移ろいゆく季節の中で






細い手首をつかみ「愛してる」と口にしたあたし。
彼女はただ曖昧に微笑んで、薄っすらと涙を浮かべていた。
伝えることに精一杯だったあたしに、その涙の意味を考える余裕などありはしなかった。





 side H



遠目から見てもそれがどういう状況で何を意味しているのかはっきりと判ってしまうことを、
良いとも悪いともこのときのあたしは思わなかった。
考えないように無意識のうちに感情を制御したのかもしれない。
大人の常套手段がこんなとき妙に役立つ。
ひとつ言えることは、彼女の表情が見えなかったことに安堵した自分がいたということ。


「それじゃまた」
「はい。また誘ってください」

男が立ち去り、あたしは微妙な距離感を保ったまま。
でも会話がちゃんと耳に入ってしまうような位置で努めて自然な表情を顔に貼りつけていた。
のろのろと歩を進め、まるでたった今気がついたかのような素振りで
男の背中を見送る彼女にそっと近づく。
誰も見ていないというのに臭い演技をする自分が堪らなく寒々しい。
馬鹿馬鹿しさにふと我に返り一瞬素の表情をしたところを
なぜだか絶妙なタイミングでこちらを振り返った彼女に見られた。

この数分の自分の努力が空しく宙に消えるのが目に見えるようだった。

「よしこ」
「おう。お腹空いたね。どこ行こうか?この前のところにする?
 今の時間ならきっと予約なしでも大丈夫だろうから」

物言いたげな彼女を遮り一気に捲くし立てた。
それはきっとラジー賞ものの最悪な演技で。
何も見てない、聞いてないと必死で否定するように取り繕うあたしは、
彼女の瞳にさぞ滑稽に映ったことだろう。

「よしこ…」

寒くもないのにコートのボタンを留めながら、彼女の言葉は聞こえない振りをして先を歩き出した。
ふいに袖を引っ張られ勢いが削がれる。

あたしは今どんな顔をしているのだろう。
このまま彼女を見ても大丈夫だろうか。

あたしたちの再び始まったのか始まらないのかどちらとも言えない、
あやふやな境界線上に立っているこの関係が少しは進展する兆しはあるのだろうか。
あたしが見逃しているだけでそれはどこかに。

或いは後退してしまう予兆も。

数秒、逡巡してから慣れた営業スマイルで振り向いたあたしの行動は
どう考えたって選択ミスに違いなかった。



 side M



誤解だとはっきり言えるほど、それは誤解ではなかったから
その切なそうな表情を見てもあたしはただ彼女の名前を呟くことしかできなくて
それ以外には本当に何をしていいのか判らなかった。

「よしこ」

何かを懸命に捲くし立てる彼女の言葉もろくに耳に入らず、
何から説明すればさっきのことがあたしにとってはどうでもいい部類に入ることで、
彼女があんな表情をするような類のものなんかじゃ全然ないということを判ってもらえるのか。
誤解ではないけれど誤解なのだと言いたい自分のこの気持ちを、伝えることができるのか考えていた。

嫉妬したりされたりするような関係にはまだ及ばない。
微妙なラインの一歩手前にいるこの状態では何かの拍子にぷつりと
彼女と再び始まらないままに、一生交わることのない平行線のように大人の距離を取りつつ
終わってしまうことだってありうる。
むしろその可能性のほうが哀しいほどに、ずっと高い。

「よしこ…」

取りあえず懇願するように搾り出した声も彼女には届かない。
言いたくないことを口にするほかに道はないのかもしれない。
誤解だけれど誤解とは言い切れず、
でも彼女には知ってほしいと思う矛盾した自分もそこにいた。


彼女と付き合っていた頃、いつだって嫉妬するのは自分のほうだった。
半ば日常と化していた激しい感情の起伏に疲れ果て、あたしは逃げ出した。
抱えきれなくなるほど大きくなった醜い感情を捨てたくて、二人の住む部屋を出た。
今思うとそんな自分でも持て余すような重い想いを受け止める側だった彼女も
相当に苦しかったはずだと判る。

ぶつけるだけぶつけて、押しつけたままにすっと彼女の目の前から消えたことを
後悔しなかった日はない。
どちらに非があったとか当時の彼女の目に余る行動の数々を考えるよりもなによりも
何も言わずに姿を消したあの日の自分が何度も何度もフラッシュバックする現実。
ライターだけを残して消えた、それはあたしの罪。


無意識に彼女のコートの袖を掴んでいた。
足を止めたあたしたちは年末の忙しなく人が行き交う路上で不自然なほどに浮いていた。
このまま時間が止まってしまえば彼女といつまでも一緒にいられる。
ぼんやりした頭で考えていると、そんな浅はかな願いは無情にも彼女によって打ち破られた。
しかもよりによって、向けてほしくない営業スマイルなんかで。



 side H



何年ぶりかに自分の胸に湧いた嫉妬という感情よりも、
いつのまにか二人の未来をひっそりと夢に描いていた自分の幼い感情が見事なまでに砕かれ、
音を立てて崩れ落ちていくその瞬間に、なんとそんな感情を持ち合わせていたことに気づいた
自分の間抜けさに呆れる思いのが、はるかに勝っていた。

彼女と再会した日から勝手に夢を見ていた。
いつかまた、あの部屋で、いやあの部屋じゃなくても二人の居場所をどこかに見つけて
もう二度と彼女が突然消えてしまうことがないように、彼女がいて、あたしがいて、
今度こそ真心を。愛を。彼女にと。

そんな淡い期待を抱いているのが自分だけなのかもしれないなんて考えもせずに
彼女もきっと同じことを望んでいるだなんて、一体何を根拠にそんなことを?
夢は夢でしかない。

数年ぶりに再会したあの夏の日からあたしたちは後にも先にも進んでいない。
進むことを恐れ、拒んでいるかのようなその膠着状態に気づかぬ振りをして
何でもないことのように振舞って、言いたいことも言えずに大人の顔をしたまま秋が過ぎ
そして冬を迎えた。

いつからこんなに臆病になったのだろう。
あの頃は恐いものなんて何もなかった。
毎日が楽しくて、彼女がいて、彼女以外にも目を向けることで大人になったような気がしていた。
勘違いにもほどがあるけれど、あたしは大人になりたくて、彼女を支えられるような
大人に憧れていて、間違った方向に進んで結局後戻りができなくなってしまった。
彼女を失ってからそれに気づくなんて自分はやっぱり子供だったのだと悔やんでも悔やみきれなかった。

「ん?お腹空いてないの?」

営業スマイルを崩さぬままに口から出る言葉がこんな台詞では
彼女の顔が強張るのも当然なわけで。
判っていても身についてしまった習性はなかなか取れるものではない。
あの頃のような馬鹿な自分は御免だけれど、恐いものなんて何もなかった自分が
今は羨ましくて仕方なかった。
無知なだけで強いのだと勘違いしていた自分でも。

「あのときどうして、あんなこと言ったの…?」

袖を掴んだまま彼女がか細い声で漏らしたのは意外にもそんな言葉だった。
でもあたしは彼女の言う『あのとき』や『あんなこと』が何を指しているのか判らず
俯いている彼女の表情を読み取ることもできず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。



 side M



さっきの男の人は会社の同僚で前に少しだけ付き合ったっていうか
そういう関係になりかけたことがあって、でも今は全然そんなんじゃなくて
もしかしたら向こうはそのつもりなのかもしれないけどあたしは、あたしは今…。

こうして時々誘い合ってあたしたちは仕事帰りにご飯を食べに行ったり
お酒を飲みに行ったりするけど、あたしたちは友達なのかな?
それとも友達から先に進んだ場所に立っているのかな?

さっきの切ない顔は嫉妬してくれたの?
あの男の人とのことを誤解して、ううん、あたしの気持ちを誤解して
あなたはそんな何事もなかったかのように必死に振舞ったの?

それともその営業スマイルはやっぱりあたしのことなんてもうなんとも思ってなくて
ただ懐かしいから暇つぶし程度に誘ったり、誘われたら付き合ったり、
特別な感情なんて全然持ち合わせてなくて、舞い上がったり着ていく服に迷ったりしてるのは
あたしだけなのかな?あたしは思い違いをしてるのかな?

言いたいことは山のように、伝えたい想いは止め処なく、後から後から溢れてきたけれど
結局、ようやくあたしが発することができたのは彼女にしてみればきっと予想外の、
自分自身でも唐突だと思った、そんな言葉だった。

「あのときどうして、あんなこと言ったの…?」

やっぱりというか当然、彼女からの返答はなかった。
俯いたままのあたしでも彼女が怪訝な顔をしているだろうことは容易に想像がついた。
それともあの、彼女特有の子供のような、ぼうっとして口が少し開いたちょっと間抜けだけど
でも可愛い、あたしのお気に入りのとぼけた顔をしているのかもしれない。
なんていうのは都合よく考えすぎなのかな。

「ごっちん?」

探るようなその声に説明が足りなくてごめんねとか長くなるけど聞いてくれる?とか
言わなければならないと思いつつも、今日初めて自分の名を呼んでくれたその声の余韻に
もう少しだけ浸っていたかった。


行為の後にはいつも甘く囁いてくれた。
何度もあたしの名を口にして、キスをしていないときは常に、と言っていいほどに
あなたの口からあたしの名を呼ぶ甘い声が優しい旋律を奏でていた。
その声を聴くのが好きだった。
大好きだったから、あたしはいつも何も答えず、答えられず、
ただその寄せては返す波のように緩やかに迫りくるあなたの声にそっと身を委ねていた。

あのとき、あなたが言った「愛してる」という言葉。
それを耳にした途端にあたしはまた波に攫われ返事をすることができなかった。
そんなことすらあなたは知らない。
そんな大切なことすら、あたしはあなたに伝えていないなんて。



 side H



彼女が何かを必死で伝えようとしていることが手に取るように判った。
それが何なのかは判らなかったけど、ぎゅっと握られた袖を通して
彼女の切実な想いが伝わってくるような気がした。

苦しんで、悩んで、踏み出せずにいるのはあたしだけではないのかもしれない。
いつまでも営業スマイルを貼りつかせたままの自分が情けなくなる。
いつまでたっても馬鹿な子供のまま肩肘を張って、それでいて自分を偽ることばかりが巧くなる。
いい加減、そんな時間はもう終わらせよう。
終わらせなければ始まることなんて永遠にやってこない。

あたしのために、彼女のために。―――二人のために。

「ごっちん?」

優しく問いかけた。
かつて彼女に好きだと言われたこの声が、あの頃のまま変わっていなければいいと思いつつ。
彼女への想いを込めつつ名前を呼んだ。
不思議と肩の荷が下りたような気がした。

微かに震える彼女を抱きしめることに、もうなんの躊躇もしなかった。

「…よしこの匂いがする」
「だって、あたしはここにいるから」
「そうだね…。よしこはここにいるんだね」

顔を上げた彼女は笑っていた。穏やかに、優しく。



その笑顔を見て、あたしはやっぱり彼女のことが好きなんだと、そう思った。



 side M



ふいに抱きしめられ、前と変わらぬ彼女のぬくもりと匂いにあたしの心は満たされた。
ごちゃごちゃと考え込んでいた余計な思考はどこかに消えて、かわりに素直な気持ちが膨れ上がる。

嬉しい、そう思った。

「夏に仕事で再会したとき、どうしてあたしに」

もう迷わなかった。
確かめたかった。
どんな結果が待っていようと自分の気持ちを、一番伝えたい言葉をあなたに届けたかった。

「愛してるって言ったの?」

一瞬、驚いたように大きな目を丸くした彼女はでもすぐに真剣な眼差しになって、
あたし以上にはっきりした口調で予想以上の喜びをもたらしてくれた。

「ごっちんを、愛しいと思っていたから。ずっと、別れてからもずっと」

吐き出される白い息さえもあなたの一部なのかと思うと愛しくてたまらなかった。
あたしのほうこそ、愛しいとしか言いようがない。
この気持ちを他に言い表す言葉なんて、見つかりっこない。

「好き。あたしもずっとよしこのことが…。好き、なの。あたしと、また…付き合ってください」

まるであの頃のような、あの頃以上に幼い告白をあなたに投げかけた。
次々と横を通り過ぎる通行人の視線や毎年うんざりするほど綺麗に彩られる
イルミネーションの光が視界から消え、かわりにあなただけを映す。
あたしの瞳にはあなたしか映っていない。
そのあなたもゆっくりと闇に溶けていく。



唇に降ってくる柔らかい感触が、やけにリアルだった。



あたしたちの冬はまだ始まったばかり。
静かに訪れる冬とともにあたしたちは今、始まった。










<了>


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