大学編 2






秘書課の仕事はけっこうしんどい。

なにがって聞かれると説明しにくいけど要は雑用係みたいなもので
接待の付き合いなんかもたまにある。
お茶入れや受付なんかはたいした労力を使わないけど数をこなすとさすがに疲れるわけで。
隙を見て『○○課に行ってきまーす』なんて仕事のふりして
息抜きに出たりすることもしばしば。
だから今日も散歩がてら学内をウロウロしてる。

「サボりですか藤本くん」
「オマエがな」
「でたっオマエがな返し!それは卑怯だよ。ズルイズルイ」
「オマエがな」
「なに言ってもそれ返されちゃたまんないよ〜」
「オマエがな」
「いや普通に会話しようよ。あのさ、突然なんだけどオイラの彼女になってくんない?」

バシッズボッ

「さてと、そろそろ戻って書類プリントアウトしなきゃ」

お腹を抱えてなにごとか唸ってるバカを放って部屋に戻った。
まったくいつもいつも言うことが突拍子もない。

あ、ファックスきてるじゃーん。
石川さんどこ行っちゃったんだろ。
サボるのもいいけど早く帰ってきてね。

「藤本さーん、入試の吉澤さんからお電話です」
「まわさないでください」
「もうまわしちゃいました」

しぶしぶ受話器を取る。

「忙しいんだけど」
「ひどいよ美貴ちゅわん。愛の鞭にしてもキツすぎだよ」
「愛じゃなくてただの鞭なんだけど」
「まま、そんなことよりさっきの話なんだけど」
「彼女がどうとかってやつ?冗談にしてはしつこいね。珍しく」
「これが冗談じゃないんだな」

途端に心臓が早くなる。

「実は彼女のふりしてほしいんですよ」

途端に空気が冷えていった。

なにそれ。
一瞬でもどうしようとか思った自分がバカみたい。
べつに好きとかそんなんじゃないのに。
無性に腹が立ってきた。
期待させといてなによ。
いや期待なんてしてないけど。するわけがないけど。

「とりあえずメシ食いながら詳しい話するんで。昼にレストランね。2階でいいよね」
「よっちゃんの奢りだよ」
「もちろんわかってますって」



うちの大学のレストランは無駄に豪華だ。
豪華で美味しい。
しかも学生向けに安いときてる。
あたしがここを辞めたくない理由は実はこのレストランがあるからだったりする。
しかもこの春、レストラン棟の2階に新しくイタリアンレストランがオープンした。
わざわざイタリアから呼び寄せたシェフが自慢の腕を揮っている。
なんでも旅行でイタリアを訪れた常務理事がそのシェフの料理に感動して
ジャパンマネーをひけらかして連れてきたとかなんとか。
そんなウソかホントかわからない噂を庶務課の矢口さんから聞いたことがある。

噂の真偽はともかくイタリアから呼び寄せただけあって
さすがに料理の味は絶品だった。
だからあたしは週に3回はそのイタリアンレストランで昼食をとっていた。


「彼女のふりってどういうことよ」

ひと足先にデザートを食べながらさっきの話の続きを促す。
詳しく話すと言っておきながら、食べるのが遅いよっちゃんは
今日のメニューのヒレ肉のなんとか風に舌鼓を打つのに夢中で
しかも新しいウェイトレスを目ざとくチェックしたりなんかしてるから
あたしはいい加減業を煮やして自ら話を振った。

「そうそう!忘れてた。つーかあのコいつ入ったんだろ?けっこう可愛いなぁ」
「うぉい!ナンパは一人のときにしてよね」
「でもああいうタイプは後々厄介なことになりそうだからなぁ。藤本くんもそう思わない?」
「たしかにちょっと執念深そうだよね。
 顔とスタイルはまあまあだけど。ってうぉい!話は?話!」

コーヒーのお替りを頼んでウェイトレスをまじまじと見るよっちゃん。
彼女は視力が悪い。
でもってコンタクトが怖いとかわけのわかんない理由でメガネ派だ。
それなのにあまりメガネをかけない。
かけるのは運転するときくらい。
だから近くに呼んで顔と名前を確認したかったんだろう。
ま、可愛い女の子を見るのにメガネかけられてもちょっと引くけど。

「高橋さんっていうのか〜。可愛いけど今回はパスしとこう」
「吟味はお済みですか?エロ魔人さん」
「ええお待たせしました。じゃ本題に入りますか」
「ここまで長かった。で、なんの話だっけ」
「彼女になってほしいんだよ」
「彼女のふり、でしょ?」
「そう。いや実はさ、夏休み明けにソフトボール大会あるじゃん」

うちの大学では年に一度、創立者中澤裕之介杯ソフトボール大会が行われる。
全教職員が男女それぞれ10チームくらいずつに分かれて優勝賞金ウン万円を目指して争う。

開催時期はまちまちでその年のなるべく忙しくないときを狙って行われる。
大体夏休み前か後、それか本格的に受験シーズンに入る前の九月。
今年は夏休み明けすぐの開催だということは
所属長を通してすでに各課の教職員全員に通達がきていた。
基本的には仕事扱いになるので必ず全員参加しなければならない。

「それがどうしたの?」
「なんだか知らないけどあたし今年実行委員らしいんだわ。で、こないだ会議に出たのね。
 そしたら普段あんまり会わない人とかいっぱいいるわけよ」
「まあそうだろうね」
「病院の人とか初めて見る人ばっかじゃん?うちら基本的に南館にしかいないし」
「あたしたまに病院長室に届け物するけどね。あそこ遠いんだよ〜。
 オマエが取りに来いってあのハゲに時々怒鳴りたくなる」
「おっ!さすが藤本くん。病院長がヅラだってことに気づいたんだね」
「あれバレてないの?もしかして皆まだ知らないとか」
「長く勤めてる人は知ってるだろうね〜。
 あたしはたまたま病院長室の応接室でやってるときにヅラが落ちてて
 かぶってみたら病院長と同じ髪型になって気づいたんだけど」
「えーとちょっと待って順を追ってつっこむから。
 まず、病院長室の応接室でなにやってたって?」
「エッチ」
「そっかそっかやるって言ったらひとつだよね。ってかやるなーバカ!
 病院長室ってよしこのテリトリー外でしょうが!」
「だってあそこ前に入ったとき景色がよかったから」
「わかった。それはもういい。ヅラが落ちてて普通かぶる?」
「かぶってみなきゃ誰のかわかんないじゃないですか」

誰のかわかる必要があるのかと思ったけど
これ以上話が脱線したらホントに昼休み中に終わらない気がしたし
ちょっと頭が痛くなってきたのでヅラ話は切り上げることにした。

「………なんかどうでもよくなってきた。で、なんの話だっけ」
「そうだよ!なんでこんな話になったんだ?
 とにかく会議には講座の人とか衛生士さんとかが来てて…
 なんかオイラに惚れちゃったみたいなんだよね、どうやら。
 おねーさーん、コーヒーお替りね。藤本くんも飲む?」
「コーヒーよりビール飲みたいかも。
 あたし貴重な昼休みをよっちゃんの自慢話聞いて終わらせたくないんですけど」
「勤務中にビールはヤバイでしょ。藤本くんもけっこう言うねぇ」

高橋さんにコーヒーのお替りをもらいご満悦のバカ大王。
このバカが高橋さんを食べちゃう日もそう遠くないんじゃないかとあたしは踏んでいる。

「惚れられたからなんだっていうのよ。いつもみたいに遊んだらいいじゃない。
 病院だけに、診察室とかで」
「いいねぇ〜そのシチュエーション。考えただけで燃える。藤本くんとオイラが…ムフフ」
「なんであたしなのよ」
「えー。だって藤本くんのナース姿見てみたーい。ナース服脱がせたーい。診察台に押し倒…」

ガツンッボコッ

高橋さんが目を丸くしてこっちを見ていたけど気にしなかった。
それよりいつになったら話がスムーズに進むんだろう。
窓から見える景色を眺めながらあたしはコーヒーを啜った。



当然のことながら昼休みが永遠にあるわけではない。
結局話の続きは今夜飲みながらということになりレストランを後にした。
去り際によっちゃんが高橋さんを見ながら
「調理台のシンクの上ってのもいいかもなぁ」と呟いたのを聞き流して。

秘書課に戻ると後藤さんと石川さんがソフトボール大会の日程表やら対戦表を見ていた。
タイムリーだなと思いながらその話の中に加わった。

「今年は優勝できるかなぁ」
「無理でしょ。看護婦さんチーム強すぎだもん」
「あの人たち毎年新しいほうの休憩室使う権利がかかってるらしいからねぇ」
「それで本気なんだ」
「なんか目とか血走ってるもんね」
「そうそう。それに平均年齢若いしねー」
「今年はうちのチームはよっちゃんが実行委員なんだってね」
「えっそうなの?」
「うん。さっき言ってた」
「じゃあ来年はあたしか藤本さんかなぁ。去年石川さんだったもんね」
「実行委員って毎年持ち回りなのよね」
「よしこのことだから委員権限で可愛い看護婦さんとお近づきになったりしてんじゃない?」

そう言いながら煎餅をバリッと齧る後藤さん。
なかなかいいとこついている。
そういえば後藤さんはよっちゃんとそういう関係になったことあるのかな。

「よっちゃんは若い子ダメって言ってたよぉ?あたしみたいな大人の女がいいんだってー」

イタイこと言ってる石川さん。
悪い人じゃないんだけどそのイタイ言動はときにブリザードを起こすほど。
たぶんそれは口説くのに言っただけなんじゃないかと思ったけど
いちいちつっこむのも面倒なのでやめた。

「それよしこ皆に言ってるから」

後藤さんがサラッと言ったセリフも石川さんには通じない。
自分に都合の悪いことは聞こえないのか石川さんは話をソフトボール大会に戻した。

「私たちのチームって大人数のわりには若い子少ないのよねぇ」
「そうオバサンばっか。きっとうちら出ずっぱりだよ」
「ただでさえ秘書課は華があるからってイベントごとには引っ張り出されるからね」
「よしこも大変だね」
「私は去年そうでもなかったよ?」
「石川さんはそうだろうけどよしこは大変でしょう」
「そういえば会議で病院の人たちに惚れられたとかフザケたこと言ってた」
「やっぱりね。あっちの人たちと交流あるのってこういうときくらいじゃん。
 ここぞとばかりによしこ狙いがグラウンドに殺到するんじゃない?」
「去年はよっちゃん風邪でお休みだったっけ」

風邪なんかじゃなかったことはあたししか知らない。
その頃アイツはハワイだかグァムだかで女とバカンスを楽しんでいたはずだ。
新入社員のくせに社内行事にいきなり不参加なんて
どういう神経してんだかと呆れたのを覚えている。
こっちは若さを理由に先輩方からスタメンフル出場なんて
ありがたくない待遇を受けて筋肉痛に泣いてたっていうのに。

それにしても風邪だなんてベタな休みの理由を皆が信じるとは思わなかった。
大体バカは風邪なんかひかないし。

「風邪ねぇ。それも今思えば怪しいもんだ。ねぇ藤本さん」
「そ、そう?風邪だっていうんだからまあそうだったんじゃないの?」

やっぱり怪しまれていたか。
後藤さんって普段ボーッとして課長の話なんか全然聞いてないくせに
変なところがやけに鋭かったりするんだよね。
でもお土産の高級バッグをもらったからには口を割るわけにはいかない。

「あ、あたし受付の時間だ。行ってきまーす」

まだ喋り足りないという顔の二人を残して逃げるように部屋を出た。
いい加減に仕事しようね、二人とも。



いつもの居酒屋に行くのかと思っていたら連れられたのはちょっとお洒落なバー。
あたしが怪訝な顔をしていると、「たまにはいいでしょ」と
よっちゃんはソルティドッグを注文した。あたしはスプモーニを。

ホントは生ビールが飲みたかったけど、彼女の雰囲気に合わせることにした。
まさか口説かれないとは思うけど今夜の彼女のあたしを見る目が
熱を帯びているような気がしたから恥ずかしさで少し熱くなるのを感じていた。

「昼間の続きだけど」
「うん」
「正直病院の人とは関わりたくないんだ」
「どうして?」
「理事長と病院長、犬猿の仲なんだ」

なるほど。
理事長と縁故関係のあるよっちゃんが病院長のテリトリーで悪さしてバレたりなんかしたら
厄介なだけじゃ済まないわけか。理事長にも多大な迷惑が及ぶ。
ん?それなのによく病院長室の応接室でエッチなんて。
あたしの表情を読み取ったのか先回りしてよっちゃんは答えた。

「あそこの応接室はホントに眺めがいいんだよ」

苦笑しながらグラスを傾けるよっちゃん。
手についた塩をペロッと舐めてこちらをじっと見た。
なんとなく胸がざわざわしたけどあたしは気にせず話を続けた。

「一度危ない橋渡ったんだから今さら病院の人とどうこうなんて心配しなくていいんじゃない?」
「それとこれとは別。あの病院長、自分の部下のことには常に目光らせてるから
 下っ端とはいえ看護婦さんや助手の人なんかに間違っても手出せないよ」
「出さなきゃいいじゃん」
「ほら、でも誘われたらフラフラっとしちゃいそうで」
「で、あたしに彼女になれと?」
「そう。彼女がいるってわかったら近づいてくるコも減るでしょ。美貴の眼光に一発でビビるよ」
「あたしじゃなくても石川さんとか後藤さんでもいいじゃない」
「そうだけど…なんつーか、芝居でもいいから美貴と恋人気分を味わいたいなぁって」

な、な、な、突然なに言い出すの!!
グラスを持った手をプラプラさせながらあたしを下から覗き込むように見るよっちゃん。
その表情はいつになく真剣で、でもかわいらしくて…あぁ、どうしたんだろあたし。
大きな瞳に危うく吸い込まれそうになる。

「美貴?」

もう、ホントやめて。
そんな女の子を口説くときのような顔と声であたしの名前を呼ばないで。
いつもみたいに殴れる雰囲気じゃないじゃない。
しかもこんな場所で言われたらあたしだってちょっとフラフラって……ならない!絶対ならない!!
だってあたしたちはそういう関係じゃないんだから。
よっちゃんの本気と冗談の境がわからなくなってきたよ〜。

彼女は相変わらずグラスを傾けてあたしを見つめる。
今夜はやけにかっこよく見えるから胸の高鳴りが抑えきれない。
そうやってどの女の子にも視線を逸らせなくするの?
イヤって言わせなくするの?

あたしは必死で今までの彼女のバカな顔や行動や情けないシーンを思い出そうとしていた。
この目の前の魅力的な人を頭から追い出すために。

あたしの中で二人のよっちゃんが戦っている。
あたしはおバカなほうの彼女に加勢するんだけど本気モードのよっちゃんには防戦一方。
もうこれ以上は限界かもってところで彼女はフッと笑って視線を持っていたグラスに向けた。

「まだ早いかなぁ」
「なにが?」
「なんでもない。店かえよっか」

なにがなんだかわからずにいつもの居酒屋に連れてこられてあたしは明らかに安心していた。
あのまま見つめあっていたら…考えるのはよそう。
いつもみたいに飲んで騒いでよっちゃんを殴ればいいんだ。
あたしは自分の心にむりやりそう言い聞かせて生を頼んだ。もちろん大で。

「でもさ、彼女のふりって具体的になにすればいいわけ?」

ししゃもにパクつきながらよっちゃんの顔を仰ぎ見る。
我ながら色気のない姿だろうなと思う。
でもこれが一番しっくりくるんだもん、仕方ないよね。
こういう姿を見せられる相手がいるってのはいいことだ。うん。

「うんうん頷きながらししゃも食って、そんなにウマイのかー?!ちょっと頂戴」
「あたしのじゃなくてこっちのお皿にあるやつ食べなさいよー。
 子供じゃないんだから人の欲しがらないの!コラ!」
「えぇ〜美貴ちゅわんのししゃもがいいよぉ。
 オイラ美貴ちゅわんにあーんしてもらいたいな」
「あーん」

グサッ

「ってココ鼻の穴だから。しかもなにげにすげー痛いのししゃも。
 鼻の粘膜に突き刺さって。これ武器だよ武器」

イテテとか言いながら鼻を押さえるよっちゃんがおかしくて大爆笑してやった。
やると思ったけど力いっぱいつっこむなよなーと涙目になりながらこぼしてる。
あたしはすごくおかしくて楽しくて、
一緒に笑っていられる幸せというものを噛み締めていた。

もしよっちゃんの彼女になったらこんなにおかしくて楽しい毎日を
手放すことになるんじゃないかって気がしてやっぱり友達がいいなって密かに思った。


「で、どこまでオッケーなのかな藤本くんは」
「どこまでって?」
「チュウは?」
「ダメ。それにこないだしたじゃん」
「今度はちゃんと口にだよ」
「へっ…こないだどこにしたの?ちょっと待って、まさか下着とか脱がせてないよね?」
「なに想像してんだよ〜藤本くん期待しちゃった?イテッ。鎖骨です。鎖骨にチュウしました」
「鎖骨ってどこ?」
「ここ」
「ひゃん」

よっちゃんの手が急に伸びてきてあたしの首の下をなぞった。
その手つきがあまりにもイヤらしくて…だと思う。
あたしが声を出してしまったのは。

「イイ声」
「変態」

鎖骨って。
普通鎖骨ってチュウするとこなの?
あんまり聞いたことないよ。
よっちゃんの性癖ってちょっと変わってるかも。
てかここ鎖骨っていうんだ、へー。

「で、チュウはいいの?」

お替りした生を飲みながら彼女はまた聞いてきた。
手つきだけじゃなくて目つきまでイヤらしくなってきたよこの人。
珍しくあたしよりお酒がすすんでるからか真っ赤に充血した目がイヤらしさに拍車をかけている。
それにしてもそんなにチュウがしたいんだろうか。

「ダメに決まってるでしょ。大体皆の前でする気?そんなの絶対いや」
「じゃ二人っきりのときに」
「する必要ないじゃん」

海老の皮を剥きながら親指と人差し指をベロリと舐めた。
しょっぱっ!おしぼりで手をふいてビールをゴクゴクと飲む。ふぅ。

「藤本くんさ〜。誘ってるの?それ」
「なにが?」
「指とか舐める姿ってそそるよね」
「はぁぁ?」
「ねぇ〜チュウはぁ」
「しっっつこいっ。そんなにしたいのかチュウが」
「したい」
「ほらあそこのおねーさんさっきからチラチラよっちゃん見てるよ。させてくれるんじゃない?」
「イヤだイヤだイヤだ!美貴ちゅわんとチュウするの!美貴ちゅわんじゃなきゃイヤだー!!」

突如立ち上がり店内中に響き渡る大声で叫ぶ男前。
あたしは飲んでいたビールを噴き出してしまった。
もしかして酔ってるの?この人。
すごいわがままっ子になってるよ。
あたしの手に負えるかな?
すんごい殴ったら正気に返るかな?
たぶん無理だよね。
気絶とかされたらそれこそ面倒だし。

「わかったから。わかったから、よっちゃんちょっと落ち着いて。座って。ね?」
「う〜」
「そんな顔しないで。座りなってほら。お座り!」
「ワン!」
「いいコだね〜いいコいいコ。よく出来ました」

今度は大型犬と化した男前。
頭を撫でてあげたら嬉しそうにじゃれついてきた。

その姿が可愛くて、感触があったかくてあたしは思い出す。
ロンドンのミセスマクドーナンドのところで飼われていた
オールド・イングリッシュ・シープドッグのヴィンセントを。
彼は極度の甘えんぼでしつこいほどのかまってくんだった。
でもその大きな風体とは裏腹に非常に臆病な性質も持ち合わせていた。

そんなヴィンセントとよっちゃんがダブって見えたからかな。
あたしがちょっとチュウしてもいいかもって思っちゃったのは。

「ご褒美」
「なにがほしいの?」
「わかってるくせに」
「酔ってるでしょ?」
「それも、わかってるくせに」
「ちょっとだけだよ?」

そしてあたしはよっちゃんの唇にそっとキスを落とした。
触れるだけの友情キスを1、2、3秒。
ここが居酒屋のカウンターでまわりにもたくさん人がいるってことは知ってたし
彼女が酔ってることももちろん承知した上で。
したくなっちゃったんだから仕方ないよね。

彼女の唇は酔ってるくせにやけにひんやりしていて気持ちよかった。

ね、よっちゃん。
あたしたちいいコンビだよね?
こうやって遠慮なしに飲んで騒いでバカやれる付き合いってなかなか貴重だよ。
口にするのは照れくさいけどあたしはいつも思ってるんだよ?
ずっとこうしていたいって。
よっちゃんとバカやれる友達のままでずっといられたらなって。

あたしたちの間に恋愛感情なんて必要ないよね、きっと。
だから今のキスは親愛なる友人に対する感謝の印。
これからも一緒にバカやってようね、よっちゃん。



でも普通寝るかなぁ。
人がチュウしてるときに。
あんなにしたいしたいって自分から迫ったくせに。



あたしに寄りかかってスヤスヤと寝息を立ててる大型犬をどう連れて帰ろうか思案しながら
ジョッキに残った最後のビールを飲み干した。



その夜は一睡もできなかった。

完全に潰れたよっちゃんをタクシーに乗せてとりあえずあたしのマンションに連れてきた。
タクシーを降りるときに2、3回ビンタをかましてむりやり歩かせ部屋にあげた。
靴を脱がせてベッドに放り込んだところであたしの体力は限界。

喉が渇いてキッチンで水を飲んでる隙によっちゃんは目を覚ましたらしく
戻るとキョロキョロしていた。
少し眠って落ち着いたのかこの酔っ払いは飲みが足りないなんて言い出す始末。
夜中に大声で叫ばれたら誰だって渡してしまうと思う。酒を。
いくら殴っても効かないし。

結局あたしも付き合って浴びるほど飲みつつ彼女の女遊び遍歴を聞いていたら朝になった。
こんな状態で仕事に行けるわけがないし行きたくない。
あたしたちは眠い目をこすりながら風邪を装って会社に欠勤の連絡を入れた。
幸い、というか飲みすぎてお互い喉がガラガラだったので信憑性はかなりあったと思う。
電話の向こうの同僚の心配そうな声に申し訳なさを感じた。

連絡を入れた安堵感とオール明けの疲れも伴って眠さはピークに達していた。
あたしたちは無言でそれぞれの夢の中に堕ちていった。
そして次に目が覚めたときはすでにお昼をまわっていた。



「二人して休んだら噂になっちゃうね〜」
「………」
「なんだったらホントに付き合っちゃおうか」
「………」
「藤本くんのベッドは最高だね。スプリング加減がちょうどいいよ」
「ねぇよっちゃん、頭とか痛くないわけ?」
「全然」
「そう、よかったね…」

無駄に元気な楽天家の辞書に二日酔いという文字はないらしい。
あたしはといえばそれほど二日酔いではなかったけど
昨日の酔っ払いの始末で完全に疲れきっていた。
だから当たり前のように同じベッドに寝ている彼女を追い出す体力もなく
そののほほんとした声を頭の後ろで聞いていた。

「あーあ。でもオイラやっぱチュウしたかったなぁ」

なに?!聞き捨てならないセリフに頭をグリンと彼女のほうにまわした。
今なんて言ったのこの人。
チュウしてあげたこと覚えてないわけ?
居酒屋で人にジロジロ見られてたけどしてあげたのに。
珍しく素直な気持ちで(声には出してないけど)感謝を込めてしてあげたのに。
自分は恥ずかしいくらい騒いであんなにわがままし放題だったのに。

あたしの苦労とかも全然覚えてないんじゃないの?この人。
まったくなんなのよ〜。

「したんですけど」
「美貴ちゅわんの唇食べたかったなぁ」
「だからしたっつの」
「そうそう舌とかもからめて…ってした?なにを?」
「チュウだよ。このバカよしこ」

向かい合った姿勢のまま頭突きをかます。
おでこを押さえながら口をあんぐり開けてるよっちゃん。
マヌケな顔がなんか可愛かったから余計むかついてまた頭突きしてやった。
あ、鼻にだから頭突きとは言わないのかな。

「チュ、チュ、チュ、チュ、チュウしたの?美貴と?!」
「そうだよしたよ。してして〜って店で大騒ぎするから仕方なくね」

努めてなんでもないことのように冷静に言った。
あたしにとってはべつになんでもないことなんですよ、って顔で。
特別なキスではなかったんだよって素振りで。
意識されるのもするのもイヤだったからわざとサラッと言った。

「知らないよ〜そんなの。ウソだ。ウソ言ってるんだ」
「ウソじゃないよ。失礼な。そんなくだらないウソつくわけないでしょ」
「百歩譲ってウソじゃなかったとしてもあたしに記憶がないんだからしてないも同然だよぉ」
「だからしたってのに」

よっちゃんの言いようにあたしもついムキになってしまう。
クールさを少しも保てなかったのが情けない。
この子供みたいに駄々をこねるワンコのがよっぽど情けないけど。

「もっかい」
「はいぃ?」
「もっかいちゃんとしようよ」
「バッカじゃないの」
「しようよしようよしようよ。だってあんまりだよ。あたしは覚えてないのに」

そんなに落ち込むことないんじゃないかと呆れつつもちょっと気の毒になってきた。
ウルウルの瞳で見られるとますますヴィンセントを思い出して切なくなるし。
情けない顔もやっぱり可愛いし。

可哀相だからもっかいくらいしてあげようかな。
ってあたしまんまと罠に嵌ってるのかな、もしかして。
それにしてもよっちゃんてこんなキャラだったかなぁ。
まだ酒残ってるんじゃ…。

「じゃ、もっかいだけだよ」
「マジ?」

目、キラキラしすぎだから。

この人頭の中これしかないのかな。
毎日こんなことばっか考えて生きてるんだろうなぁ。
悩みとかなさそうだしあたしとは違った意味で毎日楽しそうで幸せな人だよね。
べつに全然羨ましくないけど。

でもこんなに求められると友達とはいえちょっと嬉しいかも。
だってキスしたいってことは好きってことでしょ?
よっちゃんの場合はエロ魔人だからって部分がほとんどだろうけど
やっぱり好きじゃなきゃ触れたいなんて思わないだろうし。

ん?あたし嬉しいんだ…それって愛情?友情?
よくわかんないなと思っていたら腰に手を回されてよっちゃんのほうに体を引き寄せられた。

「ちょ、ちょっとどこ触ってんのよ」
「だってチュウするんだからもっと近づかなきゃ」

よくよく考えたらベッドの中でこの体勢はちょっとマズイんじゃ。
よっちゃんの手があたしの腰にまきついてギュッと固定される。
ピタッとくっつくお互いの体。
あったかくて気持ちいい。

顎を持ち上げられ至近距離に彼女の顔。
キレイな彼女の、瞳があった。

そういえばなんであたしよっちゃんとチュウしなきゃいけないんだろう。
そんな疑問も彼女の瞳に吸い込まれるうちにどこかに消えてしまった。
たぶんあたしはよっちゃんマジックにかかっていたんだろう。
そうとしか思えない。

だってこんなに胸がドキドキするなんて。
見つめ合ってるうちに泣きたくなることなんて今までなかった。
そして唇が近づいて…あたしは頭の中が真っ白になった。











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