手のひらの中から






幸せになろうよ、と彼女は言った。



なにかにうちひしがれたとき人は、というかあたしは無駄に元気になる。
いわゆる空元気ってやつなのかな。

自らむりやりテンションを上げることでナチュラルハイの状態をつくりだし、
意識からそのなにかを追い出す作業に没頭する。
全身全霊をかけて。

そのときのエネルギー消費量はハンパじゃないけれど、あたしはあたしのためにそれをする。
そして精神的にひどく傷ついたことをなかったことにしてしまうのだ。

ごっちんと過ごした日々を今さらなかったことになんてできないのは
自分が一番よくわかっていたけど、あたしにはあたしの消化の仕方があった。
なかったことにするのは決して正しいやり方ではないってことも
十分わかっていたけど、どうしていいのかわからないときは今までの経験がものを言う。
今回もその方法に従ったまで。

なかったことにされた傷痕の行き場は結局は自分の中にしかない。
けれど大抵の場合それは時間とともに存在が薄れていく。
遅かれ早かれどんな場合も。
月並みだけど時間が解決してくれるってやつだ。

そうやってあたしは今まで自分の心とどうにかうまく折り合いをつけてきた。
それは時に高層ビルの間を命綱なしで綱渡りをするような危ういものだったのかもしれない。
でもなんとかそれでやってきていたんだ。

今までは。

でも今回ばかりはさすがに勝手が違うようだった。
そのことをあたしも内心では予想していたんだけど。



正直言ってあたしはうんざりしていた。

自分のまわりにいる人間が皆同じ顔に見えた。
自分のまわりにいる人間に好かれることに嫌悪感を抱いていた。
自分のまわりにいる人間が自分のまわり以外のどこかに行ってほしかった。

正直言ってあたしは、自分自身にうんざりしていた。
恋に破れた者として哀れみの目で見られることよりも
むりやり笑顔を作らせようとするまわりに、うんざりしていた。

無邪気にまとわりついてくる妹のような、娘のような同期の存在に対してでさえ
鬱陶しいと感じていた。
そしてそんな負の感情を隠そうとしなかった。
それは彼女らなりの愛情表現であったというのに。

でも、放っておいてほしかった。

なにを言ってもなにをしても、あたしの反応がいつまでたっても彼女たちの望む結果にならなくて
双方ともに苛立ちが隠せなくなってきていたとき、
前置きもなにもなく梨華ちゃんはただ一言をあたしに投げかけてきた。


幸せになろうよ。


その言葉の意味を理解するのには少し時間を要したけど
命令でもなく助言でもなく、ただの軽い呼びかけのようなその口調には
なぜかあたしの心を引き止める力があった。

それはなんとなく梨華ちゃんならこの今のあたしの気持ちをわかってくれるんじゃないかっていう
都合のいい期待をしていた自分がいたからかもしれない。
わかってくれないにしてもあたしの怠惰な状態やまわりに対する素っ気無さを
梨華ちゃんなら許してくれるんじゃないかっていう期待。

だから待っていたのかもしれない。
どんな言葉にしろ態度にしろ、彼女があたしに示してくれるものを。

梨華ちゃんは驚くほど我慢強く気の毒なくらい粘り強かった。
あたしのコチコチに凍りついた心を優しくつつみ込むように徐々に溶かしていった。

それはレンジでチンをするような性急なやり方ではなく
溶けていく様をじっと見守っていてくれるものだった。
押しつけるでもなく気負うでもなくやってくれた。
その過程があたしには丁度よかった。

あたしが欲していたのは、必要としていたのは励ましや気遣いではなく癒しだった。
そして梨華ちゃんへの気持ちのベクトルが徐々に方向転換するのを感じていた。

こんなあたしの気持ちを彼女は気づいていたのだろうか。



「前にさ、あたしに『幸せになろうよ』って言ったじゃん?」
「言ったっけ」
「言ったよー!本当は覚えてんだろっ」
「うん。もっちろん!」
「やっぱりー。惚けんなよぅ」
「だって、ちょっと照れくさかったんだもん。でも急にどうしたの?」
「や、なんでそんな風に言ったのかなぁって…」
「よっすぃーが幸せじゃなきゃ私が幸せじゃないから」
「…あー。あれか、自分の幸せのためにってか」

頬を膨らませて横目でジッと見る。
こんなポーズを取ってしまう自分が、照れ隠しにひねくれたことを言う自分が嫌いだった。
梨華ちゃんの前ではどうしても素直になれない。

「うふふ。そうだよー。自分が幸せになりたいからに決まってるでしょー」
「ちぇっ」
「かわいい。よっすぃー」

目を細めてあたしの髪をナデナデしてる彼女。
褐色の二の腕が本能をそそる。

彼女のことが好きで、その魅惑的な手つきや体つきや視線に抗えない自分。
それなのにやっぱり彼女の前じゃ素直になれない自分。
この相反する両者がどっちも自分なのかと思うと不思議で仕方ない。
同時にそんな自分に対する嫌悪感も否定できないでいる。

「また難しい顔してぇ」
「コラコラやめなさい」

あたしの眉間の皴をむりやり伸ばそうとグリグリと人差し指を押しつける梨華ちゃんを軽く振りほどく。
すると今度はゆっくりと唇を押しつけてきた。
舌先で丹念に伸ばされるあたしの眉間の皴は彼女の唇が触れた時点でとっくに平らになっていた。

やっぱり彼女には敵わないと思う。
あたしはきっと梨華ちゃんの手のひらの上で一生転がされていくんだろうなぁ。

遠い未来のことを考えた。まだ見ぬ将来のことを。
悔しいけどこのまま敵わない相手でいてほしいとほんの少し思う。
いつまでたっても彼女が一枚上手で、あたしの髪をずっと撫でていてくれる。
それも悪くないな。

この居心地のいい手のひらの中から抜け出して
自分の手で彼女のことをつつみ込める日が来るのだろうか。
守れる日が来るのだろうか。
来てほしいような来てほしくないような。

もうちょっと、この手のひらの中で甘やかせてほしい。

そんなことを考えながら目の前でプルプルと揺れる二の腕を見た。
無性に堪らなくなり思わずしゃぶりついた。
キャッという声が漏れる。
もっともっと彼女の甘くて高い声が聞きたくて吸ったり、ちょっと強く咬んで痕をつけたり。
彼女をベッドの上に組み敷いて、あたしたちの夜がまた始まった。

「幸せだよ」

彼女が耳もとでそっと囁いていた。





「プロポーズみたいだった」
「なんのこと?」
「幸せに、ってやつ」
「プロポーズ?」
「うん。言われたとき、一瞬あたしプロポーズされたかと思ったんだよ」
「えぇー!!ホント?!」
「うん、ホント。梨華ちゃんはそういうつもりじゃなかったの?」
「違うよぉ。全然そんな…でもそう言われるとそんな気もしてきたかも」
「でしょ?」
「でもやっぱり違うよ」
「違うの?」
「だってプロポーズだとしたら『私と』幸せになろうよって意味になるでしょ?」

天井を見つめていた視線をあたしに向き直して話す彼女。
彼女に見つめられるのがこんなにも落ちつくなんて。癒されるなんて。気持ちいいなんて。

気持ちよすぎて参っちゃいそうになるからたまらずあたしは視線を逸らしてしまうんだ。
逸らしがちなあたしの眼差しから彼女がいつもなにを読み取っているかなんて知る由もなく。

「そういう意味で言ったんじゃないの?」
「そんな、畏れ多くてとてもじゃないけど言えないよー。そんなこと」
「なんだそりゃ」

少しおどけて、彼女は笑いながらあたしの腕の辺りを叩いた。
そしてすっと真剣な顔つきになりあたし越しに鏡のほうを見つめる。
まるで鏡の中の自分と過去の自分を照らし合わせるかのようにゆっくりとなにかを探っていた。

さっきまでのベッドでの恍惚とした表情と鏡の中の記憶を辿る彼女の表情が
あまりにもアンバランスで、なぜだか痛々しく見えた。

「あの時は正直言って、よっすぃーとこう…なれるなんて思ってなかったから。
 ただ、あなたには幸せでいてほしかったの。あなたには笑っていてほしいって。
 あなたの幸せな顔が見れたらそれだけでいいって思ってた。
 さっきも言ったけどやっぱりそれが私の幸せだから」

もちろんこうなりたいって願望はずっと前からあったよ?よっすぃーは全然気づいてなかったけどね。
そうつけ加え、目を伏せて寄り添う彼女。
愛しさが込みあげて彼女の髪にひとつキスを落とした。

「あたしも梨華ちゃんには幸せでいてほしい」
「うん」
「笑っていてほしい」
「ありがと」

自分の手で幸せにするとはなぜか言えなかった。
彼女の望む言葉をなぜか言ってあげられなかった。
口にしたら、その言葉に縛られてどこにも身動きが取れなくなる気がしたのかもしれない。
だから彼女も幸せにしてほしいとあえて口には出さずにただ頷いただけのかもしれない。
でも所詮それは、あたしの身勝手な解釈にすぎない。

心から彼女が愛しいのになんで切ないんだろう。
恋って苦しいんだな。

彼女のちっちゃな手をしっかりと握る。
彼女の温もりが伝わってくる。
その刹那、なぜかこの手から、あたしを癒してくれたこの手のひらの中からいつか解き放たれ、
自らどこかに羽ばたいていくんじゃないかという哀しい予感がした。

予感なんて、当てにならないことは身にしみている。



だからこの手をいつまでも捕まえていられるようにと強く願っていた。










<了>


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