ライター side M






待ち合わせの喫茶店に少し遅れてやってきた彼女はさして慌てた様子もなく
あたしの向かいの席に座った。
落ち着き払ったその表情と隙の無さに頭が下がる。
ガードは堅く守られていた。

「遅れて申し訳ありません」
「いえ、今来たところですから」

本当はかなり待っていた。コーヒーもお替りした。
彼女はいつも待ち合わせの時間よりかなり早く来る性質だったから
それに合わせてこちらも慣れないことをしたのに見事に裏切られた。
きっとあたしが早めに来ることを見越してわざと遅れて来たのだと思う。
その意図はともかく彼女にはあたしの行動が手に取るように分かるらしい。
そう、彼女はいつもそうだった。昔から。

「では早速ですが今回の企画について」
「タバコ」
「えっ?」
「タバコの煙がちょっと」
「あ、すみません」

驚いて灰皿にタバコをギュッと押しつける彼女。少し顔をしかめた。
でもそれはほんの一瞬ですぐに笑顔という名の仮面をかぶる。
一連の動作があまりに自然で彼女の身にしみついた習性があたしの胸を少し切なくさせる。
きっと相手が誰であろうと彼女はいつも通りの態度を崩さないのだろう。たとえあたしでも。
あたしはもう彼女にとって取引先の企業の人間、としか映っていないのだから。

「…ということで鈴木さんには私から直接報告しますので」
「ええ、お任せします」
「後藤さんも大変でしょうが、全面的なバックアップを何卒よろしくお願いします」
「いえ、こちらも吉澤さんの力なしでは今回の企画は進みませんから。それより」
「それより?」

意を決してこの場にふさわしくないトーンで彼女に話しかける。

「そんな話し方でずっと通すつもり?白々しい、じゃなかった水臭い。
 もうあたしは『よしこ』って呼んじゃいけないの?
 それとも昔の彼女のことなんか、とっくに記憶の彼方なのかな」

ちょっと唐突すぎたかなと不安になった。
口を開いてから後悔しても遅いのに。あたしの悪い癖。
でもそんなあたしの気分を払拭させるように、意外にも彼女は同じトーンで返してくれた。

「あたしがごっちんのこと忘れるなんて、そんなこと地球がひっくり返ったってあるわけないよ」

そう言って再びタバコに火をつける彼女。
満足そうに紫煙をくゆらしあたしを見つめる。
あの頃と変わらぬ眼差しが心を揺さぶった。

「タバコやめたの?」
「まさか」

バッグから彼女と同じ銘柄のタバコを取り出した。
口に持っていくと彼女が火をつけてくれた。
あたしは動揺が表に出ないように震えそうな手に力を込めた。

「さっきのはちょっとした意地悪。ここに来てからあたしの目を一度も見ようとしなかった罰」
「ははっ。だと思ったよ。あんなヘビースモーカーだったごっちんが吸わないなんておかしいと思った」
「最近はさすがにちょっと控えるようになったんだけどね…。
 あたしよりよしこのがよっぽどニコチン中毒だったじゃん」

彼女とのキスの味を思い出す。
ニコチンと彼女の味。
何度もとろけそうになったあのキスは今でも鮮明に思い出せる。
忘れることなんて不可能に近い。

「まさかこんな風に話せる日が来るとはね」

遠くを見つめる彼女。
その視線の先にいるのはあの頃の二人なの?
幼すぎたあたしと早く大人になりたいと背伸びしていた彼女。

もうちょっとなにかが違えば二人は今も愛を囁きあったり
些細な揉め事に心を痛めあったりできていたのかな。
あの頃のあたしたちに訪れなかった未来を想像しながら彼女の視線の先を追う。

「そのライター」
「これ?なんか手放せなくてね。使いやすいし」

さっきの動揺もだいぶ落ち着いてきたというのに。
ライターを見た瞬間、息が止まりそうになった。
あたしが彼女の部屋に唯一残していったライター。
それを彼女がまだ持っているということに驚いた。
仕事とはいえあたしと会うのに平然とそのライターを持ってくる根性というか勇気にも。

日常的に使っているのかな。
あたしとのことはもうなんの痛手でもないみたい。
そうでなければいろいろな思い出がつまったライターを普通に使えるわけがない。
少なくともあたしには無理。

「あの部屋でのごっちんの痕跡はこれだけだった」
「ホントはそれも持って出ようと思ったんだけど」
「そうなの?」
「立つ鳥跡を濁さずって言うじゃない。でもこれ持ってったら
 よっすぃがちょっとの間でもタバコ吸えなくなるかなって」
「そんな」

くくっと笑って目を伏せる彼女の顔はあの頃のままだった。

「そんなとこ気ぃ使うくらいなら持ってってほしかったよ。
 タバコの火くらいどうとでもなるって。コンロとか」

なにが楽しいのか彼女はやたら笑顔で続けた。
でもそれはあたしが見たことのない笑顔だった。

「コンビニで百円の買ってきたっていいわけだし。
 どうしてもごっちんのライターじゃなきゃいけない理由なんて…もうなかったんだからさ」

また彼女は笑った。
笑ってるのに泣いてるように見えるのはあたしの錯覚?
別れてから数年で彼女がこんな自嘲気味の笑いをするようになったことが悲しかった。

「そうだよね。ごめん」
「謝ることはないよ。元はといえばあたしがフラフラしてたのがいけなかったんだから」





彼女の部屋を出るとき、彼女と暮らした二人の部屋を出たあの日。
あたしはそう多くもない自分の荷物をめちゃくちゃにバッグに詰め込んだ。
とにかく大急ぎで、彼女がバイトから帰ってこないうちに出なければと。
彼女に見つからないうちに、まるで逃げるように部屋を飛び出ようとしていた。

部屋はまるで泥棒が入ったかのようにひっちゃかめっちゃかだったけど、
でも彼女ならすぐになくなった物はあたしのだけだと気付くと思ってた。
自分の荷物を全て手にしていざ部屋を出ようとしたとき、足がすくんだ。
前に、進めなかった。
それでもあたしは頑張って全神経を右足に集中させて動け、動けと念じていた。
でもやっぱり、足は動かなかった。

知らず涙が零れ落ちていた。
部屋を出ることを決意したときも、荷物をかき集めてるときも出なかった涙が。
彼女との終わりを感じたときさえも出なかった涙が今頃出るなんて。
あたしはその場にしゃがみこんで薄暗い部屋の中で一人、途方に暮れた。

「ひとつ聞きたいんだけど」
「ん?」

彼女に話しかけられ現実に戻ってきた。
もう忘れたと思ってたことなのに随分と鮮明に思い出せて少なからず驚いた。
でもこれ以上思い出したら彼女の顔をまともに見ることなんてできないだろうな。



「本当はなんでライターだけ、置いてったの?」



そしてあたしはまた回想の波にさらわれた。

途方に暮れたあたしはとりあえず落ち着こうとタバコを取り出した。
顔は涙ですっかりグチョグチョになっていたけど、そんなことに構わずあたしはタバコをくわえた。
そしてライターを取り出してふと思った。
これを置いていけばあたしはこの部屋から出られるんじゃないかと。

それはほんのちょっとした思いつきで、なにもこのライターをあたしの代わりにしようとしたわけじゃない。
ただひとつでもあたしの痕跡を置いていけば途中で戻りたくなっても、もし万が一
この部屋に戻ってくることがあっても、このライターがあればあたしは言い訳ができる。
そんなヘタな言い訳って思うけどあたしはもうそうすることでしかこの部屋から離れられないと感じていた。
彼女の元から去るにはそれしかないと。

だからこのライターはいわば保険。
部屋を出た後一度も彼女に逢いに行かずに済んだのは
ある意味このライターを残してきたからのような気がする。
やっぱりこのライターはあたしの身代わりだったのかな。

「忘れちゃった」

そっかと呟いてそれ以上彼女はなにも言わなかった。

「仕事はどう?順調だよね。活躍はよく聞くもん。
 今回の企画だってうちの部長が吉澤さんなら、ってすごい乗り気だったし」
「鈴木さんはあたしを買いかぶりすぎだよ。そっちこそ社内で期待の若手って言われてるらしいじゃん」
「それ言ったの部長でしょ。買いかぶってるんだよ、きっと」

二人で笑いあった。今度の笑顔はあたしのよく知ってる笑顔だった。

「プライベートは、どう?」

口火を切ったのは彼女。
あたしにはとてもそんなこと口にする勇気はない。
聞きたくても聞けない。
でも彼女もどこか恐る恐るといった感じ。

「んん〜べつにこれといった話題はないよ。今は仕事が楽しいし」

本音だった。
でもそれも昨日までのこと。
今日からはきっと待ち続けてしまう。
彼女からの誘いを。電話を。言葉を。期待してしまう。
こうして目の前に座ってる彼女はあの頃よりも数段魅力的で、あたしを見つめる眼差しに
なにか特別なものを感じるのはあたしの自惚れ?期待が見せる幻想なの?
どっちにしてもあたしはもう彼女以外目に入っていなかった。
だからどうしても聞かなければいけないことを口にした。

「そっちこそ」
「ん?」
「どうなの?」

声が小さくなってしまったことを不信に思われたくなかった。
でも聞くことになんの躊躇もしてないと思われるのも嫌だった。
複雑なこの思いをわかってほしいとは思わないけれど。

「あたしはずっと、これに縛られたままだったよ」

片手でライターを弄ぶ彼女。
どう反応していいのか分からなかった。

「これだけ残していくなんて酷だよ」

取りに戻るのかって期待しちゃうじゃんか。
ライターをクルクル回転させながら彼女は続けた。
テーブルの上でシルバーのなんの変哲もないライターが音もなく回り続ける。

「やっと諦めがついて、部屋も引き払って、ライターを使っても
 ごっちんを思うこともなくなってきたときに仕事とはいえ会うことになるなんて…
 神様も意地悪だよなぁ。そんな引き合わせ方するなんてさ。
 でもそれもすべてあたしがごっちんを大切にしなかった罰なのかもね」

相変わらずライターは回転を続けている。
くるくると。
彼女の手も休むことなく動いている。
まるで手を動かしていなければ思いを吐き出せないかのような、そんな必死さが伝わってきた。

「あとに残されていくほうってキツイんだなって身にしみたよ。
 でもこの辛さを味わったのがごっちんじゃなかったのが唯一の救いだったのかも。
 残されたのがあたしで、よかった」

回転を続けるライターが歪む。彼女の手も。
涙で、その色も形も見えなかった。

「ごめんね」
「だから謝るなって」

そう言って彼女はあたしの頬に手を添えて親指で涙を拭ってくれた。
あの頃と変わらない、ううん、あの頃よりももっと温かい手だった。

「これ返すよ」

ライターを差し出され、あたしはテーブルの下で手を震わした。
これをもらったら彼女は本当の意味で区切りをつけてしまう。
自分勝手な言い分だけどそんなこと、あたしは望んでいない。

自分で別れを決め、部屋を出ても尚彼女の背中を追い求め彼女のぬくもりに涙した。
毎日毎日後悔していた。
彼女の元に戻ろうと何度も思った。
でもそれを引き止めたのがこのライター。
ライターはあたしの代わりに彼女と時を過ごしてくれた。

今度は代わりなんかじゃなく、あたしが彼女とこれからの時を過ごしたかった。
そう、あたしは彼女に未練たっぷりで、今日だって心のどこかで期待していた。
彼女と会うことを。
彼女とのこれから訪れるかもしれない未来のことを。

「うん」



でも彼女はそうは思っていなかった。



だからあたしは右手にライターをギュッと握りしめた。
震える右手を左手でしっかり押さえつけていた。
二度と離さないように握りしめていた。
せめてライターに残る彼女のぬくもりだけでも逃さないようにと固く、固く握りしめた。



数年を経て再びあたしの元に戻ってきたライター。
シルバーの光沢も薄れ、所々に無数の傷がある。
愛しい愛しいあたしのライター。
愛しい人が使ったこのライターを、あたしはいつかなにも感じることなく
日常的に使える日がやってくるの?



そんな日が訪れないことを祈りつつあたしは伝票を手にした。










<了>


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