時計






キスをしてと言えば、その時々の私の気分に応じたキスをしてくれる。
少しのわがままなら、仕方ないなぁなんて文句を言いつつもきいてくれる。
過ぎたわがままには、無茶言うなと軽く小突かれるけれど、かわりに抱きしめてくれる。

好きと聞くと、非の打ち所がない完璧な笑顔で好きだよと言う。
私はたぶん幸せなんだと思う。


「おかえり。早かったね」
「ただいま。意外とね、収録がスムーズに進んで」

帰宅後の彼女の行動は見なくてもわかる。
重量感のある時計を手首から外して、いつもの場所にそっと置く。あくまでそっと。
猫の形をした受け皿がしっかりとそれを受け止めて、金属音を鳴らすのが嫌だった。
時計をしたまま抱きしめられるのも。秒針がやたらと耳につくから。

「………」

彼女はどんな顔をして時計を猫の上に置いているんだろう。
私に向けるのと同じ顔だったら嫌だな。違っててもそれはそれで嫌だけど。
受け皿の猫に罪はないけれど、にゃーとでも鳴いたら少しは面白いのにと思う。

「ごはんは?」
「食べてない。もしかして待っててくれた?」
「ってわけじゃないんだけど、あんまりおなか空いてなかったから」
「今は空いてる?」
「んー、ぼちぼち。いや、やっぱり空いてないかな」
「そっか。実はあたしも空いてない」

職業柄、私たちは不規則な時間帯にものを食べることが多い。
夕飯時におなかが空かないのは、大抵の場合遅い昼のせいだ。

「なに見てんの?」
「テレビ面白くなかったからそのへんにあったDVDをいろいろ」

彼女は私の横に座ってひとつあくびをすると「ふうん」と言った。
その横顔は疲れた表情をしている。
彼女が着ている薄手のシャツの袖を引っ張りこちらを向かせた。
青白い。正面から見てもやはり疲れていると思った。

「色だいぶ落ちたね」
「うん、残念。また白くなっちゃうよ。つまんないの」
「よっすぃは白いほうがいいもん」
「黒いあたしは嫌い?」
「うん」
「えっ」
「にゃはは。うそー」
「んだよぉ」

拗ねた口調とは裏腹に綻んだ口許が色を取り戻す。
シャープな顎のラインに手を伸ばしたら、無言のまま顔が近づいてきた。
なんにも言わずにそっと触れるだけのキスが2回。
唇が離れ、見つめあった。名前を囁かれ、抱きしめられる。
最初はふんわりと、徐々にきつく。
私は心の中で彼女の名前を呼ぶ。声には出さない。
出さないのか、出せないのか。それは胸がいっぱいだからなのか。
よくわからないけれど癖のようなものなんだと自分では思っている。

『亜弥はしてるときあんましゃべらないよね』

ある夜、言われた言葉はけっこうなデリカシーのなさだと思った。
言った本人が無自覚なだけに、じゃあ誰がよくしゃべるの?なんて聞けず。
むにゃむにゃと眠さにまかせてわけのわからない返答をしたような気がする。

『よっすぃは』

あのとき私は何を言おうとしたのだろう。
デリカシーのなさに対する怒りは不思議とわかず、それとは別のある感情。
行き場のわからないもやもやとした気持ちが渦巻きはじめた夜のことだった。

きつく抱きしめられていた手がふいに緩んで我に返った。
彼女の右手は背中を撫でるように滑り、腰の辺りに落ち着いた。
左手は髪の間に差し込まれ、ぐいと引き寄せられる。
いつのまにか眼鏡も外されていた。
さっきよりも深いキスが私の思考を奪う。
いつもこうだ。何かを考えようとするといつもこう。
考える力と一緒に舌を絡みとられ、どうでもよくなってしまう。

「亜弥…」
「ん…」

ひとしきり求め合って、また唇が離れる。
それはさっきとは違いつやつやと濡れていた。
焦点のあわない視線をさまよわせると時計が見えた。
彼女がいつもしている腕時計。どこにでも連れて行かれる時計。
私たちが何をしようと、この瞬間も猫の上でたぶん時を刻んでいる。
大切に大切に扱われているくせにそんなことまるで意に介さない。
我関せず、ただ時を刻んでいる。

「ふぅ」
「どうしたの」
「やっぱ好きだなぁって思って」
「何が?キス?」
「違う違う。いや、それも好きだけど、亜弥がね、亜弥のことが好きだなぁって」
「……」
「あたし、亜弥のことが好きだよ。疲れてても亜弥がいればなんとなく元気になるんだ」
「じゃあどうして」
「ん?」
「あたしのこと好きだっていうならどうして…」

クリアになった視界に時計が何かを主張するようにまた映る。
彼女の大切な人がかつて彼女に贈ったというその時計。
いつまでも大切に扱われてるからちっとも壊れることはない。
いつか止まるその日までずっとずっと彼女の傍で動き続ける。
もしかしたらその傍らに私はいないかもしれないのに。
それでも時計は彼女とともに時を刻む。


『よっすぃは本当に私のことが好きなの?』


聞きたかったことはひどく陳腐で滑稽な、でもシンプルな確認。
私の中のもやもやは時計を見るたびに、彼女が手首を擦るたびに大きくなっていた。


「どうして……?」
「まだあの時計を持ってるの?」
「………」
「よっすぃの気持ち、どこにあるの?」
「………」
「どうして時計を」
「好きだよ。亜弥が好きだよ。だからどうしてなんて……言わないで」

懇願するように絞り出されたその声は震えていた。
俯いた彼女の頬を伝う涙の意味を理解する前にまた思考が奪われる。
しょっぱいキスを交わしながら彼女の名前を呼んだ。
心の中で、私はいつも呼んでいる。
よっすぃ。よっすぃ。よっすぃ。好きだよ、よっすぃ。

「亜弥…好きだよ。亜弥が好きだよ」

私は何も言えず、ひたすら心の中で呼び続ける。
彼女から時計が離れる日はきっといつかやってくるんだろう。
時計が壊れるのが先か、彼女が手放すのが先かはわからない。
それでも私は彼女といる。時が刻まれる中で、私は彼女の傍に、彼女は私の傍に。

だからその日まで、せいぜい猫の上で私たちを見つめていればいい。
おとなしく時を刻んでいればいい。
私は目を開いて猫の上のそれを睨みつけた。

「好きだよ、よっすぃ」

ずっと心の中で唱えていた言葉が今、音となった。










<了>


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