猫を見た






買ってもらったばかりの慣れないスーツに身を固め、
いろんな人や物に溢れていた入学式からの帰り道。
まだよくわからない地下鉄の複雑な乗り継ぎに泣きそうになりながら
ようやく引っ越したばかりのアパートの、その最寄り駅のちょっと閑散としたほうの出口で、
艶やかな毛並みと鋭い視線、しなやかな体躯を持った猫を見た。

なぜか一瞬にして目が奪われた。
あちらを向いていたその後姿をじっと見つめていたら、唐突に猫が動きだした。
こちらを振り向いた猫に、またぼうっと釘付けになった。
綺麗な顔をしていた。
ゆっくりとこちらに向かってくる猫はどこか一点を見つめ、自分を少しも見なかったが、
すれ違いざま、ちらりと視線が交わったような気がした。
去り行く猫の後姿はどこか寂しげだった。

田舎という田舎でもなく、都会という都会でもない故郷を出て、
進学のために上京したのは2週間前のことだ。
とくに行きたい大学でもなく、とくに行きたくない大学でもなかった。
受験したら受かった。親や教師の勧めもあった。
自分自身は何も考えずにそこに決めた。人生なんてそんなもんだろと思っている。

『上京する』ということに対してもとくに実感は湧かなかった。
新しい地での生活に心躍る期待も、慣れ親しんだ故郷を離れる感慨も何も。
都会で暮らすということを単純に羨ましがる友人もいた。
「遊びに行くね」などと口々に言われた。
そんな友人たちと、この見知らぬ地で遊んでいる自分が想像できなかった。
実際に『上京』してみて、やはりこんなもんかと思った。

6月に入り季節はいつのまにか鬱陶しい梅雨の時期を迎えていた。
こちらの梅雨は故郷でのそれよりも暑く、じめじめとした不快なもので、
クーラーなんてない狭い一人暮らしの部屋で日々扇風機にかじりついていた。
大学生活で人並みにできた友人たちも、皆一様に
都会の始まりつつある夏に不満を漏らしていた。
クーラーのある家に入り浸り、暑さを理由に講義を休む。
バイトも行く気がせず、時々逃げ込むファミレスで飲み放題のジュースを飲んでは暑さを凌いだ。

夜の散歩を始めたのはこの頃からだ。
クーラーを持つ友人に恋人ができたことでそれまでの居場所が無くなった。
連日ファミレス通いをするような金はなく、もちろんバイトをする気にもなれなかった。
自分の部屋にいても暑さで汗ばむ体にTシャツが張りつき、
本格的な夏を前にして訪れた熱帯夜に眠ることも許されず、
下がらない気温に閉口して本能的に外に出た。
ムッとした室内とは違い、さすがに外は幾分涼しかった。

風がない都会の夜の空気はどこまでもぬるかったが、
それでもTシャツと肌の間に汗以外の隙間を作ってくれた。
快適とは言い難いが部屋の中で一人、汗を垂れ流しているよりはマシだった。
近所を歩きまわり、ほどよく疲れて睡魔が迎えに来た頃部屋に戻る。
そんなサイクルで過ごしていた6月だった。

7月に入って夜の散歩の回数は増えていた。
予想通りの猛暑が到来していたからだ。
扇風機は熱い空気を掻き回すだけで、すでになんの役にも立っていなかった。
夜の散歩は暑さとともにその範囲を拡大し、
近所をひとまわりして終えるだけではなくなっていた。
探検のようなその散歩は暑さから逃れるという目的だけでなく、
すっかり夜型生活に移行してやることがなくなってしまった暇つぶしも兼ねていた。

ふらふらと熱夜の中をさまよい、見慣れない店の前を通り過ぎる。
夜の街でいろいろな発見をするたびに少なからず興奮した。
なんとなく行っている大学の講義でもそれなりに面白いことはあったが、
どこかでこんなもんかと思う自分がいた。
対してこの街には歩くたびに新たな発見があった。
蒸し暑い駅の構内には夜中だというのに肌を大胆に露出させて
たむろしている高校生風の男女や、そこを住処としている輩が数人いた。
そして自分も含めたその場にいる全員が大粒の汗を流していた。
涼を求めてさらに歩いた。

普段は訪れることのない、駅の南側出口のすぐ目の前にある公園に小さな噴水があった。
公園と呼ぶには少々心もとない広さだったがお情け程度にあるツツジやベンチや看板が、
そこを公園とたらしめていた。
誰もいない公園の中心にある小さな噴水からの放水はストップしていたが、
円形のすり鉢状をしたそこにはゆらゆらと揺れる水面が見えた。
そっと手を忍ばせてみた。
予想通り水温は高かった。
だが不快感はなく、むしろ気持ちがよかった。

そしてそこに猫がいることに気づいた。

4月に一度だけ見かけたあの猫が、自分と同じように噴水の溜り水に手を差し伸べていた。
水の中で動く手は白く、闇の中でぽっかりと浮かんで見えた。
白い手から生み出される小波が音も無くこちらに寄せてきては、
手首の少し上を濡らしてまた猫へと返っていく。
しばらくそのままにして、水と遊ぶように戯れる白い手と猫を見つめていた。

辺りに人の気配はなく、街に存在する特有の雑音も、
さっきまで騒がしくサイレンを鳴らしていたパトカーや救急車の類も
どこかに消え失せてしまったかのように無音だった。
この場所だけが世界から見落とされたように静かだった。
頭上からそっと一枚の葉が舞い落ちてきて水の上を滑った。
不規則な動きをして猫の手元に向かう緑色の葉。

ふいに、猫がこちらを見た。

揺れる水面を手刀で切りながらじっとこちらを見る猫。
手の動きは徐々に速さを増し、水が飛び跳ねる音がはっきりと聴こえた。
距離にして数メートル。
闇に紛れた猫は笑っているような気がした。
そしてクイっと顎を横に向けたその顔には、まるでこっちへ来いと言わんばかりの、
抗うことが不可能な表情が浮かんでいた。


その瞬間から始まった。
あたしと猫の始まりを、水面だけが知っていた。





<了>





「なにこれ」
「どうよ。二作目。あたしと美貴ちゃんの出会いを小説にしてみました。えへへ」

そう言いながらジャージを着た女は照れ臭そうに自身の金髪頭をぽりぽりとかいた。

「これ吉澤さんが書いたんですか?すごいですねぇ」
「恋人になる前の二人の運命的な出会い編でした。えへへ」
「へぇ〜。藤本さんって前はニャンちゃんだったんですか?」
「いや、違うから」

きゃあきゃあと騒ぐ制服姿の女子高生の言葉を呆れた顔で否定するエプロン姿の女。
無地の黒いエプロンのポケットに両手を突っ込んだまま、
顎で目の前の金髪頭を指しながらさらに否定する。

「アンタも。とにかく、いろんなところが違うから」

ここは『藤もん』という看板を掲げた老舗の餃子専門店だ。

原稿用紙の束を前に得意気な顔で、ニコニコと笑みを絶やさないのは吉澤ひとみ。
その原稿用紙を突きつけられて興味津々に読んでいたのはひとみの高校時代の後輩で、
藤もんの常連客でもある亀井絵里。
そしてそんな二人を呆れた顔で見ながら、それぞれにツッコミを入れたのは
『藤もん』の若き店主、藤本美貴だ。

「え!藤本さんたちって恋人じゃないんですか?」

絵里が目を輝かせながら嬉しそうに尋ねた。

「いや、そこは辛うじて正しい」

美貴がすかさず鋭い眼光とともに返すと絵里はがっくりと肩を落とした。
二人のやり取りそっちのけで自作の小説を満足気に読み返していたひとみは、
原稿用紙の端を綺麗に整えながら深いため息をついた。

「はぁ〜。この二人、つまりあたしと美貴ちゃんはこれからどうなっていくんだろう…」
「気になりますよねぇ〜。ニャンちゃんは野良なのかなぁ?」
「ほんっとにいろんなところが違うっていうか、全部違うから。間違ってるから、アンタたち」

昼の慌しい時間帯が終わり、ひと息ついた準備中の店内には美貴とひとみ、
そして試験休み中の絵里が暇を持て余していた。
正確に言えば、実際に暇なのは美貴だけだ。
ひとみと絵里はそれぞれ勉学に励むべき立場にいる。
それでもテーブル席で美貴が作ったあんこ餃子をつまんでいるのは、何も珍しい光景ではない。

「大体ねぇ…よっちゃん、アンタ浪人中でしょ。こんなもの書いてる暇あるわけ?
 それに地下鉄なんてちっちゃい頃から乗ってんだから目ぇ瞑ってたって乗り継げるでしょーが。
 『複雑な乗り継ぎに泣きそうになりながら』ってなにこれ。実家暮らしのくせに」
「目ぇ瞑ってはさすがに無理かと…」
「あん?!何か言った?!」
「ふぇいっ。何でもないっす!」
「それにね、一番おかしいのはここ。根本的に間違ってる。美貴は猫じゃないの。
 大体出会ったのって幼稚園のときによっちゃんが美貴をナンパしたのが最初じゃん」
「えー!そうだったんですかぁ?!」
「あれ?キャメちゃん知らなかったっけ?」
「幼馴染っていうのは聞いてましたけど幼稚園のナンパ話は初耳ですよ」
「ナンパとは人聞きが悪いなぁ。あれは美貴ちゃんが誘ってきたから…」
「幼稚園生が誘うか!バカ!」

ひとみから原稿用紙の束を奪った美貴はそのまま恋人の頭上に振り下ろす。
ぽすっという乾いた音に首を竦めるひとみ。

「ひ、ひどいよ〜。美貴ちゃんがいじめるよ〜」
「あー!藤本さんが吉澤さんを泣かしたぁ」
「う、うぇーん、キャメちゃーん」
「よしよし、まったくひどいですねぇ〜。絵里なら吉澤さんを泣かしたりしませんよ?」
「キャメちゃんは優しいなぁ。あたしちょっとクラっときそうだよ…」
「吉澤さん…」
「絵里…」

目を潤ませたひとみが絵里の手を握った。
そして絵里もしっかりと握り返す。

「茶番はそこまでだ」

地獄の底から響いてくるようなその声に、コントのような芝居をしていた二人は
あっという間にお互いの手を離し、それだけでは足りないとみたのか体も突き飛ばした。
それはもう、ものすごい速さで。

「ただいまー」

腕組みをした美貴がそんな2人を満足気に見下ろしていると、
ガラガラという渋い音とともに店の戸が開き、制服を着た少女が入ってきた。

「おー、亀ちゃん来てたんだー。いらっしゃい」

その少女は、美貴のいとこであり『藤もん』の金庫番こと新垣里沙だった。
里沙は高校進学を期に家を離れ、美貴の家に下宿をしていた。
そして職人気質で数字にまるで弱い美貴に代わり、
店の帳簿から家計簿まで、金銭関係の管理を一手に引き受けている。

「お邪魔してまーす」
「ガキさんお帰りー」
「吉澤さん、さっきそこで吉澤さんのお母さんが探してましたよ」
「マジで?!なんだろう。ちょっと行ってくる」
「はいはい。行ってきな。予備校サボったのがバレたんじゃない?」
「げげ。だとしたら会うわけにはいかないな。美貴ちゃん今夜も泊めて?」
「いーやーだ」
「ひどい!それが愛しい恋人に対する仕打ちな」
「あ、ガキさん。新しい仕入先からさっき連絡があってね…」

ひとみの言葉を遮り、美貴は里沙と仕入れの相談を始めた。
不満そうに唇を尖らすひとみの頭を絵里がよしよしと撫でる。

「んじゃ、あたしそろそろ帰るわ…」

ひとみは美貴の表情をちらちらと盗み見しながら、
丸めた原稿用紙を無造作にバッグに詰め込んだ。
美貴と里沙の会話はいつのまにかこの秋の新作メニューについてのものに変化している。
自分のほうをチラリとも見ない美貴の様子に肩を落としつつ、ひとみは立ち上がった。

「じゃあね、キャメちゃんまた…」
「吉澤さん、そんなしょぼくれた顔してちゃダメですよー。ふぁいとふぁいと」

絵里に背中を叩かれ、ひとみは思わずムセた。

「ごほっごほっ。キャメちゃん力つえー」
「やだっ、ごめんなさーい」

トボトボと歩き、背中を丸めながら店の戸を引いたひとみの背中に声がかかる。

「よっちゃん」

恋人の声にピクっと反応したひとみは、おそるおそる振り向いた。

「夜、ちゃんと勉強してから来なよ」
「えっ…いいの?」
「明日は予備校サボんなよ」
「う、うん。えっと、じゃあ美貴ちゃん、夜にね」
「うん。あとでね」

晴れやかな表情に様変わりしたひとみの姿を見て、美貴は照れ臭そうに笑った。
里沙と絵里はそんな2人の様子を眺めながら、からかうような視線を美貴に向ける。

「なによー」
「なんでもないですよー。ねー、ガキさん」
「そうそう、なんでもないよ」
「なんかムカツクなぁ。まあ、いいや」

くるっと背中を向けて厨房に消えていく美貴を指差しながら、
里沙と絵里はこっそりと声を立てずに笑っていた。

「さてと、開店準備だー」

あと1時間もすれば夕飯時だ。
藤もんは今夜も、餃子を食べに来た多くの客で席が埋まるだろう。
美貴は美味そうに餃子を食す客たちの顔を思い浮かべながら腕まくりをした。
そして、閉店後に訪れる恋人に試食させるための新メニューについて頭を巡らせる。





ひとみが泣きながらその杏仁餃子を食べさせられるまで、あと6時間を切っていた。










<了>


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