大学編 7






仕事始めの日、遠くに見える彼女の姿に胸が躍った。
落ち着け。
落ち着け自分。

駐車場から歩いてくる彼女とあたしの距離が徐々に縮まっていく。
まだ、向こうはこちらに気づいていない。
緊張しすぎて喉がカラカラだった。
冬だというのに体も熱かった。
手に汗握る。

段々と足が重くなる。
弱気な心が頭をもたげる。
視線が下がってブーツの先を眺めた。

「おーい!ふっじもとくーん」

顔を上げると予想通りの笑顔でこちらにブンブンと手を振る彼女がいた。
元気よく両手を振り回してまるで子供みたい。
思わず口もとが緩んだ。

「美貴ちゅわーん!」
「愛しのハニー!」
「ミキティベイベー!」

ちょっとやりすぎじゃないですか?
すごく恥ずかしいんだけど。嬉しいけど。
はしゃいじゃう気持ちもわかるけど(あたしが今まさにそうだし)。
他にも人がいるんだから、それ以上はしゃぐのは勘弁してよ〜、よっちゃん。

「かわいいオイラの…イデッ」
「もぅ〜!人の名前大声で叫びまくらないでよ。みっともない」
「イデデデ。久々にあったのに相変わらずクールビューティーだね藤本くん」
「久々にあったのに相変わらずバカ大王だねよっちゃん」
「ん〜その氷のような視線がたまらないよ。冬にぴったりだ。会いたかったよー!美貴―!!」
「キャッ」

急に飛び掛られてよろめいた。
よっちゃんがあたしをぎゅうぎゅうと抱きしめてくれる。

彼女の温もりや匂いが心地よくて目を閉じて堪能する。
そしてもちろん精一杯抱きしめ返した。

「会いたかった…」

思わず口から漏れた言葉は彼女の耳に届いたのか届いていないのか。
彼女は何も言わずにあたしを抱きしめて背中をさすって
髪にキスしてからまたぎゅうぎゅうときつく抱きしめた。
あたしがここにいるのを確認するかのように何度も顔を見てはニコッとして。

会いたくて会いたくて恋焦がれたよっちゃんがここにいる。
ここにいてあたしをこんなに力強く抱きしめている。
それだけであたしはもうシアワセで。
泣きたくなるほどシアワセで。

再認識した。
よっちゃんが好き。
こんな簡単なことからどうしてあたしは目を背けていたんだろう。
こんなにも彼女の腕の中はあったかくて気持ちいいというのに。

できればずっとこうしていたかった。
あたしとよっちゃんの二人だけでずっと、こうして…。

「あけおめー!!ってやっだ〜二人ともこんなところで朝からダ・イ・タ・ン」

この耳につく甲高い声は…。

「あー、石川さん。あけおめ!って遅いよ。もう6日だよ」
「いいの。気持ちの問題なんだからっ」
「どういう気持ちなのよ」
「藤本さん今年も目つきコワーイ。よっちゃんあたしにもギュッてしてぇ?」
「あー、ハイハイ」

よっちゃんは仕方ないなぁって顔であたしの背中にまわしていた腕をほどいて
石川さんをポンポンッと簡単にハグした。
声はめんどくさそうだし手つきも軽くて、時間にしたらほんの数秒のことだったけど
デレッとした顔は見逃さなかった。
いやらしい目つきも手の動きも。

なんか。

すっごいムカツク。
あったまきた。
なによ、なんなのよ。本気で腹立つ。

ボズンッバヂンッメコッ

声にならない叫び声をあげるエロ魔人と
わけわかんないって顔してる全身ピンクのキショイのを駐車場に残して
さっさと職員入口に向かった。
朝から体力使わせないでよね。

「藤本さんあけおめ〜」

中に入りかかったところで後ろから後藤さんに声をかけられた。

「後藤さん、もう6日だよ?」
「なんか癖になっちゃって。久々に会う人皆に言っちゃうんだよね〜」
「はぁ〜。石川さんと同レベルだね」
「えっマジ?!もう言わない…」
「うん、そうだね…」

力なく声を落とすあたしを不思議に思ったのか後藤さんが顔を覗き込む。

「なんか元気ないね」
「休み明けはテンション低いから」
「ふーん。本当はさ、アレが原因でしょ」

後藤さんが指差す先には仲良く談笑するさっきの二人の姿があった。
石川さんはよっちゃんの右腕にしっかりと腕を絡ませてピッタリくっついちゃってる。

キミそれ絶対胸押しつけてるでしょ。
その無駄に大きい胸をそういうことに使うわけ?へぇ〜。

悔しいけど少しだけ、ほんのちょびっとだけ羨ましい気がして自分の胸をチラっと見た。

だってエロ魔人のあのダラシナイ顔ときたら。
あー情けない。

「あーあ。石川さんに捕まっちゃって」
「満更でもなさそうだけど」
「こわっ。藤本さんも素直になりなよ」

無言で踵を返すと後藤さんが横に並んでまた話しかけてきた。

「石川さんのアレはただのスキンシップ。よしこだってそのへんはわきまえてるでしょ」
「あたしには関係ないもん」
「藤本さんだってさっきよしこと熱い抱擁してたじゃん」
「見てたの?!」
「あんな目立つところでやってたら誰だって見るって」
「うわー恥ずかし…」
「でも二人ともいい顔してたよ。なんか満ち足りたような」
「恥ずかしすぎる…」
「恋人のような」
「恋人っ?!」
「うん。付き合ってるんじゃないの?」
「ま、まだだよっ」
「まだってことはこれからなんだ。ふーん」

ニヤニヤと面白いおもちゃを見つけた子供のようなその顔はなに?
後藤さんってけっこう意地悪かも。

「これからもなにもあたしたちはべつにそんな…」
「ひゃー。藤本さんって案外かわいいんだね」
「案外は余計だよ」
「照れちゃって。よしこが惚れるのもなんかわかるなぁ」
「あのね、後藤さん…」
「あたしもちょっと惚れそうかも」
「へ?いまなんて?」

ホレソウ、とかいう言葉が聞こえたような気がしたけど。まさかねぇ。
後藤さんがあたしに?ナイナイ。そんなことありえない。
あ、もしかしてホウレンソウって言ったのかな。
まさかねぇ。それこそ意味わかんないし。

「隙アリ!」

チュッ

「うわっ。な、なに?」

後藤さんの顔が近づいたと思った途端、頬に柔らかい感触がした。
目の前には不敵な笑みを浮かべてなぜか後ろを気にしてる当の彼女。
いきなりのことで呆れて怒る気も失せた。
まったく急に何するかと思ったら。
ま、頬だからべつにいいか。

「くぉらぁぁぁぁぁぁ!!ごとぉぉ!!!!!」

突然地割れのような音が鳴り響いてものすごい形相のよっちゃんが走ってくるのが見えた。
そのやや後ろのほうで勢いに圧されて尻餅をついている石川さんも。

なにがなんだかわからずにオロオロしてると
到着したよっちゃんが後藤さんの胸倉をつかんだ。

「ちょ、よっちゃんなにしての!やめなって」
「うるさーい!オイラ、オイラいま、だって、オイラの美貴が、
 チュチュチュチュチュ、チュッて、ここに、コイツが、美貴を」

意味不明。

錯乱しすぎだよ、よっちゃん。
いつも憎らしいくらいに余裕ぶっこいてるキミはどこに行っちゃったの?
ほら後藤さんなんてお腹抱えて涙流してるよ。
石川さんは違う意味で泣きそうな顔してるけど。
お尻さすって。痛かったんだね、気の毒に。

「どうどう。落ち着いてよっちゃん」
「だってコイツが、美貴が、チュッて、オイラのオイラの」
「あ〜!おっもしろ〜。よしこイイ!キミ最高だよ〜あっはははは」
「ちょっと笑ってる場合じゃないでしょ。これなんとかしてよ。後藤さんの責任なんだから」
「えー。こんなん藤本さんがチュッってしたら元に戻るって」
「そうかなぁ」
「そうだよ」

半信半疑だったけど他に手立てもなさそうだったから
辺りを気にしながらよっちゃんのプニプニとした柔らかい頬にキスをした。
あたしにしてはけっこう大胆なことしてるかも。

「よっちゃん?」
「ふぇん」
「落ち着いた?」
「ふぉん」

ふぉんって。
ふぉんってなんだよ。
その前のふぇんもだけど。

とろんとした目つきでなんかかわいいなぁ。
いつもこれくらい従順だとこっちもひねくれたこと言わずにすむのに。
でもそれじゃ面白くないか。

「ね、言ったとおりでしょ」
「でもまだヘンだよこの人」
「もともとバカにつける薬はないからねぇ」
「ていうか後藤さんいきなりヘンなことしないでよね」
「ひっどー。そのヘンなことを今まさに自分だってしたくせに」
「そ、それは仕方なく…」
「でもここまで壊れるとは思わなかったなぁ」

焦点の合わない目でポワンとしてるよっちゃんを後藤さんがペシペシ叩く。
彼女の言うようにこんなよっちゃんは初めて見たかも。

そんなにほっぺにチュウがショックだったのかな。
普段はあんなエロ魔人で下ネタ全開なのにこの中学生みたいな反応はなに?

あたしだから?
相手があたしだったから?
でももっとすごいことを前にしてるのに、今さらこんな初々しい素振りって…。

「ちょっとぉ!一体なんなのよぉ」

あ、キンキン声。
そういえば忘れてた。

「よっちゃんはいきなり私を突き飛ばして走り出すし、
 見てたら後藤さんに掴みかかってるし。藤本さんは急にキスなんてしてるし」
「話すと長いからまた今度ね」
「もう!そうやっていっつも私をのけ者にするんだからっ」
「そんなことないよ。ハイハイあとであとで」
「あとっていつよ〜」

うるさくわめく石川さんをなだめつつ「あとよろしく〜」と言って
後藤さんは階段を上っていってしまった。
残されたのはあたしといまだ心ここにあらずのよっちゃん。
さて、どうしよう。

「よっちゃん」
「……」
「よーっちゃん!」
「……」
「よしこ?」
「あ、なに?」
「大丈夫?」
「大丈夫って…あれっ後藤さんは?」
「もうとっくに行っちゃったよ」
「あー!!つーか美貴、ほっぺにチュ、チュ、チュウされてただろう!」

真っ赤な顔で口を尖らすよっちゃんがタコみたいでおかしかった。

「不可抗力だよ」
「ちっくしょー!オイラの美貴のほっぺを…」
「は?なに?」
「な、なんでもないっ。もう行くっ」
「あ、うん。じゃあまた」
「おう」

なんかすでに丸一日働いたくらいの疲労感。
でもまだ始まってもないんだよね仕事。はぁ〜。
今年もいろんなことあるんだろうな。
仕事も忙しいんだろうな。

これからどうなるんだろうあたしたち。
あたしとよっちゃん。
保田先生に会ったあのテンションで、あの勢いでよっちゃんに会いたかったな。
臆病なあたしがまた顔を出して決心が鈍る。はぁ〜。

「あ、雪」

ふと窓の外を見るとはらはらと白いものが舞っていた。初雪だ。
初詣でちゃんとお願いしてくればよかったな。
今年は素直な自分でいられますようにって。

遠ざかるよっちゃんの背中を見ながらしばらくそんなことを思っていた。



休みボケした頭で睡魔と戦いつつ受付でいくつかの書類に目を通していたら電話が鳴った。

「1階受付です」
「歯周病科の保田ですが」
「あ、保田先生」
「その声は藤本?」
「そうですよー」
「眠そうね」
「ええ、それはもう」
「シャンとしなさいよ。あのね、10時頃に業者の人がうちの講座に来るんだけど
 来たらそのまま案内してきてもらえない?忙しくてそっちに迎えに行けそうもないのよ」
「わかりました」
「じゃ、よろしく頼むわね。医局のほうにいるから」
「はい」
「あ、それとそんな目つきでいたら業者の人ビビって帰っちゃうから気をつけなさいね」
「見えないのになに適当なこと言ってるんですかー」
「大体想像つくわよ」

業者の人の名前を確認して電話を切った。

そういえば保田先生にいろいろ聞いたことをよっちゃんにまだ言ってない。
昔のこととか本人につっこみたいからお昼にでも誘ってみようかな。

保田先生に言われたからじゃないけれど自分の目つきが気になって
鏡を取り出そうとしたときまた電話が鳴った。

「1階受付です」
「みっきちゅわ〜ん!」
「……よっちゃんさぁ、あたしいつも思うんだけど
 そんな甘ったるい声を仕事中によく出せるよね。しかも内線でしょ?これ。
 まわりに入試課の人いっぱいいるんじゃないの?怒られないの?」

入試課の面々を思い出して苦笑した。
いずれもいい歳したおじさん揃い。
あたしたちの父親と言ってもおかしくない人たちは
このよっちゃんの私用の電話を(しかもアホな)どう思っているんだろう。

「ああ、それなら平気。むしろ皆あたしを応援してくれてるから」
「応援?」
「んーと、つまりその…美貴との、こと…頑張れって…」

最後のほうはよっちゃんがゴニョゴニョと言いよどんだから
あまり聞こえなかったけど…応援ってナニ?
あたしのことで?入試課のおじさんたちが?

えぇ!!

それってつまりつまり、あたしたちのことが周知の事実っていうこと?!

「ムァジかよっ!!」
「っ痛〜藤本くん声でかっ。耳にきたよ、キーンて」
「よっちゃん、入試の人たちになに話してんのよっ」
「だって誰が美人とか人気投票して遊んでたから、ついオイラのイチ推しは藤本くんって…」

この大学、本っ当にヤバイわ。
馬鹿なことしてないで仕事しなよ、キミたち。

再び入試課の面々を思い出す。
途端にどの人の顔もアホ面に見えてきた。
これってよっちゃんの影響なの?
それとも前からこんなフザケた人間の集まりだったの?入試課って。

「最初からこんなだったよ」

あっけらかんとしたよっちゃんが続ける。

「おじさんばっかだからきっと寂しかったんだよ。ですよねー?」

電話の向こうでガヤガヤと大勢の声が聞こえてくる。
「藤本さんも入試においでー」とか「石川さんも連れてきてー」とか
「課長が後藤さんを外すなってー」とか楽しそうに騒いでいる声が。

「だってさ。聞こえた?」
「うん聞こえた。なんか平和なところだねぇ」

ため息混じりにそう答えた。
でもちょっと羨ましい。

「おう。秘書課にくらべたらまったりしてるかな。あたしの性分にけっこう合ってるみたい」

お調子者の集まりみたいなこの部署になんとなく不安を感じたけれど
よっちゃんが楽しそうだからヨシとしよう。
人気投票の結果が少しだけ気になったけど
彼女からの票があればそれで十分だからそれもヨシとしよう。

まさかとは思うけどあたし以外の女に入れてないよね?
よっちゃん、キミのイチ推しだって言葉信じちゃうからね。

以前はあんなに秘書課に戻りたがっていたのに
近頃めっきり言わなくなったのは入試課の居心地がよかったからなんだ。
心なしか秘書課にいた頃より生き生きしてる気がするし。
よっちゃんのいる場所に一緒にいられないのは寂しいけど適材適所ってやっぱりあるんだね。

「で、なんの用事だっけ」
「そうだった。お昼一緒にどうかと思って」
「あっ、ちょうどね、あたしも誘おうかと思ってたんだ」
「さっすが美貴ちゅわんとオイラだね!相思相愛。ツーカーの仲。あ・うんの呼吸」
「ハイハイ。今日は中華ね」
「以心伝心。相性ピッタリ。まさに運命。これはもう結婚するしかないね」
「バカじゃん」

いつまでも恥ずかしいことを言い続けるからむりやり電話を切った。
今度入試課の人たちに会ったら一体どんな顔をすればいいんだろう。
でも『公認』みたいでそれはそれで少し嬉しい気もするけど。

さっきまでの眠気はもうすでにどこかに消えてしまっていた。
お昼が待ち遠しい。
書類を整理する手も格段にスピーディーになった。
保田先生を訪ねてきた業者の人にもとびっきりの笑顔で対応する。
案内する足取りはびっくりするほど軽くて、
さっきのあたしとテンションがかなり違うことに保田先生も驚いていた。



久しぶりによっちゃんとゴハンを食べて
自分で言うのもアレだけどあたしはかなり上機嫌だった。
デザートの杏仁豆腐は美味しいし目の前には憎たらしいほど可愛い顔をして
ムシャムシャと春巻を食べているよっちゃんがいる。

相変わらず食べるのが遅くて口にくわえた春巻を落としそうになって慌てちゃって。
そんな姿もかわいくて仕方ない。
紙ナプキンを手にとって一生懸命口のまわりを拭いている彼女を見ながら
温かい烏龍茶を飲んでホッとする。

そういえば一緒に食べてるのになんでいつも時間差ができるんだろう。
今日だってよっちゃんはまだ春巻でこっちはとっくにデザート。
あたしが特別早いってわけじゃないと思うんだけど。

「前から思ってたけど食べるの遅いよね」
「オイラ?」
「ほかに誰がいるのよ」
「藤本くんが早いんだよ」
「そんなことないよ。普通だって」
「えぇぇ〜本当か?」
「だって後藤さんたちと食べるとき、同じくらいに食べ終わるもん」
「そういやオイラも課長たちと同じくらいに食べ終わるなぁ…」

そう言ってよっちゃんは左斜め上を見ながら不思議そうな顔をした。
口を尖らしてあたしと目を合わせようとしない。なんか怪しい。

「目、泳いでる」
「オイラ?」
「ほかに誰がいるのよ」
「春巻うんめー」
「無視かよっ」

しらばっくれるよっちゃんを見てたらふとあることを思いついた。

「さてはあたしに見とれすぎて食べるのが遅いんだね?」

冗談のつもりだったのに。
すぐにつっこんでくれると思ったのに。
白い肌がどんどん色づいていく。
伏せられたまつげの長さにしばし見とれた。

まさか図星…なの?

「そうだよ!悪いかっ」

フンッと鼻を鳴らして再び春巻にかじりついた彼女を見て笑顔が隠しきれない。
あたしたちどう見てもおかしいよね?
紹興酒とか飲んだわけじゃないのに、会社の昼休みに同僚と差し向かいでゴハンを食べて
真っ赤になったりやけに笑顔になったりしているあたしたちって
ほかの人から見たらどう映るんだろう。

…コイビトに見えてたりするのかな?

「ニヤニヤすんなっ」
「あー!あたしの杏仁豆腐ぅ」
「うるへー」

あたしから杏仁豆腐を奪って横を向いて一気に食べる彼女。
満足そうにこちらを見てどうだ、と言わんばかりに空の器を指し示す。
妙に偉そうなその姿がやっぱり可愛くて、あたしはまたニヤニヤしてしまう。

「ロンドンはどうだった?」
「雨だった」
「だろうね。ってそういうことじゃなくて」
「久々に懐かしい人に会えて、まあそれなりに。
 藤本くんこそ休み中オイラに会えなくてピーピー泣いてなかった?」

当たらずとも遠からずだったけどそんなこと言うのは悔しいから
またいつもの憎まれ口を叩いてしまう。

「なわけないでしょ。よっちゃんじゃあるまいし」

2個目の杏仁豆腐を食べながら保田先生の話を切り出す。

「休み中にね、保田先生に会ったよ」
「圭ちゃんと?」
「うん。よっちゃんのこといろいろ聞いちゃった」

一瞬、それは本当に一瞬のことでもしかしたら見間違えかもしれないけれど
よっちゃんの目が翳りを帯びてまるでビー玉のような無機質なものに変貌したから
あたしは堪らず視線を逸らしてしまった。

「へぇ〜。どんなこと?」

そんなあたしの様子には構わずよっちゃんは探るような声で聞いてくる。

「…んと、異端児とかロンドン嫌いとか」
「ははっ。圭ちゃんのがよっぽどだよ」
「それは自分でも言ってた」

恐る恐る見た彼女の目がいつもの子犬のようなそれに戻っていてホッと胸を撫で下ろす。
気を取り直して杏仁豆腐を食べ続けた。

「圭ちゃんって優しいんだけど厳しいんだよな」

そう言って昔を懐かしむように遠くを見つめる彼女に『臆病』だったの?
なんて聞けるはずもなく。

「よっちゃんのことよろしくって頼まれちゃったよ」
「オイラからも頼みます」

切実な声で頭を下げるよっちゃんに自分で言うな、とデコピンをかまして笑った。

まだまだ聞きたいことや疑問に思うことが山ほどあったけど
とりあえずその前にやるべきことがある。
あたしには彼女に伝えなければならないことがある。
それをしなければ始まらないし始まれない。

一歩を踏み出す勇気がほしくて、テーブルの上に投げ出された彼女の手をしっかりと握った。

「イテテテ。折れるよ」
「折れるわけないだろバカ」
「大胆だね藤本くん。でもさすがにここでは…」
「するかバカ」
「手相でも見てくれるの?でもオイラ占いの類は信じないよ」

あたしがなにか大切なことを言いかけてるって
雰囲気とか態度とかでわかりそうなものなのに、この人は。
それともわかってやっているの?
だとしたらその意図はなに?
単にあたしをからかいたいだけなのかなぁ。

再び口を開きかけたあたしをよっちゃんが目で制した。

そのまま見つめあうこと数秒。或いは数十秒。
二人の視線はお互いを捕らえたまま動かない。動けない。

永遠に続くかと思われたこの時間を先に手放したのはよっちゃんのほうだった。
無言のまま彼女の手を握り締めているあたしの手を自分の口もとに持っていく。
そして手の甲にそっと唇を押しあてた。
慈しむように、そっと。

「よ、よっちゃん?」
「なにを言おうとしてるのか知らないけど気負いすぎだよ。無理すんな」
「えっ?」
「なんか美貴らしくない」


ああ、やっぱり。


どうして彼女はこんなにもあたしの心に、ひょっとしたらあたし以上に敏感なのだろう。

そしてこれ以上ないタイミングでスッと入り込んで優しく包んでくれる。
優しく微笑んで、甘やかしてくれる。
それは時にあたしにとってとても残酷で…。

「今夜はうちで飲もうか、藤本くん」

でも、とても心地がいいものだった。



昼休みを終え、秘書課に戻る途中でイタリアンレストランから出てくる後藤さんに会った。
朝のことを思い出してまさかとは思ったけど一応尋ねてみることにした。

「惚れそうって冗談だよね?」
「マジだったらどうする?」
「無理」
「はっきり言うねぇ」
「だって本当のことだし」
「まあ藤本さんらしいけど」

すれ違う先生方に軽く会釈をしながら話を続けた。

「で、冗談なんだよね?」
「うん」
「やっぱり」
「遊ばなくなったよしこには惚れそうだけどね」

なに?
なんですと?今なんつったのこの人。
それも冗談じゃなかったらすまないよ、マジで。

自分の気持ちを伝えようとするだけでいっぱいいっぱいだっていうのに
ライバルとか対処する余裕ないから。
蹴落とす自信もあんまりないから。
でも好きな気持ちだけは負けてないと思うけど。

「でも藤本さんが怖いからそれもナイかな、たぶん」

たぶんってとこに血管がピクッと反応する。
あぁ、あたしホントに余裕ないな。
それよかよっちゃんがどうとかじゃなくてあたしが怖いからってどういう諦め方なの後藤さん。
失礼な物言いに少しムッとしたけどとりあえずライバルにならないようでホッともした。

たぶん後藤さんだけじゃなくてよっちゃんを好きになりそうな人や
これから好きになるかもしれない人、もう好きになっている人はいっぱいいるんだろう。
あたしこんなグズグズしていていいのかな。
よっちゃんはまだあたしのことを好きでいてくれてるのかな。

あたしと同じように抱き合いたいって思えるほどあたしのことをまだ…。

「それによしこの目には藤本さんしか映ってないし」
「なんでそういうことがわかるの?」
「見てればわかるよ。あんなあからさまによしこが執着してるのって藤本さんくらいだもん」

執着。

どこか粘着質なイメージがあるその言葉もよっちゃんが対象だと嬉しく感じられるから不思議。
ちょっと語弊があるかもしれないけど今はあたしのがよっぽど彼女に執着している。
彼女のことを考えない時間はほとんどといっていいほど、ない。
ちょっとしたことで一喜一憂している自分にもだいぶ慣れてきた。

あとは実行に移すのみなんだけど…とりあえず今夜が勝負かな、と心の中で固く拳を握る。

「あー、今日は副理事が来てるからまた例の夕食会だね。
 高い店で美味しいもの食べられるのはいいけどあんまり食べた気しないよねぇ。
 副理事とかと一緒だと」

言われて気づいた。
今日は珍しく副理事が来ていたんだ。
副理事は一年のほとんどをロンドンで過ごしている。
たまに帰国して大学に顔を出すと決まって
秘書課の何人かを引き連れて食事をご馳走してくれる。
けれど話が長くて酔うとわがままっ子のように手に負えなくなる副理事との食事は
はっきり言ってありがた迷惑。
そんなことするくらいなら給料あげてくれと皆一様にグチをこぼしている。

そんな副理事との厄介な夕食対策のために
秘書課の中で秘密裏にローテーションを組むことにしたのは三年ほど前らしい。
秘書課の男女比が大体2:1くらいなので毎回必ず男性2人女性1人が順繰りに副理事にお供し
お相手をしてさしあげているというわけだ。

「前回ってたしか石川さんだったよね?!」
「そうだと思うけど。じゃ今夜は藤本さんか」
「後藤さん!」
「んあ?」
「お願い!今夜代わって!」
「べつにいいけどなんで?」
「えーと、先約があって…」
「よしこ?」
「まあ、そうです」
「どうなったか聞かせてね」
「はいぃ?」
「今夜なんかアクションを起こす気なんでしょ?さっきすごい決意したみたいな顔してた」
「ほんっとにどうでもいいとこ鋭いよね」
「どうなったか教えてくれるなら代わってもいいよ」

ニヤッと横目でこちらを伺う悪徳商人のような後藤さんの要求。
それを突っぱねられるわけもなく、あたしはしぶしぶ了承した。
石川さんには黙ってることという条件つきで。
ここはどうしたって譲れなかった。
べつに朝のことを根に持ってるわけじゃないけど。

「ま、とにかく頑張って」
「はあ」

今夜、後藤さんに報告できるようなことが起きるのだろうか。
起きてほしいようなほしくないような。

なんとなく肩透かしをされたような気分で
さっきまでのやる気がどこかに消え失せてしまっていた。











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