大学編 8






一度家に帰って車を置いてからよっちゃんの家に行こうと思っていたのに
会社からそのままポルシェに乗せられ連行された。
「明日の朝どうやって出勤するのよー」と文句を言ったら
至って普通に「送るよ」と返されなにも言えなくなってしまった。
大学の駐車場に置かれたあたしのヴィッツとは明日までお別れらしい。

帰り際、チラリと目に入ったヴィッツの屋根には薄っすらと雪の跡があった。
このモヤモヤした気持ちも雪とともに溶けてしまえばいいのにと、
運転席のよっちゃんを見ながらそんなことを思っていた。


いつ来ても無駄に広い部屋だと思う。
一人暮らしには不釣合いなほどの部屋数と豪華なインテリア。
それでいていつも清潔に保たれているから、
専門の人が掃除に来てくれているのかと尋ねると自分でしているとよっちゃんは答えた。

なんでも自分以外の人間が勝手に部屋に入るのが許せないらしい。
それに落ち着かないとも。
意外に神経質なところがあるんだと、
またひとつ彼女のことを知ることができて満足だった。

「神経質っつーか掃除や洗濯や料理なんて自分でできるし」
「うっ。耳が痛い。痛い痛い」
「そりゃ藤本くんはーじぇんじぇんできないけどー」
「ちょ、ちょっとはするもん。できないことは、ない…と、思いたい」
「思いたいのかよっ」
「なんでよっちゃんそんなに家事できるの?一人暮らし長かったの?」
「うーん。ま、いずれ話すよ」

昔のことや家のこと、家族のことなんかをよっちゃんは話したがらない。
そのこと自体はけっこう前から気づいてはいた。
そういう話題になりそうになると話を逸らしたり
聞いても今のようにかわされたりすることが多かったから。
そのうちあたしも自然とその話題は避けるようになっていた。

でも好きになるとなんでも知りたくなるのが当然で
どんなことでもいいから話してほしい。
話したくないことのひとつやふたつはあるだろうけど
それでもやっぱりあたしには話してほしい。
どんなことでもいいから。

だけど今はまだよっちゃんにその気がないのなら待つしかないとも思う。
いつか話してくれるというその言葉を信じて、あたしは待ち続けよう。
そんなには待っていられないと思うけど。

「楽しい話ってわけじゃないからさ、べつに話したくないってことじゃないんだよ」
「あたしそんなに顔にでる?」

広い心で待ち続けようと決心したものの
話してくれないことへの不満が顔に出ていたのかと恥ずかしくなった。
後藤さんといいよっちゃんといい、なんでこうもあたしの考えていることがわかるんだろう。
二人が鋭いのかあたしが心読まれやすいタイプなのか。
どっちにしても厄介なことに変わりはない。

「藤本くんは正直だから。そんなところが…」
「そんなところが?」
「面白いんだけどね」

『好き』という言葉を期待した。

自分からはいまだなにも言えてないというのに
よっちゃんからの言葉を無条件に求めてしまう自分をズルイと思った。
ここにきてまだ他力本願で臆病。
そんなものどこかに飛んでいって永遠にあたしの中から消えてなくなればいいのに。

「藤本くん藤本くん、って課長みたいに呼ばないでよね」
「なんだよ今さら。じゃなんて呼ぶ?美貴で統一する?」
「ん〜……やっぱりいつも通りでいい。たまに名前で呼ばれるほうがドキッとするから」
「ほ〜。藤本くんはドキッとしたいわけですか」
「ウソだよバーカ」
「ガーン!ウソつくなよ〜」
「よっちゃんって単純」
「うっせ」

あたしはなにを怖がっているのだろう。

よっちゃんが自分の気持ちに応えてくれないかもしれないこと?
二人の関係が友達でなくなること?

いや、違う。

あたしがなにより恐れているのは
彼女のことを好きだという気持ちを口にすることなのかもしれない。

一旦この気持ちを口にしたら言葉は現実のものとなりあたしを容赦なく支配する。
好きの想いに囚われ歯止めが利かなくなってしまうだろう。
自分が自分でいられなくなりそうで…だから怖いんだ。

「ねぇ、ひとみちゃん」
「うげっなんだそれ」
「やっぱキモイか。『ちゃん』がよくないのかな。ひとみ、だったらどう?」
「…なんかくすぐったい」
「ひーちゃん!」
「勘弁してよー」

困ったことに、ひとみと呼ばれたときの表情の変化に気づいてしまった。
戸惑い?
嫌悪?
畏れ?
その思い出したくもないって顔が物語る。
あたしの知らない過去のよっちゃんがきっとそう呼ばれていただろうことを。
キミにそんな表情をさせる誰かとのこと、いつか話してくれる?

そのときにはキミとの距離が今よりいくらかは縮まっていればいいんだけど。

「もう一杯飲む?」
「うん」

すでに四杯目のマティーニだった。
でも全然酔いがまわらない。
彼女の作るマティーニはたまに外で飲むそれよりも若干ベルモットの量が多くて
あたしの好みをよくわかっているものだった。
そしてその手さばきも惚れ惚れするほどかっこよくて
あたしはついつい同じものを飲み続けてしまう。
彼女もすでに何杯目かのウィスキーを飲んでいたけど酔った気配はなかった。

「藤本くん、オリーブ取ってくれる?」
「ほーい」

これまた一人暮らしには不釣合いなほど巨大な冷蔵庫から
塩漬けにされたオリーブの瓶を取り出した。

もしかしたら気づいてないだけでアルコールがまわっていたのかもしれない。
あたしの手から滑り落ちたオリーブの瓶はゴロンゴロンと音を立てながら
フローリングの床を転がった。

「あっぶねー。足に当たらなかった?大丈夫か?」
「うん。ねぇ、よっちゃん」
「蓋開ける前でよかったなー。中身バシャーなってたらシャレになんないよ」
「うん。片付けるの面倒だもんね。ねぇ、よっちゃんってば」
「そうそう。ん?なに?」
「好き」

オリーブの瓶を持ったままよっちゃんは固まった。
口をあんぐり開けて、でも真っ直ぐにあたしを見据えて。

オリーブの瓶が転げ落ちたのにつられて
あたしの口からずっと言いたかった言葉も自然と零れ落ちていたことに
実は一瞬気づかなかったなんて口が裂けても言えないな。

あれだけ悩んで悩んでウジウジメソメソしていたのにいざ言ってみると、
彼女がどう反応するかと冷静に待っていられる自分がいてそれはそれで少し驚いていた。

「なんつータイミングでそういうことを…」
「だって思わず出ちゃったんだもん」
「思わずって」
「あ、思わずってのはタイミングのことで気持ちにウソはないよ」
「なんつーか腹が据わったねぇ」
「自分でもびっくり」
「いやまあ、その、なんだ」

とりあえず、と手を引かれてベッドルームに連れて行かれた。
そのキングサイズのベッドにゆっくりと優しく押し倒される。
抱きしめられ、頬を撫でられ、じっと瞳を覗き込まれた。

「抵抗しないの?」
「だって好きだから」
「……藤本くんは卑怯だよ。ズルイよ」
「えーっ!!なんでなんで?!」

だって好きだし。
やっと気持ちを伝えられて嬉しいし。
ずっとこうしたいって思ってたし。
抵抗する理由も意味もないじゃん。
あたしのこと好きなんでしょ?だったらもうなにも迷うことなんてないはず。
卑怯って。ズルイって。心外だなぁ。

なんて自分に都合よく思っちゃうあたしはやっぱり酔いがまわっているのかもしれない。

アルコールのせいなのかよっちゃんのせいなのか。
たぶんその両方にあたしは酔っている。
よっちゃんの瞳に吸い込まれそうなほどに。

「ずっと人のことヤキモキさせといて急に告白するし、
 こうやって押し倒しても余裕綽々だし、また好き…だなんて言うし。
 なんかいつもの藤本くんじゃないみたいだよ。
 こんなの…オイラどうしていいのかわかんないよ」
「ずっと迷ってた。よっちゃんに告白されてからずっと。
 それと同じくらい後悔もしていた。
 あたしこんなによっちゃんのこと好きなのにね。
 なんであの時バカやってたいなんて言ったんだろうって。
 怖かったの。好きすぎて怖かったの。さっきそれに気づいた」
「さっきかよっ」
「もうっ黙って聞けっ」

バコッ

「ふぇい」
「よっちゃんがロンドンに行って寂しくて寂しくて。
 ずっとこうしたかった。よっちゃんの匂いに包まれたかった…。
 臆病だったのはあたしのほうなんだよ。
 ずっと素直になれなくてごめんね?待たせてごめんね」
「あー!!もう、素直な美貴ってヤバイよ。なんでこんなかわいいんだよー」
「あたしのこと好きでしょ」
「ハイ。もうくびったけです」
「よろしい。じゃ早く」

キスしてよ、と言う前に唇を塞がれた。





熱い。


体が熱くて堪らない。


がむしゃらに服を脱いだ。
剥ぎ取って素肌をさらす。
それでも体の芯が溶けそうなほど絡み合う手は、足は、舌は熱を放出し、
彼女の指と舌と囁きがアルコールの力と相まってあたしの意識を高みへと上らせる。

どうしようもなく熱を帯びる。

吐息が耳にかかるたびに、中心を貪られるたびにキミの背中に紅い傷がつく。
白くて柔らかいキミの肌に残るあたしの爪痕の紅。紅。紅。
そのコントラストが美しくて愛しくて、あたしは夢中で舐める。
自らの唾液を絡め、舐めて舐めてその傷が癒えるようにとまた一心不乱に舐め続け
そしてまた爪を立てる。

「美貴…」
「っん…はぁっ、あっ、あっ」
「かわいいよ美貴」
「あぁんっもう、もうダメェッ」
「まだだよ」
「やぁああ…あんっはあぁぁっ」
「もっとかわいい美貴を見せて?」

懇願するあたしに意地悪なキミはその手を休めない。
白くて長い滑らかな指が体中を駆け巡り血液を沸騰させる。
寄せては返す波のようにあたしの体を弄び翻弄し、そっと抱きしめる。

存在を確かめるようにそっと抱きしめたその腕が、手が、
微かに震えているような気がしてあたしは強く強く抱きしめ返した。

ここにいるよ?
あたしはここにいるよ?

声にならない声が自分を見てほしいと叫ぶ。
あたしの声なのかキミの声なのかはわからない。
けれどしっかりと胸に響くその声が
あたしたちに今まで見たことのないような景色を見せてくれる。

「好きっはぁんっ」
「あたしも」
「ねぇっ好きなのっあぁっんーっ」
「美貴が、好きだよ」
「もっと…もっと、ねぇっもっと呼んでっ、おねっおねが、いっ」
「美貴、美貴、美貴、美貴っ美貴っ…美貴」


 美貴


名前を叫ばれ体ごと、心ごと愛されてあたしは自然と涙を流していた。
涙とともに零れ出る嗚咽。
感情を認識する余裕なんてない。
あたしができるのは全身で感じること。
今このときを体中で。
彼女の全部を。

感じること。
逃さないこと。
閉じ込めること。
彼女を、あたしの全部で。

汗ばむ背中や涙が伝うこめかみ、そして内側を這う舌に意識を乗っ取られる。
自分の体が自分のものではないようで、制御不能なそれにあたしはただ掴まるだけ。
振り落とされないように必死にしがみつく。

もうこれ以上は限界というギリギリのところでふっと目を開けると
そこにはあたしと同じように涙で顔を濡らすキミの姿があった。

「よっちゃん?」
「ん…」
「なんでっ?な、んで泣いてるの?」
「美貴だって、人のこと言えないじゃんか」
「あたしはっあたしはだって、はんっ、んあぁんっ」
「不思議だな。なんで涙が出てくるんだろう」
「はんっ、いやぁぁ…あんっ」
「今が一番幸せなのに。なぜか涙が止まらないんだ」
「あぁっ…あたっあたしも、だよ。はんっ、幸せっ、だよ」
「美貴…愛してる」
「んぅ…もっと、もっとおねがいっ……もっと」

涙流れるままにあたしたちは愛し合い、求め合い、ひとつになる。
キミと溶けあってこのまま、一生このまま離れたくない。
お願いだから放さないで。
あたしを、なにがあっても、あたしを置いていかないで。

溶けたままこうしてずっと、いつまでも。



熱い。


体が熱くて堪らない。


熱が再び限界点に達する。
放出されないその熱をコントロールできるのはキミだけ。
あたしはもはやあたしの体を操ることはできず、なにもかもをキミに委ねる。

だからお願い。
キミなしでは生きていけないこの体を、あたしを、お願いだから。





――――――手放さないで





「美貴っ美貴―っ」
「いやっあんっはぁんっっあぁぁぁぁーっ」

感じて。
もっとあたしを、感じて。
強く抱きしめて。

キミの全てであたしを感じてほしい。
顔にはりつく髪や背中の紅いライン、シーツに残る痕跡があたしのシルシ。
キミを精一杯に感じて意識まで放り投げてしまったあたしの、それが証しだから。


ねぇよっちゃん。


好きとか愛してるとかいう言葉じゃ足りないぐらいキミがほしいよ。
どうしたら伝わる?
自分でも計り知れないこの気持ちをどうやったら全部届けることができるのかな。


ねぇよっちゃん。


口にするのが難しいこの想いをちゃんと受け止めてくれる?わかってくれる?
自分でもよくわからないけど、うまく説明できないけどキミには、
キミだけにはわかってほしいの。


ねぇよっちゃん。


運命だなんて言ったら笑われそうだけど、たぶん運命なんだよ。
あたしたちがこうしてるのは、きっと運命。
そうじゃなかったらこんなにも誰かに溺れてる自分が信じられないもん。


キミだからなんだよ。
キミが必要だからなんだよ。
キミに必要とされたいからなんだよ。

だからこんなあたしを呆れないで
ずっとずっとこのあったかい腕の中に閉じ込めておいてね。



ねぇよっちゃん、お願いだよ?





目を開けるとそこには白い天井。
あたしを見つめる照れくさそうなよっちゃんの顔と
その瞳に映るやっぱり照れくさそうなあたしの顔があった。

やけにニヤニヤしてるけど。
頬がゆるんで落ちそうだけど。
隣であたしを抱くよっちゃんが一夜明けて昨日以上にかっこよくて素敵で
とにかくやたら輝いて見えて。

「おはようハニー」
「はよ、ダーリン」
「ん〜。いい朝だ〜」
「ニヤけてるよっちゃんがかっこよく見えるなんてあたし相当重症だ」
「んだとー!コンニャロ」
「ゃあんっ」

抱きかかえられた体勢のまま後ろから胸を揉まれて思わず声が出た。
うなじをなぞる唇が触れるか触れないかの微妙なラインでくすぐったい。

「うへへ。イイ感触」
「朝からなにすんだこのバカッ」
「イデッ!ひどいよ美貴ちゅわん。昨夜はあんなに」
「あー!!ダメッダメッ言わないで。言っちゃやだー!」

恥ずかしさで熱くなった顔をよっちゃんの胸に埋めた。
強く抱きしめられ、引き寄せられる。
気持ちよさに目が眩みそうになったとき頭の上から声が聞こえた。

「一生離れるなよ」
「…オマエがな」
「昨日はすごかったね」
「オ、オマエがな」
「あのときの顔かわいかった」
「オマエ!オマエがなっ」
「愛してるよ」
「……あたしは」
「あたしは?」

たまらず顔を上げてよっちゃんの唇を塞いだ。
もうそれ以上なにかを言われたら胸がドキドキしすぎて死んじゃいそうで。
ありったけの想いを込めてキスをした。

「よっちゃんなしじゃ生きていけない……かも」
「かもってなんだよー!!」

耳もとで叫ぶ愛しい人に笑いながらチョップをしてバスルームに向かった。
カーテンの隙間から零れ落ちる陽の光に照らされた彼女の顔はすごく幸せそうだった。

やっぱり無駄に広いバスルームは落ち着かない。
このバスタブのゆったり感からして軽く二人で入ってイチャイチャできそう。
ってあたし発想がよっちゃん並にエロいよー!

ダメだダメだ。
あたしがしっかりしなければ二人してバカでエロじゃ救いようがない。

と、そこまで考えてからふと気がついた。

今まで一体何人の女がこのシャワーを使って
このバスタブの中でよっちゃんとイチャイチャしたのだろうと。
そしてあの馬鹿でかいベッドも何人が…。

心にドス黒いモヤモヤしたものが充満しだす。
シャワーを握る手に力がこもった。

考えても仕方のないことなのについ考えてしまう。
思考に際限はなく、自分では止められそうにない。
鏡の中にいるのは見慣れた自分ではなく見知らぬ裸の女たち。

嫌な想像にさらに拍車がかかりそうになったところでドアの向こうからやさしい声がした。

「美貴〜。タオル置いとくよ〜」
「………」
「美貴?」
「よっちゃん……」

その泣きそうな声によっちゃん以上に驚いたのは自分自身だった。

「どうした?!」

あたしと同じく裸のよっちゃんが勢いよく飛び込んできた。
すぐさまその体に抱きついてギュッと鎖骨のあたりに顔を押しつける。
たしか鎖骨だったよね?ここ。

出しっ放しの熱いシャワーが二人の体を濡らしていく。

「後悔してるの?」
「ちっ、ちがっう…」
「体ツライ?」
「腰はダルイけど、でも大丈夫」
「じゃ、なんで…」
「ん、ごめん。なんか自分で思ってたよりあたしって嫉妬深かったみたい…」
「美貴……」
「でも、も、もう気にしないから。
 それよりついでだから一緒にシャワー浴びようよ?ね?」

思っていることを素直に口にしたら少しだけ気がラクになっていた。

今よっちゃんの腕の中にいるのはあたし。
この唇に触れられるのはあたし。
髪にキスしてくれるのはあたしだから。
紛れもなくあたしだから。

その事実に堂々と胸を張ろう。

「シャワーだけ?」

ニヤリと口もとを緩ませながらあたしの体を隅々まで弄る彼女の自由な手と舌を、
止める術も理由もあたしにはなかった。



「朝からこんなに食べれないよー」

よっちゃんが作ってくれた豪華な朝食を前にして、嬉しいのについいつもの憎まれ口。

「嬉しいくせに」

あ、バレてら。

「たっぷり運動したから食えるでしょ。むしろ美貴はもっと食ったほうがいいし。だから食え」

ウインクしてパンやサラダやスープをもりもりと食べるよっちゃんを見習って
そのホテルで出されるような朝食に舌鼓を打つ。

「あたし一度家に帰らないと。着替えなきゃ」

二日続けて同じ服で会社に行くようなそんなベタな愚行を犯すわけにはいかない。

「うん送るよ。でもオイラは今日休むから」
「えーっ!なんで?!」
「誰かさんに激しく求められてバテバテなのよ、ヒーチャン」
「それはこっちのセリフだよ。てかなにそれ、ズル休みじゃん」
「たまにはいいじゃん、ゆっくりしたって。でも会社には送ってくから心配しなくていいよ」
「えーっ。それならあたしも休もうかなぁ。でも今日も仕事忙しいし…」
「相変わらず秘書課は大変ですねぇ」

会社を休むよっちゃんに送ってもらうのはさすがに悪い気がしたけれど
あたしのヴィッツは昨日から大学の駐車場に置きっ放しだし
かといってポルシェのハンドルを握るのは絶対にイヤだし。
迷った末にやっぱりよっちゃんの申し出を受けることにした。
ホントのところは少しでも長く彼女と一緒にいたかったからなんだけど。

でもなんか忘れているような。



朝食を食べ終えてからポルシェに乗り込みあたしのマンションに向かった。
手早く着替え、戸締りを確認してエンジンをかけたまま待つよっちゃんの元へと走る。

「うぅー!寒い寒い寒い寒いぃー!」

運転席の彼女にしがみつき温かさと彼女の匂いを堪能する。
すかさず肩にまわされた腕を取り指を絡めてやや上気した頬と呼吸を落ち着かせた。

「はぁ〜。夢のようだ。こんな積極的な美貴」
「夢かもよ?」
「それは困る」
「困るってなんだソレ。あははっ」
「困るもんは困るんだよー。だから覚める前に確かめさせて」
「なにを?」
「美貴を」

付き合い始めた二人の時間はいつ何時でも甘くて甘くてただ甘い。
メガネを外してからあたしの頬に手を寄せて深く深く口づけて
しっかりとあたしを味わったよっちゃんは再びメガネをかけてハンドルを握った。

その横顔をあたしは大学につくまでただぽうっと眺めていた。
信号待ちのたびにこちらを向いてニヤニヤするよっちゃんに
つっこむのだけは忘れずに、ただぽうっと見とれていた。
キレイな横顔をぽうっと。


「ここでいいよ。あんまり近くまで行くと誰かに見られちゃうから」
「べつに見られても構わないけど。ま、ここは姫の仰せのとおりにしますか」

大学に面する大通りから少し離れた脇道にポルシェがゆっくりと停車する。

「と〜ちゃ〜く。帰りも迎えに来るから終わる頃に電話かメールくれ」
「わかった」
「しっかり働けよ」
「よっちゃんに言われたくないよ」

苦笑するあたしの唇にまた柔らかい感触。
何度味わっても甘くて美味しいよっちゃんのキス。

なぜだかお互い急に笑いがこみ上げてきて、笑いながらキスをした。
そして鼻先をこすり合わせておでこをぴたっとくっつけた。

「いってらっしゃい」
「バーカ。誰かに見られたらどうすんの」
「いいじゃーん。むしろ自慢したいよ。
 オイラのカノジョがかわいすぎて困ってますって。どうしようって」
「もぅ〜!恥ずかしいなぁ。いってきますっ」

それはこっちの台詞だよ。
あたしこそよっちゃんみたいな素敵な人、自慢したってし足りない。

こんなにシアワセでいいのかな。
あ、あたし今シアワセなんだ。
そっかそっか、シアワセってスバラシイなぁ。

今にもスキップしちゃいそうなほどルンルン気分で後ろを振り返って
ずっとこちらを見つめているよっちゃんに手を振った。

満面の笑顔を返してくれた彼女を見て飛び上がりそうなほど上機嫌で歩いていると
後藤さんの黒いラパンが駐車場に入るのが見えた。

「あ」

報告…忘れてた…。


言いたいけど言いたくない。
自慢したいけどしたくない。
この複雑な乙女心。
乙女って…石川さんかよっキショッ。

でも遅かれ早かれきっと絶対にバレてしまう。
バレないわけがない。
よっちゃんのあのデレデレっぷり(もちろん自分含む)では時間の問題だろう。
確実にからかわれて冷やかされていろんなことを問い質される予感が特大だ。
あたしも今日くらいは会社休めばよかったかな。

でも、後藤さんや石川さんに茶化されて機嫌が悪くなるあたしを
必死になだめるよっちゃんを想像したらすごく楽しくなった。
きっと彼女はあたしのまわりをウロウロしたりオロオロしたりしながらも笑わせてくれるはず。
それこそ二人に見せつけるようにイチャイチャなんかをしちゃったりするのかもしれない。
それとも二人と一緒になってあたしをからかってミキティパンチをお見舞いされてるのかな?

いい大人が会社でなにやってんだろう。
想像なのにおかしくて笑った。

でも、なんかそういうのいいな。

そういう日常がすごくいいと思った。











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