大学編 10






シアワセな日々は特に意識しなくてもあっという間に過ぎ去って、日常となる。
当たり前のようになった日常ってヤツをありがたく思うことも忘れて
その貴重な、感謝すべき日々の上に胡坐をかき
当然とばかりに踏ん反り返っていると往々にして落とし穴が待っている。
そういうことの繰り返しなのかもしれない。人生って。

よっちゃんの異変にあたしが気づけなかったのは
べつにシアワセボケをしていたからではなく
その笑顔の下に巧妙に隠された怯えのようなものを
彼女が完璧なまでに隠し通していたからだと思う。

とにかく今回のこれはあたしにとって、
そしてよっちゃんにとってもかなりヘヴィーであることは間違いなかった。



大学入試センター試験も終わりいよいよ一般入試に入ろうかという2月の上旬。
あたしは相変わらずよっちゃんの部屋にいて
入試課で毎日遅くまで仕事をしている彼女の帰りを待っていた。
時折ウトウトと夢と現実を行き来しつつも、忠犬のようにただ待っていた。

ガサガサとなにか騒がしい物音がして目を覚ました。
よっちゃんが帰ってきたのだろうと思い
しばらくソファでゴロゴロしながらさらに待った。

それでも一向にこちらに来る気配がなく
ガタンとドアの閉まる音や微かな水音もして
一体なにをやっているのだろうと不思議になり痺れを切らして腰を上げた。

「帰ってきたらまずおかえりのチュウなのに」

このときのあたしは暢気にもこんな不満を独りごちていた。

上着やバッグが点々と落ちていた。
トイレのドアの隙間から光が漏れ、長い足がはみ出している。
心配になりそっと中を覗くとベロンベロンに泥酔した彼女の姿がそこにあった。

「酒くさっ」

室内はアルコールの臭いでむせ返るようだった。
当の彼女は便座を抱き、ガックリと首を落として意識は朦朧としている。
この状態でよく運転して帰ってきたものだとある意味感心した。
それでも翌朝駐車場にコルベットがなかったので
どうやらタクシーを使ったのだとわかりその点ではホッとした。
けれどこのときのあたしはまだそんなことを知る由もなかった。

「よっちゃん、よっちゃん?」

目はしっかりと閉じられている。
唾液で濡れた口をトイレットペーパーで拭ったとき涙の痕跡を見つけた。

「よっちゃん起きてよ〜」

再び声をかけ、頬を軽く叩いた。
けれどうーんと唸るものの立ち上がる気配は全くなかった。
仕方なく肩を抱きトイレから引っ張り出した。
こう見えてもあたしは力強い。
だてに暴れる甥っ子たちを何度もお風呂に入れていない。

それに最近のよっちゃんはまたいっそう痩せて身長はあたしより断然高いのに
体重はひょっとしたら同じくらいなんじゃないかと思われるほど軽かった。

ベッドに横たえ服を脱がした。
水を持ってこようと立ち上がりかけたときふいに手首を掴まれた。
そして彼女はか細い声でたしかにこう言った。

「プリーズ…」


兆候はほかにもあった。
夜、なにかの拍子でふと目を覚ますと隣にいるはずのよっちゃんがいないことがあった。
すると決まって彼女は真っ暗闇の中でウィスキーを片手にどこか一点を見つめていた。

場所はその時々で違っていた。
キッチンであったりリビングであったり。
バルコニーでそうしているときもあって
さすがに冬の寒空の中にいつまでもいては風邪をひくだろうと心配して声をかけると
彼女は空ろな表情でただ黙って中に入った。

そんな状態で十分な睡眠など取れるはずもなく、彼女は慢性的な睡眠不足になっていた。

朝起きると目が真っ赤に充血していてその目の下にクマを作り
会社に行くのもしんどいといった面持ちだったけど
毎朝あたしをコルベットに乗せて出勤することだけはやめなかった。

恭しく助手席のドアを開け、仕事で遅くなるとき以外は
帰りの時間も合わせてあたしを家へと運んだ。
まるでそれだけは自分の役目だと信じて疑わないかのように。


「よっちゃん最近ヘンだよ。どうしちゃったの?」
「そんなことないよ。藤本くんの思い過ごしだって」


「夜ちゃんと寝てないよね?あたし知ってるんだよ。眠れないの?」
「元から寝つきが悪いんだ。大丈夫だから心配するなって」


「いつもお酒ばっかり飲んでない?ちゃんとこっち見てよっ!」
「見てるよ。いつも美貴のことしか考えてない。美貴がいればそれだけでハッピーさ」


なにを言ってものらりくらりとはぐらかす彼女に内心は相当腹が立っていた。
それでもあたしは彼女の部屋で寝泊りし、仕事以外では彼女のそばにずっといた。
少しでも目を離したら彼女が消えてしまいそうで、見失ってしまいそうで怖かった。
ふわふわと掴み所のなくなった彼女を引き止めておくのにあたしは必死だった。
でもそばにいることしかできなかった。

そうしていつしかあたしの中で諦めムードが漂い始めていた。
時の流れに身を任せてなるようになれと思う日もあれば
このままじゃダメだ、なんとかしなければと
腕組みをしながら広い室内をウロウロと一人で歩き回る日もあった。
考えても考えても打開策はなく、解決法も見つからなかった。

考えたって無駄なことなのに。
自分が頭を捻って答えが出るという問題ではないのに。
ただ聞く勇気がないだけなのに。


体を重ねても彼女はまるでそこにいないかのように心を感じられなかった。
それが悔しくて寂しくて、そんな彼女の指や舌にも感じてしまう自分の体が
たまらなくイヤで、彼女の温もりだけが残るベッドで涙した。

そんなときでも彼女はどこか違う場所でウィスキーを傾けていて
二人の距離を物理的に縮めることはできてもいつのまにかできてしまった
心の溝を埋めるには一体どうしたらいいのか
床に転がったウィスキーの空き瓶を見つめながらあたしは途方に暮れていた。



ある夜、浅い眠りから覚めると例の如く彼女が寝ていたはずのスペースはもぬけの殻で
あたしは深いため息と共にベッドを出た。

今日はどこだろうと無駄に広い家の中で家主を探す。
電気はつけず真っ暗闇の中、気配を頼りに歩いた。
もうすっかり自分の家のように慣れた場所。
多少の夜目で物にぶつかることもなく足を引っ掛けることもなくスムーズに歩き回る。

なるべく余計なことは考えないように彼女の存在を探す。
するとキッチンにほんのり灯りがついていて
おまけにすすり泣くような声がそちらのほうから微かに聞こえていた。

「ごめん……ごめん…」

ウイスキーの瓶を抱きながら背中を丸め
ハスキーな声で誰かに許しを請う彼女の姿はとても小さかった。

その背中に声をかけることは出来なかった。
闇の中でやけにはっきりと見えるその光景を、ただ呆然と眺めることしかできなかった。



ある晴れた日、バタバタとした忙しい午前中がようやく終わり
後藤さんたちと遅いお昼を済ませてあたしは一人、中庭に出た。
暖かい室内から頬を切るような冷たい空気が流れるそこに足を踏み入れる。
晴れているとはいえこの季節にすき好んで外の空気を吸いに来る人は滅多にいない。

ほんの一ヶ月とちょっと前、同じ場所で今とは格段に違う表情で
違う気持ちで保田先生と話していた自分を思い出した。
懐かしいというよりもはたしてあれは現実のことだったのだろうかという思いのが強かった。

携帯を取り出し慣れた手つきで目当てのアドレスを探す。
そして少し迷った末に通話ボタンを押した。

「藤本です。すみません…もっと早く連絡をすればよかったのかもしれません」


先のことがまったく見えなかった。
見ようとしなかったのかもしれない。
あたしはいろんなものから目を背けていた。
どこか違う世界に放り出されたように心細くて仕方なかった。
なにもできない自分に腹が立つというよりは情けなかった。

聞きたいことが聞けない、言いたいことが言えない。
そんな臆病な自分がまた顔を出していた。

久々に会うそんな自分に少しだけ懐かしいという思いと
寂しいという思いが交錯した複雑な心境のまま舞い落ちる葉っぱを見つめていた。



ジャガーから降りてきた保田先生の表情は固いものだったけど
あたしの存在を認めてやや柔らかい笑顔を見せてくれた。
彼女とまた二人きりでコーヒーを飲むことになるなんて。
しかも正月のときと同じスタバで。

「今日ひとみは?まだ残業?」
「はい。いま忙しい時期ですから」
「そんなこと言ったってアイツがどうしようもなかったら
 仕事もなにもないじゃない。ねぇ?」

久々に聞くその軽口が耳に心地よかった。

「先生はいいんですか?お仕事」
「いつでも電話しろって言ったのはあたしじゃない。余計な気は使わなくていいのよ」
「ありがとうございます」

お礼を言ってコーヒーを啜った。
あたしの消え入りそうな声に保田先生は少し眉をしかめた。

「ひとみ、おかしいのね?」
「はい」

単刀直入にそう切り出されあたしは迷わず頷いていた。
こうして第三者によっちゃんの様子を語るのは裏切り行為のような気がして躊躇われたけど
保田先生ならとあたしは電話で事前に大まかな説明をしていた。

「アイツがおかしいのはたぶん幸せだからだと思う」
「は?」
「藤本とうまくいって本当に嬉しかったんだと思う。だから様子がおかしくなったのよ」
「どういうことですか?」
「うまくいきだすと無意識にそれを壊そうとするところがあってね。
 以前からそういう癖っていうかそうせざるを得ない何かが、アイツにはあるみたいなのよ。
 というよりもまだ過去に囚われてたのね…或いは罪悪感に、か」
「どういうことなんですか?」

あたしは再度質問した。

「…ロンドン時代にひとみはある女性と恋に落ちたの」
「………」
「大丈夫?」
「続けてください」

聞きたくなんてなかった。
よっちゃんがあたし以外の誰かと恋に落ちた話なんて。
でも、ここを乗り越えなければ、きっと、あたしたちは…。

「まあ恋に落ちたといってもそんな甘いものじゃなくてね…。
 その女性は英国籍だったけど幼い頃に亡くした両親はともに日本人らしくて
 童顔のかわいらしい顔立ちをしていたわ」
「保田先生とその人は…?」
「友人だった。彼女はロンドン生まれのロンドン育ちで見た目は丸っきり日本人なのに
 日本語が全くダメでね、完璧なクイーンズイングリッシュを話してたわ。
 人懐っこくて友人も多いほうだったと思う…。
 共通の友人を通して結果的に二人を引き合わるような形にしちゃったのが実はあたしなの。
 でも端から見ていてひとみとその女性はとても危うかったわ」
「危うい?」
「そう。どういう事情があったのか、詳しいことは聞いてないからわからないけど
 あのときの二人にはなにか底知れない退廃的なムードがいつも漂っていたわ。
 ひとりひとりと会えばそりゃ普通に明るく喋って冗談言って楽しかったけど…
 二人が一緒になるともうダメ。耐えられなかった。
 あの雰囲気に飲まれそうであたしはいつも逃げるように帰ったの。
 ねぇ、相性ってあるじゃない?」

予想もしていなかった質問をされて少し戸惑った。

「相性がいいとか悪いとかの…」
「そうそう、それ。気が合うとか合わないとか。それって生きる上でとても大切なのよ。
 相性が悪いなら悪いで離れればいい。でもダメになるのに気づけないまま
 お互い知らず知らずのうちに破滅へ向かうってことがあるのよ。
 二人の持つ負のエネルギーが本人たちの与り知らぬところで絡み合ってもつれ合って
 あげくにそれに取り込まれて戻れなくなることが」

目に見えるはずのない黒くて汚いものが渦巻いてよっちゃんを覆い尽くす。
ハリケーンのようになにもかもを吹っ飛ばしてあたしの愛しい人を攫っていく。
そんな恐ろしいイメージが湧いてきて、あたしはその場で身震いした。

「一体なにがあったんですか?よっちゃ、その二人に」
「さっきも言ったけど詳しいことはわからない。
 ただあたしはそれが起きたときひとみを守らなきゃって強く思った。
 何を聞いてもあのコは語ろうとしないし何も見ようとしなかったから。
 だからしばらくしてから無理やり日本に帰らせたの。あたしの転勤に合わせてね。
 だってあのコの父親ときたら薄情を絵に描いたような、そんな人だったから。
 母親はとっくの昔に亡くなってたし。あたしが守らなきゃ、
 あたしがいなきゃって必要以上に思っちゃったのかもしれないわね。
 だから今でもたまに鬱陶しいって顔されちゃうんだけど」

保田先生はあたしを一瞥して、それからコーヒーに手を延ばした。
そして一口飲んでから心底嫌そうにそのことを教えてくれた。



マンションに帰るとよっちゃんがいた。
よっちゃんの家なんだから当然のことだけどこんな早い時間にいるとは思わなくて
しかも夕食のパスタかなにかを作ってて。予期せぬ出来事に面食らった。

「おっそいよー藤本くん。どこほっつき歩いてんだよー」
「どうしたの?早いね」
「たまには早く帰れって課長のお達しなのさ」
「そうなんだー。いいとこあるね」

いつものようにその冷えた唇でおかえりの挨拶をしてくれたよっちゃんは
何食わぬ顔をしてパスタの茹で加減を確かめる。

コートを置いて手を洗いに洗面所に行った。
鏡を見てあまりの顔色の悪さに鳥肌が立つ。
自分でも思うくらいなのだからよっちゃんが気づかないわけがないのに。
以前のよっちゃんなら絶対…。



『いつものようにあの日は雨が降っていてとても寒かった』

『あたしは仕事を終えて当時住んでいた借家に帰る途中だったの』

『ひとみたちの住むアパルトマンからはそんなには離れてなかったわ。
 近所に大きな犬を飼ってる老夫婦がいてよく食事に呼ばれたっけ』

『珍しく渋滞に巻き込まれて外がやけに騒がしくて』

『なにげなく窓を開けて通りの、人がたむろしてるほうを見たの』



鏡を凝視したままのあたしの背後から突然よっちゃんがひょいっと顔を出した。

「うぉーい!さっきから呼んでるんだけど」
「あっ、よっちゃんなに?」
「メシ。できたよ」
「あ…ごめん、あんまお腹空いてないや」
「マジで?!具合でも悪い?大丈夫?」
「うん、平気。保田先生と軽く食べてきたからかな。またお腹空いたら食べるよ」
「圭ちゃんと?へー珍しい。
 そっか、ならいいけど藤本くんはもっと食ったほうがいいって」

よっちゃんこそ。

よっちゃんこそそんなにやつれるまで悩んで苦しんで、
どうしてなにも言ってくれないの?
どうしてあたしを頼ってくれないの?

あたしに一生離れるなよって、愛してるって言ったくせに。
よっちゃんが感じられないよ。
こんなにそばにいてもキミがどこにいるのかわからない。

どうしたらその闇の中からキミを救い出せるの?



『燃えてたわ。二人の部屋』

『ううん。二人の部屋だけじゃない。アパルトマン全体が真っ赤だった』

『あたしそれを見てね、不謹慎だけどまずこう思ったの』

『綺麗だな、って』



ダイニングでよっちゃんが黙々とパスタを食べている間、ずっとその様子を眺めていた。
食べているとは言っても形ばかりで、隣に置かれたワインの瓶が
徐々に空に近づくのを見ているようなものだった。

「圭ちゃんなんつってた?」
「うん?」
「聞いたんでしょ?無理心中」

あたしはくるくるとフォークに巻かれるパスタを意味もなくじっと眺めていた。
視界の隅には赤ワインのぼんやりとした暗い色があった。



『発作的に火をつけたらしいの』

『ひとみは…自分だけ助かったことをずっと責めていた』

『一緒に死ねなかった自分を、ずっと呪っているみたいだった』






「…き、いた」
「ま、若気の至りってやつぅ?」

その場違いな声のトーンを突っ込まずにいられようか。

「ノリが軽すぎだよっ」
「っ痛〜久々にきたね、ミキティパンチ」
「よっちゃんがおかしな口調で言うから。全然おかしくないのに」
「だってこんな話、おかしく話そうと思わなきゃどんどんどんどん暗くなって
 ジメーッとして耐えられなくなるよ?楽しくないよ?オイラ湿っぽいのは苦手なんだよ〜」
「キミね〜そういう問題じゃないでしょーが」

久しぶりに、本当に久しぶりによっちゃんと笑い合った。
彼女がバカ言って、あたしがつっこんで。
前みたいにいいコンビの二人がそこにたしかに存在していた。
友達だった頃のリズムで言葉を紡ぐことの楽しさがあった。
だからかな、あたしに少しだけだけど勇気が湧いたのは。

「よっちゃんは過去に囚われているって。罪悪感にも」
「圭ちゃんには敵わないな〜」
「いつまでも敵わない人がいるってのはいいことだよ」
「たしかに」

チュルチュルとパスタを食べるよっちゃんを見ていたら突然お腹が鳴った。
あたしの腹ってばこんなときに…空気読め!

「ぶはっ!なんだよ腹減ってんじゃん」
「ち、ちがっ、さっきは本当に食欲なかったんだもん」
「いいからいいから。美貴のも作るから座ってな。それからゆっくり話そう」

そう言ってよっちゃんはワインを口に含んで立ち上がりこちらに背中を向けた。

その大きな、でも小さな背中を見ながら
何も考えずに無邪気に飛びついていたあの頃を思い返す。

まだ彼女は友達だとたしかに言えていたあの頃。
心のどこかでこうなることを予感していたのかもしれないあの夏。

なんてことを今さら思うのは調子がいいけれど
この背中を独占したいくらいの気持ちはひょっとしたら持っていたのかもしれない。
その感情がなんなのか、考えようとしなかっただけで。

こちらを向いている背中に問いかける。

「話す?なにを?」
「昔のこと、今のこと……それに、これからのことも全て」

振り返らずに背中を向けたままよっちゃんは静かに答えた。


よっちゃんの作るペペロンチーノは絶品で
話もそこそこにあたしはあっという間に平らげてしまった。
彼女は相変わらずワインを飲みながら冷めたパスタをゆっくりゆっくり口に運んでいた。

「そんなに飲んでばっかりいるから食べるの遅いんだよ」
「違うよ。前にも言ったろ?美貴に見とれて食べるのが疎かになっちゃうんだよ」
「ひとりでもうワイン2本も空けてるくせによく言うよ」
「あたしが酒飲むの止めないの?」
「止めないよ。よっちゃんが自分で飲むのやめなきゃ意味ないもん」
「ありがとう。信じてくれて」

よっちゃんを信じていたわけではない。
ただ、自分に勇気がなかっただけ。
なるようになるかもしれないという浅はかな、というかやっぱり臆病な解釈が
あたしをここまで消極的にしてきていた。

でもそれも愛情。
突き放した愛情だと、あたしは思いたい。

きっと違うんだろうけどよっちゃんがそう解釈しているのなら
せっかくなのでそういうことにしておこう。
あたしの、それがいま与えられる精一杯の愛情なら。

「保田先生もすごく心配してた」
「うん…そうだ!ついでだから圭ちゃんも呼ぼうか。
 どうせまたゴチャゴチャ訊いてくるだろうから
 それなら最初からいてもらったほうが面倒がなくていいや」
「まあいいけど」

保田先生に電話をするよっちゃんの後姿を見ながら
一体なにを話すつもりなのだろうかと考えていた。
それにこのやけに高いテンションはワインのせいだけなのだろうか。
まさかとは思うけどあたしと別れる気なんじゃ…。

そう思ったところで唇を塞がれた。
目を丸くしてるとキスをしたままよっちゃんは片目をヒョイと開けて
少し強くあたしを睨んだ。

それがキスに集中しろの合図だとわかるのにたっぷり5秒は要したけど
それから先はもちろんそのとろけるような感触を
ほんのり残るワインの味を、充分に堪能した。

「圭ちゃんが来るまでまだ時間あるから」
「えっ、ちょっとダメだって!ゃあんっ」

冷えた感触がお腹のあたりにするりと入り込む。

「ダイジョーブダイジョーブちゃんとイカせるし」
「そういうことじゃなくてっはぁんっもうっ」

あっという間にブラのホックが外される。

「ちゃんと愛を込めるから」
「そんなっ、の、あたり…まえ…あぁぁん」

突如エッチモードのスイッチが入ったよっちゃんを拒めるはずなんてなく
あたしは保田先生がいつ来るかわからないこの状態にも少なからず興奮して
彼女の言葉どおりちゃんと気持ちよくしてもらった。

しかも今日はちゃんとよっちゃんが感じられた。
よっちゃんの心と自分の心が触れ合ったような気がして、久しぶりの充実感をも堪能した。

それにいつもより若干急ぎ足だったけど焦らされなかった分あたしからすればラッキーだった。
いつものよっちゃんはややサディスティックな性癖を存分に発揮して
あたしを焦らして焦らして恥ずかしいことを言わせようとするから…。
ま、それは今語るべきことではない。



「アンタたちエッチしてたでしょ」

部屋に来た保田先生は開口一番そう言った。

「わかる?」
「認めるなよっ」

ベチッガンッ

「いや、だってホントのことだし」
「う、うるさい!それに保田先生も!」
「は、はい?」
「わかってもそういうことは口に出さないでください」
「失礼しました」
「お〜コワ」
「なんか言った?」
「い、いえ。なんでもありませぬ」

シリアスムードが一転、あたしはつっこむのに忙しくなった。
それにしても保田先生鋭いなぁ。

「それで話ってなによ」
「なんだっけ藤本くん」
「オマエが言い出したんだろっ」

ボコッバチンッ

「ひとみ、ここんとこおかしかったのはなんでよ。昔から十分おかしいけど」

いつまでも進まないと埒があかないと思ったのか保田先生が水を向けてくれた。

「眠ると夢を見るんだ」
「そりゃ見るでしょうね」
「夢を見たくなくて眠りたくないんだ」
「どんな夢?」
「いや〜。それがホラー映画みたいでさ、
 火の中の…彼女があたしを見てなにかを叫んでるんだよ。
 こうやって手を延ばして必死でなにか叫んでるの。
 それがあたしを責めてるように見えるんだわ。
 こえ〜のなんのって。マジでチビリそうなくらい。
 で、あたしはそこから逃げようとするんだけど足が全然動かないの。
 いや、動いてるんだけど前に進まなくってさ、夢特有のあれだよね。
 走っても走っても全く進まない。なんじゃこりゃぁぁ!って感じでさ。
 でもって逃げながら叫ぶんだ。一緒に死ねなくてごめん、ごめんって。」
「…なんていうか、アンタが話すと真面目な話も面白く聞こえるから不思議ね」
「違いますよ保田先生。この人わざと面白く話してるんですよ」

ホントに、まったく、よっちゃんときたら。
もっとこう、ちゃんと話そうよ。

たしかにそんな内容じゃ場が盛り下がるのは目に見えてるけど
この場合はむしろ盛り下がったほうが真剣味が増すんだからさ。
キミのここ最近の壊れっぷりや、悩みっぷりを見てきた人間としては
その語り口はちょっといただけないんですけど。

「でもこれも藤本のおかげなのかしら」
「うん。ギリギリのところで救われた部分はある」
「は?あたしなんかしたっけ?」
「ずっと、そばにいてくれたじゃん。
 オイラのこと見捨てないでなにも聞かずにそばにいてくれた」
「…聞くのが怖かっただけだよ。あたしはなにもしてない」

あたしこそ見捨てられるんじゃないかと怯え、なにもできなかった。
なにもしなかった。
ただそばにいることしか。

好きだからそばにいたかった。
好きだからそばにいさせてほしかった。

「たぶんそれがよかったんだよ。結果的には」
「よっちゃん、あたし…」
「美貴がいてくれることがあたしは嬉しくて仕方なかった」
「本当に?」
「本当に」

大きく頷くよっちゃんをあたしは複雑な思いで見つめた。
たしかに知らないところであたしはよっちゃんの役に立っていたのかもしれない。
好きという感情が彼女の助けになった部分もあっただろう。
でもよっちゃんはまだ無理をしている。

口調は明るいし考えを話すようになってくれたのは大きな進歩だけど、
まだ完璧とは言えない。完璧とはほど遠い。
まだなにも解決なんてしていない。
それはたぶん保田先生も薄々感じていることだろうと思う。
もちろんよっちゃん本人も。

「とにかく話を戻すと、その夢が見たくなくて眠らない→
 ヒマだから酒を飲む→寝不足でグッタリ→なにもやる気しない
 っていう見事な負の連鎖が出てくるわけなんだな、ウンウン」
「なんでこの人自分のことなのにこんな他人事なんだろう」

よっちゃんのそのカラ元気がミエミエの口調に胸が痛んだけど
あたしはいつものようにいつものノリで返す。
湿っぽいのが苦手だという彼女のために。

「藤本、こんなのが本当にいいの?」
「ちょっと考え直したほうがいいですかねぇ」
「さっさと見限ったほうがいいんじゃない?」

保田先生も呆れた顔をしながらそのノリについてきてくれる。

「コラァ!人の話聞いてんのかよっ。しかもこんなのとか見限るとか言ったなー」
「はいはい。聞いてますから続きをどうぞ」
「いやもうないんだけどね」
「ないのかよっ」

ガゴンッ

「いえ…ほんとは…あるんですけど、イッテェェ」
「ま、自己分析ができるようになったのはいい兆候なのかな」
「でも保田先生、根本的な解決にはなってないですよ」

よっちゃんが悪夢にうなされているうちは本当に解決したとは言えない。
このままじゃよっちゃんの身が持たない。
でもあたしはそばにいることしかできない。
よっちゃんの苦しみを取り去ることは残念ながらできない。

あたしといたってなにも解決しないのなら、
それは悲しいことだけどよっちゃん本人にひとりで立ち直ってもらうしか道はない。
よっちゃんにしっかりしてもらわけなければ。
あたしはなにができる?
なにをするべき?

具体的なことはまだなにも聞かされていないけど
よっちゃんは過去と決着をつけなきゃいけないような気がした。
今まできっと目を背けてきたのだろう過去と、向き合う必要がある。
それならばいっそ。

「よっちゃん」
「ほーい」
「ロンドンに行きなよ。ロンドンが元凶なんでしょ?」
「…すっげーな美貴は。やっぱオイラの運命なんだ」
「なんのこと?」
「オイラもロンドン行くべきかなって考えてた」

その言葉にあたしはなにも言えなくなった。
自分で言っておきながら矛盾しているとは思うけど
よっちゃんをロンドンに行かせたくはなかった。
それはたぶんよっちゃんの身が心配だからとか
よっちゃんのそばにいたいからとかいうかわいい理由だけじゃない。

彼女の過去に醜い嫉妬をしている自分のエゴ。
ロンドンに行ってほしくないと自分の心が叫ぶ。
でも頭ではロンドンに行くべきなのだと必死で理解しようとしている。

「うん、行ってきて」

そんな葛藤をしつつもあたしは彼女の背中を押す。
あたしだけが独占することができるその背中を。

さっきから口を挟まずにあたしたちの顔を交互に見ながら
じっと話を聞いている保田先生をちらりと見た。
教えてもらった話の断片を思い出す。


『ひとみは一緒に死ねなかった自分を呪っているようだった』


よっちゃんの呪縛を解く鍵がロンドンにあるのなら。

「行ってきて、ロンドン」
「ああ。行ってどうなるのか、抱えてる問題が解決するのか
 先のことは見えないけど行くよ。ロンドンに」
「うん」
「行かなきゃ終われない気がするんだ。始まれない気も。
 今さらでホントに美貴には悪いと思ってる」
「そんなことないよ。いやあるけど。…やっぱないかな」
「どっちだよ」

あたしの前髪をさらりと撫でながらよっちゃんは唇の端を少し上げて目を細めた。

「あたしは美貴が好きだよ」

頬に手を添えてからハラリと落ちて顔にかかったあたしの髪を
よっちゃんはそっと耳にかけてくれた。
まるで確かめるように、あたしの顔や耳や髪に優しく触れながら話を続けた。

「あたしは美貴が好きだよ。
 この前提条件がなきゃこんなに苦しまなかったと思う。
 美貴が好きで好きで、好きっていう感情が次から次へと溢れて
 ポタポタと零れ落ちてしまいそうになるほど好きなんだ。
 零れ落ちたってあとからあとから溢れ出る。それくらい…美貴が好きなんだ。
 でも正直言って際限がないこの気持ちが時々怖くなることもあったよ」

頬を包む両手が震えているような気がした。
もしかしたらあたし自身が震えていたのかもしれない。

「でも好きなんだ」

苦笑しつつも視線は真っ直ぐにあたしを捉えていた。

「だからこの苦しみさえも美貴との生活の一部ならあたしは受け入れるつもり。
 そしてちゃんと昇華したい。そのためにロンドンに行かなきゃいけない気がするんだ。
 はっきり言ってロンドンに行って具体的にどうこうなんて
 自分でもよくわかっていないけど…でも行かなきゃいけない気がしてる。
 その必要があるって思うんだ。少しの間ひとりにしちゃうけど…」
「待ってるよ。あたし待ってる。よっちゃんが帰ってくるのちゃんと待ってるから」

顔に触れている手に自らの手を重ねた。
熱いものがこみあげてきたけど堪えた。
よっちゃんの瞳を見つめながら
自分のするべきことがほんのわずかだけど見えたような気がした。

「ありがとう。美貴はやっぱりあたしの運命だよ」
「でも早く帰ってこなきゃあたし違う運命見つけちゃうかもよ」
「それはないっ。美貴はオイラにベタ惚れなんだから!
 ……ない、よな?オイラだけだよな?な?オイラが運命なんだよね?!」

急にオロオロしだしたよっちゃんを落ち着かせるように両頬をそっと包み込んだ。
お互いがお互いの頬に手を寄せて、少し窮屈でちょっと間抜けな格好だけどそっと優しく。
でもしっかりと。

「よっちゃんこそ、向こうであたし以外の誰かともしなんかあったら…」
「ぶわーか。あるわけないだろ。美貴しか見えないよ」
「ホントかな」
「あんなに好きって言ったのになぁ」

膨れる両頬を挟んだまま、立ち上がってよっちゃんを引き寄せた。

「あたしのほうが」



―――――もっと好き



耳もとで囁いて、そっと口づけてギュッと抱きしめた。

よっちゃんの温もりがこんなにも愛しいなんて。
わかっていたことなのに、今さらなのに、涙が溢れてくるのはなぜなんだろう。
止まらないのはなぜだろう。

堪えきれずに溢れてきたこの涙は悲しいからじゃない。
不安だからじゃない。
大切で大切でかけがえのないものだとわかったから。
嬉しいからなんだよ?

だからそんなにあたしの背中が折れそうになるほど抱きしめる手に力を込めないで。
どこにも逃げたりなんかしないから、そんなに震えた手であたしを抱かないで。


止め処なく流れる涙は安堵の涙。
よっちゃんと再び心が通じ合えた喜びの涙。
あたしを運命だと言ってくれたよっちゃんへの誓いの涙。
決意の、涙。

失いかけた大切な人が今まさにあたしのそばから離れようとしている。
でも、離れていてもきっと大丈夫。
よっちゃんはあたしの元に必ず帰ってくる。

これほど確信めいた想いを胸に抱いたのは初めてだった。

そう思わせるほどにこの温もりは、真実だった。


「アンタたちあたしの存在忘れてないわよね、まさか」

呆れたような、でもどこか嬉しそうなその声にはっと我に返る。
あ、保田先生いたんだ…。
慌ててよっちゃんから体を離すとムッとした顔でまた抱きすくめられた。

「勝手にやってなさい」

見てられないといった感じで保田先生は横を向きコーヒーカップを手に取った。

あたしを抱きしめながらもそんな保田先生の様子を見て
笑いを噛み殺しているよっちゃんがやっぱり愛しいと思った。

色素の薄い綺麗な瞳が
瞬きをしたらバサバサと音がしそうなほど長い睫が
ワインのせいか、照れているのかほんのりと色づいた可愛い頬が
次々と顔に降ってくるサラリとした唇の気持ちよさが

それらすべてが愛しいと思った。

手を伸ばせばすぐに触れることができるシアワセってやつが、愛しくて仕方なかった。





2月も終わりに差し掛かった頃、よっちゃんは会社に休職願を出した。
忙しい時期に申し訳ありませんと入試課で何度も頭を下げたらしい。

あたしはその話をたまたま受付を通りかかった入試課の課長から聞いた。
なにがあったか知らないけどちゃんと吉澤を支えてやってくれよ、と
課長に頭を下げられてあたしは慌てふためいた。

よっちゃんは入試課の人たちにとっては娘のような存在らしく
今回のことも皆詳しい事情は知らなくてもよっちゃんを応援していると聞いて
あたしは胸が熱くなるとともによっちゃんに代わってお礼を言った。

後藤さんや石川さんも特に意識せず明るくよっちゃんを送り出してくれた。
いつものように石川さんはよっちゃんにベタベタベタベタベタベタして
あたしの代わりに後藤さんに怒られていた。

でももうあたしは石川さんに嫉妬するようなことはなくて
その光景を自然に笑って見ていられた。
すると不思議なもので今までデレデレしたような顔にしか見えなかったよっちゃんが
本当は困ったように苦笑しているのだとわかった。

あたしの心の中にあった嫉妬心がそういう幻想を見せていたのかもしれない。
デレッとしたよっちゃんという幻を。


どれくらいの滞在になるか見当もつかなかったので
荷作りといっても特に手伝うことはなく
とりあえず当分使わなくなるだろうキッチンやバスルームの掃除をしてあげた。

ロンドンにはよっちゃんの、薄情とはいえ親族も住んでいるし
親戚だって、友達だっているだろう。
それに基本的にお金持ちだしあまり心配することはない。
べつにお金があればなんでも解決するとは思ってないけれど
それでも生きる上でお金がモノを言うことは多い。
一応あれでも女だし、慣れた土地とはいえ離れるとなにかと心配は尽きないものだ。

よっちゃんに言わせるとあたしのほうがよっぽど心配らしく
しきりに保田先生や後藤さんにあたしのことを頼んでいた。

「今までだってひとりでやってきたんだから大丈夫だって」
「それでもオイラは心配でたまんないよ〜。
 あっアヤカにも連絡して藤本くんのこと頼んでおかなきゃ」
「あーもうっ。人を子供扱いしないでよ。それより向こうであんまり飲んじゃダメだよ?
 飲んでもいいけど酔っ払ってパブで隣りに居合わせた客とケンカして逮捕されないでね」
「なんかすっごい実感こもってる上に具体的なんだけどもしかして藤本くんの実体験?」
「…さ、部屋を片付けて洗濯もしなきゃね〜」
「さすがだね美貴…さすがオイラの運命の女だよ…」


日本を離れている間の部屋の管理はどうするのかと尋ねると
普通に「藤本くん住んでよ」と言われ、よっちゃんの渡英前に慌しく引越しをした。

家具や生活用品は揃っていたので、あたしの荷物はほとんど処分して
服とかちょっとした小物とかそういうこまごましたものだけを持って
もうすっかり住み慣れた高級マンションに移り住んだ。

ここはセキュリティも万全でよっちゃんの心配のタネがひとつ減るし
あたしとしてもよっちゃんの匂いに包まれて暮らせるということで
かなりホッとした思いだった。

「はいよっちゃん。ゴタゴタしてて渡せなかったけどチョコレート」
「サンキュ〜」
「一応ね、甘いのがあんまり得意じゃないよっちゃんのためにビタースイート」
「ほうほう。ん、おいし」
「ホント?よかった。なんか恋人っぽいね、こういうの」
「ん〜。でも同じ甘さでもこっちのが断然いいな」

あたしの腰に手をまわしながらよっちゃんは唇をつきだした。
チョコの残骸がついたその唇の端をぺろっと舐めるとほろ苦い味がした。
もうすぐこんなキスともしばらくおあずけになるなんて。

熱いキスをしてチョコレート味の舌を二人で貪った。
よっちゃんと離れている間、この味を忘れないようにと深く深くそのキスを味わった。


「オイラがいない間さ、コルベット運転する?」
「あんな高い車絶対イヤ。事故りそうな気がするもん」
「そう?ま、気が向いたらいつでも乗っていいから」
「あたしはヴィッツで十分だよ…ってあたしヴィッツどうしたっけ?」
「マンションの駐車場じゃないの?」
「ううん。ずっと見てないもん。あっ!!」
「だから耳もとで叫ぶなっつの」
「大学の駐車場に…置きっぱなし…」
「いつから?」
「たぶん今月の頭くらい…ほら、時間合わせて一緒に帰ってたから」
「藤本くん…ちゃんとヴィッツに謝りなよ?」

忘れていた。
一ヶ月近くも大学の駐車場に放置してたなんて。

そういえばよっちゃんと付き合いだしてからは自分で運転することがめっきり減っていた。
どこに行くにも常にコルベットの助手席で(最初はジャガーだったけど)
あたしは運転するよっちゃんの横顔を見るのが習慣になっていたから。

キスだけじゃない。
そんな些細な日常とも当分お別れなのかと思ったら
ふいに涙が出てきて止まらなくなって、鼻をすすり唇をきつく噛んだ。

でもあたしの涙腺はまるで壊れてしまったかのように命令を聞いてくれなかった。
止まれ、止まれと念じてもいっこうに止まる気配はなく涙は増す一方だった。

諦めたあたしはよっちゃんが買い物から帰ってくるまでの間
たっぷり泣いてからちゃんと目を冷やした。
泣いたなんて微塵も感じさせない素振りで彼女を送り出してあげたかったから。
もうこれ以上、余計な心配はさせたくなかった。

「ただいまー」
「おかえりー」

チュッとするのはもう当たり前の日常。
これも当分おあずけなのかと思ったらまた泣きそうになる。
危ない危ない。必死に堪えてなにげない会話をふる。

「なに買ってきたのー?」
「たいしたものじゃないよ。日用品」
「ふーん」
「明日発つから」
「わかってる」
「見送りはいらない。そのかわり帰ってきたとき迎えにきて」
「うん…」
「コルベットで」
「絶対イヤー!!」

クッションを投げて二人でフザケあった。
いっぱい笑っていっぱいキスしていっぱい抱き合った。
これが永遠の別れってわけじゃないのに、あたしたちは時間を惜しんで愛し合った。


明日、愛する人は少しの間あたしの元から離れて
決別しなければならない過去に向き合いにいく。
あたしにできることは笑顔で見送ってその無事を祈ること。
そして信じて待っていること。

よっちゃんは昔の恋人との一部始終をゆっくりと時間をかけて話してくれた。
彼女の言葉でそれが聞けたことがあたしはなにより嬉しかった。
だからもう迷わないし悩まない。
信じるということは難しいけど、実は一番簡単なことなのだと気づいたから。

それに信じようと思う以前にあたしは
よっちゃんとこれからの人生を歩んでいくことを確信している。
この勘はきっと当たるはずだ。

だからあたしは待つ。
再び彼女があたしをその腕に抱いてくれる日が来るのを待ち続ける。



彼女が旅立った日、久しぶりに自分の愛車と対面した。
約一ヶ月ぶりのその姿は見るも無残に薄汚れていて
今まで放っておいて本当に悪い気がしていた。

「ごめんよぉ」

ハンドルをそっと撫でてエンジンをかけてみた。
心なしか哀しい音のように聞こえた。

とりあえず車内を見回して荷物なんかを確認してみる。
車上荒らしにはあっていないようだ。
もっともなにを置いていたかなんてすっかり忘れてしまってたけど。

ダッシュボードを開けるとそこに見覚えのない紙袋があった。
とりあえず逆さまにして中身を確認する。
コロンと小さな箱が落ちてきた。
暖色系のリボンがかわいい。

なにも考えずにリボンをほどき、包装紙をビリビリと破いてそっとふたを開けた。


そこにはキラキラと光るシルバーのリング。
真ん中についたピンクの宝石がその存在を強く主張していた。


数秒、あたしはその輝きに見とれていた。
持ち上げていろんな角度から覗き込む。
どこからどう見てもそれは指輪で、とても綺麗だった。

そして我に返ってもう一度紙袋の中身を自分の目で確認した。
底のほうにカードのようなものが引っかかっていることに気づく。

もう、ある程度の予想はしていた。
なにが書かれているか、だれの手によるものなのかあたしにはわかっていた。
それでも見るまでは、確かめるまではドキドキして手が震えた。

淡いピンクのそのカードの表面には粉雪のような白い装飾がなされていて
ドキドキがおさまるまであたしはそれを見つめていた。

そして呼吸を落ち着かせてからあらためてカードの中身を見た。












        誕生日おめでとう

        永遠の愛をここに

        まごころをこめて

         吉澤ひとみ












「よっちゃん…かっこつけすぎだよ」

休日の大学、誰もいない駐車場にポツンと停められたままの
ヴィッツの中でひとり、あたしは笑いながら泣いた。
笑いながら声をあげてワンワンと。

片手でハンドルを、片手で指輪を握りしめながら。
たぶん最高の笑顔で嬉し泣きをした。

暖房がようやく利きだした車内はあったかくて
でもそれ以上に頬を伝うあったかさがあたしにこれが夢ではないのだと教えてくれる。

そして遠い空の彼方を見つめながらあたしはずっと、笑いながら泣いていた。
心の中で愛しい人にメッセージを送りながら、ずっと。ずっと。












        よっちゃんありがとう

       キミのそばにずっといるよ

          笑顔とともに

           藤本美貴












あたしが25歳の誕生日を迎えたその日、愛しい人はロンドンに向けて旅立った。

二人のこれからのために、それはしばしのお別れ。










<彼女は友達 大学編 了>


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