『時計』






 帰宅して一番にすること
それは腕から時計を外すこと。
重さを失った手首を撫でる、もう癖になってしまっている行為。



「ご飯、食べるよね」
「うん」


 食べるよね?なんて言ってるけど食べろってことなのは分かってる
ひーちゃん痩せすぎってのが最近の彼女の口癖。


「おいしいよ」
「ありがと」


 実際、おいしい
それは冗談抜きに愛情だと思う。
料理に愛情が込められてる
そしてここに亜弥がいるということもおいしさのひとつ。


 亜弥の視線が動く。


 胸の奥がチクリと痛む。


 亜弥はあの時計が嫌いだ
嫌いとはちょっと違うか
うーん、なんていうか納得してないんだろうな。


 無意識なんだけど大切に扱ってしまうのは
本当は無意識じゃないってことなんだろうか。
帰ってきて時計を外しタンスの上におくその行動を
気にいらないと一度だけ言われたことがあった。




 ホントに一度だけ。





「その時計って誰かからのプレゼント?」
「なんで?」
「大切にしてるよね」
「うん」
「大切な人なの?」
「うん。亜弥は嫌?」
「‥嫌じゃないけど」
「けど?」

「気にいらないかな」

「気にいらない‥か」
「そうやって大事そうに。いつだって帰ってきて一番にするのが気に入らない」

「・・・。」
「でもいいよ、許す」
「‥うん」


 ごめんと言うのも違う気がして抱きしめる腕に力を込めた。


 
 時計のことに触れたのはこの一回こっきり。
でもずっと気にしていることを知っている。

 いつだったか酔ったあたしが玄関で亜弥に抱きついたとき
酒くさいーと軽く胸を押し返してきたことがあった
その時、亜弥の視線の先には時計がいた。
それをした腕で抱きしめないで、そう言ったかったのだろうか
今となっては分からない。





 
「お風呂沸いてるよ」
「ありがと」
「一緒に入ってあげようか?」
「遠慮します」
「我慢しなくていいのに」
「亜弥と入ると長くなるもん」
「ひーちゃんのエッチ」
「バーカ」



 飛んでくるクッションをかわしバスルームへ。
ローズの香りとか彼女らしいと思う
ひーちゃんは頑張りすぎ、そんな声が聞こえてきそう
誰よりも負けず嫌いで誰よりも頑張り屋なのは彼女の方なのに。



「あぁ゛〜」


 オヤジみたいな声が出た。
やっぱり風呂サイコー、日本人でよかったと改めて思う瞬間
ブクブクとお湯にもぐる。
聴こえてくるのは真実の音
波立つ自分の音。


 

 あたしは亜弥の強さに甘えているだけなのだろうか?
 

 

   ――――彼女が訊いてこないから。



 隠しているワケではない
話す必要がないから話さないそれだけ
わざわざ過去を持ち出す必要はないでしょ。

 というのはただの言い訳
亜弥が訊いてこないのをあたしは知っている。


 彼女は誰よりも負けず嫌いだ。
あたしの過去にさえも負けるつもりはない
どう考えたって勝負をすることすら出来ないものにだって負ける気なんてない
きっと何かを訊いてしまったら負けだと思っているのだろう。

 
 そんな彼女らしさがたまらなく眩しくて愛しい。
 

 そうなると、あたしの負けは話すことだ
過去を言い訳すること、それが負け。
あたしがあれを大切にしているのも事実
亜弥がそれを気に入らないと思っているのも事実
言い訳をして納得させるなんてしたくない。
そう思って落ち込んだ
納得させるなんて偉そうな響きにウンザリした
思い上がりもいいところ。


 それに何をどうしたってどんな理由があろうが気に入らないものは気にいらない
それを無理矢理「あたしの気持ち分かってよ」なんて傲慢にもほどがある。
理解はしてくれるだろう
でもそれってどこかで亜弥に妥協しろと言っているのではないだろうか
少なからず我慢を強いることになるのではないだろうか。




 どれもこれもただの逃げかもしれないけど。




「ひーちゃん」


 亜弥が呼んだ。


「なーに」
「寝ちゃダメだよ」
「はーい」



 亜弥の声があたしを起こす。

 

 明日からあれをしない、外すことも出来る
それは本当に簡単なこと、思うほどではないのだ。
なぜそんなことが言えるのかといえば
し続けていることに固執しているのとはちょっと違うから。
あれが大切であるのは
贈り主があたしにとって特別な人であったこともその要因のひとつなのは間違いない
だけどそれだけじゃない
あいつは毎日あたしの腕にいて一緒に過ごしてきた
だれよりもあたしを知っている。


 そう亜弥との出逢いも
亜弥を好きで好きでどうしようもなくて
自分の想いを支えきれず苦しんでいたことも
やっと好きだと告げたときも
亜弥のぬくもりがあまりにも温かくて思わず涙したことも
すべて知っている
だから、だから大切なのだ、大切な相棒。


  
 考えてたらなんだか頭痛くなってきた。
もう一回、ブクブクと湯船に頭まで浸かる
ユラユラと漂う水面はキラキラと光っていた。



「ひーちゃん!」


 亜弥の慌てた声がボアボアいっている水の音の隙間から聞こえた。
聞こえたと同時に彼女の手があたしの腕を掴んで引っ張りあげる。



「ひーちゃん」



 開けっ放しの入り口から
浴室いっぱいに広がっていた湯気が一気に流れ出ていく。


「なにやってるの!」
「ごめん」
「心配させないでよバカ」
「ごめん」
「いい加減出てきなさい」
「はい」


「あーあ、濡れちゃった」


 心配させてごめんね。

 亜弥が軽く睨んでいる。
ごめんね、そんな顔も可愛いななんて思っちゃってる。



「ねー亜弥、一緒に入ろうよ」
「なんでそうなるのかなー」



 亜弥を後ろからすっぽりと腕の中に閉じ込める
何が楽しいのかあたしの指で遊んでいる彼女がとてつもなく可愛い
キレイな首筋にくちびるを寄せたら身体をよじって逃げられた
ちょっと口を尖らせたら降ってきた彼女のそれ
ココロの中がいっぱいになって涙が出そうになった。



 亜弥があたしの時を刻む。



 
 ◇ ◇ ◇



「じゃ、先行くね。行ってきまーす」
「ひーちゃん、ちょっと待って」
「うん?」
「忘れ物」
「おぅ」



 行ってらっしゃいのキスとポケットに放り込まれた時計。



 こうしてふたりは時を刻む。






















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