大学編 5






今年は暖冬のせいかあまり冬って感じがしない。
秋がダラダラと長く続いているかのよう。
でも駐車場のケヤキが裸になって、ボーナスも入ったから確実に冬は来ているらしい。
受験シーズン真っ只中。
入試課のよっちゃんは毎日忙しいらしく飲む機会がぐっと減った。

そんな冬のある日、年末の休みに合わせて帰国したカオリと話す機会があった。

「ロンドンクリニックはどう?」
「いいよ。スタッフも設備も申し分ない」
「慣れた土地だしね」
「まあね」

応接室で待つカオリに副理事が遅れる旨を伝えた。
お茶だけだして部屋を出ようとしたら3ヶ月前のことを今さらながら謝られた。
律儀な彼女の性格を思い出して少し笑った。

しばらくどうでもいいような世間話をしていたら彼女がよっちゃんの話題を切り出した。

「まだ続いているの?」
「ぷっ」
「なにかおかしいこと言った?」
「だってカオリ、べつにそんなこと興味ないくせに」
「ああ。でも一応。やっぱり失礼なこと言ったなって後で後悔したから」
「ああって。あのさ、元カノに興味なくても全然いいんだけど
 あんまりはっきり言うのも失礼じゃない?」
「あ!ゴメンゴメン!!そういうつもりじゃなくて…」
「あはっ。わかってるよー。ちょっとからかっただけ」
「まったく美貴は相変わらずだな」

話していて思い出した。
あたしはあの頃たしかにこの人が好きだったんだと。
律儀で変なところが生真面目なこの人に恋をしていたのだと。
この人に愛されてた時期も確実にあったと。

でももう今はお互いあの頃のような感情はなくて、
その事実をあたりまえのことのように受け止めている二人がここにいた。

「仕事のことを抜きにしても、吉澤さんにはあまりいい印象を持っていないんだ」
「向こうもそうみたいよ」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「あの人を見てるとなぜだかヴィンセントを思い出すんだ。あの忌々しいバカ犬…」
「…ぷっ、クックックッ…あーはっはっはっはっはっー!!!」
「美貴?」
「あーはっはっ、ごめんごめん。でもおかしくて。ふっはー」

あたしが爆笑してる理由がわからずにカオリは少し不機嫌そうな顔をした。
そしてあたしの呼吸が落ち着くのを待って再び話しだした。

「あの人遊びまくっているでしょう。そんな人と付き合っている美貴が友人として心配なんだ」
「心配してくれるのは嬉しいけどあたしたち本当は付き合ってないから」
「そうなの?」
「うん。あの時は木村先生の手前そういうふりしただけで」
「なんだ。そうだったのか」
「そう。だから心配しないで」

それによっちゃんはもう前みたいに遊んではいない。
あの告白の日を境に女の子と遊ぶのをぱったりとやめてしまった。
本人は仕事が忙しいからなんて言ってたけど、以前は仕事がどんなに忙しくても
女の子が切れたことはなかった。
出張中だって我慢できずに手を出してたくらいなのに。

そんな彼女の変化には戸惑わずにはいられなかった。

「それじゃ、また」
「うん。また」

受付の交代の時間がきてあたしは部屋を出た。
カオリとまた会う機会があるのかどうかなんて、あたしはもう考えなかった。


「藤本さん、後藤さんのお土産の羊羹食べちゃおうよ」
「いいの?勝手に食べて」
「私たちへのお土産だからいいんじゃない?」

石川さんはそう言って羊羹にスッと包丁を滑らせ、等分に切り分けた。
あたしは羊羹にはやっぱり緑茶だろうと急須に手をかける。

「そういえば当の後藤さんは?」
「受付」

時計を見たら3時だった。
なるほど、おやつの時間なわけね。


カオリと数年ぶりに再会したあの秋の日。
あの夜の自分の選択は正しかったのだろうかとあたしはずっと考えていた。
あの選択はあたしとよっちゃんにとってベストだったのだろうか。
友達でいることを選んだあたしの選択は。

後藤さんに指摘される前に『臆病』だと言われたことがあると自ら語っていたよっちゃん。
誰に言われたかは知らないけれど少なくともあの日の彼女は臆病とはほど遠かった。
あたしから見れば大胆で唐突で。
胸が痛くなるほど真っ直ぐに想いのたけをぶつけてきた。

臆病風に吹かれたのはむしろあたしのほうだったのかもしれない。
彼女とのそれまでの関係を崩したくない一心であたしは友達でいることを選んだ。

自分の心に嘘をついてまで。

「藤本さん、藤本さん?」
「えっ、なに?」
「どっかいってたよ、今」
「ああゴメン。ほら冬だから」

羊羹を食べながら物思いに耽っていたら石川さんが不安げな顔でこっちを見ていた。
突然のことでわけのわからない言い訳をしてしまった。

「冬はそういう季節よねぇ」

石川さんには石川さんなりの解釈があるらしく、今のあたしのようなおかしな返答でも
会話を続けられるのが彼女の凄いところだと思う。

「最近ね、私恋をしたの」
「へー」

聞いてほしそうにこっちに体ごと向ける石川さんからさり気なく視線を逸らして曖昧に頷いた。
今のあたしにコイバナは、正直耳が痛い。

「フラれちゃったんだけど」
「ふーん」
「その人が言うには私は恋に恋してるだけだって」
「………」
「自分のことを好きなのは錯覚で、しばらくしたら醒めるだろうって」
「そういうこともあるかもね」
「たとえそうだったとして、それって悪いことなのかな」
「どういうこと?」
「恋に恋してたっていいじゃない。なにがいけないの?
 私の恋を、たとえその人でも否定してほしくなんてなかった。
 宙ぶらりんになった私の想いの行き場がその言葉で失くなっちゃったんだよ?
 せめて着地点まで面倒を見る覚悟でそういうこと言えってのよ!
 どうしてくれるのよ!!この私の気持ち…」
「お、落ち着いて。石川さん」
「ってキレたの」
「へ?」
「だって本当に悲しかったんだもん」

恋を否定されたことよりも想いの行き場を失くされたことのほうが
彼女にとってはダメージが大きいようだった。

それは利己的で相手のことなんてこれっぽっちも考えていない理屈だったけど
的確にあたしの胸を深くえぐった。
自己中だけどとても素直な彼女の瞳を見返す勇気は今のあたしにはなかったから。

よっちゃんの行き場を失くした想いは今どこにあるんだろう。
そしてあたしの想いも。

どこにも置いておけなくなった想いはいつか消化するのだろうか。
本人が望む望まないに関わらず。

よっちゃんのあたしを好きだという気持ちがいつか空に消えていくシャボン玉のように
霧散するのかと想像したら、涙がポロポロと零れ落ちた。


あたし、よっちゃんが好きなんだ。


石川さんの話もそこそこに涙を見られぬようトイレに立った。

あたしはなんて大バカなんだろう。
今頃気づくなんて。

世界一の大バカだ。



「あっよしこ」
「ウィース」
「どこ行くの?」
「ちょっと学長室まで」
「最近あんまり遊んでないんだって?女の子たち付き合い悪いって文句言ってたよ」
「ははっ。あたしは仕事に目覚めたのさ」
「それよりこの人の目、どう思う?」
「それよりって…相変わらず投げっ放しなんだから後藤さんはー。
 もうちょっとよしこに構ってくれてもいいんでない?」
「はいはい。でもこの目はヤバイでしょ。仮にも受付嬢が」

さっきから頭の上で声がすると思ったら…後藤さん、受付交代したんだから早く戻りなよ。
上で羊羹が待ってるよ。
よりによってなんでこんな時によっちゃんまで通りかかるかな。
このタイミングの悪さったら。

「うわっホントだ!どうしたんだよ藤本くーん。誰にやられた?
 チックショー。オイラが仕返ししてやるぅ」

この場合よっちゃんの制裁が加えられる相手はあたしなんだろうか。
涙の原因はあたしのバカさ加減のせいだと
あたしみたいな女を好きになったこのバカは知らない。

「やっぱりよしこは藤本さん絡みだと目の色が変わるね」
「藤本くんはオイラの愛しいスウィートハートだからね」
「はいはい。そのスウィーティーが睨んでるよ。
 目真っ赤だからいつも以上の迫力だし。後藤は退散しまーす」
「うーん。その泣き腫らしたかのような目がまたそそりますなぁ」

ボンッガギンッズゴンッ

「泣いたんじゃないもん」
「痛っー。じゃなんで?」
「ご、ごみが目に入ってコンタクトずれまくって」
「ふーん。やっぱコンタクトって怖そうだな。あたしには無理だわ」
「根性なし」
「スケベ根性なら常時持ち合わせておりますが」
「そんないい笑顔されても。言ってることはかなりアホなのに」
「アホじゃなーい!オイラのスケベ根性を甘く見てもらっては困ります」
「いや全然困んないけど」
「なんだよ。人が心配してやったのにさ。ノリ悪ぃーなぁ」
「わかったから。アリガト。早く学長室行かなくていいの?」
「あぅっ、そうだった。んじゃまたな」
「じゃーね」

今さら素直になんか、なれっこない。

あたしは睨みを利かせてよっちゃんのバカな発言にツッコミ入れて、
時々彼女の優しい言葉にひねくれた答えを返す、いつもの藤本美貴。
それがあたし。

藤本美貴は藤本美貴でしかありえない。
この自分らしさで彼女と接していくことに慣れきってしまっている。
今さら変えるなんてありえない。
変えられるわけがない。

あたしは石川さんのようにときに相手にキレるほど素直な感情をぶつけることはもうできない。
そんな資格があるわけがない。
あの夜あたしを抱き締めようとした手を振りほどいたあたしには無理な話。

バカな自分に呆れてもう涙も出なかった。

カウンターに突っ伏して頭を抱えていたらそっと髪を優しく撫でる感触がした。
驚いて顔を上げると、そこにはあの夜と同じ顔をしたよっちゃんがいた。

「な…んで」
「こっちのセリフ」
「学長室行ったんじゃ」
「なんか気になって戻ってきた。それよりそっちこそなんで」
「え?」
「藤本くんをそんなに落ち込ませる相手はダレなの?それともモノ?コト?」
「………」
「こんなに腫らすまで泣くかな普通。かわいい顔が台無しだよ。
 そんなに暗い表情して。藤本くんがそんなんじゃオイラも心が曇り空だよ」
「ばっ、なに言って…」

急に視界が暗くなって、なにが起こったのかしばらく理解できないでいた。
でもなんだかとても気持ちよくてポワンと宙に浮いてる感じがしていた。
そして目を開けて気づいた。

頬に手が添えられているのを確認して
彼女の長い睫毛が目の前にあるのを見て

彼女にキスされてるのだとわかった。

あぁ、あたしいつのまに目を閉じたんだろ。
彼女の唇を抵抗なく受け入れたんだろう。
頭で考える前に勝手に体が動いたってことかな。

そんなこと考えながらもあたしまた目閉じてるし。
彼女の唇と舌に思いのままに身を任せてるし。
うっとりしちゃってるし。

でも本当に気持ちいいからもう少しなにも考えずにこうしていたいな。

「二人とも、ここ会社」
「キャー!!」

はっとしてあたしは思わずよっちゃんを突き飛ばした。
自分の悲鳴で我に返る。
声がしたほうを見るとこれ以上ないってほどニヤけている木村先生がいた。
よかった、見られたのが木村先生で。
この人ならからかわれはしてもペラペラと言い触らしたりはしないよね、たぶん。

「案外大胆なのね、藤本さんって。
 あっいいのいいの。邪魔者は消えるんで続きどうぞー。思う存分やっちゃってー。
 でももう少し人目のつかない所のが面倒が少なくていいと思うわよ?」

そんなウインクつきでアドバイスされても…会社でそんなことしませんっ。
今してたけど。説得力ないけど。

遠ざかる木村先生の背中に悪態をついてたらしっぽをダランと下げて
耳もこれ以上ないってくらい垂れて、上目遣いでこちらを伺う控えめなヴィンセント…
もとい、よっちゃんが恐る恐る声をかけてきた。

「あの〜、ゴメン」
「なんで謝るの?」
「いきなりキスして」
「うん。でもあたしも受け入れちゃったし」
「あんなキスしてごめん。友達にするようなのじゃなかったよな」
「そ、うだね」

口元の唾液をハンカチで拭った。
お互いのが混ざり合った唾液を。激しいキスの痕跡を。

「でもアリガト。よっちゃんが悩みのタネを吸い取ってくれた感じだった」
「マウストゥマウスなら任せなさい」
「調子に乗るな」

ペチッ

「もう行かないと本当にヤバイんじゃない?」
「うん。もう行く。最後にこれだけ」

チュッ

「な、なにっ?」
「へへ。ほっぺにチュウならかわいいもんでしょ。じゃあねー!バイバイキーン!」
「オマエいくつだよ」

チュウをされた右の頬を押さえながら、そういえば受付って監視カメラついてるんだよなーと
忘れていた事実を今さらながら思い出して秘書課に戻るのが憂鬱になってきた。
見られてなきゃいいけど。

でもきっと見られてるんだろうな。
こういうタイミングは逃さない気がする。
あの二人は。特に石川さんは。

そんな心配とは裏腹に、あたしは鏡を見なくても
自分がこれ以上ないくらい最高に笑顔なのがわかっていた。
よっちゃんにキスされて嬉しい気持ちが隠しきれない。

彼女のことが好きだと気づいてから初めてのキス。
彼女があたしを好きだと言ってくれてから初めての。
今のあたしたちはもちろん友達同士だけど、
好きな人からのキスがあたしはとにかく無条件に嬉しかった。

そんな自分が恥ずかしくて悔しくて。
一度は振りほどいた手なのにあたしは彼女の好意に甘えてしまった。
甘いキスに溺れてしまった。

ゲンキンな奴。

いつか自分の気持ちに素直になれる日が来るのかな。
もっとよっちゃんにキスされたら…あたしはその胸に飛び込めるのかな。

やっぱりゲンキンな奴だ。

また自分に悪態をついてから溜まっている書類に目を通した。
やっぱり顔はニヤけてたと思う。



半ば予想していたこととはいえあたしにも我慢の限界ってものがある。
そろそろ限界に近いよ?

「場所が場所だけにね〜」
「しかもあんな大胆にね〜」
「長かったし〜」
「舌からませてたし〜」
「モニターから音が聞こえてきそうなくらい動いてたよね、二人の喉」

えっと、あたしはいつまでこの話を聞いてなきゃいけないんですか?
キミたち覚悟はできてるの?

「はぁ〜。もういい加減にしてよ」
「だってまさか藤本さんとよっちゃんがそういう関係だったなんて」
「いつからなの〜?」
「べつにそういうんじゃないから」
「にしては熱烈キッスでアッツアッツだったじゃな〜い」
「石川さんキショイよ。よしこの藤本さんを見る目、あれはマジだったね。
 あの場で始まっちゃうかと思ったもん。木村先生さえ邪魔しなきゃね〜」

今頃はすごいことになっていたのだろうか。いやまさか。
いくらなんでも受付ではね、しないと思うけど。

でも気持ちの加速度は間違いなくついた。あたしはもう認めている。
よっちゃんが好きでよっちゃんにキスしてほしくてよっちゃんに抱かれたい自分がいることを。

最後の一歩が踏み出せないでいるのはあたしの中にいるもう一人のひねくれたあたしのせい。
素直になることを忘れてしまった自分が躊躇わせる。
臆病な自分が友達関係を崩していいのだろうかと
一度ふりほどいた手を再び掴んでいいのだろうかと二の足を踏ませる。

あの時よっちゃんはどんな気持ちでバカやろうと言ってくれたのか。
あたしにはその言葉を今さらないがしろにすることはできない。

バカやっていたいと言ったあたしにバカやろうと言ってくれたよっちゃんの気持ちを
あたしの一言で踏みにじってしまうことになるんじゃないかって。

自分から言い出した責任だし屁理屈をこねているのはよくわかってる。
こうやっていろんな理由をつけて自分がよっちゃんに告白できない言い訳をしていることも。

ただ一言、『好き』が言えない自分が情けないだけなのに。

「よしこは藤本さんのことが本当に好きだったんだね」

その言葉を聞いた瞬間、自分でもわかるほど顔が火照って恥ずかしさのあまり
俯いたままトイレに駆け込んだ。
まるでいじめられっこのようにトイレが安息の場所となってしまった本日二度目のその場所は
あたしの真っ赤になった顔を正常に戻すのに十分なほど静寂に包まれていた。



「というわけで生。大ね」
「どういうわけよ。あたしも大」
「二人ともすごいわね。あたしはウーロンハイ。薄めで」
「冬は生だろ、やっぱ」
「冬だけじゃないでしょ」

仕事を終えて外に出たところでサングラスをかけた二人組の
怪しいことこの上ない女たちに拉致された。
すぐによっちゃんと木村先生だと気付いたけど二人に誘拐ごっこを強要されて
不本意ながらもその小芝居に付き合った。
さすがに木村先生は殴れないし。

「おとなしくしろ」とか「助けて〜」とか「藤本さん棒読みすぎ」とか言い合いながら
いつもの居酒屋に連れてこられた。

普通に飲みに行こうとなぜ言えないのか。
この二人のテンションの高さが不思議だった。

「ちょっと遅れたけどアヤカの帰国祝いってことで」
「ちょっとどころじゃないわよ?ヒトミ。かなーり待ってたんですけど」
「とりあえずかんぱーい」
「あっコラ、あたしのセリフ取るな」
「よっちゃん前置き長いんだもん。泡なくなっちゃうじゃん」
「長くねーよ。まだ全然じゃん。それに泡なんてこれくらいで十分だっ」

そう言ってよっちゃんは自分のジョッキに口をつけ、器用に泡だけ啜った。
三分の一くらいを残してこれくらいな、って顔をしてビールを指差す。
口ひげの形をした白い泡が彼女の笑顔に妙にマッチして可愛かった。

「いいコンビね二人とも。ヒトミが藤本さんを選んだのも分かる気がするわ」

薄いウーロンハイをグビグビ飲む木村先生。
あっという間に飲み干しておにーさんを手招きする。

「ウーロンハイお替り。薄めで」
「だしょだしょ?オイラたちは固〜く愛を誓い合っ」

ピチンッバツッ

「クリスマスは何か予定あるの?藤本さん」
「特にこれといってないですね〜」
「藤本くんはオイラと熱〜い夜を過ごっ」

ドカンッバシッボンッ

「今年のクリスマスは会社も休みだしヒトミと二人でゆっくり過ごせるわね〜」
「木村先生までなに言うんですかぁ」

そう。今年は天皇誕生日を境にそのまま冬休みに突入する。
例年より少し早いのは実は理事長のお孫さんの他愛のない一言のせいだったりするから
休みが増えるのは単純に嬉しいとしても職員としてはそれでいいのだろうかと複雑な心境だ。

「でもなんで今年は冬休みが長いのかしら」
「アヤカ知らないの?例のやんちゃ坊主の発言」
「やんちゃ坊主?」
「理事長のお孫さんのことです」
「あーたしかのぞみくんだったっけ?一度ロンドンクリニックで会ったことがあるわ」
「そ。そののぞみがさ、こないだ日本に帰ってきて会社に遊びに来たんだよ」


その日あたしたち秘書課は交代でのぞみくんの相手をしてあげていた。
ロンドンでの生活や最近見た映画の感想、ガールフレンドの惚気や
クリスマスはスイスで過ごすとか、とにかく10歳の子供らしからぬその饒舌ぶりに
あたしたちは内心疲れていた。
また、そのかわいくない物言いにもうんざりしていた。

正直言って子供は嫌いじゃない。いやホントに。
甥っ子とよくプロレスごっこをしてあげるし、
ヒーローごっこで怪獣役もやってあげるほどだ。
しかも目からビームを出すミキティンガーになっちゃうほど。

甥っ子のネーミングセンスはともかく、だから本来子供は嫌いじゃないはず。
でも例外というものがあるようで。

「藤本くんココものすごいことになってるよ。思い出してムカついた?」

よっちゃんが自分の眉間を人差し指でトントン叩いた。
そんなにしかめっ面だったのかな。
気を取り直してビールを飲む。

「いつも思うけどあんなに偉そうな子供いないよ。
 自分を何様だと思ってるわけ?あのコ。あの態度の大きさにはうんざり。
 あんな甘やかされてさ、将来ロクな経営者にならないって。うちの大学ヤバイよ絶対」
「でもその頃にはオイラたちいなくなってんじゃない?」
「それもそうね。未来の教職員の人たちは大変ね。ウーロンハイお替り。薄めで」
「よっちゃんもちっちゃい頃あんなにワガママ放題だったの?」
「いや、あたしとのぞみじゃ立場も育ってきた環境も違うから一緒にしないでくれよ〜。
 うちはもっと厳しかったっつの。まあ生意気とは言ってもまだ10歳やそこらだし。
 それにあのガキは間違いなく将来うちの大学のトップになるからね、
 皆が頭上がらないのも無理ないんじゃない?だからつけあがるんだけどさ。
 副理事もやっとできた一人息子だから猫っかわいがりしてるし。
 おにーさーん、生おかわり〜。あ、藤本くんも飲む?大、二つね」
「で、そののぞみくんが何を言って冬休みが長くなったの?」


のぞみくんはロンドンに住んでいるということもあって
日本語よりも英語のほうが喋りやすいらしく
日本人らしからぬ身振り手振りでいろんなことをあたしたちに聞いてきた。

ステディな相手はいるのかとか、クリスマスはどう過ごすのかとか。
10歳の子供相手になんでそんなことまで答えなきゃいけないのか
普段のあたしならプロレスごっこと称した鉄拳をお見舞いするところだ。
さすがにそれはグッと堪えたけど。

あたしたちが至って普通にクリスマスは毎年仕事だと言うとあのクソガキ…
もといクソ生意気なお坊ちゃまはまるで信じられないといった顔をして体全体で落胆を表現し
心底同情したという目であたしたちを見てから「はぁぁぁぁぁ〜」と深いため息をついた。
そしてちょうど部屋に入ってきた副理事にこう言い放った。

『パパ、このおねーさんたちクリスマスも仕事なんて可哀想れすよ!』

まさに鶴のひと声。
嘘みたいな話だけどこの発言が発端となりクリスマスが休みになった。

「なるほどー。あたしたちがクリスマス休暇を取れるのもその小さな王様のおかげなわけか」

木村先生もちょっと複雑な表情を浮かべている。
そりゃそうだよね。
なんかトホホって感じだよね。

「まあまあ。ここは素直に休暇が増えたことを喜んでオイラと熱〜いチュ」

ガッシャーンッ

「ヒトミってマゾだったのね。ウーロンハイお替り。薄めで」

そっかよっちゃんってマゾだったんだ。
じゃあたしやっぱりサド?違う違う!
これはお約束みたいなもんだし。
そもそも殴られるようなことばっかり言うよっちゃんが悪い。
だからあたしもつい条件反射で手が出てしまう。

それに、バカやりたいって言ったのはあたしだもん…。

それより木村先生は薄めのウーロンハイ飲みすぎだから。
最初から濃いやつ頼もうよ、そんなに飲むなら。


「で、本当のところはどうなの?二人」
「ふぇっ?」
「ヒトミに聞いてもいつもごまかされるのよね〜」
「ひょ、ひょうなんでしゅか?」

あたし動揺しすぎ。
口の中の揚げ出し豆腐ちゃんと飲み込んでから喋ればよかった。
それにしてもよっちゃんいつもなんてごまかしてるんだろう。

「よっちゃんとは飲み仲間っていうか友達です」
「友達?」
「そうですよ。彼女は友達です」
「昼間あ〜んな熱いキスしといて?」
「ですよねぇぇぇ」

思わず木村先生の言葉に深く同意してしまった。
自分のことなのにうまく説明できない。

「好きなんでしょ?」
「まぁ」
「お互いに」
「たぶん」
「じゃどうして」
「さぁ」

生返事ばかりのあたしに木村先生ががっくり肩を落としている。
あたしは自分の抱えている想いを全部さらけ出せるほどにはまだ木村先生と親しくなかったし、
なによりもめんどくさかったからよっちゃんが早くトイレから戻らないかな〜と思っていた。

「ヒトミが遊ばなくなったのってやっぱり藤本さんが原因なの?」

たぶんそうだろうけどここで肯定なんかしたら自惚れているみたいだし
実際のところはわからなかったからまた曖昧な返事をした。
木村先生はもうあたしとまともに会話することを諦めたようで一人で勝手に喋りだしていた。

「あたし日本に帰ってきてから何度もヒトミを誘ってるのにちっとも遊んでくれないのよね〜。
 今日だって藤本さんと一緒ならいいって言うからあんなバカみたいな誘拐ごっこに付き合って。
 ホント、ヒトミ変わったわよ。でも今のヒトミって前より数段カッコイイ。
 ふとした瞬間に見せるストイックな表情がいいのよね〜。医局でも専ら噂の中心なのよ〜」

ストイック?どこが?
ていうかなんかムカツク。

これって嫉妬なのかなもしかして。
よっちゃんがモテモテなのは今に始まったことじゃないけれど
こうあからさまに言われると胸の辺りがモヤモヤして気持ち悪い。
いや、気分が悪い。

しかもなにこの人。
よっちゃんにはその気がないっていうのに何度も何度も誘うなんて
ちょっとしつこいんじゃないの?
今の数段カッコイイよっちゃんがあるのはあたしのおかげだからなんだよって言ってやりたい。
顎でもつかみながら。

「フフフ。藤本さんって正直ね〜」
「なにがですか」
「顔すっごい恐いわよ。そんな顔見たらヒトミも幻滅しちゃうんじゃな〜い?」

ハッとして鏡を見た。ホント恐すぎ。
この顔で受付にいたら誰も寄ってこないだろうな。
ってあたしもしかして木村先生にからかわれたの?
殴っていいかな?いいよね?

「ったく、最近の若い子は限界ってものを知らないよね〜。トイレで吐きまくりだよ。
 オェーって。かわいい顔してすんげえ声出すの。あれは正直萎えるな」
「ヒトミってばその言い方おじさんくさいわよ」
「おじさんって…ん、どうしたの藤本くん。そのプルプル震えてる拳はなあに?」

ガヅンッ

「うぇぇぇ〜。なんで?なんでオイラいきなり殴られんの〜?!」
「詳しくは言えないけどたぶんあたしの身代わりだと思うわ。
 あ、ウーロンハイお替りね。薄めで」

ちょうどいいタイミングでよっちゃんが帰ってきてくれて少しスッキリしていた。











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