ロンドンからの2通の手紙






   圭ちゃんを足踏みさせていることにもし少しでも
   あたしのバカな所業が関係しているとしたら、ごめんなさい





約一週間ぶりに我が家に帰宅すると郵便物の山があたしを出迎えてくれた。
指導している院生とともに参加した学会そのものは退屈な一日目、
そこそこ収穫のあった二日目と無事に終了し、帰りの新幹線の中で
報告書をまとめていたそのときに訃報が飛び込んできた。
恩師でもあり院生の曽祖父にあたる人物だった。
新幹線を途中下車し、その足で院生の生家に向かった。

教え子たちが数多く駆けつける賑やかな通夜と葬儀だった。
先生もきっと喜んでおられることだろうと、懐かしい仲間たちと酒を飲み
研究に携わる多くの方々と貴重な意見を交わすことができた。
それは数日前に参加した学会よりもよほど実のあるものだった。
先生の最後の指導だったのかもしれないな、と都合のよい解釈をして
再び新幹線に乗り込んだのが学会の三日後。
書きかけの報告書にはなんとも言えない空虚さがあった。

郵便物をデスクの上に投げ出したらいくつか床に散らばったが
気にせずそのままベッドに横になった。
コンタクト外さなきゃなー、化粧落とさなきゃなー、なんて思いつつも
否応なく降りてくる瞼の重みには逆らえなかった。

もそもそと上着を脱いでエビのように体を丸めた。
明日は休みだ。
たまった洗濯物を片付けて、ほこりの目立つキャビネットを拭いて…
頭の中で予定を組み立てているうちに心地よい眠気が訪れた。



夢の中であたしはロンドンにいた。



初めて彼を見たのはいくつの頃だったろう。
まだ二十歳にも満たない大学生のときだった気がする。
今は吸っていない煙草をいきがって吹かしていた時期だ。

ひとみの母親は一見冷たく感じる美しい容貌とは裏腹に
天真爛漫で子供のような人だった。
いい歳をして悪戯っ子のようなところがあり
一緒にいて世話を焼かされるのはいつもあたしだった。
そんな彼女がひとみを産んだ後に人が変わったようにおしとやかに
そしてしっかりとした大人に変貌したのを見て母は強しだな、と思ったのを覚えている。

彼女が彼と結婚することを、あたしは自分の父親から聞いた。
その数日後、彼女たちの婚約発表の席で彼を初めて見た。
硬質な喋り方と声だと思った。
何を考えているのかわからない難しい表情で隣で朗らかに笑うひとみの母親とは
まったく対照的に、口許を堅く結んで隙を見せることはなかった。

そこには政略結婚だからといって眉をひそめるような人間はいなかった。
それが当然のこととして受け止められていた時代だ。
今はその風潮も薄れてきたと聞くがそれはべつに自由恋愛が解禁したとかいうわけではなく
単に企業同士の結びつきに血というものが色濃く反映されなくなったからだろう。


彼、ひとみの父親は婚約発表の席で一度も笑顔を見せなかった。


夢の中のあたしはロンドンの吉澤家でマリアのいれた紅茶を飲んでいた。
ひとみがなつみと暮らすことを決め、家を出たばかりの頃の風景だった。
気丈に振る舞いつつも祈りの言葉を口にするマリアの手は震えていて
あたしはぼんやりとなつみのことを考えていた。
なつみとひとみ、二人のことを。

どうしたらひとみがこの家に戻ってくるのか
何を言えばなつみはひとみを解放してくれるのか。
無理だと分かってはいたけれど、考えることでひとみが戻ってくるような気がしていた。

『おかえりなさいませ』

ひとみの父親が帰ってきた。

『ひとみは?』
『………』

マリアは無言で首を振った。

『そうか』
『心配じゃないんですか?』

表情ひとつ変えずに眼鏡の縁を中指で押し上げた彼を見ていたら思わず声が出た。

『あの子は私に心配されたくはないだろう』
『なぜそんなことを…』
『そういう子だ』
『あなたはあのときも…ひとみの母親が死ぬときもそうだった』
『………』
『なぜ自分をそこまで押し殺すのですか?本当はあなただって…』



突然目が覚めた。
真っ暗な中で視界の片隅にぼんやりと小さな光が浮かんでいた。
まだ少し覚醒しない頭を無理やり起こして音の鳴るほうへ少しずつ移動した。

こんな時間にメールだなんて、人の迷惑を考えろ。
悪態をつきながら時計を確認すると夜中の1時過ぎだった。
帰宅したときにはたしか日付が変わっていたから…30分ほど眠っていた計算になる。
郵便物に足を滑らせて床に膝をしたたか打ちつけた。
涙目になりながらメールを開いてすぐに閉じた。アヤカからだった。

散乱した郵便物を集めて再びデスクの上に置いた。
なんとなく目についた一枚を手に取りそのままキッチンに向かう。
冷蔵庫から出したミネラルウォーターを飲みながら封書の中身を確認した。
ひとみからの手紙だった。

短い文章を何度も目で追ううちにミネラルウォーターは空になった。

「足踏みねぇ…」

考えているうちにまた眠気に襲われた。
コンタクトを外し、化粧を落として今度はちゃんと寝る態勢を整えた。
一週間ぶりのベッドの柔らかさを堪能するまもなく、あたしは再び夢の中へと落ちていった。





明らかに、ベッドや枕とは違う柔らかさを感じた。
あったかくていい匂いがする。
この柔らかさの正体にはなんとなく見当がついていたからそのままでいた。
この心地よさをもう少し味わっていたかったから。


ごめんなさい


ひとみからの短い手紙の一文が頭をよぎった。
ひとみが何をどう考えて謝ろうと思ったのか気持ちは分かるが筋違いだ。
あの子は勘違いをしている。
あたしに謝るようなことじゃないのに。

「起きてるんでしょ?ケイちゃん」
「まあね」
「出張お疲れ様。それに先生のことも…」
「うん」
「ねぇ、怒らないの?」
「なにに?」
「あたしがここに潜り込むといつも『ゲストルームで寝ろ!』って言うじゃない」
「あー、うん、そうね」
「今日はいいの?」
「今日はいい」
「そう」
「そう」

アヤカに抱きしめられながらあたしはまた眠りに落ちかける。
うとうとと夢と現実を行き来しつつ、まどろみの中へ。
どうしてひとみは突然あんな手紙をよこしてきたのだろう。
見当違いな謝罪をするくらいなら、昔マリアとあたしに
さんざん心配をかけたことを謝られるほうがまだ納得がいく。

もちろんひとみは何度も謝ったし反省の言葉も口にしていたけれど
今さら謝っても過去は変わらない。
むしろ今のひとみ自身がしっかりしていればそれだけであたしは満足だ。
だから謝る必要なんて実際のところはないけれど
それでもあたしが足踏みしているなんて思われるよりは数段マシだ。

手紙のことを考えていたらいつのまにか眠気が失せていた。
休日の朝寝をもっと楽しみたかったが仕方ない。
洗濯に掃除、それに溜まっている仕事もある。

時間は有効に使わなければあっという間に夜が来る。
そして明日の朝にはまた指導者として、研究者として、
医療に従事する者の顔をして出勤しなければならない。
自分が好きで選んだ道だけどさすがに歳とともに体力の衰えを感じるようになった。

時間は待ってはくれない。

首にまわされた両手を解こうとしたとき寝息に気づいた。
あたしの眠気がそっちにいったか。
鼻をくすぐる香水の花のような匂いに惑わされたわけじゃないけど
その細い腰を抱き寄せて、また目を閉じた。
まあいい。もう少しだけダラダラとしていよう。

ロンドンにいるひとみのことを考えた。
無茶をして入院したということをまさか飯田先生から教えられるなんて、
ありえない事態に届いたメールを何度も見返した。
ロンドンであの二人に何があったのだろう。
ひとみが元来持っている人を惹きつける力が
まさかあの出世人間にまで影響を及ぼしたのだろうか。

ひとみに振り回される飯田先生を想像してアヤカと二人で笑ったけれど
案外逆かもしれないな、とメールで淡々と語られるひとみの入院状況を読んでそう思った。
それにしても律儀な人だな、飯田先生は。

マリアからの電話でひとみが気持ちの整理をしたらしいことは聞いていた。
でも本人に会うまではまだ安心できないというのが本音だった。
もうあんなひどい思いをひとみにしてほしくはない。
あたしとブレンダ、そしてひとみとなつみ。
あたしたちがいたあの秋の終わりは、
今もあたしの中で壊れた時計のように時を刻むのを拒んでいる。



『あたしは女優よ。大女優になってあいつらを見返してやるの』
『このポスターみたいにブレンダの顔が街を飾る日がいつかやって来るわ』
『そうね…遠くない将来、絶対に来るわ。このライトの下にいるのはあたしよ』



あたしがプレゼントしたポスターを、ブレンダはかなり気に入ったらしく
行為が終わるとよく眺めてはそんな会話を交わした。
今思えばとんだ茶番だ。
そのときすでにブレンダはあたしより、女優よりクスリを選んでいたのだから。

ブレンダが去って、ポスターの色も褪せてきた頃なつみはあたしに言った。

『ブレンダが見ていたのは幻想に過ぎないと思う?』

あたしはそのとき何て答えただろう。
数年たった今でも思い出せないままだ。
でももし今なつみが生きて、あたしに同じ問いかけをしたらこう答える。

『幻想でも見ていただけマシよ』

なつみには何も見えていなかったんだから。
何も見ようと、しなかったんだから。



「ケイちゃん…」
「あ、起きたんだ」
「どうしたの?」
「なにが…?」
「ケイちゃん、泣いてるよ」
「あくびよ。あくび。ふわぁぁ〜。さてと、シャワー浴びて洗濯でもしようかな」

シャワーから出て帰ってきたままの状態で放っておいた鞄の荷解きをした。
中から出てくるのは疲れた出張の名残ばかり。
土産のひとつでも買ってくればよかったかなと思いつつ
休日に人の家のベッドでゴロゴロしているセクシーな友人の背中を見た。
まあいい。今さら土産がどうのと騒ぐ歳でも仲でもない。

荷物を片付けてデスクの上の郵便物を整理することに取り掛かった。
仕事関係のものがほとんどだ。
論文雑誌に目を通すのは苦痛じゃないけれど
こういう郵便物を要るものと要らないものに選り分けるのは面倒で仕方ない。
全部まとめて研究室に持っていって若い子にでもやらせればよかった。

そんな後悔をしながらいい加減に判別していると、ふと見覚えのある封筒が目に留まった。
昨日見たひとみからの手紙と同じ封筒だった。
裏には同じくひとみの名前があった。

ペーパーナイフを使って封を開けてから、まさかとは思いながら昨日の手紙を探した。
あれが夢だった可能性もあながち否定はできない。
たしか昨日は読み終わってから…どこに置いたんだっけ?
水を飲みながら苦笑したことは覚えている。やはり夢ではない。

キッチンに行こうと立ち上がりベッド脇のサイドテーブルをなにげなく見たらそこにあった。
丁寧に畳まれてきちんと封筒に収まっている。

「読んだ?」

眠る後姿にそっと話しかけてみた。
返事はなかった。



『ヒトミと寝たの』
『…まったく、仕方ない子ねぇ』
『それだけ?』
『それだけって?』
『あたしロンドンクリニックに行くの』
『理事長から聞いたわ。ひとみにはもう言ったの?』
『言わなかったらあたしと寝なかったんじゃないかしら』
『本当、仕方のない子…』
『あたしが誘ったのよ』
『違う。あたしが言ったのはアンタのことよ、アヤカ』
『…ケイちゃんはなんとも思わないの?!あたしがヒトミと寝たこと』
『だから言ってるじゃない。仕方ないって』
『ケイちゃんにとってあたしは何?』
『いい友人。古い仲間。尊敬すべき立派な歯科医だし可愛い後輩』
『そうじゃなくって!そうじゃなくて…』



ひとみがロンドンで何を感じ、何を思い、何を考えてどんな答えを出したのか
あたしには分からないけどあの子なりに悟って移した行動に意味がないわけがない。
ただ、あたしに見出せないだけで。

ひとみがアヤカと寝たことに責任を感じるのはやはり筋違いで
あたしはそんなことを気にしているわけではない。
そもそも踏み出すとか踏み出さないとか、そんな選択肢すら考えるまでもなかった。

二通目の手紙には、近況を知らせる短い文章とマリアとのツーショット写真が入っていた。
病院のベッドの上で無邪気に笑うひとみの顔を見たらすべてが終わったのだと感じた。
相変わらず慈愛に満ちているマリアの笑顔と
あの頃あたしが守りたかったひとみの笑顔がそこにあった。

何の変哲も無いその手紙の文脈からしてどうやらこちらが一通目のようだった。
二通目のあの短い一文だけが添えられた手紙はひとみが退院した後に書かれたものなのだろう。
日付から判断するに藤本がロンドンに向かった日だ。

あたしは足踏みなんてしていない。するわけがない。
踏み出すことさえできないあたしにそんな資格はない。



『向こうに行ったらブロンドに染めようかな』
『アヤカには似合わないわよ』
『そう言うと思った』



アヤカは笑ってロンドンに旅立ち、戻ってきたときも同じように笑っていた。
あたしのまわりにある笑顔はどれもこれもあたしに生きるエネルギーを与えてくれる。
生きることに力を貸してくれる。
あたしを支えてくれる。
それだけであたしは満足だ。
生きてさえいればなんだってできるんだから。

半焼したアパートの中でなぜかほぼ原型を留めていた古びたポスターの裏には、
あたしからブレンダへのくすぐったくなるような愛の言葉が書き添えられていた。

どうせなら燃え尽きてくれたほうがよかったのに。
中途半端に残された行き場を失った感情を封印して、あたしは自らの手でポスターを燃やした。
数年後、それがなつみの形見でもあったことに気づき
少しだけ悔やむことになるとは思いもせずに。

ひとみが区切りをつけた今、自らポスターを燃やしたときのように
あたしもケリをつけなければならないのだろう。
あたしだけが時計の針を動かせないでいる。
そんな状態はもう終わりにしよう。

「ねぇ、アヤカ」

寝ているのか寝た振りをしているのかは分からない。
けれど構わずに続けた。

「ブロンドに染めたら似合うんじゃないかな?」

あたしはやはり足踏みをしていた。
子供みたいに地団駄を踏んでいた。
踏み出したくてもその勇気がなかった。



『けいちゃんってブロンド好きでしょ?』



朝帰りの疲れた笑顔であたしに問いかけたひとみ。
そうよ、あたしは昔からブロンドに弱い。
アンタの母さんと同じ髪の色にね。

「ホントに似合うと思う?」
「う〜ん…あんまり」
「ちょっと〜。どっちなのよ〜」
「アヤカは今のままがいいよ」

そうしてあたしはようやく一歩を踏み出せたのかもしれない。
あの日からの第一歩を。










<了>


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