ワイパーをひっきりなしに動かしてもこの雨には勝てっこない。
この前からネジが緩んでいるメガネをぐいっと押し上げたその指で唇を触った。

「ったく…」

車体を叩きつけるうるさい音になんとなくだけど身が竦んでしまう。
感じる痛みなどあるはずがないのに、思わず顔を歪めていた。
バチバチという音がうるさく、痛かった。

広い通りを過ぎてから、うっかりすると見過ごしてしまいそうな細い路地に進入した。
地元の人間くらいしか使わないだろうその抜け道は、彼女の家に行く最短経路だ。
でもきっと彼女はこの道の存在を知らない。
教えても、妙な意地を張って通ることはしないだろう。
少し笑った後、また雨の音を意識してしまいハンドルを握る手に力が入った。

対向車が来たら面倒だなと思いつつも狭い住宅街を縫うように車を走らせる。
この激しい雨の中、好んで外出するような人間はいない。
通行人はもちろん、鬱陶しい自転車やバイクは一台も姿を見せなかった。
曲がり角でタクシーと鉢合わせになったが、こちらが行動を起こす前に向こうがバックした。
片手を少し上げながら遠慮なく通り過ぎる。
この視界の悪さであたしの気遣いが向こうに通じたかどうかは疑問だった。

携帯が鳴った。

視線を前方に固定させたまま助手席に手を伸ばして着信ボタンを押す。
一瞬だけ隣に目を向けたとき、ハンドルが左にぶれた。
慌てて体勢を立て直して携帯を耳につける。

「よっすぃ?」
「梨華ちゃん」

彼女の声から多少の苛立ちを感じとって、あたしはまた笑った。
べつに面白いわけではなかったが5分おきにかかってくる電話にはもう笑うしかない。

「今どこ?」
「えーっと…」
「まだ?」
「もうすぐ、かな」
「早くね」
「うん。わかった」

さっきから何度となく繰り返される同じ会話を、彼女はどういう気持ちで続けているのだろう。
あたしがいくら「もうすぐ」と言っても辛抱できなくなってまたかけてきてしまう彼女。
同じ所をグルグル回りながらその電話に律儀に出ては、安請け合いをしてしまうあたし。

実際、彼女の家まではもうすぐそこで。
あたしの言葉はあながち嘘ではなかった。
でもほら、あぁ、また彼女の家を通り過ぎた。
通り過ぎてしまった。

これで何回目だろう。どうしてもブレーキを踏むことができない。
大きな水たまりに突っ込んで派手な飛沫をあげて去り行く車。
あたしの意思はどこに向かっているのか、自分でもよくわからなかった。





『バカよっすぃ』
『なんだよ、バカ梨華』
『私が呼べばいつでも来るって言ったのに』
『言ったよ?』
『それなら私が帰りたいときもいつでも送りなさいよ』
『それとこれとは別』

振り上がった彼女の右手首を左手で強く掴んだ。
同時に、彼女の左手があたしの目の下を掠める。
真っ赤な爪が見えて、その手首も逃がさないようにがっちりと握る。
お互い両手を高くあげて万歳をするような間抜けな格好だった。
でも彼女の顔は少しも笑ってなんていなかった。

『誰のこと考えてるの?』
『よっすぃのことなんかじゃ、絶対ない』

衝動的にキスをした。

手首を固定したまま唇を長く押しつけていたら鋭い痛みと液体が滲む感触がした。
彼女のつけている香水があたしの鼻腔をくすぐってその痛みを緩和する。
軽く口を開き、触れるか触れないかの距離を保ったまま動かない。

お互いの舌が、入りそうで入らない。
タイミングを計りかねているわけでも、逡巡しているわけでもなかった。
ゆっくりとした動きで唇が唇をなぞり、吐息がかかるたびに頭の後ろがじんと痺れた。
これで終わりだと言わんばかりに、ふいに彼女が最後のひと咬みをしてさっと身を翻した。

『血だ』
『バカよっすぃ』
『いつだって迎えに行くし、いつだって送るよ?』
『バカよっすぃ』
『照れるなよ』

そんなに時間が経ったようには感じなかった。
彼女といるとなぜか、時間を意識する感覚が薄れる。
抗いようがないその瞳に見つめられ、すべてを見透かされているような気がした。
その瞳がいつも、あたしを気恥ずかしくさせたり苛立たせたりする。

彼女が時間を忘れさせてくれるのか、あたしが忘れたい時間を抱えているのか。
とにかく彼女はあたしの時間を掠め取るのが上手い。
そしてそれは時間だけに限ったことではなかった。

『どうしてキスしたの?したかったからなんて、言わないで』
『梨華ちゃんこそなんで咬むんだよ』
『そんなことはどうでもいいくせに。バカよっすぃ』
『広い意味ではどうでもいいかも』
『私だって、どうでもいいんだから……』



結局、彼女とのキスはその一回だけだった。
甘いものとは程遠いそれはあたしの中でかなり後を引いている。
あたしの手からするりと抜け出した彼女は子供のように舌を出して笑っていた。





雨は降り続いていた。

空が夜を連れてきて見慣れた景色にダークブルーのフィルターがかかる。
車のライトを灯すと、そこらじゅう水びたしの道路に反射した淡い光がやけに幻想的で
現実感がなかった。
静かになった携帯を、知らず知らずのうちに左手で玩んでいたことに気づき助手席に放り投げた。

もう何十週目だろう。
この一画をのろのろと走り続けるのにもいいかげん飽きがきていた。
スピードを上げて勢いよく水を切っても何も変わらない。
ものの数分もしないうちにまた同じ場所、同じ風景が見えてきて安心すると同時に少しの疲労感。
鳴らない携帯をチラ見してため息を飲み込んだ。

いつでも迎えに行くと言ったのはあたしなのに。
彼女のもとへ行く気なんて、なかったはずなのに。
彼女はいつまであたしの迎えを必要としてくれるのだろう。

久しぶりの対向車。鬱陶しいライトが目に入った。
ブレーキを踏んで減速し、道の端に寄る。
顔をしかめながらやり過ごしたら目の前に彼女がいた。
いくら拭ってもなくなることのない雨を、懸命に振り落とそうとしているワイパーの向こう側。
フロントガラス越しに見える彼女は赤い傘をさして佇んでいた。
傘を持っていないほうの手が動いて、顔のあたりを撫でるように触っていた。
風が吹いているらしく、彼女の髪は狂ったように踊っている。
その瞬間、思い出したかのように助手席の携帯が鳴った。

「よっすぃ」
「梨華ちゃん」
「バカよっすぃ」
「…バカ梨華」
「ウソツキ」
「………」
「ウソツキ」

高く舞い上がった赤い傘が、あたしと彼女との間でゆらゆらと揺れながらボンネットの上に落ちた。
スカートが捲りあがり、ギリギリのラインまでが見えても傘で阻まれた彼女の顔は見えない。
真っ直ぐに伸びた足とコンクリの上の素足がこちらを向いていることだけを示していた。

「ウソツキはお互いさまだよ」

ほんの数メートル先で雨に打たれている彼女と、外界から遮断された車内にいるあたし。
その体の距離は心の距離とイコールなのかもしれない。

随分と濡れて、体にぴったり張りついたキャミソールとスカートを身に纏った彼女。
ほんの少しの肌寒さしか感じていないあたし。
彼女とあたしとの、距離。

いずれボンネットから転がり落ちるこの傘は、彼女のどんな表情を見せてくれるのだろう。
理由のわからない心細さと少しの期待、そして彼女に咬まれた唇の感触を思い出しながら
そのときが来るのを静かに待っていた。










<了>


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