梨華ちゃんの長い一日






ちょっとした諍いのあと、ベッドに入ってからいつものようにぎゅう〜っと抱きしめられた。
私の首もとに鼻を近づけてくんくん匂いをかぐよっすぃ。

「くすぐったいよ〜」
「ん〜いいにほひ…」
「ね、ボディシャンプー前のと一緒にしてよかったでしょ?」

仕事帰りにコンビニに寄って切らしていたボディシャンプーを買った。
よっすぃは今まで使っていたものが飽きたから新しいのにしようと言ったけど
変なところで保守的というか、守りに入ってしまう私はなんとなく賛成しかねて。
呆れるよっすぃを無視して同じものの詰め替え用を買ったら
ほんのちょっとだけ険悪なムードになってしまった。
こんなくだらないことでけんかみたいになるのはなんでだろって自分でもよく思う。

変な雰囲気がイヤで帰ってからよっすぃをお風呂に誘った。
仲直りをするには洗いっこが一番だから。
今まで小さなものから大きなものまで何度かけんかをしたけど、
そのたびにどちらからともなくお風呂に誘って仲直りをした。

これは二人の儀式のようなもの。
だからいつものようにお風呂で二人仲良く洗いっこなんかしちゃったら、
ボディシャンプーがなんだろうとそんなことはどうでもよくなったみたい。
よっすぃの機嫌は直って、私の不安も解消。


ついでにキモチイイコトまでしちゃったし。


「よっすぃこの匂い好きだもんね〜」
「うん。好き…」
「よっすぃ眠いの?」
「眠、くなんて…ない…もん…」

私をしっかりと抱きしめたまま胸の中でスヤスヤと寝息を立てる。
寝ながら私の胸にぐりぐりと顔をこすりつけるよっすぃの癖はくすぐったくて仕方ない。
時々寝言で私の名前を呼んでくれるから寝るのが惜しいときもある。

それにしても…このところ寝る前はいつも卒業公演のときのことを思い出す。
あのピンクの海に溺れているような感覚はちょっと口では説明しにくい。
胸のあたりにあるざわざわした変な気持ちが消えないのはどうしてなのかな。
ちゃんと気持ちの整理、つけたつもりなのに。

今まで一緒にやってきた仲間やスヤスヤと眠るこの人と離れたことはやっぱり寂しい。
サラサラした髪を撫でていたらいつのまにか私も眠りに落ちていた。
愛する『人』との安眠が、これで最後になるかもしれないなんて思いもせずに…。



 ◇◇◇



ふわふわしたものが顔をくすぐる感触。

「う、うーん…」

柔らかくてあったかい。もこもこしたこの感触は…なに?

「ふふっ…くすぐったいよ〜…」

気持ちいい。この感触にずっとくるまれていたいなぁ…。

「いい匂い…」

顔を埋めて空気をいっぱいに吸い込んだ。うん、うちのボディシャンプーの匂い。
ん?でもちょっと待って。ちょっと、この感じは…あれぇ?
よっすぃにしては、やけに毛むくじゃらじゃないですか?

「えっ…?」

開いた目に飛び込んできたのは全身真っ白の、大きな犬。犬?

「なんで?」

私の腰のあたりに両腕…じゃなかった前足をまわして気持ち良さそうに眠っている。

「犬、だよねぇ…?」

真っ白で大きなその犬は眠っていたけどとても優しい顔だとわかった。
とりあえず犬を見たらやることはひとつ。


ナデナデ。
ナデナデナデ。
ナデナデナデナデ。
ナデナデナデナデナデ。


「うわー。ふっわふわだ〜」

くるんと跳ねた前髪の(犬に前髪っておかしいかしら?)寝癖を押さえつけたら
意外に深く沈んだ自分の手。
そのまま梳くように全身に滑らせてつやつやした綺麗な毛並みをひとしきり撫でた。
気持ち良くて、思わず抱きしめる。

「ふ、ふぁ〜」

あ、起きたみたい。大きなあくびをしてきょとんとした顔で私を見ている。

きゃー!かわいいー!!

鳶色のくりくりした瞳はまだ眠そうで、前足で顔のあたりをしきりにこすっている。
自分がどこにいるのかわからないって顔でキョロキョロしちゃって。
そんな様子がかわいくてまた頭をナデナデしたら、すごく嬉しそう。
しっぽをパフパフさせて、もっともっとってねだってるみたい。

「かわいいね〜」

私の言葉がわかるのか、ますますしっぽを振って。
よく見たら犬にしてはなんていうか…美形?かも。
白すぎる毛並みがちょっと羨ましい…。
両手で顔を挟んでまじまじ見ていたら、ワンちゃんが不思議そうに首を傾げた。

やーん!かわいすぎるー!!

心の中で叫び声をあげていたらふいに押し倒された。
私の上にのしかかって顔をペロペロと舐める。

「あははっ。くすぐったいってば〜」

キス攻撃をやめさせようと「コラ!」と怒ってみるもののワンちゃんは止まらない。

「あははは。コラ!もうっやめなさい!」

しばらくじゃれていたら、ふいに胸のあたりにありえない感触がした。



むにゅ。



むにゅ?むにゅって…どういうこと?



むにゅむにゅ。



おそるおそる下を見ると、ワンちゃんの前足が器用に私の胸を…揉んでいた。



「いやーーーーー!!!」
「わぁっ!」
「キャーー!!助けてよっすぃーーー!!!」

得意のキンキン声をあげて暴れたらワンちゃんがベッドから転がり落ちた。
なんなのよこのエロ犬は〜。そういえばなんでここに犬がいるの?よっすぃどこ〜?

「ったくなんなんだよ一体…朝っぱらからうるさいなぁ」
「よっすぃ?!」
「耳もとで叫ぶなっつの」
「よっすぃどこ〜?」
「どこって…目の前にいるじゃん」

目の前…私の?目の、前?

「は?」

目の前にはさっき突き飛ばしたワンちゃんがベッドにあごをちょこんと乗せて、
その仕草もやっぱりかわいいんだけど恨めしそうにこちらを見ている。
……よっすぃの姿なんて影も形もない。

「梨華ちゃん大丈夫?」
「大丈夫だけど……って、えぇぇぇ!!」

ワンちゃんが喋った。人間の言葉を…しかも、しかもその声は。

「朝からテンション高いなぁ。つーかあたしを誘惑しといて突き飛ばすのはどういう訳だよ」

まぎれもなく、私が大好きなよっすぃの、あの、低音で。

「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」

意識を失いかけてベッドから落ちる寸前、私の視界には
よっすぃ(犬)が器用にあぐらをかいてる姿がちらりと映っていた。



 ◇◇◇



「よっちゃんさんおは〜」
「おぉ〜みきちゃんさんおは〜」
「あー!吉澤さん聞いてくださいよ〜愛ちゃんが愛ちゃんが…」
「だー!マコト朝からうっさいよ。近寄るな」
「あはは。そうそう、マコトあっちいけ」
「ふぇーん。吉澤さんも美貴ちゃんも嫌いだー!!」

ハロモニの収録日。卒業しても出演できるのは嬉しい。
楽屋は別々になったけど、当たり前のように二人一緒にいられるから。

モーニング娘。のいつもと変わらない楽屋の風景はいつもどおりの騒々しさ。
さっきまで絶対機嫌が悪かったくせによっすぃが来た途端ありえないくらいデレデレする美貴ちゃんや、
相変わらずわけのわからないことでよっすぃの気をひこうとするマコト。
よっすぃと美貴ちゃんがマコトをからかってウシシと仲良く笑ってるのもいつものこと。

でも。

なんで?
なんでいつもどおりなの?
ねぇ、おかしくないの?
おかしいのは私の頭なの?

「あれ?梨華ちゃん今日おとなしいね」
「えーと…うん、なんかちょっとね」
「けんかでもした?」
「いや、そういうんじゃないんだけど…」

困ったようにぽりぽりと頭をかくよっすぃ。
その姿はどう見ても、どう考えても犬。
二足歩行をしてこんこんの手からおせんべいを奪ってバリっと齧る、犬。

「いやぁぁぁぁ!!」
「ぶはっ!ごほっごほっ。ど、どーした梨華ちゃん」
「だ、大丈夫ですか?石川さん」
「梨華ちゃんうるさいよー」
「石川さん、なにかあったのでしょうか…?」

いやああぁぁぁぁ!

だって、だって、なんで?よっすぃが犬なんだよ?
なんでみんな、そんな、普通にいつもどおりなの?犬だよ?
犬がせんべい齧ってるんだよ?人間の言葉を喋ってるんだよ?
あぁ、違う。そういうことじゃない。問題はよっすぃが犬になっちゃったってことだ。

「もう…なんなのよ…いやぁぁぁーーんっ」
「石川さん!!なに泣いてんですか?!」
「美貴は何もしてないよ!よっちゃんとハグしただけでそれ以上は何もしてないからねっ」
「や…たぶん、美貴ちゃんさんは関係ない…と、思うよ。はぁ〜」
「は?よっちゃんさんそれってどういう…」
「いやぁぁぁぁ〜もうっなんで犬がっ、犬がっ、携帯いじってんのよーーー!!!」
「はぁ?犬?」
「犬って言った?石川さん」
「ちょ、ちょっと梨華ちゃんこっち来て!」

石川梨華20歳。美勇伝でさりげなくリーダーやってます。
数ヶ月前に大人の仲間入りをしたばかりですが…
大人の世界では、愛する人が犬に見えるなんて知りませんでした(泣)。



二足歩行の犬に手を引かれて、テレビ局の廊下を歩く。
これじゃまるで元気のいい犬に振り回されながら散歩してる飼い主みたい。
なんで?なんで?なんで?どうしてこんなことになったのよ〜!

「ほんっとにあたしが犬に見えるの?梨華ちゃん」

犬に見えるのもなにも。犬以外のなにに見えるっていうのよ。

真っ白でふわふわの毛並みが艶やかで。
くりっとした大きな瞳や長いまつげは変わらないけどやっぱり犬で。
しっぽがだらんと垂れ下がってよっすぃの気分がわかりやすいのはいいけれど。

ってよくない!よくない!
とにかく、犬以外に見えないんだから!

「梨華ちゃん……」

泣き出しそうな表情の犬よっすぃ。私のほうが泣きたい気分だけど。


ナデナデ。
ナデナデナデ。
ナデナデナデナデ。


頭から顔のあたりを撫で上げて、ごめんねと呟いてみる。
困ったような顔をして犬よっすぃは私を抱きしめた。きつく、強く。ぎゅ〜っと。
たぶんいつものように恋人としての想いを込めて…。

ああ、こんなときでも私はやっぱり思ってしまう。
フカフカの毛並みによっすぃが犬なんだと教えられて。

「犬とじゃれてるとしか思えない…」

そして頭を抱える犬よっすぃ。

「ウガーッ!!なんで?!どして?!一体なにがどうなってんだチックショーー!!」
「ホントにねぇ…」
「梨華ちゃん以外には犬になんて見えてないんだろっ?!」
「それが不思議なのよねぇ…なんでみんな犬に見えないんだろ?」
「ちっがーーう!!なんで梨華ちゃんには犬に見えるかってことでしょ!」
「あ、そっか」

バフバフ吠えるよっすぃの背中を撫でて落ち着かせる。
毛が逆立っちゃって、ホントわかりやすい。

「よっちゃーん」
「あ、美貴ちゃんさんが呼んでる」

ちょっと待って。声のトーンが急に変わるのはどうしてよ。
しかもなによ、なんなのよ。なんでしっぽなんて振っちゃってるのよこのバカ犬。
美貴ちゃんの声に敏感に反応しすぎじゃありませんか?

「ちょっと〜!ホントに美貴ちゃんとはなんでもないのよね〜?」
「ナイナイナイナイ」
「私が卒業したからって美貴ちゃんとなにかしたら…」
「しないよ!するわけないじゃん!」
「よっちゃんどこ〜?ついでに梨華ちゃんも〜」
「ついでって…」
「ここにいるよーん」

こんなところでなにやってんの?って顔の美貴ちゃん。
その怪訝な表情がなぜか見る見るうちにニヤケ顔に変わった。

「ははーん。二人ともこんなところでねぇ…家までガマンできないわけ?」
「はぁ?」
「そりゃ卒業しちゃって会う時間減ったのもわかるけどさ〜」
「ちょっと、美貴ちゃん?」
「ハロモニやフットサルの練習のときに会ってるんだからさ〜」
「美貴ちゃん、あのね…」
「もしかして梨華ちゃん発情期?犬じゃないんだからさ〜。あっはっは」
「美貴ちゃんさん…どうやら犬はあたしらしいよ」

美貴ちゃんの冗談に笑えない私とトホホな顔のよっすぃ。
再びコイツらなに言ってんの?って顔をする美貴ちゃん。

かくかくしかじか。

「よっちゃんが犬に見える〜?!」
「ちょ、美貴ちゃん声、声大きいから!」
「梨華ちゃんも十分大きいよ」

余計な突っ込みを入れてくるバカ犬のほっぺをつねると、
キャインキャインと犬マネをして(マネっていうか犬だけど)泣きだした。

「たしかに犬っぽいけどさぁ」
「んんー?あたし犬っぽい?」
「猫ではないでしょ」
「美貴ちゃんさんは猫っぽいよね」
「うん。猫耳とか似合うよ、美貴」
「猫耳かぁ(ウヘヘヘ)」
「このエロ犬」
「じょ、冗談だよ、梨華ちゃ〜ん。そ、そんな(怖い)顔しないで…」
「梨華ちゃんってあれだよねぇ…」
「ん?あ、そだね。うんうん。あれだよ絶対」
「…あれってなによ」

いやらしい顔で私の全身を上から下までまじまじと見てから二人が声を揃えた。


「「バニーちゃん」」


エ、エロオヤジですかあなたたちは。
話は動物コスプレ談義に移り、腕を組んで熱弁をふるうよっすぃを見てため息をひとつ。

犬、だ。
やっぱり犬。
どう見ても犬。
それもすごくかわいい犬。

「つまり豹でも虎でもどっちでもいいんでしょ、よっちゃんは」
「うん。そゆこと」

なんの違和感もなく犬よっすぃと喋っている美貴ちゃんを見て、
よっすぃが犬に見えるのは本当に自分だけなんだと今さらながら実感する。

「体を覆う布が少なけりゃいいってもんじゃないんだよ!」
「よっちゃん興奮しすぎだから」

笑いながら美貴ちゃんの肩を押したり、隙をついて美貴ちゃんのおでこを全開にして
殴られたりする犬よっすぃの行動や仕草だけを見ればそれは間違いなく普段のよっすぃで。
よっすぃ以外の誰でもないってことは私にだってわかる。

ただちょっと毛がフサフサでしっぽや耳や、肉球がついてるってだけで…。

「あのー、二人とも?」
「だからさぁ、耳の色は絶対白がいいんだよ!」
「それは梨華ちゃんが黒いからでしょ」
「いいかげん話を戻したいんですけど…」
「あ、梨華ちゃんいたんだ」
「はぁ〜」
「ため息つくと幸せが逃げるワン。なんつって」
「………」
「あ゜ーっ!痛い痛い!梨華ちゃん痛いからーっ!」

いまは冗談に聞こえないからやめてください。

「とりあえずさ、そろそろ楽屋戻らない?」
「そだね」
「はぁ〜。ちっとも話が進まなかった」
「今夜梨華ちゃんの家でゆっくり聞くよ。なんか面白そうだから」

美貴ちゃんに聞いてもらったところでなんか解決するのかな。

「梨華ちゃんいま失礼なこと思ったでしょ」
「な、なんでわかったの?!」
「梨華ちゃんは顔にでやすいワ…な、なんでもないっす。ワンなんて言わないっす」

とりあえず今日これから、かわいい犬が歌って踊ってコントまでしちゃう
珍しい姿が見れる私はとってもラッキー!……なわけないか。はぁ〜。



 ◇◇◇



忙しかった一日も終わって二人仲良く帰路につくこの時間。
一緒の仕事が段々と減って、一緒に帰ることがごくわずかになっても
それでも昔から変わらないのは、帰るときに手を繋いで今日あったことを話すこと。
お互いが明日のスケジュールを報告しあって一緒の上がりのときは手を叩いて喜んで。
どちらかが早いときは夕飯を作るね、と翌日の献立に思いを馳せる。
そんな時間は私にとって幸福でとても満ち足りたものだった。


昨日までは。


「だからさ〜布地の量も大事だけどそれよりもデザイン性なんだよ、問題は」
「よっちゃんの考えるデザインは要するにキワドイやつってことでしょ」
「でもあからさまじゃダメなんだよ。かといって遊び心がないのもダメ」
「いちいち注文が多いな〜。贅沢なんだよ。イチバンは結局あれでしょ、裸なんでしょ?」

なんなんだろうこの人たち。人たちっていうか人と犬。
なんでまだ動物コスプレ談義が続いているの?
よっすぃは相変わらずしっぽを振り振りして熱弁をふるっているし、
美貴ちゃんは美貴ちゃんで時々突っ込みを入れつつも
よっすぃに寄り添って顔を覗き込んだり腕を絡ませたりは忘れない。

犬と仲良く歩いている姿はとってもアイドルチックで可愛いんだけど話してる内容がね…。

「梨華ちゃん本当によっちゃんが犬に見えるんだね」

前を歩いていた美貴ちゃんが突然振り向いた。
腕を掴まれていたよっちゃんがおっとっとっととバランスを崩す。

「だからさっき説明したじゃない」
「うん。でもいきなりそんなこと言われたって信じられないじゃん?」
「まあたしかに。あ、でも今は信じてくれるの?」
「信じているっていうか納得した」
「どうして?」
「美貴がいつもよっちゃんにベタベタしてたら梨華ちゃん鬼のように怒るでしょ?」
「鬼って…」
「でも今日はなにも言わないし、その顔も嫉妬してるって顔じゃないから」

だって仕方ないじゃない。犬だよ?犬に見えるんだよ?
嫉妬がないわけじゃないけど…正直しにくいっていうか。

「とりあえず帰ろうぜー。腹へったー」
「のんきだね、梨華ちゃんのダーリンは」
「本人に犬の自覚はないからね」
「あるわけないじゃん。よっちゃんが犬に見えるのは梨華ちゃんだけなんだから」

美貴ちゃんが同情するように私の肩を抱いた。
先を行く犬…じゃなかったよっすぃは「メシメシ」と大声で叫びながらステップを踏む。

「よっちゃんが犬に見えるようになったのはいつからなの?」
「えーとね、今朝からかな。昨日の夜は普通によっすぃだったし」
「ふうん。昨日は普通だったんだ」
「うん、普通に買い物して帰って、普通にごはん食べて、普通にお風呂に入って…」
「普通にエッチした?」
「そうそう、普通にお風呂で…って、ちょっと!美貴ちゃん?!なに言わせるのよ〜」
「まあまあ。それから?」
「それから普通にベッドに入って…朝起きたら犬になってたの」
「犬になってたの。ってなにそれ。梨華ちゃんってやっぱどっかあれだよね」
「あれってなによー!」
「イカれ…じゃなくてどこか変わってるなぁと」

美貴ちゃんがまたまあまあとなだめるように私の肩を押さえた。
言われなくてもわかってるもん。私がおかしいってことなんでしょ?

「あ、自覚してたんだ」
「それはまあ…うーん、でもなんで犬なんだろう」
「そこはたいした問題じゃないんじゃない?」
「どういうこと?」
「よっちゃんが人間に見えないってことが問題でしょ?要は」
「うん」
「犬でも猫でもなんでもいいけどよっちゃんが人間に見えないってことは」
「うんうん」

つまりどういうことなの?自慢の顎を前後に振って美貴ちゃんの答えを待つ。

「エッチのとき困るよね」


ガクーーーーーッ!!


一瞬でも美貴ちゃんが解決方法を教えてくれると期待した私がバカだったの…?
あからさまにガックリと肩を落とす私にそれでも美貴ちゃんは続ける。

「だってさ、犬とエッチできないでしょ。キモすぎ」
「………」
「いくらよっちゃんに誘われても犬に見えたら美貴、絶対イヤ」
「ねえ、大事なのはそこなの?エッチができるかできないか?」
「大事でしょー。エッチ、したくないの?」
「そりゃしたいけど…」
「したいんじゃん」
「というかエッチだけの問題じゃないから」

日常生活全般において問題ありまくりですから。
愛しい恋人が犬に見えるなんて非常事態で私の精神がいつまで持つのやら…。
それにしても美貴ちゃん、どさくさに紛れてよっすぃに誘われてもって、
なに勝手なこと言っちゃってるのよ。そんなことありえませんから!

「梨華ちゃん疲れてるんじゃない?」

ええ、ええ。疲れてますよ。それはもうすっごく疲れてます。
今日一日、朝からずーっと犬に振り回されてたんだから疲れないわけがない。

「そうじゃなくて、卒業してから…なんかずっと疲れた顔してる」
「え…?」
「疲れてるのか…脱力したって感じ」
「そんなこと…」
「はりつめていた空気がぷつんって切れたみたいっていうか…」
「美貴ちゃん…」
「って言っても美貴には全然わからないんだけどね」
「は?」
「これ、全部よっちゃんが言ってたことだから」

よっすぃ、が…?

「心配してたよ。無理してるんじゃないかって」

そんな…そんなこと私には全然言わないのに…。

「でも心配してるってわかったら梨華ちゃんが余計無理するんじゃないかって」

そっか。そうだよね…私の性格をよく知ってるもん、よっすぃは。
たしかによっすぃに心配されたら私はきっと頑張って否定して、もっともっと頑張って
よっすぃに安心してもらえるように…無茶というか、無理をするかもしれない。

あ、そっか。私気づかなかったけど無理してたんだ。
卒業を乗り切った反動みたいなものを意識しないようにって…無理、してた。
寂しいなんて言って甘えたら逆によっすぃが無理しちゃうんじゃないかって
そんなことを心のどこかで考えていたのかもしれない。

「美貴が言ったってばらさないでね」

やっぱり帰るよ。二人でゆっくり話したほうがいいと思う。

なんて言ってからくるっと踵を返して手をひらひらと振りながら
夕日に向かって歩いていく美貴ちゃんはやたらかっこよかった。
普段はからかわれたり突っ込まれたりばっかりで、
そんな美貴ちゃんに対して私も怒ったりわめいたり。

二人の間でオロオロと困った顔をするよっすぃを見ればその途端に
私たちはいつもぷっと吹き出していつのまにか仲直りしていた。
ぶつかることも多かったけどそれはお互い認めて合っていたからなんだって
あの卒業公演のときにわかった。
美貴ちゃんの心からの言葉で。

「随分とうっとり見つめちゃって…ミキティの背中はそんなにかっこいい?」
「嫉妬してるんだ、よっすぃ」
「べ、べつに嫉妬なんかしてねーよ!」
「ふふ。かわいい。帰ろっか」
「嫉妬じゃないからな!そんなんじゃないんだからな!」
「はいはい。わかったから帰るよー。おいでー」
「犬を呼ぶみたいに呼ぶなー!!」

コンビニの袋を両手に抱えて真っ赤な顔で後ろからついてくるよっすぃはやっぱり
犬の姿にしか見えないけれど、朝見たときよりはずっといつものよっすぃのように感じる。

いつもの、愛しい人に。



 ◇◇◇



朝はゴタゴタしていたもののお決まりのべーグルと牛乳で簡単にすませたし、
お昼はパスタだったから気づかなかったけど…お箸を器用に使いこなす犬ってすごい。
パスタを食べるときにフォークをくるくる回していたときも驚いたけどお箸はそれ以上。
だってすごくない?どういう肉球の構造なのかしら…?

「お、これおいしい」
「よっすぃホント野菜好きだよねぇ」

もりもりと美味しそうに食べる姿は犬のときでも変わらない。
今日はこうして(犬の姿とはいえ)二人揃って食事をすることができたけど、
次にこうやってまったりできるのはいつなのかな…?いつになるんだろう。

美勇伝のコンサートが始まってしまえばまたすれ違いの生活が始まる。
よっすぃと食事をする機会なんてきっと数えるほどもなくなってしまう。
そうなったら私は耐えられるのかな。よっすぃも寂しく思ってくれるのかな。

「何考えてるの?梨華ちゃん」
「え〜?よっすぃがかわいいなって」
「ぶわーか」
「なによー」
「なんだよー」

人差し指で真っ白なおでこを弾いたらよっすぃの笑う顔が涙で滲んでいることに気づいた。

「なんで泣いてるの…?よっすぃ…」
「ばか…泣いてるのは梨華ちゃんじゃん…」

慌てて自分の目もとに手をやると、濡れた感触がした。
泣いてるんだ…私。どうして涙が出るんだろう。なみ、だ…が…。

「梨華ちゃんっ」

立ち上がったよっすぃに抱きしめられて、堪えていたものが溢れだす。
温かい胸に顔をこすりつけてみっともないくらい声をあげて泣いた。
髪を撫でる手の温かさや背中を擦るスピードが私を落ち着かせる。
昔から変わらないその仕草に、今さらながらに安心して。

「ん、ごめん…もう平気だから…」
「平気じゃないじゃん」

心の平静を取り戻しても私の涙は止まらなかった。
一生分かと思うほど、涙の栓が壊れたのかと思うほどに。
泣いて泣いて、涙の海で溺れたらこんな気持ちは消えてくれるのかな…。

「寂しい」
「うん」
「よっすぃ、私寂しいよ」
「うん」
「寂しくて寂しくて……」
「うん、うん」
「よっすぃが、みんなが、いなくて……」
「わかってる。わかってるよ」
「あたしの場所が、なくなっちゃったって気がして……」
「梨華ちゃんの場所がなくなるわけないじゃん…」

よりいっそう強く抱きしめられた。痛いほどに。
よっすぃの胸が私の涙で濡れていた。

「うん。ごめんねよっすぃ。心配かけて」
「ばか。いいんだよ。心配かけて。もっと頼って」

今さらこんなこと言わせるなよな。
なんて言いながら顔を上げたよっすぃも目が真っ赤で。
また抱き合いながら私は思う存分泣いた。
いろんな気持ちを抱えながら。気持ちに、区切りをつけながら…。



「あれ?」
「どした?」

ふと気づいたらよっすぃが人間に戻っていた。

「もともと人間だっつの」
「そうだけど…」
「なんでだろ。なんで犬に見えてたのかな」
「うーん…私なりの解釈だけど聞いてくれる?」
「喜んで」

あのね、私たぶんだけどよっすぃといられなくなること、すごく不安に思ってたの。
自分ではあまり意識してなかったけど無意識の中で抑えこもうとしていたのかもしれない。
さっきみたいに素直にさらけだせばよかったんだよね、寂しいって。
素直に泣いてよかったんだよね。

「ホントだよ。素直な梨華ちゃんのが可愛いよ」
「もうっ!よっすぃのイジワル」
「はは。うそうそ。素直じゃない梨華ちゃんが好き」
「……バカ」

でね、すごいバカみたいなんだけど、呆れないで聞いてね。
よっすぃが犬だったらずっと一緒にいられるのになって。
あー、笑わないでよ!もうっ!私だってバカみたいって思うよー。
でもそれくらいよっすぃとずっと一緒にいたいって離れたくないって思ってたんだよ。
……たぶん。たぶんっていうのは言葉の綾だよー。突っ込まないの。

「ったく考えることが極端なんだよ」
「わかってるもん」
「思い込みの激しさも人一倍だね」
「わかってるってばぁ〜」

あたり前のことだけど私、よっすぃが好きで愛してる。
なーに?照れちゃって。いきなりでびっくりしちゃったの?
よっすぃだってそうでしょ?愛してくれてるよね。

だから少しくらい離れたって大丈夫だって自分に言い聞かせてた。
もちろん大丈夫だとは思うけど…でもちゃんと不安を口にして
思ってることも伝えて、分かり合うことをしないといけないんだなって。

そんな大切なことを大人になるにつれて忘れちゃってたんだね。

「ねぇ」
「なぁに?」
「あたしが犬のままだったらどうしてた?」
「えっ?」
「犬のままっつーか、一生人間に見えなかったら」

よっすぃがずっと犬のままだったら?
あの器用な肉球でマイクを握ったりスポーツ新聞を読んだり、
フットサルの練習中に豪快なシュートが決まってしっぽをパタパタさせたり
私の呼ぶ声に耳をピクっとして反応してくれたりってこと?

「それはそれで…いいかもしれない…」
「えぇぇぇ!!ショック…」
「ふふ。冗談だよー。犬よっすぃも可愛かったけど」
「けど?」
「やっぱりこっちのほうが絶対いいもん…」

よっすぃの膝に跨ってそっとキスを落とす。
愛しい気持ちが込み上げてきて、何度も何度も。
自分の唇で柔らかい唇を撫でるようにキスをした。
そっと開いた唇からどちらからともなく舌が入り込む。

「んっ…」
「はぁ…」

そのまま抱え上げられてベッドに運ばれる。
今朝、目が覚めたときのことを思い出して噴き出した。

「ムードないなぁ〜」
「だって〜」

私の目に入ってきた真っ白な大型犬。
何も考えずにじゃれていたけどまさかよっすぃだったなんてね。
恋人がそんな姿に見えることなんて…もう、きっと、ないよね?

「たっぷり愛し合いませんか?お姫様」
「うん!」

よっすぃの腕の中でお互いの愛を確認しながら、私の長い一日が終わりを告げようとしていた。










<了>


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