箱入り娘






研究者は毎日その箱にキスをする。
透明な箱の中にいる彼女への愛しさから。
「おはよう」と朝の挨拶代わりにキスをして
「さよなら」と翌朝までの別れを惜しみながらまたキスをする。

円筒形の箱に唇でそっと触れる。
ゆらゆらとした液体に浮く彼女からの返答がたとえなくとも。



「またアンタかいな」
「おはようございます」
「よくもまあ飽きずに何度も何度も汚してくれるなぁ」
「すみません」
「これ見てみぃ。アンタがぶっちゅぶっちゅするから拭いても拭いても痕が残っとるわ」
「ははは…」

面目ない、というように研究者は自身の頭を掻いた。
掃除婦は呆れたようにそれを見つめ、そしていつもの仕事に取り掛かる。

「中澤さん」
「こないなとこにいつまでもプカーっと浮いて、可哀相になぁ」
「中澤さぁん」
「待っててな。アンタの箱、いまウチが綺麗にするからな」
「中澤さんってば」
「なんやねん。人の仕事の邪魔するなアホ」
「特別綺麗にしてくださいね」
「毎日同じこと言われんでもわかっとるわ」
「ははは」

研究者がこの研究所に赴任してくるよりもずっと前から掃除婦はいた。
箱の中で冷凍保存された娘はもっと以前からここにいる。
研究者や掃除婦が生まれるよりもずっとずっと以前から。
世界中の誰よりも長く彼女は生きている。
ずっと昔から、眠りながら、静かに生き続けている。

「わぁ、綺麗になった。すごいなぁ。つるつるだー」
「当たり前や。うちを誰やと思ってんねん」
「掃除のおばちゃん」
「あん?なんや、ケンカ売っとんのかこのガキ」
「マジで傷ひとつないですよね。はぁ〜すごいなぁ」
「シカトかい!ハァ…この箱はな、うちが毎日磨いとんねん。アンタかて知っとるやろ」
「ですねぇ」
「傷や汚れを残すのはウチの信条に反するんや」
「はい。中澤さんが綺麗にしてくれるから、あたしは安心して彼女にキスが出来るんです」
「………」

研究者の視線は箱の中の研究対象である娘に注がれている。
イレモノである箱を通り過ぎ、透明な液体に浮かぶ娘の顔を研究者は熱心に見つめた。
ライトの具合によっては液体など存在していないようにも見える。
掃除婦の立つ角度からは娘が浮遊しているように見えていた。
微かな溜息を漏らし、掃除婦は研究者を見つめた。

「綺麗だ…」

箱の中の娘は長い髪をなびかせて両手を広げていた。
まるで抱き締められるのを待っているかのように。

掃除婦は思う。
いつか娘が目覚めたとき、その裸身を包み込むのはこの研究者であってほしい。
この若き研究者だったら娘はきっと抱き締め返すだろう。

掃除婦は思い直す。

馬鹿馬鹿しいことだ、と。
理論上、この娘が目覚めるのはあと2世紀は先のことだと聞く。
だが実験が失敗に終われば彼女は目覚めることはない。
娘は生きたまま寝かされ続け、起きることなく死ぬのだろう。

研究者と娘が生きて対面する日など、来るわけがないのだ。
実験の成功如何にかかわらず、どのみちそんな日はやって来ない。

結果が分かるのは2世紀も先のこと。
自分も、この若き研究者もとっくに生きてはいないそのときに娘は目覚める予定だ。

だがもし娘が早期に目覚めたら。
この研究者が箱にキスをすることはなくなるだろう。
自分の役目がひとつ減ることを思うと、少し寂しかった。

そうなる可能性が万にひとつもないと知りつつも、寂しく感じていた。

「アンタもさっさと仕事しぃーや」
「いっけね。また所長にどやされるとこだった。でもつい見とれちゃうんですよねぇ」
「まあ気持ちは分かるけどな」
「綺麗ですよね」
「綺麗やな。でもアンタかて綺麗やん」
「あたしたちとは次元が違うんですよ…彼女は」
「あたし"たち"て。勝手にひと括りにするなや…」

綺麗と言われたことを否定しない研究者に掃除婦は苦笑する。
常々思っていたことを吐露してしまった自身のらしからぬ行動にも。
そして、それをあっさりと流されてしまったことにも。

「中澤さん」

仕事道具一式を持って去ろうとしていた掃除婦の背中に研究者は声をかけた。
掃除婦は立ち止まり、振り返った。
研究者越しに見える箱の中の娘が手を広げている。
研究者を包み込むように、優しい微笑を湛えて。

「明日もよろしくお願いしますね」
「ほどほどに頼むわ」
「う〜ん…ちょっとそれはごめんなさい。約束できません」

研究者は頭を掻きながら答えた。
掃除婦は聞きながら苦笑し、仕事道具一式を持ち直した。










<了>


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