甘い階段






甲高い音が聞こえた。
柴ちゃんの足音だ。
階段を上るヒールの音がちょっとずつ大きくなる。

一歩、また一歩。
その音があたしの部屋に近づく。

そして、部屋の前で止まり、ドアが開いた。





       ただいま、よっすぃ





その瞬間、あたしの耳には彼女の声がたしかに聞こえていた。
ドアは開かず、誰の姿も見えなかったからそんな事実はないのだけれど、たしかに聞こえた。
もう何度目かの「ただいま」が聞こえていた。




誰のものか知らない足音は部屋の前を通り過ぎていった。
台所のイスに座り、半身をよじって部屋のドアをじっと見つめていたら目が乾いた。
数回、まばたきをしてまたドアを見た。

柴ちゃんが出ていってから穴が開くほど見ている。
目を閉じても細部まで詳細に思い出せる。
ドアノブも、鍵穴の形状も、上のほうにある変色も下のほうの汚れもすべて。
そんな必要はないが見ずにスケッチすることも難なくできそうだ。
それくらい、あたしはこのドアを見ている。

このドアが開いて柴ちゃんが顔を見せることを夢想している。


「おかえり。今日も暑かったね」


柴ちゃんはスーツの上着を手に持っていた。
満員電車のせいか、外回りをしてるうちにそうなったのか、
朝はきっちりと整っていた髪が少しくしゃくしゃになっていた。

暑い暑い、と言いながら靴を脱ぎ扇風機の前に座る。
目を閉じ、髪を揺らし、涼風をひとりじめにする。
涼風にのった柴ちゃんの香水の匂いがあたしの鼻を刺激する。
大好きな匂いだ。
早く抱きしめて目一杯吸い込んで堪能したい。

あたしはニヤニヤしながら冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。
柴ちゃんの背後にそっと忍び寄り、頬にさらなる涼を押しつけた。


「冷たい…わけねぇか」


数時間前に開けた缶ビールの感触はとくに冷たくもなく、生ぬるかった。
異物が押し当てられたあたしの頬は肉が少し上に移動しただけ。
中身を飲み干したらなんとも言えない味が口中に広がった。


「不味い」


あたしの頭の中では柴ちゃんが笑いながらビールを飲んでいた。
ごくごくと一気に飲み干してぷはぁと実に美味しそうだ。
そしてあたしにニコっと微笑みかけてもう1本を促してきた。

「美味しいね」
「明日休みだからって飲みすぎはダメだよ」
「よっすぃに言われなくてもわかってるもん」
「柴ちゃんの"わかってる"はあてにならないからなぁ」
「年下のくせに生意気な口きくんじゃないのー」

あたしを押しのけて柴ちゃんは冷蔵庫からビールを取り出す。
1本を自分に、もう1本をあたしに投げてまた微笑みかける。
乾杯という甘い声に負けてあたしもごくごくと一気に飲み干した。

柴ちゃんは笑っていた。

これが幸せってものだ。
柴ちゃんはまさにそんな顔をしている。
仕事から帰ってビールを飲んで、好きな人がいるということ。
これが幸せってものなんだ。

柴ちゃんは分かっていなかった。
自分の過ごしてきた日常がいかに幸せなものだったのか、気づいていなかった。
だから出て行ったんだ。
あたしを置いて、大切な幸せってやつを残して。

毎晩、あたしの元に帰るのが柴ちゃんの幸せだった。
仕事から帰って来て扇風機に髪をなびかせながら冷えたビールを飲むのが幸せだった。
着替えもせず、化粧も落とさずだらしないとあたしに怒られるのが幸せだった。
それら全てが柴ちゃんの幸せだったはずなのに。

あたしは階段の足音を聞くのが幸せだった。
柴ちゃんの帰ってくる音を聞くのがなによりの幸せだった。

柴ちゃんは自分の幸せだけでなく、あたしの幸せまで一緒に失くした。
あたしの幸せは、柴ちゃんによって消されてしまった。


また、外から階段を上る音がした。
柴ちゃんだ。この音こそは、きっと柴ちゃんに違いない。

あたしのもとに戻ってきたんだ。
いずれ戻るだろうとは思っていたが予想よりもかなり遅かった。
残してきた幸せにようやく気づいたんだろう。
時間はかかったけど、気づいてくれてよかった。
辛抱強いあたしでなければ幸せはとっくにどこかへ消えている。
今ならまだ、間に合う。大丈夫だ。
缶ビールは冷えているし扇風機の調子だって良好だ。
何よりあたしがいる。
出迎えて抱きしめる準備は万端だ。さあ、来い。


階段を上る柴ちゃんの足音が大きくなる。
ヒールが段を踏みしめる音はどこか疲れているようにも聞こえる。

甲高い音があたしに教えてくれる。
柴ちゃんが近づいてることを。

柴ちゃんだ。柴ちゃんの音だ。

あたしはドアを見つめ、そのときが来るのを待った。

足音はドアの前まで来て、通り過ぎた。
手に持った缶はぐにゃりと潰れていた。










<了>


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