」
「美貴…かわいいよ。好きだよ美貴、美貴」

あたしの名を呼ぶ愛しい人の声だけがいつまでも耳の中にこだましていた。



意識を取り戻したときすでに時計は夜中の1時を指していた。
あたしを抱いたまま寝息を立てているよっちゃんを起こさぬようそっとベッドから抜け出す。
汗を流そうとバスルームを探して裸のまましばらくウロウロしていた。
そんな自分の姿が間抜けに思えて声を出さずに笑った。

やっぱりというか予想どおり広いバスルームで熱いシャワーを浴びた。
今朝と似たシチュエーションながら別の場所で、でも家主は同じなのが不思議な感覚だ。

あのときは嫌な気持ちでいっぱいだったのが今は違う。
湯気で曇る鏡を手でこすり、そこにいる人物をじっと眺めた。
紛れもなく自分だ。
ほかの誰でもない自分の姿をそこに見て、安堵する。
この場所はあたしのものなんだと、
よっちゃんが与えてくれたあたしたちだけの場所なんだと実感していた。

ベッドに戻って眠るよっちゃんの安らかな顔をまじまじと見た。
この寝顔を独占できる今このときをいるかいないかわからない神に感謝する。
よっちゃんがそばにいてくれるだけで、それだけで十分だと思っていたのに。

あたしのために引越しをして、車を買い替えて。
いつもこの上なく優しく気持ちよくしてくれるよっちゃんを
もっともっと独り占めしたいと思うから、人間って、あたしって

なんて欲深いんだろう。

「ん…美貴?」
「なあに。よっちゃん」
「ん〜好き」
「あたしも大好きだよ」

まどろみの中でもあたしの存在を確かめようと
両手を動かすよっちゃんが愛しくて、その手をしっかりと掴んだ。
長くてキレイな指と爪に唇を落とす。
大胆に、ときに繊細にあたしを翻弄するこの指にそっと。

「そんなことされたらすっかり目が覚めちゃったよ」
「だってわざとだもん」
「んだとー!人が気持ちよく寝てるのにぃ」
「一人で起きてるのつまんなーい。よっちゃんお喋りしようよ」
「あのね、こーんな時簡にエッチするならともかくお喋りって。
 案外かわいいこと言うね〜藤本くん」
「あ、藤本くんって言った」
「うん?それが?」
「あたしを昨夜抱いてから初めてだよ『藤本くん』って。ずっと美貴だった」
「えぇー。そうか?全然意識してなかったよ。で、どう呼ばれたいの藤本くんは。
 ん?なんか昨日もこんな会話したな、そういえば」
「よっちゃんの好きに呼んでくれていいよ」

昨日の会話で思い出す。

かつて彼女のことを『ひとみ』と呼んでいた人物がいたのかいなかったのか
いたとしてもどういう関係でなにがあって彼女にあんな顔をさせるようになったのか。

知りたかったけど今はいい。
今はこの二人の時間を大切にしたいから。

「ねぇよっちゃん、昨日後藤さんがチュウしたでしょ?あたしに」
「あぁ…思い出すだけで腹立たしい」

そう言って眉間に皺を寄せながら腕を組む姿はまるでお父さんのようだった。

「なーに笑ってんだよっ」
「だって、よっちゃんお父さんみたいなんだもん」
「はぁ〜。お父さんですか」

しょんぼりして肩を落とす姿はヴィンセントそのもの。
おかしくてまた笑った。

「で、その後藤さんにチュウされてなんだよ」
「あのときあたしがほっぺにチュウしたらよっちゃん壊れちゃったでしょ。なんで?」
「オイラ壊れてなんかないっ」
「壊れてたっつーの。目の焦点合ってなかったし、呼んでも全然返事しないし」
「たぶん…美貴からああいうことされたの初めてだったから
 意識が飛んじゃったんだよ、きっと」
「あれだけのことで?」
「だってオイラがどれだけ我慢に我慢を重ねて悶々とした日々を過ごしてきたかわかる?」
「男子中学生かよっ」

ペチッ

「イチャイ」
「我慢してたの?」
「だいぶね」
「でも受付でキスしたよね?」
「あ、あれはつい…だって美貴元気なかったし。そういやなんであのとき落ち込んでたんだ?」
「ナイショ」
「ちぇっ」

ケチ、と口を尖らせてふとんをかぶって拗ねる彼女に本当のことを言おうと思ったけど
それはまたいつかのときに取っておくことにして、唯一覗かせている髪にキスの雨を降らした。

「よっちゃーん」
「はいはい。なんですか?お姫様」

機嫌を直した恋人におねだりをする。

「喉渇いたのー。マティーニ作ってー」
「ほいほいお姫様。その前にシャワー浴びさせて」

よっちゃんがシャワーを浴びている間
バルコニーから遠く大学まで見えるその景色を堪能した。
今さらながらこの部屋がかなりの高さにあるとわかる。

くしゃみをひとつして部屋に戻った。
さすがにこの季節にバスローブ一枚で外に出るのは無謀だったかも。
でもしんと冷えた空気の中でびっくりするほど星がキレイに瞬いていたから
窓を閉めてもあたしは中から空を眺めていた。

恋をすると世界が違って見えるなんて、幻想だと思っていた。
毎日眺めていた空の星がこんなにも違って見えるのはやっぱりよっちゃんマジックなのかな。
そんな石川さんでもさすがに考えなさそうなことを普通に思えるくらい
あたしはこの恋にどっぷり溺れているらしい。


「保田先生がね、困ったことがあったらいつでも電話してって言ってた」

マティーニとウィスキーを両手にベッドルームに入るよっちゃんの後ろを追いかけた。

「ったくおせっかいだな、圭ちゃんは」
「心配してくれてるんだからありがたく思いなさいよ」
「昔っからそうなんだあの人は」
「そんな顔しないの」

しかめっ面でウィスキーを傾ける彼女の眉間の皺を指で伸ばしてあげた。

「そんなに保田先生にお世話になってたの?」
「まあちっこい頃からよくしてもらってはいたけど…」
「ロンドンでも?」
「あー、うん…」
「聞いちゃまずかった?」
「んなことないけどね。向こうに住んでたとき
 ちょうど圭ちゃんもロンドンクリニック勤務でさ。
 いろいろあったけどもう全部昔の話だよ」
「よっちゃん、その頃好きな人いた?」

せっかく伸ばしてあげた眉間にさらにいっそう皺が寄って…
こんなこと初めてだったけど少しだけよっちゃんが怖いと思ってしまった。
その只ならぬ雰囲気に圧倒されて。

「さあ。どうだろう…いたといえばいたかな」
「ごめん。変なこと訊いて」

こちらを向いたよっちゃんはいつものよっちゃんで、なぜか頭をクシャっと撫でられた。

「どうせ圭ちゃんが余計なこと言ったんだろ?べつにいいよ。もうなんとも思ってないから。
 ちょっとした失恋をね、したんだ。向こうにいるとき。
 その傷があんま癒えなくてしばらく誰も好きになれなかった。
 まだ今より全然ガキだったし。よくある話だよ」

言いながらよっちゃんは肩に手をまわしてあたしを抱き寄せ耳にそっとキスをしてくれた。

「でも美貴に会って…美貴がいるからもう大丈夫。
 美貴はオイラの心のオアシスだよ。これからもずっとね」
「こ、光栄です」
「ありがたく思えよ?」
「調子に乗るなっ」
「アイダダ」

初めてよっちゃんの口から過去の話の片鱗を聞いて
嬉しいというよりも釈然としない思いが実はあった。
ただの失恋にしてはよっちゃんの傷は深すぎるような気がして。
大丈夫という彼女の言葉を信じたいけどできなかった。

信じるのが難しいほど彼女の瞳は哀しい色をしていたから。

かつて彼女のことをファーストネームで呼んでいた誰かが彼女にそんな仕打ちをしたのなら
あたしは彼女と共に生きてその傷が癒えるまで髪を撫でてあげよう。
この手に抱いていてあげよう。

いつまでもそばで笑っていられるように
いつかその傷が完全に癒えるまでキスをしてあげよう。



キミの笑顔のために、星の数だけキスを降らそう。











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