ライター side H






駅前の本屋で時間を潰しすぎた。
仕事上、何度か電話のやり取りはあったものの実際に彼女に会うのはあの時以来だ。
彼女は仕事以外の話をするだろうか。
あの頃を懐かしむような話をするだろうか。

また彼女のいない毎日が来るのだから余計な期待なんて持たないほうがいい。
仕事と割り切って接しなければ後で辛くなるのは目に見えている。
だからあたしは感傷に浸るようなことはしたくなかった。
せっかく塞がった古傷をそっとしておきたくてわざと遅刻した。

「遅れて申し訳ありません」
「いえ、今来たところですから」

いつも以上の仕事モードで彼女の待つ喫茶店に入り、遅れを詫びてイスに座った。
なんでもないように、自然に彼女の顔を見た。

泣きたくなるほど彼女は彼女のままだった。

「では早速ですが今回の企画について」
「タバコ」
「えっ?」
「タバコの煙がちょっと」
「あ、すみません」

手を顔の前ではらはらと振り、咳き込むような素振りをする彼女。
いつタバコをやめたのだろう。
このライターを置いていったのは禁煙宣言のつもりだったのだろうか。
彼女の変化に戸惑い怪訝な顔になったのが自分でも分かった。
あたしは素早くライターを握りしめ顔と頭を仕事モードに切り替えた。

「…ということで鈴木さんには私から直接報告しますので」
「ええ、お任せします」
「後藤さんも大変でしょうが、全面的なバックアップを何卒よろしくお願いします」

彼女もあたしと同じように淡々とした話し方で仕事を進めた。
時折見せる仕草があの頃のままだったりそうでなかったりして、
そのどちらもがあたしの胸を少し痛ませた。
彼女の目に自分はどう映っているのだろう。
あの頃よりちょっとはマシに見えていたらいいのだけど。

「いえ、こちらも吉澤さんの力なしでは今回の企画は進みませんから。それより」
「それより?」
「そんな話し方でずっと通すつもり?白々しい、じゃなかった水臭い。
 もうあたしは『よしこ』って呼んじゃいけないの?
 それとも昔の彼女のことなんか、とっくに記憶の彼方なのかな」

少し間を置いて話す彼女の口調はあの頃のままだった。
否が応にも昔を思い出さずにはいられない。昔の最低な自分を。

「あたしがごっちんのこと忘れるなんて、そんなこと地球がひっくり返ったってあるわけないよ」

昔の自分を振り払うように明るく返した。
こうなるともう仕事モードは不可能。
再びタバコに火をつけ心を落ち着かせる。
先刻彼女に咎められたことは頭にあったけれど吸わずにはいられなかった。
決して言うべきではないことを口走りそうで怖かったから。

「タバコやめたの?」
「まさか」

彼女がタバコを取り出したからライターで火をつけてあげた。
このライターはあたしにとってお守りのようなもの。
ずっと傍にいてあたしを見てきてくれた。
だから彼女に見せたかった。
あたしがこのライターを愛用しているところを。
彼女とのことが決してただの過去なんかじゃなかったということを伝えたかった。

「さっきのはちょっとした意地悪。ここに来てからあたしの目を一度も見ようとしなかった罰」
「ははっ。だと思ったよ。あんなヘビースモーカーだったごっちんが吸わないなんておかしいと思った」
「最近はさすがにちょっと控えるようになったんだけどね…。
 あたしよりよしこのがよっぽどニコチン中毒だったじゃん」

あたしたちのキスはいつもタバコの味がした。
あの部屋は狭かったから窓を開けないといつも煙が充満して
壁紙は住んでいるうちに茶色く変色してしまっていた。

おかげで部屋を引き払ったとき敷金はほとんど戻ってこなかったけど
長い間待ち続けた彼女がもう戻ってこないと分かったときのがあたしにとっては何倍も辛かった。

「まさかこんな風に話せる日が来るとはね」

やっと諦めがついて彼女のことを思い出す日も減ってきていたというのに。
目の前の彼女を見ることができなくてあたしはライターに視線を落とした。
不思議とこれを見ると心が安らいだ。
あたしを支え続けてくれたライターだった。

「そのライター」
「これ?なんか手放せなくてね。使いやすいし」

彼女の声が上擦っていた。
動揺したのだろうか。
彼女にとってはもう思い出したくもない過去なのかもしれない。
これも身から出た錆だ。恨むなら自分を恨むしかない。

「あの部屋でのごっちんの痕跡はこれだけだった」
「ホントはそれも持って出ようと思ったんだけど」
「そうなの?」
「立つ鳥跡を濁さずって言うじゃない。でもこれ持ってったら
 よっすぃがちょっとの間でもタバコ吸えなくなるかなって」
「そんな。そんなとこ気ぃ使うくらいなら持ってってほしかったよ。
 タバコの火くらいどうとでもなるって。コンロとか」

彼女の的外れな心配でこのライターがあたしの元に残ったのかと思ったらおかしくてたまらなかった。
彼女の心配とは別にこのライターがここ数年のあたしを支えることになるなんて。
その時だれが予想できただろう。
だからおかしくて笑い続けた。笑いながら言った。

「コンビニで百円の買ってきたっていいわけだし。
 どうしてもごっちんのライターじゃなきゃいけない理由なんて…もうなかったんだからさ」
「そうだよね。ごめん」
「謝ることはないよ。元はといえばあたしがフラフラしてたのがいけなかったんだから」

あたしは相変わらず笑っていた。
その笑いは少しずつ過去の自分へと向けられていった。
幼くて馬鹿で自惚れで彼女をほっぽって遊びまくっていた自分に。





彼女のいなくなった部屋は狭いはずなのになぜだかとても広かった。
彼女のいなくなった部屋は明かりをつけてもなぜだかとても暗かった。
はじめの2、3日はそれでも戻ってくると高をくくっていた。
置き手紙ひとつなかったから、きっとちょっとした気まぐれで
友達のところにでも行っているのだろうと探しもしなかったし電話もしなかった。

1週間たち、2週間たつにつれ繋がらない携帯を前にあたしはパニックに陥りかけた。
彼女が恋しくて彼女に逢いたくて、夏だというのに部屋のすみでひとりブルブルと震えていた。

そしてライターを見つけた。
机の上にポツンと置かれたそのライターに、なぜ今まで気づかなかったのかと不思議だった。
しょっちゅうどこかに置いてきてしまうあたしと違って、
彼女はいつもこのライターを肌身離さず持って大切にしていた。
それなのに。

「ひとつ聞きたいんだけど」
「ん?」
「本当はなんでライターだけ、置いてったの?」
「忘れちゃった」
「そっか」

まるで見捨てられたように置かれたそのライターが自分と重なり、そっと手に持った。
冷たくて彼女の温もりは微塵もなかった。
あたしは彼女がいなくなってからそのとき初めて涙を流した。
それ以来あたしはライターに縋って生きてきた。

「仕事はどう?順調だよね。活躍はよく聞くもん。
 今回の企画だってうちの部長が吉澤さんなら、ってすごい乗り気だったし」
「鈴木さんはあたしを買いかぶりすぎだよ。そっちこそ社内で期待の若手って言われてるらしいじゃん」
「それ言ったの部長でしょ。買いかぶってるんだよ、きっと」

彼女との会話のテンポが昔と同じで、嬉しくて素直に笑えた。

「プライベートは、どう?」

彼女が今だれかと幸せなのか、そうでないのかあたしは知りたかった。

「んん〜べつにこれといった話題はないよ。今は仕事が楽しいし」

彼女はこっちを見ずにそう言った。
あからさまにホッとする自分がいた。

「そっちこそ」
「ん?」
「どうなの?」

不安なときに語尾が小さくなる彼女の癖は今も変わっていない。

「あたしはずっと、これに縛られたままだったよ。
 これだけ残していくなんて酷だよ。取りに戻るのかって、期待しちゃうじゃんか」

気づけば自分の気持ちをさらけ出していた。
無意識にライターをくるくると回していた。
過去のことを愚痴る情けない自分がさらに口を開く。

「やっと諦めがついて、部屋も引き払って、ライターを使っても
 ごっちんを思うこともなくなってきたときに仕事とはいえ会うことになるなんて…
 神様も意地悪だよなぁ。そんな引き合わせ方するなんてさ。
 でもそれもすべてあたしがごっちんを大切にしなかった罰なのかもね」

彼女は無言であたしの指を見つめていた。
くるくる回るライターを。
あたしの独白を彼女がどういう気持ちで聞いているのか、あたしには分からなかった。

寂しい?
煩わしい?
切ない?
鬱陶しい?

彼女の目に涙が浮かぶ。
それでもあたしは止まらなかった。
今言わなければ後にも先にも進めない、漠然とそんな風に思っていた。

「あとに残されていくほうってキツイんだなって身にしみたよ。
 でもこの辛さを味わったのがごっちんじゃなかったのが唯一の救いだったのかも。
 残されたのがあたしで、よかった」

今さら言うことではなかったのかもしれない。
でもあたしは言いたかった。
言わなければ一生このライターに頼って生きていくことになる気がしたから。
もうライターに甘えるのはよそう。
いい加減解放してあげよう。
彼女に返そう。
そう、そして言おう。
ここに来るまでは言うべきではないと思っていたことを。

「ごめんね」
「だから謝るなって」

彼女の目から涙が零れ落ちて頬を伝う。
キレイな涙だった。

彼女に触れている指先をなかなか離すことができない。
物言わぬライターがあたしを先に促しているように見えた。

「これ返すよ」
「うん」

そしてライターは再び彼女の手の中に戻った。
あたしはようやく過去の自分と決別できた思いだった。

だから言おう。
今の自分ならば言える。
伝票を持って立ち上がりかけた彼女の細い手首をそっと掴んだ。



「ごっちん、愛してるよ」










<了>


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