よしこよしこよしこ






その声を初めて聴いたのは内戦が終結して1ヶ月ほど経った頃だ。
長く不毛な戦いがようやく終わってもなお、各地ではまだ混乱が起こっていた。

「南の島にでも行きたいなぁ〜」
「いいねぇ。で、南の島ってどういうとこ?」
「太陽が眩しくて、とにかく暑くて、トロピカルドリンクとかがあるんだって」
「いいねぇいいねぇ」
「こんな埃っぽくなくてさ、海とかあって」
「ざぶーんってか」
「そう。ざぶーんだよ」

あたしも、そして配給所で知り合ったばかりのこの彼女も海を見たことがなかった。
本や人からの伝聞でしかその存在を聞いたことがない。
だから実際のところはこの目で見るまで海なんてものが本当にあるのかは疑わしい。
ただ、ラジオからたまに流れてくる波の音というものを聴いてると、不思議とその光景を想像できた。

「もっと海のこと教えて」
「あたしもよく知らないよ。でも海の水は涙と同じ味がするんだって」

昔、いつだったかも思い出せないほど前に聞いたことがあった。
誰から聞いたのかなんてことももちろん覚えない。
ただ妙に印象に残っていた。海、そして涙という単語の並列が。

「ふーん。涙ってどんな味だっけ」
「さあ。泣いたことないから知らないな」
「そういえばミキも泣いたことないや」

タイミングよく、ラジオから波の音が流れてきた。
その音は、窓から見える荒れた大地や薄汚れた建物とひどくミスマッチしていた。

「母なる海って聞いたことある?」
「なにそれ」
「人類は海から生まれたんだって」
「てことはミキたちのママなの?海って」
「そうかもね」
「そっか。会いたいな」

そう呟いた彼女の視線の先にいたのはママだったのか見果てぬ海だったのか。
その答えを聞くことなく彼女はまもなくどこかに旅立った。
ここにいても仕方ない、ミキは南の島とやらを探すよと言い残して。

あたしは残り、またひとりになった。
もう10年以上もこの生活を続けている。
今さらひとりになることに寂しさはなかった。

彼女の去った後には二人で拾ったラジオだけが残った。
そのラジオに、最近ノイズが混じるようになった。
やはり拾ってきたものは長くは持たないか。

「うーん、調子悪いなぁ」

アンテナの向きをやみくもに調節していたら突然ノイズが消えた。
耳をすますと、しばらくの無音の後にその声は聴こえてきた。


「よしこよしこよしこ…」


ひどく切なげな、女の人の声だった。


***


ラジオの位置とアンテナの向きを固定する。
毎日決まった時間にスイッチを入れてじっと耳をすます。
やがて聴こえてくるその声。


「よしこよしこよしこ…」


誰の、誰への何のメッセージなのか。


「よしこよしこよしこ…」


同じ言葉を繰り返すだけのその声。
たまに漏れる溜息にも似た息継ぎがなければ壊れたラジオの戯言かと思っただろう。


「よしこよしこよしこ…」


ラジオは繰り返す。いや、彼女は。
ただひたすら「よしこ」という単語を繰り返す。


「よしこよしこよしこ…」


よしこよしこよしこ。

何がそこまで彼女を駆り立てているのだろう。
どこか知らない場所から自身の声を電波にのせて繰り返し発信している。
おそらくはよしこという人物に向けて。
だがそれもあたしの想像に過ぎない。


「よしこよしこよしこ…」


哀願するようなその声からさらに想像する。
離れ離れになった家族、あるいは恋人なのか。
会いたいのか、もう会えないことを嘆いているのか。


「よしこよしこよしこ…」


彼女はひたすら名を呼び、あたしはそれを聴いていた。


***


「おーい。そこの若いの。おまえさん、ここから出て行くんだって?」
「まあね」

根城にしていた廃墟を離れ、ガラクタの山を登っていたところで声をかけられた。
相手は配給所かどこかでよく見る顔だった。

「へぇ…おまえさんもついにここを離れる気になったのかい」
「いや、ちょっと前まではそんなつもりなかったんだけどねぇ」
「はっ!ひとつのところにずっといるヤツなんざぁいねえよ」
「………」
「こんなところにいたって何も変わんないさ」
「べつに…何も変わらなくてもよかったんだよ、あたしは」
「じゃあなんで今さらここを出る気になったんだい?」
「………」
「まあいいさ。ちっとはマシな生活ができるといいな」
「どうも」
「俺もそのうち出てやるぜ。そのうちな…」

ガラクタを登りきり、向こう側に下りればもう違う自治区だ。
背中に背負ったラジオが聴ければいいがとぼんやりと思う。

「ところでおまえさん、もう名はあるのかい?」
「そんなもんないよ」
「ここじゃ必要なかったが、この先どこかで必要となるかもしれないぜ」

そういえば少し前に一緒に暮らした女は外から流れてきた者だった。
もう忘れてしまったがたしか彼女には名があった。

「どこかそんな場所に流れついたら好きな名を名乗るがいいさ」
「……よしこ」
「よしこ?」
「たった今からあたしの名だ」

彼女が繰り返し呼ぶ名。
誰の、誰への、何のメッセージなのかはわからない。
ただひたすら彼女が口にする名をあたしは自分の名にした。

「そうかい。じゃあな、よしこ。達者でな」
「あんたも」

二度と会うことはないだろう男に背を向けて歩き出した。
向かうべき方向なんてない。
彼女の声が聴ける場所を探して歩くだけだ。

突風に集まった砂塵がふいに目に入った。
目をこすり、風に背を向けた。
生まれてから一度も出たことのなかった自分の住処が見渡せた。

また風が吹き目が痛んだ。拍子に、涙が流れた。
頬を伝い唇まで届いたそれに舌で触れてみた。
ふーん、これが海の味か。

海まで行ったら彼女に会えるだろうか。
彼女の声は海まで聴こえるだろうか。
ラジオのスイッチを入れるとノイズ混じりの声が流れてきた。


「よしこよしこよしこ…よしこよしこよしこ…よしこよしこよしこ……」


ひたすら繰り返すその呼び声を目指して、あたしはガラクタの山を下りはじめた。










<了>


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